106.烏龍茶の父J.Doddが見た淡水攻撃 その4
11月16日〜12月31日
1884/11/16
晴れて乾燥した日。
淡水で地元生産している生姜ビール(Ginger beer)が唯一の炭酸水代替品である。
港外では常に船が交代しており、Lespes提督旗はGalissoniereに上がっておりTriomphante は見えない。
夕方にフランス艦の1隻からロケット(花火?)が打たれた。
その後、深夜まで灯火信号が大量にやりとりされた。
基隆からの負傷者の報告では2日前に清がWan WanあるいはLuan Luanのフランスを攻撃したと。
その村は古い炭鉱の村でもう使われなくなった廃村だとのこと。
WanWanで採れる石炭は硬くて近くで採れる石油ほどには燃えにくく
蒸気船に適している。
もしこれらの鉱山の採掘許可が得られるなら、淡水は石炭港となるに違いない。
必要なことは港口の浚渫だけである。
WanWanとHubei港との間には船が行き交えることができる。
WanWanでの最新の交戦の結果が報告されており、多くの噂では200〜500人の清兵が死傷し
20人のフランス兵の遺体が残され、後に回収されたと私は信ずる。
淡水の清の孫司令官は病気であったがもう回復した。
1884/11/17
蒸気船Douglas が港外に朝8:00少し前に現れた。
1時間ほど停泊し、フランス軍が乗艦したあと、基隆の方向に出発した。
失望させる小さなエピソードだった。
Men who were never known to swear before could not resist the temptation any longer.
Benedict's face assumed a very lengthy appearance again.
このBenedictとは誰? 名前なのかベネディクト派に属する人がいたのか?
1884/11/18
北東の風が再び、午後には風は強くなり雨も強く降った。
訪問者の紳士は淡水にこれ以上おれなくなり、ジャンクを雇って封鎖を突破しようとした。
A curious report emanating from an official source has come to our ears, viz.,
that copies of these letters are said to be in demand by Chinese officials.
Neutral criticisms must be strictly neutral ;
historical facts and events must be clothed in extra neutral garments in future.
1884/11/19
天気は悪く、曇って冷たく、スコールがある。大きなことは起こっていない。
1884/11/20
冷たい北東の風が強く一晩中吹いた。雨も一日中強く降った。
外套が清兵士に支給された。砂丘にキャンプする彼らには厳しい一日であった。
1884/11/21
暗くて寒い一日で温度計は66°しか示さない。外はひどい天気である。
1艦が北方へ向かった。Chateau Renaudのようだ。
噂ではフランス2艦が Heong-san, Teuckchan港(西海岸を南に30マイル)および
Owlan港(さらに15マイル南)を封鎖しているらしい。
そして2隻のジャンクが拿捕されたと。
1884/11/22
少し暖かい朝で、防護柵のあたりの海は凪いでいる。
午後1時に英軍艦が港のかなたに見え、のちに H.M.S. Wanderer, R.N.Churchill艦長とわかった。
WandererとCockchaferの間で午後ずっと信号がやりとりされた。
郵便は午後11時ころにもたらされたが、通信は今日はできなかった。
天気が穏やかであれば蒸気ランチは明日に出て外部に郵便を出せるかもしれない。
到着した郵便を読む前に、手紙を書いてしまわねばならない。
夕方になって Galissonniereは元いた北方から河口に移動し、防護柵のあたりを探照灯で照らしだした。
機関砲の音が聞こえたり防護柵のあたりを走るランチのようなものが見えた。
何が起こっているのかわからないが、普通でないことは明らかだった。
ランチは Galissonniereに向かい、午後11時までには再び静かになった。
1884/11/24
再び冷たい北東の風が吹き温度計は63°を示している。
午前11時に淡水のランチTongsing が郵便物を持っていき、1,2名の乗客が乗って
脱出をうかがっていた。
昨夜悪い天気に乗じて出たランチは Galissonniereに捕まった。
それでもランチは北方に消え基隆を目指しているようだった。
フランス軍に解放されたのはクルーに食料品を提供したためらしい。
Tongsingは Wandererから戻ってきて、Cockchaferにもたらしたものは
2人のアメリカ人紳士で彼らは脱出のために乗っていたのだった。
この2人の失意は明らかで、顔やしぐさには絶望が浮かんでいた。
ジャンクで逃げ出すことができると信じていたらしい。
Benedict(誰?)はWandererに行くことを今朝思いついた。
いろんな友人が彼を密航させてくれると思い、またまた失望するのだ。
自分だけが脱出することを考えたのだから、領事ではなく
教会・病院関係者でもなく、Doddの知り合いの商人ではないか?
