108. 淡水封鎖と馬偕博士
これまで封鎖中の淡水にいたスコットランド人J.Doddの文章を紹介してきました。
その中に何度も出てくるカナダ人Mackay博士の封鎖中のことについての別の文章を偶然見つけました。
膨大なョ永祥長老史料庫の中に
「中法戰爭中的偕叡理牧師」と題して郭和列撰 見於《台灣基督長老教會百年史》1965年 p.82-85の引用がありました。(中文)
例によって私の勝手な解釈をしてみます。
この資料は台湾長老教会にかかわる資料なので、Mackayを博士ではなく牧師と呼んでいます。
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1884年10月1日、フランス艦隊は淡水港口に停泊し砲口を淡水砲台に向けた。
Doddは10月2日と書いています
港内にいたイギリス戦艦(砲艦Cockchaferのこと)は外国人を保護し馬偕牧師一家とその財物を艦に乗るよう薦めた。
馬偕牧師は
「私の所有する理学堂大書院やその周辺に勤める人たちやその他の人たちを乗船させることは不可能で
かつて私の伝道に従い山川を乗り越えた人たち、私が病気のときに看病してくれた人たち、が今危難に会っている。
その人たちが岸辺にいて私が乗船することはできない。その人たちが苦しむなら私も同じ苦しみを受けよう。」
として乗艦することを拒絶した。
フランス軍が砲撃して砲弾が雨のように落ちてきても、牧師や信徒は神がもたらす試練であり最後には平安が訪れると受け止めた。
戦闘が始まると牧師は不眠不休で働き、ついに意識不明になってしまった。
当時一緒に働いていたC.H.Johansen医師の記事によると
「私はMackay牧師の主治医です。戦闘が始まって以来牧師は信徒たちのことを思いやり疲労が溜まった結果です
また淡水の暑い気候の影響も病気を重くし、急性脳膜炎となりました。
体温は102度F(38.9℃)に達し、薬では安眠することができなくなり、生命の危機でした。
そんな時に汽船海龍号が到着しDoddに氷を持ってきたと聞きました。
私がDoddにお願いすると、全部の氷を提供してくれ、牧師の頭部を冷やすのに使えたのです。
これで牧師は32時間も眠ることができ、目が覚めると病気の半分以上が癒ったのです。」
Mackayが倒れたこと・Doddが氷を提供したことについては
Doddは書いていません。
10月第2週には、牧師とその家族は英国領事の命令により、カナダ長老教会のJohn Jamieson牧師一家と共に
淡水を離れ香港に向かうことになりました。
牧師は10月21日に外輪船福建号に乗り淡水を離れたのです。
この大事なことにDoddは全く触れていません。なぜなのでしょうか?
4日かかって彼らは香港に到着し、そこでフランス艦隊が淡水を封鎖したと聞いたのです。
Mackay牧師は家族を香港に残し、自分は海龍号に乗って淡水に戻ったのです。
途中の海では暴風雨となり大陸に避難せざるを得なくなりましたが、まもなく淡水に向かいました。
彼らが淡水港口に着いて封鎖解除だと思ったが、実はこれは間違いだった。
そのまま進めば砲撃で撃沈されるので、フランス軍司令部のある膨湖島に向かうことになった。
各国の船はフランス軍司令と交渉することが必須であった。
海龍号は拒否されアモイに向かわざるを得ない。
その後まもなく、フランス軍の許可を得て淡水にようやく戻ったとき、伝道者・神学校生徒・信者は喜びのあまり泣き出した。
Mackay牧師は各地の教会が迫害にあっていないか心配し、まだ清とフランスが講和する前の1885年に
各地を訪問調査することにし、英国領事から通行証を申請した。
駐淡水英国領事 1885年5月27日(封鎖解除は4月28日)
駐○○フランス軍総司令宛て
この通行証の所有者は神学博士Mackay牧師で、英国国民で、台湾に宣教師として居住し
○○の礼拝堂や信者家庭を訪問を希望している。○○訪問のあと、東海岸のロ蔦瑪蘭も訪れたい。
そこで、駐○○フランス軍司令官には○○への進入と途中の安全自由な通過を願う。
随行者は2名で、中国人伝道助手の厳清華と葉順である。
駐淡水英国領事 A.Frater
Mackay牧師は通行証を得て直ちに各教会訪問に出発した。英国国旗を持った厳清華と葉順及び人夫を従えた。
淡水河を遡り、最初に清軍軍営に到着し総司令官劉銘傳に面会した。
劉はフランス軍の攻撃前に台湾巡撫として赴任した人で、思想は進歩的で同情寛懐な人物だった。
