106.烏龍茶の父J.Doddが見た淡水攻撃 その4
           フランス軍撃退(10月17日)の後 11月15日まで

封鎖
1884/10/18
  Hillmen(客家)が火縄銃に火薬を詰めて発砲する話を続けるが、彼らが照準をつける場合には
  銃床の下を右胸につけ、側面をできるだけ高く頬に近づけ、目は銃身真っ直ぐ見下ろし
  その銃身にはまったく照星も照門もついていない。
  また、彼らは座り込んで(from their hip)銃を撃つのも慣れている。短い射程での練習を見たことがある。
  敵を狙って撃つ最も不思議な方法は、蛮族との境でよく見ることができる。
  背中を地面につけ寝ころがり、銃身にそって良く見えるよう頭を高く上げ、銃口をつま先で挟み
  良く狙って撃てば座り込んで撃つよりもよい結果を出す。
  つま先で銃身を支えるこの姿勢だと、敵から見える面積が狭く、地面の一部と化して、付近の草木をかぶれば
  異国に上陸したヨーロッパの兵隊を目くらまししてしまうに違いない。
  ウインブルドン姿勢(調べるのもバカバカしい)はHillmenがしばしばとる姿勢ではあるが
  この姿勢は戦場では実に珍しい眺めである。
  国際的な議論は決して決着を見ることはなく、文明化は足踏みしている。
          (ウ〜ン、何を言いたいんだか・・・)
  Hillmenは危険な兵隊で、どんな事態においても悪賢く勇敢で、これまで蛮族から土地を奪ってきた。
  境界をめぐる争いは年中おこり、客家の辺境に住む者には人狩や首狩は気晴らしでもあった。
  Hillmenについて言うことはたくさんあるが、ここでは書くスペースがない。
  今日は何も起こらなかった。
         (火縄銃についてだけでなく、DoddのHillmenに対する興味は非常に深い)
  ゆるい北東の風が吹き、防護柵を少し揺らしていた。依然としてフランスの2艦が外におり、3艦は基隆にいる。
1884/10/19
  天気は良く、日々だんだんと寒くなってきた。
  1,2名の在住者が砲撃後に始めて散歩に出た。 これはリスクのある進歩。
  孫将軍が病院を訪れ、そこでの看護に満足したように見える。
  彼はJohansen医師とCockchaferのBrowne医師に感謝した。
  入院している兵は今や12人で、退院した多くはフランス軍が再び上陸して自分を殺すのを恐れ
  またあるものは、傷が治ればすぐに町に戻った。
  ある兵は右肩をきれいに撃たれ、1週間から10日入院した後、突然にライフルをかついで前線に向かい
  仲間と一緒に砂丘での生活をするほうを選んだ。
  銃弾で肺に孔があいたが、西洋人なら数ヶ月もかかるのに清兵はほんの短い期間で回復したのだ。
  別の男は、フランス軍の上陸7日後に頭部を撃たれ脳が見えているのに歩いて病院にやってきた。
  彼は回復したが、長期間生き長らえたかどうか疑わしい。
  また別の例では、肺を撃たれた男で、傷口から空気が漏れ、呼吸のたびのそこから音がした。
  複数の兵は腿や腕を負傷し、骨はバラバラに砕け、勇敢にも痛みに耐えていた。
  8日の夕刻には70人ほどが収容されたが、幾人かは複数の部位を負傷していたのに、うめき声は少なかった。
  数日前に来た兵は脹脛を負傷していたが、10日も銃弾が入ったままやってきた。
  彼は仲間がどれだけ十分に看護されたか聞いて外国人医師を訪れたのだった。
  Browne医師が銃弾を取り出すと、そのまま前線に戻っていった。
  こういう奴には何ほどのことだったか。
  基隆の負傷者が道に迷いながらここまでやってきて手当てを受けた。
  このような多くの出来事が記録されたが、それを馬諧病院報告として読むことができるのは
  Johansen医師が書きあげる1年後であろう。
  本年の報告書は設立者やJohansen医師自身にとっても例外的に興味深く、かつ満足のいくものになるに違いない。
  今日は何も起こらず、フランス軍の応援がサイゴンからやってくるまで作戦は再開しないものと思われた。
1884/10/20
  天気は良いが涼しい。 淡水の最も良い季節である。
  街の人々は静かで、近くにいる6000〜7000人の清兵とHillmenはまるで1000マイルかなたくらい静かだった。
  完全な静けさがあるが、戦争とそれに付随する悪が島を覆っているのが残念だとある人は言う。
  次の通知が本日回覧された。
                         淡水 1884年10月20日
      孫将軍より、淡水在住者が砂丘や清兵の守る地域に立ち入ることに警告があったことをお知らせする。
      外国人と清兵で互いに言葉がわからないことから不幸な事が起きないようにと。