基隆からの報告がWandererから持たらされ、それには、6隻のフランス軍艦がいるだけでなく
1隻の船がいて帆船Feihooに似ていると。
Wandererは英艦Cockchaferに物資を運んできたが、英艦は英国住民のためにそれを陸揚げする気はないようだ。
これでは我々は物資を入手することがまったくできない。商船は入港を認められないから。
我々の現状では、軍艦がCockchaferに物資を運んでくるなら、淡水在住の貧しい英国人にも運んでくるべきだ。
フランス軍提督も清軍孫将軍も反対すると確信しているが、税関はフリーパスで通してきた。
英軍艦が当地に派遣される時に我々用の物資を積んでくることを希望する。
何もなしでクリスマスをどう過ごせばよいのだ?
キリスト教徒にとってクリスマスはそれほど重大な儀式のようです
物資がなければこれほど惨めなことはない。それはどの外国人居住者にも。
明治時代の極東の台湾にあっても物資がなければ不幸と感じるのですかぁ・・
1884/11/26
午前8時に Wandererは台湾府に向け出港した。
この地の小さな外国人社会は英国からの郵便が来ないことに大変失望している。
英国艦Wandererの艦長Churchillは基隆に呼ばれ、Courbet提督に会ったらしい。
会見で何が話し合われたか知られていないが、提督が外国人社会に属する郵便や物品を
陸揚げすることに反対したことが漏れている。
英国領事Fraterが郵便物を届けることを要求したと我々は信じている。
but the remainder of us must, it appears, go without.
なぜ英国海軍士官と領事が郵便物を受け取り、我々貧しい英国民は郵便も物品も受け取れないでいるか
ずっと問われてきた。
我々に郵便が届かないのに、なぜその郵便袋がフランスに渡されるのか?
一時保管された郵便は郵便当局に戻されるのが正しいやりかただ。
疑いもなくフランスと清とは戦争状態にあり、ここでは厳しい封鎖が実施されている。
しかし、フランスが淡水への英国郵便を認めないなら、その郵便物は戻され
フランスの手にあってはならない。
フランスは我々の一部が清に近いと感じているか、清政府の郵便がひそかにもたらされると思っているのは明らかだ。
勿論、我々に加えられた非道の理由に納得できるわけもない。
淡水に1か月以上も閉じ込められ、商売は4か月以上も中断、2か月は完全に途絶えている。
清当局は砂丘に近づかないよう助言している。
日々の生活は次第に耐えられなくなった。特に郵便物が奪われることについては。
我々の主な楽しみは英国軍艦の到着に参加し清本土や懐かしの英国からの郵便なのだ。
休暇のために田舎の農園や漁村に行き、郵便局や電報局から数百マイルも離れ
手紙や電報に煩わされない数週間を過ごす、と人はよく言う。
そういう人は淡水に来てほんの1ヶ月過ごしてみればよい。
我々は封鎖によって清人よりも遠く罰せらている。清人は自分の国にいるのであり
我々英国人のように手紙を待ちこがれることはない。
彼らは物資を香港やその他の地域に頼っているわけではない。
我々はCourbet提督の心が軟化してLespes提督に郵便配達指示の命令を出すことを希望している。
1884/11/27
寒い1日である。 Galissonniereだけが港外にいる。
基隆からの知らせでは昨日戦闘があり、フランス軍はWanWanに進撃したと。
WanWanはLiangkahの1,2マイル南にある大きな村で地図ではNiakaとなっている。
大砲の音は大稲土呈Twatutiaの清軍にも聞こえた。
Frater領事は劉将軍の呼び出しに台北府に出かけた。
1884/11/28
清は11:30頃に川向こうに発砲した。Galissoniereから誘いの砲撃があったのか?
If so they need not sorrow over the disappointment, forier shots are always well directed better,
we are of opinion, than many shot and shel from the other
ships which gave us a benefit on the 2nd and 8th ult.