劉とMackayは互いの信仰を守ることを表明し、Mackay牧師は即座に停戦旗に交換した。
別れの時、国家英雄劉巡撫は教会英雄Mackay牧師にこう告げた。
「あなた方は私の統率下にある将兵から尊敬されるでしょう。
フランス軍に接近しなければ、攻撃にあうことはありません」
その後、Mackay牧師一行はフランス軍占領地である八堵や暖暖付近を通行中に、フランス軍の俘虜となり
基隆に送られて翌朝解放された。
Mackay牧師は釈放後に、宜蘭方面の教会を訪問する計画をたてた。
そこでは多くの教会が打ち壊されているのを見たものがいるが、信徒は平安であると。
教会は迫害と苦しみを受けているが、信仰を捨てる人はいない。
1885年6月、Mackay牧師は再び基隆への旅に出た。フランス軍を察知すれば直ちに避難し
船を仕立てて社寮島(基隆湾口の島)に行き、教堂の財物を救った。
暴徒が集まったその時に教会の主がまだ戻っておらず、Mackay牧師が先頭に立ったのである。
1885年6月中頃、フランスと清が講和し、フランス艦隊は台湾海峡を去った。
Mackay牧師は各教会の実情と被害をとりまとめ、清総司令の劉巡撫に訴えた。
劉は直ちに北京に報告し、メキシコ銀貨1万元で賠償した。
この資金で舟孟舟甲・新店・錫口・枋寮などに80余尺の尖塔を持つ礼拝堂を建設した。
尖塔の2面には火災を被ったことを記念してMackay牧師の書で「棘焚而不毀」という漢文と
ラテン語で「Nec Tamen Consumebatur」と掲げられた。
以後、台湾長老教会はこの言葉を標語としている。
この言葉は聖書(イザヤ書)にあり
"When you walk through fire you shall not be burned, and the flame shall not consume you."
あなたが炎の脇を歩いても、あなたの体が焼けることはない、炎があなたを焼き尽くすことはできない
という意味だそうです。
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またまた偶然(手持ちの資料をパラパラめくっていて)、上記資料は実はMackay博士の本「From Far Formosa」の翻訳だったのがわかりました。
原文は英語で、これも私なりの勝手な翻訳で紹介しましょう。ちょっとした違い(私の誤訳も含めて)に注意してください。
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1884年10月(日は特定されていない)、フランス艦隊は淡水砦の前に停泊した。
港内にいたイギリス軍艦は外国人を保護し、私と家族に乗艦するよう、財産を艦に乗せるよう求められた。
私は彼らにこう告げた。
私の財産は学校の中や周りにあり、船に乗ることはできない。
財産! 私の子たち(信徒)は共に旅をし、病気の私につきそい、急流を渡り、山をよじ登り
海や山で危険に直面し、どんな敵にも臆することはなかった。
彼らが私の財産なのだ!
彼らが岸辺にいるのに私が船にのることなどできない。
彼らが傷つくなら私も一緒に傷つこう。
フランス軍の砲撃が始まると私たちは小さな子供を床下に入れた。
妻はこの試練の時を耐えながら家を出入りした。
砲弾が身の回りで爆発している間、私は家の前でA HOAと唱えていた。
1発がOxford collegeに命中し、別の1発は女学校の片隅に当たった。
別の1発は私の目の前の石に当たって粉々に吹き飛ばした。
また1発は地面に食い込み大きな穴を作り、小石や砂塵をまき散らした。
砦や艦隊から砲煙が流れ、射撃と爆発の轟きがして、神が我々のすぐそばにいる気がした。
「夜に恐怖でおびえる必要はない、昼間に飛ぶ弓矢を恐れることもない」
聖書からの引用か?
発砲が終わって6発の不発弾が玄関から100フィート以内で見つかった。
それを注意深くボートに運び、沈めた。
学校からそう遠くない場所の1人の貧しい非信者が不発弾を見つけた。
その上に座ってハンマーとタガネで中の火薬を取り出そうとしたのだ。
爆発し、両腕は吹き飛ばされ頭上の枝に引っかかった。
彼は数分間は生きていたが、爆発で体はねじれ出血は止まらなかった。
最後の瞬間、体の半分が吹き飛ばされているのに、彼の心はまだ地面の宝にあった。
ポケットの中身を地面に出して眺め、最後の言葉は「その金を拾ってくれPick up that dallar」
貧しくて、暗くて、望みのない、無宗教者よ!
