大阪をホジクル  17.南濱墓地                  2014/10/22

墓石調査の結果はこのページの最下部の表にあります。

今回は大阪七墓のうち、中崎町からすぐそば、梅田からも歩いていける南濱墓地の話題です。(場所は次の地図に)

墓石の写真が多数でてくるので、覚悟して以下を見てください。(別にオドロオドロしいものはありませんが)
この墓地には今も家族や先祖を祀り、お参りしている方々もおられます。
ですので、そのような墓は文字をボカしています。(墓石の新しさと供花の有無で判断)

南濱墓地(大阪市営なので正式には南濱墓園)は大阪七墓のなかでも一番古い墓地です。
とはいえ、その証拠となるほど古い墓石はありません。私が見つけた最も古いものでも江戸時代初期です。
墓地入口に地蔵堂があり、その脇から入ることができます。


堂内に世話人会による地蔵堂の由来説明が掲げられています。
    南浜墓地は行基菩薩(約千三百年前)によって整地され我が国最初の墓所であって天平十九年七月
    弥陀如来六観音六地蔵尊を安置し荼毘開闢の供養が行われた。
    その後世相の変遷により次第に荒退し大正十四年豊崎町より大阪市に移管された。
    天満の住人・秋田羅以(らい)は日頃嫡子を望み神佛に祈願してゐた処ある日一人の行者が訪れ
   「南浜墓地の南浜地蔵尊を信仰せよ必ず願は叶へらる」と言って立ち去った。
    早速地蔵尊を祈願をかけたところ霊験あらたか明治二十四年一月九日男子(栄之助)が授けられた。
    その御恩報謝として同年九月に現存の地蔵尊石佛並御堂が建立され今日に至った。
                                      昭和六十年一月二十日
       大阪市HPには 若松町の秋田羅以とある。ネット検索ではこれ以上のことは不明
2022/9/8 追記
    地蔵堂と裏の小屋は解体撤去され、地蔵たちは墓地内のフェンスの内側に移設。
    秋田が納めた地蔵は真っ白に磨かれ、残念ながら雨ざらし・・・
    台座に「秋田羅以」の名前が見えるのが唯一の収穫か。
    地蔵堂がなくなったので説明板もなくなりました。
    


   入るのを邪魔するように木があります。どう考えてもこれが本来の入口と思えません。

----------------------------------------- 昔に遡って調べてみました ---------------------------------------

  2007年(平成19)では現状とほぼ同じ、無縁墓があるのと樹木が多いくらいです。(南側の樹木は伐採されます)


   1985年(平成元)も大差ありません。南側の現在駐車場になっている部分に建物が見えます。


   1975年(昭和50)解像度が高いので細部までわかります。道路がかなり違います。


   1961年(昭和36)このときには北側飛び地の墓地が写っています。


   1948年(昭和23)東海道線沿いに爆撃による焼失がありましたが、南濱墓地周辺は残っています。(源光寺も)
   一方、墓地の2筋北側に現在ある墓地飛び地周辺は焼失しています。
   当時すでにそこが墓地だったかどうかは判別できません。(住宅地図なら可能かも)


   1928年(昭和3)の航空写真では墓地内に現在と似た複数の建物があるのがわかります。
   大正末にはすでに墓地の一部は切り売りされていたのでしょう。


   1926年(昭和元)の内務省地図です。


   1924年(大正13)のパノラマ地図には少し狭い墓地があり、入口は南側にあったようです。(西側ではない)
   墓地南側を走る電車はかつての阪神電車北大阪線で、東海道線を高架で跨いでいました。
   また梅田から天神橋筋6丁目への市電は高垣町で環状線(当時は地上)を高架で跨いでいました。


   1918年(大正7)の地図には現在とあまり変わらない墓地があります。
   墓地から西に伸びた道の先には源光寺が今と同じくあります。(ここには北向地蔵あり)
   残念ながらこれ以上はわかりません。


   今はない「和楽路屋」が1918年(大正7)に出した住宅地図がありました。ほんの少し南側なら墓地が記載されているのですが。
   ここに現在の墓地と昔の範囲(妄想)を書き足しました。
      墓地はかつて6反以上もあったという記述と、大阪市北区と西成郡の境界線の2つから妄想しました。
      当時まで残っていた字三昧という地名に注目下さい。


   しつこく探してネットで見つけた明治20年(1887)の内務省地図です。
   南濱墓地はあとほんのすこし上、残念。
   東西に走る弓なりの道路は、実は現在の環状線(当時は私鉄の大阪鉄道の城東線)予定地です。
   ここ数年にぎわい出した中崎町は葉村町のあたりです。