日没直前に砲弾が破裂する音が滬尾近くで聞こえた。稲藁が積み上げた眺めのよい丘で爆発した。
我々は最初、Galissoniereが撃った砲弾と思ったが、それなら砲口から煙があがるのに、そんな報告はなかった。
農場に人を派遣すると農夫が好奇心から砲弾の中身を調べたとのこと。
その農夫は文字通り粉々に吹き飛んだ。砲撃開始以来、これで3件目である。
1884/11/29
まるで夏のような日になり、地中海での春のような天気だった。
午後2:30にB'Estaingに似た船が到着した。
まるで犬のようにGalissoniereのまわりを廻ってからGalissoniereの南側の岸側に投錨した。
1日なにも起こらなかったが、午後6時に誰もが注意を引くほど巨大な爆発音がした。
艦隊の1隻の横からのようだった。
太陽は沈んで月が輝き、結局報告すべきことは何もなかった。
川の上に大きな円形の煙が見えただけだった。
1884/11/30
昨日港外に投錨した船は今朝出発した。
昨夜、魚雷を1発か2発を撃つ音が聞こえた。
それは水先案内人の村からそれほど離れていない家に偶然に当たった。
昼間に魚雷の信管などを調整していて
During the afternoon the torpedoist had, it would appear, been examining
the state of some of the fuses, &c., and previous to
his leaving the house joss paper had been lighted somewhere near.
It is supposed that in the absence of the
man, or men, the lighted paper had come in contact
with the torpedoes. But this is only hearsay.
An explosion without doubt did take place, and the house was
destroyed, but no lives were lost.
噂では基隆にフランス兵を乗せた1,2隻の船が到着した。
そして、WanWanはまだ陥落していないらしい。
また、清軍が東海岸に到着し西海岸への山道を進軍したとも。
清の新しい兵隊が滬尾で最近見かけられたが、どこから来たか誰も知らない。
噂の1/10しか信じないほうがよい、特に清からの情報は。
1884/12/1
疑いと憶測と噂の一日が始まる。
誰にとってもウンザリで不満足になりつつある。
封鎖がいつまでかわかれば、たとえ貧乏人であってもそれは満足がいくだろうが。
しかし我々は恐ろしい罠にはまっており、クリスマスもこのままであるかも知れない。
さらに1ヶ月以上も手紙も生活必需品もなしに過ごすことになるだろう。
クリスマスのような1年で最も重要な喜ばしい季節を喜びと健康で過ごすに必要な飲み物なしで。
要するにアルコールが欲しい、というわけか?
もしこの封鎖がもっと長引けば、穏やかな生活は望めなくなる。
多くの品物が日々少なくなりつつあり、間もなくまったくなくなるだろう。
毎晩イヤになり、翌朝目が覚めて楽しい気分になろうとしても、不可能になる。
( ここまで翻訳してきて、ようやく気がつきました。
Doddは封鎖中のこの文をどうやって上海に送っていたのか?
封鎖が解除されるまで書きつけるだけだったのか?
電報で送ることができたのか?
台湾西側だけの封鎖なので東側の港から大回りで送る手段があったのか?
それとも、長い海岸線をすべて封鎖できるはずもないので
フランス艦のいない場所からコッソリ送ることができたのか?できなかったのか?
送ったという記述が見えないので、多分封鎖解除の後まとめて送ったと推測します。)
1884/12/2
天気は悪く、まるで北東のモンスーン風と雨の中にいるようだ。
台湾府から陸伝いに郵便が届き、それはアモイからChampionによってもたらしたものだった。
郵便は10月10日付けのロンドン郵便であることがわかった。
その前には10月3日付け郵便をGalissoniereから受け取っている。
9月26日付けの郵便はWandererでもたらされたはずだったが、行方不明になり
後日、Lespes提督に渡り、Courbet提督の知るところとなって、結局我々にもたらされた。
英国蒸気船Wandererの司令官から英国郵便がフランス軍提督に渡ったことについて
我々の怒りを表すには16ページの手紙では表しきれない。
なぜ16ページと限定しているのか?
中立国の在住者がかつてこんな不幸な状況になったことがあったか?
なぜ手紙がWandererのような新造船に託されたのか?
何かが起こったに違いない。
なぜ我々の手紙を台湾沖にいるフランス艦に投函しなければならないのか?
なぜ我々がそんな目に会わないといけないのか?
我々の手紙も商品も自分の所有でなくなってしまった。
なぜ 砲艦Cockchaferと英国領事Mr.Fraterはフランス提督の親切な許可をうけて手紙を出すのか?
そしてなぜ英国を守る臣民である我々のことについて抗議しないのか?