博士は伝道者であるからこの男に怒っているわけではない
俘虜となって以来、私には昼も夜も休息はなかった。
砲撃のあと私は病気で意識不明となった。
この時治療にあたったC.H.Johansen医師の文書が残されている。
私が治療していたMackay博士は戦争開始時には働きすぎで
それなのに病院stationにいる信者達の心配をしていた。
このことと淡水の気候が厳しく有害であることとあわせて
脳炎を起こしていた。
何日も眠ることができず、それが体力の消耗につながった。
体温は102度F(38.9℃)以上続き、危機が近づいた。
誰もがもうお仕舞いだと思い、どんな薬でも眠らせることができなかった。
幸運にも蒸気船海龍Hailoonが氷をJohn Doddに運んできたと知った。
私のお願いでDoddは全部の氷を提供してくれ、博士の頭を冷やすのに使った。
氷で冷やすとほぼ即座に博士は眠り、眠りは32時間続いた。
氷がなくなった時、博士は無事に目が覚めた。
10月第2週には、妻・子供たち・Jamiesonは英国領事の命令に従って淡水を離れ香港に向かった。
10月21日に私は蒸気船福建Fu-kienに乗り香港へ行きまた淡水に戻る旅に出ました。
博士は家族と別の船で行ったことがわかる
4日後に私たち(アモイで合流?)は香港に到着し、そこでフランス艦隊が淡水を封鎖し
我々は戻ることができないと聞いたのです。
封鎖が続く中、私は家族を香港に残し、蒸気船海龍に乗り込んだ。
台湾海峡を半分渡ったところで暴風雨で大陸に避難した。
数日待って再び淡水を目指し、港が見えるところまで来ると、2隻のフランス軍艦が並んで港口を守っていた。
封鎖解除との信号を出して2艦の間を通ろうとすると、空砲で返答されたのです。
船長が再び信号を出すと、今度は実弾を撃ち船を越えていった。
ラッパが鳴ると大砲がせり出し、兵士が持ち場に着いたのが見えた。
我々の蒸気商船はゆっくりと戻り、船長がフランス艦に行くと、封鎖解除の報告は嘘で
あと1フィートでも進むと3発目で沈めると言われた。
我々はアモイに転針し、1時間遅れで台湾近くのPescadores諸島膨湖諸島のことに達した。そこにはフランス軍司令部がある。
そこでフランス軍提督と面会し、アモイへ戻ったのち再度淡水へ戻ることにした。
そしてついに有る日の午後2時に岸辺に降り立った。
そこには、牧師・学生・改宗者convertなど多くの人が喜びに涙していた。
Courbet提督が許可したのは明らかだが、詳細は一切明らかでない。
また、有る日がいつなのか、家族がいつ戻ったか、これもMackayは書いていない。
少し経ってから私は各地の教会を訪れたく、許可証を求めた。以下はそのコピーである。
駐淡水英国領事館 British Consulate, Tansui
1885/5/27
駐基隆フランス軍司令官あて
この紙の保持者George Leslie Mackay神学博士、英国民、台湾伝道使は
彼の教会・建物を訪れるため基隆に入ることを希望する。
さらに基隆から台湾東海岸のKap-tsu-lanに至り彼の信者convertsを訪問したいと。
これを記す私、駐淡水大英帝国領事は駐基隆フランス軍司令官に上記Leslie Mackayが基隆に入り
さらに自由かつ安全に基隆を通過できるよう取り計らうよう要請する。
彼は今回の布教活動に属する2名の清人、Giam Cheng HoaとIap Sunを帯同する。
A.Frater
駐淡水英国領事
ここでは大げさにHer Britannic Majesty's Consul at Tansui と書いてある。
私は20フィートの竹の棒の先に古い英国国旗を結びつけ、許可証に記載した2人の伝道士や人夫と共に河を遡った。
萬華を過ぎて、旗は風にはためいた。数時間のうちに清軍のキャンプに近づくと
兵士が寄せてきて自分達の言葉で「英国国旗だ!」と叫ぶ中、我々は進んだ。
兵士は左右に分かれ、我々は数千人の中を歩んで清軍総司令官劉銘傳の前に出た。
いくつかの言葉で互いに信頼できると感じとれ、私は英国旗を停戦旗に変えることにした。
将軍は、我々は彼の指揮下にあるすべての兵士から尊敬を持って遇されるだろう
フランス軍に近づいてはならない、近づけば(清から)撃たれることになる、と言った。
彼の軍営には1人のアメリカ人が雇われており、その男が兵士を2列に整列させ、銃を掲げて我々が通るようにした。
それから、フランス軍と清軍の境界を眺められる場所に連れて行ってくれた。
そこでは丘や山の頂上で今も土を掘る工事が行われているのだった。
我々は長いボートで河を渡り、開けた場所、茶畑に出た。
旗竿を地面に立てその側に立ってフランス軍の信号を待った。
我々はずっと観察されており、直ちに8人の兵士が急な斜面を駆け下りてきた。
呼びかけることのできる距離になると1人が手を振り、その意味は進めということだと理解した。
--- 以下続く ---
John Jamieson について調べると
彼は1891年4月23日に淡水で亡くなっています。
外国人墓地に今も墓石があります。淡水外人墓地
その近くにGeorge Straith Jamiesonの墓があります。1887年7月28日生まれ、8月28日に死亡
碑文に Because I live ye shall live also. とあるそうです。
Jamiesonが淡水に来たのは1882年のことで9年間もMackayと働いたことになります。
Mackayは1881年にカナダに戻ったので、Jamiesonはガックリしていたのでしょうか。
それとも子供を失った悲しみに気力がなくなったのでしょうか。
以下は台湾 中央研究院 數位文化中心(degital calture center)へのリンクです。
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このHPは意外と面白く、ちょっと違った視点から歴史や文化の断面を見せてくれます。