   大阪の中之島図書館に明治18年(1885)の測量図の復刻版がありました。1/20000を2倍に拡大したものです。
   左下から伸びる東海道線の途中に南濱村があり、墓地も見えます。広さは現在と大差はありません。
   墓地の東側には竹藪があり、南側には建物が2棟見えますが、この頃にはすでに寂れていたので焼き場だったかどうか?
   右の国分寺村の西側にある小さな墓地が大阪七墓の1つ、葭原墓地です。(現在は跡形もありません)
   南長柄村には広大な墓地が作られました。現在の長柄墓地です。
     北野村から北西へクネクネ伸びる道は中国街道
     南濱を通って北へ伸びる道は本庄の渡しで東中島までの本庄街道
     長柄墓地から北東に伸びるのは高槻を経由する亀岡街道です。


   2014年のGoogle地図に上記の地図を重ね合わせてみました。
   今も同じ経路の道路が多いのに驚きます。(現場に行くとナ~ンダも多いですが)


----------------------------------------- 現在はこうなっています ---------------------------------------

   墓地は南北に分かれていて、ネット上では南側のみ紹介されています。(北側墓地はいつか紹介します)
   大正7年の地図から考えて、もともとの墓地は南側だけで、戦後に北側に一部移転したと想像します。
   南側  以前は大きな無縁墓の山があったのですが、H7頃に処分されてしまったようです。
        その跡は金網で囲まれ立ち入ることができません。

        山となった頃の墓石の写真
         2001年の写真で4山あったのですが2022年にはリンク切れで見ることができません。
       残るほとんどの墓も無縁で、ほんの少しの墓だけが今も祀られています。
   北側  対照的にほとんどの墓には祀ったあとが見て取れます。
       逆に、なぜか北側には無縁墓の山があるのです。(南側の無縁墓は撤去したのに)


--------------------------------------------- 南側墓地 -------------------------------

   中に入ると、案外広いというか整理されて隙間が目立ちます。新規墓は受け付けていないので減る一方です。
   右側に見える一群は手前から3列に並んでおり、最後列には新しい墓があります。
   目立つ墓石には、大塩平八郎が先祖のために建てた墓・享保の大火の50年忌碑があります。


         源光寺のHPに数年前の写真がありました。伐採される前の光景です。

2022/9/8追記
    
    墓地内の様子は変わってないように見えますが・・・


   左側は実は奥に広がっています。


   ソテツの左に向かうと墓がたくさん並びます。奥へ行くにはさらに左へ。


   奥はこのようになっています。あまり人が通らないので草ボーボーです。

2022/9/8追記
   
   今になってようやく気付きました。
   天満宮社家の区域(右側)はキチンと除草されています。


   みなさんが墓参する墓地と雰囲気が違います。


   もう少し進むと多くの墓が傷んでいるのがわかります。


   この楠は根元から伐採されて今はもうありません。

   伐採され切り刻まれてフェンスの奥に積まれています。
   なぜ伐採したのか、大阪市環境局には怒りを覚えます。


   振り返るとこうです。


   南側の道路からはこんな風に見えます。

2007年頃までは右奥に無縁墓の巨大な山があったそうですが、撤去されました。
墓地入口近くのソテツにも実は思いもかけない話題があります。
もちろん、墓石自体にも。天満宮の宮司であった一族の墓・相撲取りの墓・東町奉行の墓など。

まずは全体の配置図を作成しました。

   各列をA~Vとしてそれぞれの墓石に番号をふって A-3 のように区別します。(あ~面倒だなあ)
   青い四角は一族墓で、現在も祀られています。他に祀られているのは小数です。
2014/11/11追記  本日R~Uの北半分をシートで囲う工事をしていました。
         整理するのでしょう。 そういえば墓地内のあちこちに整理予告の紙が貼ってありました。
         元の無縁塚跡を囲うフェンスが一部撤去されていたので、多分その中に移動するのでは?

         というわけで、アルファベット順を逆にして急遽撮影してきました。


   入口近くの一族墓。


   奥まってはいるが最も広い一族墓。
   2022/9/8追記 無縁となっていました。草ボーボーで放置されています。


   分銅の形をした灯篭を始めて見ました。
   同じ分銅の家紋を付けた墓は左側だけで、右側には違い鷹羽の紋。
   あなたの家の紋は何?