Doddの怒りは海軍と政府に向けられています
もし「合法なeffectiff封鎖」が淡水在住の英国民に英国郵便を配達することを禁止するなら
我々は黙って甘受しよう、でもいつか我々の手紙はChampionのような小船で届けられるものと信頼している。
今は英国艦がいても優勢なフランス艦が女王陛下の郵便袋の受け取りを拒否しているが。
1884/12/4
雨はそれほど強くはないが風は大変冷たく、波は荒い。
Galissonniereは錨を沈めてもロッキングチェアのように揺れている。
何も起こっていない。
1884/12/5
強風は止んだが、波はまだ荒い。
基隆の清からの報告では、WanWan近くでフランス兵2,3名を捕虜にしたと。
そのフランス兵はシュンとしているらしい。
1884/12/7
風は少し収まったが雨はまだ降っている。
Galissonniereと他の艦が港の外に見える。
こんな天気では砲撃はない。
1884/12/8
天気が変わり、寒くて乾燥している。
清人が、1隻のフランス艦がPaksa Pointの海岸にいると報告してきた。
そこは淡水の南に20マイル、Teuk-chamの北10マイルになる。
1884/12/9
雨と風が止まず、気圧は30.70から 30.52に急降下した。温度計は日陰で 63度。
名前のわからないフランス艦が今朝出航した。Galissonniereはまだいる。
1884/12/10
美しい春、イタリアのような天気だ。温度計は63度
WanWanからの報告では、清人あるいはWanWan在住者に殺されたフランス兵の話は本当だと確認した。
噂では、この話を聞いたフランス提督は劉に手紙を送り和平交渉が行われている今、兵を殺すのは適切でないと。
清人はその噂は本当だと信じている。
まったく別の噂がその後やってきた。フランス軍は基隆市から近い丘の断崖の道を進軍し
WanWanや隣の村を見下ろす位置に機関銃をすえつけたと。
そして清軍の隊長が劉に援軍を求める手紙を送ったと。
午後10:30に機関砲の射撃音が防護柵から聞こえ、照明がGallisoniereから遠くない所を動くのが見えた。
封鎖破りが見つかったのだろう。
夜はそのような目論見にふさわしいが、Gallisoniereの甲板見張りは盲になることはない。
1884/12/11
少し曇って気温は 59度。
昨夜3隻のジャンクが封鎖破りを試みた。
1隻は水先案内人の村を過ぎて防護柵あたりまで行き、フランス艦の砲火を受けた。
他の2隻は白砦に駐屯する清兵から発砲された。
拿捕されたジャンクはGallisoniereに横付けされた。
ジャンクに何ができたのか誰も知らない。
ジャンクは封鎖破りをする許可を清からもらうため金を払わなければならない。
朝8時に Triomphonteが到着し、Galissonniereは基隆に向かった。
フランス艦があまり活動的でないのは、北で平和交渉が行われているからとの清高官の意見である。
孫将軍は台北府に劉と共にいるが、10月8日のフランス上陸を撃退して以来体調が悪い。
孫が萬華にやってきた時、住民は大喝采したものだ。
1884/12/12
大変寒いけれど晴れ、冬の乾燥を感じる。
午後3:30に大きなフランス軍艦が南西方向からやってきてTriomphanteの北側に投錨した。
1884/12/13
北の丘の斜面は薄い雪が積もった。最低気温は46度、10時前で56度、正午で59度だった。
午後1時に機関銃らしき音が聞こえ、続いて重砲の音も聞こえた。
大砲の音は鋭く何度か続き広い範囲から聞こえた。
音は南からで、Namkan Pointの向こう、多分フランス艦のいるPaksa Pointではないか。
1884/12/14,15,16
今日は大変良い天気で、戦闘行為は起こっていない。
数日前に到着した名前不詳のフランス艦は今朝出航した。
港にはTriomphante1隻が残っている。
The spirit of Mark Tapley(多分チームの名前)が1週間淡水を訪れ、
ビリヤードとローンテニスのハンディキャップが決まり、さらにCockchaferと商館との競艇も行われた。
我々が最も気にかかるのはクリスマス用品であり、それ以外は淡水では問題ない。
1884/12/16
朝のうちは何も起きなかった。午後3時にフランス艦が1隻到着し、Triomphanteの北側に投錨した。
ローンテニスのハンディキャップ戦は午後に行われた。
1884/12/17
よい天気。別のフランス艦が1隻到着した。帆船cruiserのようだ。
1884/12/18
曇っていて寒い。Cockchafer乗員と在住者とのクリケット試合がありCockchaferの勝ちだった。
試合後にミーティングがあり、レガッタ競艇を行うことが提案された。
兵隊達がクリケットを見物しに来た。
すべて静かに進行し問題は一切なかった。
[tempora, mores!昔はよかった] 1859年春のことを思い出す。
広東市で香港クリケットクラブと広東駐在武官選抜チームの試合があり
広東側の壁には兵士がガードしており、どちらの側にも中立で応援するのは許されなかった。
1884/12/20
港外の艦の1隻が消え、新しい1隻が到着した。その艦は衝角のついた帆船のようだった。
清の報告では、フランス軍は東海岸のSo-oh bay蘇澳に行った。
蘇澳港の背の丘から見ると港は鎌の刃のような形で港口は東にあり
岩の連なりが港口の南側にある。港には2,3隻の船が停泊している(できる?)