   左端の墓の台石に「梅田仲仕中」とあります。この墓は日本労働総同盟梅田仲仕組合が建てたのです。
   2022/9/8追記 分銅紋の墓はすべてなくなりました。


   敷地真ん中にある一族墓。
以上の3つが囲まれた一族墓で、そのうち2つは現在も祀る方がおられます。

2022/9/8追記
   
   地蔵堂内にあった地蔵さんたちはこちらに。

   
   地蔵と地蔵堂を寄進した秋田羅以の名前がようやく見えました。
   小さな地蔵は秋田とは関わりなく、墓地にあったものをまとめたものでしょう。


その他

   敷地中央にソテツが植えられているのですが、そのまわりには何と墓石が使われていました。
   それも墓石を割って手ごろな大きさに揃えてあるのです。
   一体いつごろ? 誰がそんなことを命じたのか?
   この写真で左から 「清丸」 「江戸屋宇」 「北野村西」 「●羽氏」と読めます。


   墓地の隅にひっそりと小屋があり、そこには井戸(使われていない)と「白藤大明神」が。
   上思議な上思議な「白い鳥居」なのです。
   なぜ白い鳥居なのか、これも●●継続調査ですかぁ?答えが出てこないだろうなあ
   あっ、白い鳥居は意外にもあちこちにあるのですヨ。調べてみてくださいナ。

--------------------------------------------- 北側墓地 -------------------------------

     無縁墓がありますが未調査です


おまけ

南濱の大塩が建てた墓に疑問がわいたので、寺町の成正寺にある墓石を確認してきました。


   墓石は過去の火災や戦災を受けごらんのようにかなり傷んでいます。
   前列右 (正面) 大鹽成余之墓 平八郎の高祖父
       (左側面)祖考俗名政之丞。諱云云。文政元年戊寅
            夏六月二日卒。享年六十有七嫡孫平八
            郎建是碑焉
              左の敬高の墓と同形なので対にして建てたのでは?


   前列左 (正面) 大鹽敬高之墓 平八郎の父
       (左側面)家君諱云云俗名平八郎。寛政十一年己
            未夏五月十有一日卒享年僅三十嘗葬
            焉旧碑為火災焼燬因再製碑云
            天保六歳次乙未冬十二月 長子源後素誌之 源後素は平八郎のこと
              大塩の乱は天保8年なので、平八郎は覚悟してこの墓を建てたのでは?

       (右側面)寛政十二年庚申七月廿五日 この行は崩落して今は欠損
            了眠童子
            了眠家君二男。便後素弟。俗名忠之丞。年二歳而死
   次列右 (正面) 妙法耀光院誠意日涼居士
       (左側面)諱日 文政九歳●●六月朔日
                   ●●
   次列2 (正面)   安永六年
              本種院妙因
            妙法
              己心院儀覚
              寛政十一未年五月
       (右側面)寛政十二年●●●●
              了眠童子
       (左側面)大鹽政之丞倅
              俗名 大鹽平八郎 平八郎の父、平八郎敬高のこと
              年三十才ニ而死
   次列3 (正面) 中央は欠落
                 ?直至???居士
                  大緑院日???
       (左側面)圭光院鉃岩慧劉大姉
               ●●寿清比丘尼
            左は欠落
       (右側面)常住??
            春???
              過半は欠落
   後列右 (正面)   達●院英光
            妙法      霊
              延樹院妙喜
   後列中 (正面) 覚性院宗貞日了
            了性院妙貞日仙
            定解霊位十月七日
   後列左 (正面) 至岸院常?
            誠月院智操?
       (左側面)俗名
            ●三酉年  大鹽●兵衛
            ●廿五日
            ●九月二十三日 同 内室
       (右側面)    岸光貞遠霊位
            妙法
                一乗院寿仙霊位
       (裏面) 安永五申●六月廿二日
            秀顔童子
            暁夢童子
            安永四未●二月六日