蘇澳の村は港の西側、丘の麓にあり、東側を見る門とわずかな塀に囲まれた汚れた村である。
干潮時には砂州が広がるが満潮ではそれが隠れてしまい、知らずに港に入ると危険である。
湾の北の入り口はPak Hong村で、南側は Lam Hong村である。
蘇澳についてのこれ以上の情報はない。
村は蛮族のものであるが東海岸の大きな町Kap-sii-lan(多分宜蘭)から歩いて3時間しかない。
古いCabullan地図では Ka-mo-lau となっている。
Kap-su-lanの町は有名で萬華の町と同じくらい大きい。
夕方5時ころ、散発的な音が明らかに南のほうから聞こえた。
もし黒雲が見えたなら遠い雷鳴と思ったに違いない。
同じような音は以前の地震で聞いたが、そのときは大地の震動が続いてやってきた。
今回の音はかすかだが1時間も続き、大砲の発砲音と結論した。
日没時には4隻の艦がおり、さらに1隻が入ろうとしている。
1884/12/21
When the morning mist cleared away, what should
we see but our old friend La Galissonniere outside in her
usual place. During the night one of the other vessels
must have departed, as there are now only four vessels
in sight.
At about 9 a.m. we descried an English man-of-
war in sigM, and at about 10 a.m. she came to an
anchorage. The launch left for her and we believe that
she brought a few letters on board for the Consul, but
the community seem to have been left out in the dark
again. Stores are said to have arrived again for the
Cockchafer, but not for us poor needy, blockaded mer-
chants. The Champion will be turned round in an hour
or two, giving but little time to any of us to write to
our beloved friends.
今朝の報告では、基隆の南10マイルにあるMasou湾の村が今朝占領された。
フラン兵12人が殺された。その方向からの遠い音が午前7時から9時すぎまで聞こえた。
フランス艦は淡水近くに集まるようだ。
基隆が補強されれば、淡水も年内には占領されるに違いない。
英国人はフランス軍が勝つものとまだ思っている。2ヶ月経って未だ決着ついてないのに
クリスマスと新年は祝うべきだが、それでも手紙が止まっているのは苦い薬のようだ。
1884/12/22
H.M.S. Champion は今朝、安平に向かった。
数通の私信がFrater領事に届けられ、Cockchaferには手紙と物資が届いた。
そして、税関職員にも領事と同じく物資が届いたと聞いた。
しかし残りの英国居留民には届けないという厳しい命令があり、我々には手紙も物資もま全く届かない。
Is there any use in making it public ? It would
appear not. There can be no harm, however, in recor-
ding that since the commencement of the blockade, just
two months ago, many of us have been obliged to deprive
ourselves of many necessaries, and to put ourselves on
half and three-quarter allowance, saving only a few things
to tide over Christmas with. We have been livijjg in the
hope that the French would allow,atthis season of theyear
at least, stores to be landed, even if they continue to veto
the delivery of mails, butitseems they w^ill not. Sowepoor
merchants and others must now go on for another month,
perhaps six months 窶 who knows ! 窶 without any addi-
tion to our creature comforts L We have had to beg a little
beer here, sherry there, flour and biscuits, mustard and
pepper, salt, etc., from the Naval officers and other
privileged individuals, but in a week or two we shall be
as badly off for everything as before. All the foreign
officials here are well off, as the supplies for them by the
Champion have been landed, but the poor merchants
must be contented with the crumbs that they can gather
from the tables of lucky individuals whom " blocus
effectif " does not affect. In the south of the island
matters are not in this state, the blockade not being
" effectif " there, it would appear. In fact, we under-
stand that the news brought on by the Champion is to
the effect that for many days not a French vessel had
been sighted off Anping or Takao. If this is true窶
and we believe it is 窶 ^the blockade has virtually been
" raised." Let alone the absence of stores, we are now
without seven (7) European mails. What can it possibly
matter to the French Admiral whether we get European
and American mails or not ? but to us 窶 who have friends
in England and business relations with both countries 窶
it is of the greatest importance.