「大塩研究」にこの成正寺の墓石について説明がありました。
   大塩家の菩提寺ともいうべきこの寺には享保九年(1724)以後の新寂帳が残されており
   その帳には大塩家の戒名十九人が記載されてあり、また宗門改帳が二冊現存し、政之丞より平八郎に
   至る大塩家の経過が克明に記録されていることからしても、菩提寺の感を深くする。
   また戦前在野の大塩研究家として知られた石崎東国の伝えた檄文もこの寺にある。
   墓は初代大塩六兵衛以下の一族のもの九基があり、うち七基は裏の境内墓地にある。残り二基は本堂前に並んでいる。
   墓地の北側に七基一群の墓がある。その北端中央の屋根、台座付の高さ二メートル近くあるのは、
      覚性院宗貞日了
      了性院妙貞日仙
      定解霊位丑十月七日
   この覚性院は大塩六兵衛(初代)、了性院は同人妻、定解は三代大塩喜内の子(久米次郎)である。
   この墓は大塩の乱後、大塩家の墓であることを秘していたとされている。
   その東隣にあるのは、
      達心院英光
      延樹院妙喜
   この墓の左右側面は欠損欠字しているが、正面は判読できる。達心院は大塩波右衛門(二代)、延樹院は同人妻である。
   中央の西隣にあるのは、
      至岸院常(以下光日普が欠字)
      誠月院智操(以下日義が欠字)
   この至岸院は大塩左兵衛(四代)、誠月院は同人妻である。秀顔、暁夢は大塩政之丞の子であるが、岸光、一乗院はわからない。
   右三基の前列の東側にあるのは、
      耀山院誠意日凉居士
   この耀山院は大塩政之丞(六代)である。筆跡は中斎であるといわれ、嫡孫とは大塩平八郎のことである。
   その西側にあるのは、
      本種院妙因 (以下欠字)
      己心院儀覚(以下欠字)
   この本種院妙因(日量は欠字)は大塩政之丞(六代)の先妻、己心院儀覚(日住は欠字)は大塩平八郎敬高(七代)
   了眠は大塩平八郎の弟(忠之丞享年二才)である。
   以上の大塩六兵衛夫妻の墓以外の四基の墓は昭和三十三年(1958)十月同寺無縁塚の墓地整備中に地中から発見
   されたものである。この四基は成正寺故有光友逸師によれば天保五年(1834)七月の大火に破損して埋められて
   いたものと推定されている。次の二基の墓(大塩成余、同敬高)は以前本堂前に立っていたが、
   四基発見の機会に現在の場所に一緒に移されたものである。
      南濱の大塩墓は天保5年より16年も以前の文政元年(1818)に建てられているのです。
   最前列の東側は大塩政之丞成余(六代)の墓である。
      大塩 成余之墓
   その西側は大塩平八郎敬高(七代)の墓である。
      大塩 敬高之墓
   右二基(大塩成余、同敬高)の墓は大塩平八郎が建立したもので、碑文は二基とも大塩平八郎の筆跡であるといわれている。
   大塩敬高の墓は旧碑火災のため焼毀したから天保六年十二月に再建したとあるが、この火災は前年の天保五年七月の大火によるものであろうか。
   以上七基は墓地内の墓であるが、本堂の前に大塩平八郎父子の二基の墓がある。
   平八郎の墓は明治三十年、格之助の墓は大正五年に建てられた。
   しかし今次の戦災によって破壊されたので、縁者、子孫らによって昭和三十二年七月再建されたものである。

何度も大塩の話題が出てきましたが、ファンというわけではありません。たまたま仕事場のすぐ近くに菩提寺がある、というだけで
「大馬鹿者」というのが私の評価です。
だって、貧しい者を助け政治を正すために立ち上がったはずが、たったの半日で鎮圧され、出火により天満・船場・上町を焼き尽くす
大坂三大火事のひとつ「大塩焼け」で多数の町民が被害を被ったのですから。


おまけ2

なぜ古い墓石は茶色くなるのか?
上質の花崗岩を使いツルツルに仕上げた墓では、100年経ってもほとんど風化も変色もしていません。
ですが
300年前の花崗岩では表面が凸凹(元はもっと平滑だったハズ)で茶色くなっています。
まして、砂岩ではことごとく風化が進み、剥落・割裂・変色などが激しいのです。
ここ8年間だけでも剥落が進んでいるのが見えます。
あなたの先祖の墓は大丈夫?
灰白色の花崗岩が茶色くなる理由を調べてみましたが、はっきりと原因を説明しているサイトはありません。

南濱墓地の写真から推測してみました。


   右端の墓は竿石も台座も花崗岩ですが、変色が目立ちます。
   竿石の頂部は白いままなのに、台座には変色が中央竿石から流れ出ているのがわかります。
   つまり、変色の原因物質が雨で流れたことを示します。
   その原因物質は花崗岩に元から含まれていた成分なのでしょうか?
   それとも雨・風などで飛散してきたホコリや原因物質なのでしょうか?
   右端すこしハミ出た竿石は砂岩あるいは安山岩で、風化による剥落も見られます。
   この石では頂部がもっとも変色が強いのです。


   中央の六角柱の竿石も風化剥落しているのですが、変色はそれほどではありません。
   蓮華座と台座上面の緑色変色のほうが目立ちます。
   この違いは大木に覆われていたからでしょう。
   この推測が正しいなら夏ミカンの木の下になるDブロックでも同様の現象があるハズ。


   確かに木の下の墓石は変色が少ないですね。
   では、そのような変色の原因物質は何か? 
      赤茶色になるのは、無機物の鉄分、有機物ならタンニンが考えられます。
      かつて大正時代から昭和末まで60年間、墓地のすぐ南側を走っていた阪神電車でしょう。
      レール・車輪からの鉄粉が飛散したと考えてよさそうです。


調査は続けますが新しい項にはしません。


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