Such communicationsofaprivateandbusiness nature,
coming from distant countries, cannot possibly contain
matter that would assist Chinese officials at all. It is
utterly impossible not to grumble about the stoppage of
mails," and at this season of the year especially, about
the non-delivery of our Christmas stores and other things
kept back from us since the 23rd of October last, the
date of the establishment of the blockade. It will be re-
membered that we had barely 24 hours' notice given to us
Tarasuiites, although the news was knoM'n in Hongkong
and Amoy a day or two previous to the issuing of the
proclamation here. Had we received a week or two's
notice it would have been very different, or were a
British merchant vessel allowed to take away our goods,
produce, valuables, &c., our position would not be so
unfortunate. There would be no inducement for any of
us to stop here, especially if the capture of Tamsui and
the reopening of the port is to be delayed for months
more. We might just as well clear out with our
moveable properties of all kinds, leaving our homes in
charge of Chinese, as we have been compelled to do at
Twatutia, or to the care of our French neighbours,_as
we have been forced to do at Kelung. We feel sure
that they would protect our properties, and hfind them
over again when troubles were over in Tormosa and in the
event of the French delaying to take Tamsui for the next
how many months, why, then we had better entrust our
houses and godowns to the care of our Chinese employes
but under the protection of the Chinese officials, who
have shown unmistakeably, since the bombardment of
Kelung, that foreign properties at Twatutia and Plubci
have been cared for by them although the enemy had
landed at Kelung and had knocked very loudly at the
door of Tamsui. Under ordinary circumstances foreign
merchants would no doubt wish to remain at their posts,
and to go on trading pencefuUy and quietly, but under
present circumstances there can be no profit in re-
maining, and we doubt if any one would care to remain
to see the end of this long game of reprisals, said to be
just short of actual war.
次の文書が在住者に本日回覧された。
(Copy.)
英国領事館 淡水 1884/12/22
領事は清政府より外国人は砂丘に近づかないよう要請された。
(signed) 英国領事 A. Freater
There is no doubt that the six men-of-war outside
have caused some excitement in the camp here, and the
soldiers on the Downs may readily be excused for being
a little more exercised than usual. Every time
a British man-of-war comes to Tamsui suspicion
arises in the breasts of the Chinese soldiers that the
English are in league with the BVench. They see
the English Commander's boat visit the Erench
Admiral's ship ; they note the communication passing
between the Cockchafer and the Champion, ike, and
cannot make it all out. The Chinese officers, knowing
better, explain the matter to the troops, and all passes
off quietly, but a suspicion lurks in their minds never-
theless that all is not quite square. It is wonderful
how quiet and inoffensive the Chinese soldiers have been
from the very commencement of the troubles here.
1884/12/23
After the Champion left yesterday morning, a yarn
went the rounds that a French officer had informed an
English officer that a French ship " had only a day or
two ago sighted in the Formosa Channel three Chinese
cruisers.'' This was news indeed !
It is reported also that the friends of the French
officer killed on the 8th of October last, when the French
landed at Tamsui, had written or telegraphed out to
request the British Consul to endeavour to recover the
body. Let us hope that he will succeed !
Communication with the mainland by junks seems
to be pretty regular between this and Taiwanfoo, and we
learn with envy that stores and mails were landed ex
Chavijnon at Taiwanfoo on her way up. What lucky
mortals the Anpingites are !
Our regatta arrangements are progressing favour-
ably ; the programme looks well considering everything.
Every one is death on currants and raisins, citron
and almonds. Amateur iSoyers are mugging up cookery
books, for we are bound to have Christmas puddings
and mince-pies at any rate.
The story about Kimpaoli seems to be this. A
boat's crew from one of the Fi-ench ships was either
capsized in Masou Bay, or the men landed and were
killed by the Chinese. To punish the Kimpaoli people, a
gunboat was despatched from Kelung and the place was
destroyed, the noise of firing in that quarter being thus
accounted for. There are various stories flying about, one
of thera being that there is no truth at all in this report !
Apropos of mails, what a genius the man must have
been who despatched his budget of letters in a box
miarked " Baking Powder," and which came duly to
hand. It is said that General Liu Ming-chuan has
offered Tls. 200 to any one who will find and produce the
body of the French officer killed on the 8th of October;
the old warrior, it seems, is a man with a heart " tender
and true."
There was a movement to-day amongst the French
shipping outside. The Triomphante was seen to change
her position in the afternoon, taking up a berth not far
from the entrance of a small stream which winds its
way between the first and second downs and runs into
the sea to the north of the Tamsui Biver. The move-
ments of the Triomphante and of one or two other ves-
sels appeared ominous in the opinion of certain oracular
authorities, but nothing came of it.
Training or rather practising for the Regatta has
been going on vigorously for some days, blue jackets
stretching the sinews of their brawny arms, and redoub-
table stokers, hailing from the West Countrie, outvying
them in their exertions, whilst all the old native gigmen
are brushing themselves up, endeavouring to show that
although steam launches have of late years somewhat
interfered with their " pidgin," they can, when called
upon, come up to the scratch.
1884/12/24
Ships outside appear again to be getting into posi-
tion. It is time to do something, but we fear nothing
can be done to-day, as it is blowing too strong from the
north-east to permit of the landing of troops. Pive or
six boats are out sailing in the river ; we shall have a
good show on the 26th if the wind is as favourable then
as it is to-day. One of the boats capsized this afternoon
with three Customs officers.
1884/12/25
普段の冬のように、非常に寒く、強い風と雨が降っている。
封鎖にもかかわらずよいことは
テーブルの上には、大きな牛肉の塊と重い七面鳥とプディングやパイやケーキ。
その間は封鎖のことは忘れることができる。
メリークリスマスの声は船の上にも岸辺にもあふれた。
翌日幾人かは二日酔いと噂された。
1884/12/26
レガッタは29日に延期された。spiritチームと楽しんだ昨夜に加わった人たちに感謝して。
1884/12/27
再びよい天気。港外には5隻のフランス艦がいる。
午後に台湾府(台南)からの伝令が1,2通の手紙を持ってきたが、海外からの手紙はない。
夕方に大きな軍艦が到着した、艦名はわからない。
1884/12/28
6隻のうち2隻が出て行った。残る4隻は煙を出している。
今日は大変暑く60度ある。
華氏60度=15.6℃ これを大変暑いvery hotと感じるのが不思議。
1884/12/29
再び大変寒く、雨をもたらす北東の風が吹いている。
10時丁度にレガッタが始まった。3レースが行われた後でティータイムtiffinの休憩がある。
最初のレースは3隻のローカル艇(各6オール)で清人が乗っている。
第2レースは外人クルーの3艇で競われ、"Stokers"が青服の他の艇に勝った。
青服とは海軍軍人を指す
3番目はカヌーレースだった。
休憩のあと、Cockchaferの艇とローカル艇との帆走レースであった。
There was a pretty start and a soldier's breeze, which rendered sailing easy.
A shore boat won, hands down. 勝ったshore boatはどちらなのか?
そのあと、4オールの青服によるサンパンレース、ディンギーレース、地元荷船による帆走レース、アヒル狩り
最後に、油を塗った棒の先に豚を吊るしそれを取る催し。
天気は午後には良くなかったがすべてうまく行われた。
我々のレガッタ大会は大成功だったといえる。
賞金は高いもので$20、合計で$150 であった。
日本人なら、このような封鎖状況でレガッタを楽しむだろうか?(盆踊りでも何でもかまわないが)
故国を遠く離れた極東のさらに沖合いの首狩族もいる小島で商売をする英国人には
なにほどのことかも。
この1884年(明治17)ごろの日本はこんな状況でした。
1877年 西南戦争 要するに国内紛争です
1885年 天津条約 朝鮮をめぐって日本と清が互いに撤兵
1889年 大日本帝国憲法 ようやく発布
1890年 第1回衆議院選挙
1895年 日清戦争
1884/12/30
再び寒い冬の日だが雨はない。
フランス艦は4隻だけが見え、すべて恐ろしげに動いている。特に27日に到着した大型艦は。
Pak−sa岬の岸にいるフランス艦は他の2艦といっしょに翌日に出たらしい。
Kimpao-liの破壊やPak-saの艦については余りに多くの噂があるがどれも信じられない。
1884/12/31
今日は比較的おだやかな天気で温度計は60度を指している。
清がニュースを持ってきた。
2隻のフランス艦が Matsu馬公かあるいは台湾海峡のどこかで5隻の清の砲艦によって沈められたと。
別のニュースが川を下ってきた(台北府から)
フランス兵3人くらいがWanWan近くかあるいはその近郊のどこかで殺され、その首が台北府に持ってこられた。
WanWan方面のフランス監視廠がどれくらい離れているのか定かでない。
ある日WanWanがフランスに占領されたと聞いたことがある。
基隆からWanWanへの道の途中のガケには清の狙撃兵がいるとも。
フランス軍はWanWanを望む丘を占領してはいるが、村を占領するほどには強力ではないらしい。
フランス軍は田舎に進軍するのは困難だと理解している。
国土は守る側には守りやすいのだ、基隆は丘だらけで木々に覆われ、道路は狭い。
清の兵士は丘の至る所に散っており、穴を掘たり茂みに隠れたりできる。
フランス兵は見えない狙撃兵に身を晒して進軍すると、敵は背の高い草や藪に潜み
四周から叫び声があがり、時には清兵が身を晒して即座に蛇のように消えうせ
藪に身を投げ出し、自分の居場所を教えてしまう煙からできる限り素早く離れる。
これらが、今目前で行われている戦いのやりかたなのだ。
ゲリラ戦はこういうものです、今も昔も。
古い1年は素早く過ぎ去り、ここにいる我々には何と多くの出来事がやってきたか、中でもこの5ヶ月は!
基隆は封鎖・占領され、我々の商売は止まり、大稲土呈は声明の危険あるため閉鎖された。
淡水は2度砲撃された後封鎖された。その結果我々は友人との通信が途切れた。
封鎖が始まって9週間経ち、その間にフランス軍は郵便を1回だけ配達した。
我々の不幸な現状を嘆くのは何もよい事をもたらさない。
各々のやりかたで古い1年を見送り、皆に輝き幸せな明日が来るろ信じよう。trust
どんな黒い雲にも銀色の裏地がある。来月が過ぎる前に銀色の裏地が輝くのを期待しよう。
So mote it be ! 古語なのか意味不明
船の鐘が真夜中を知らせたその時、穏やかだが力強いテノールの声で歌うのが聞こえた。
"But I wonder how long it will be." のパロディで[淡水の詩人Laureate]
The French have bombarded Tamsui, フランスが淡水を砲撃し
And now have blockaded the port ; そして今港を封鎖している
But in spite of an effort at landing, 上陸しようとしているが
Have not taken an earthwork or fort. 土塁や砦を占領できていない
The goddess of war has not favoured 戦いの神様は彼らには
Their arms in Tamsui, you see ; 微笑んでいない
Yet soon they will open the harbour.; まもなく港を開けるだろう
But I wonder how long- it will be ! でも、どれだけかかるんだ!
At Foochow they came down like the storm-cloud 福州では彼らは嵐の雲のように押し寄せたが
Comes down on the waveless sea, 穏やかな海を渡り
And their ironclads' cannon were thundering loud 戦艦の大砲は轟き
To awaken the heathen Chinee. 異教徒の清人の目を覚ませ
They broke up the gunboats and arsenal ; 砲艦と武器庫を粉砕し
Then sailed for Formosa in glee. そして喜び勇んで台湾に船出した
Intending to conquer this island ; この島を征服するために
But I wonder how long it will be でも、どれだけかかるんだ!
Before they will open the Customs 以前は税関を開設して
To favour the export of tea. 茶葉の輸出を支援していたが
At present trade is at stagnation 今は貿易は停滞している
Because 'tis Monsieur's policy. 提督の方針だから
The blockade has trebled the prices 封鎖で物価は上昇し
Of everything here, you'll agree ; 全ての値段が上がった
Yet affairs will soon come to a crisis; 危機がもうすぐやってくる
But I wonder how long it will be ! でも、どれだけかかるんだ!
The New Year is opening quite gaily. 新年は陽気に開き
And I hope before long we shall see まもなく終りが見えるだろう
All end to what they call reprisals ; 報復という名の終りが
But I wonder how long it will be ! でも、どれだけかかるんだ!
(Signed) A. E. H.,
1885 Poet Laureate.
サインしてあるのだから、紙で配布あるいは回覧されたもの。それをDoddは紹介している。
誰が書いたかDoddは追求していないが、ひょっとしたら自身かも。
Doddも含めた全員が抑圧でイライラと怒りっぽくなっているのですが
さすが英国人、皮肉るのがクールです。
大晦日に一年を顧みて長い日記を書くのは日本人だけではなかったのです。
---------------------------- 続く -----------------------------------------