                         A.Frater 領事
  今日は何も起こっていない。
  GalissoniereとDuguayTrouinはまだ外側にいる。
  Fokienがアモイから到着した。
1884/10/21
  大きな事は起きていない。
  Fokienは午後アモイに向け出航した。
  フランスの蒸気船がGalissoniereの北側に停泊した。
1884/10/22
  今朝早く英国艦が遠くに姿を現した。9:00頃に停泊しに来てようやくH.M.S.Champion 艦長Powlettと判明した。
  昨日到着したフランス艦は今朝出航した。
  午後2:00に次の通知が出された。
                        淡水 1884年10月22日
      HMS.ChampionのPowlett艦長より通知があった。
      フランス軍は台湾全島の封鎖を明日始める予定で、まだ船積を終えていない船は
      3日間の余裕を認められると。
                         A.Frater 領事
  これはまだ始まりでしかなかった。
  今や綱引きが始まるのだ。
  Hailoongは午後4時に出航した。
1884/10/23
  昨日の午後、女王陛下の領事Her Britanic Majesty's Consulが出した通知と
              (今まで単に領事と呼んでいたのに、これは皮肉だろう)
  フランス軍のCourbet提督(極東艦隊司令長官)の封鎖通知書を見て誰もが驚いた。
  この通知書は基隆で10月20日に出され、GalissoniereのLespes提督に渡されたものであった。
                        淡水 1884年10月22日
      フランス軍のCourbet提督から台湾沿岸の封鎖通知が出されたことをお知らせします。
      場合によっては3日間の猶予が与えられます。
                         A.Frater 領事
  (Courbetからの通知書は当然フランス語ですが)
      Lespes提督殿      No.513
              封鎖通知書
      フランス極東艦隊司令長官Courbet提督
      フランスと清との間の報復状態に対して我々の権限で可能な行動
       次の宣言をする:
       1884年10月23日より台湾の南岬(21°50',118°50'とあるが多分鵞鑾鼻)から
      Dome点(24°30',119°35'とあるが場所不明)までの沿岸と港を封鎖する。
         (この2つの点の経度が大きく間違っている)
      国際法や中立であることを強制する条約を満足するこの封鎖に敵対する全ての行為に対して
      この封鎖は優先する。
                 Bayard艦上 基隆1884年10月20日
                   S.Courbet
 
           (Courbet提督は翌1885年に膨湖島の馬公に停泊中のBeyard艦上で病死する)
  これは、我々がまもなく外部と連絡が取れなくなることを意味する。
  どんな値段を出しても、出航を明日に延期したHailoongの出航以降は何も船積できなくなる。
  ChampionとCockchaferは互いに信号をかわし、Boteler艦長はChampionが到着した昨日にはそこまで出かけた。
  Cockchaferの長期間の滞在に必要なものは届けられたが、河岸の水兵と海兵隊だけでは手不足だった。
  Championからの増援海兵隊は歓迎された。
  フランス軍が上陸し清兵やHillmenに勝って、我々が自分自身を守るため戦うためには必要なものだった。
  全島が封鎖されるとの話が清にどのような影響があるのか、我々は待つしかなかった。
  影響が萬華や大稻土呈を脅かすなら、商売でここに滞在している外国人、すべて英国人だが、は最初の被害者となろう。
  砦や軍隊への攻撃は段階的であったが、封鎖は貿易に致命的な打撃を与え、滬尾に残る外国人の生命の危機をもたらす。
  基隆と大稻土呈には外国人はいなくなったが、滬尾には我々がまだ残っている。
  滬尾は単なる仕事場だけではない。
  船は停泊し、荷物を下ろし、領事・税関員・外商・宣教師などがここにおり
  Cockchaferは可能な限り我々を見守っている。
  しかし、フランス軍が再上陸すれば何が起こるのか?清軍は負けるのか?
  我々は3度目の砲撃を耐えねばならないし、もし、清兵とHillmenが完全に駆逐されると
  彼ら(フランス軍)は河岸の外国人に危害を加えることはないと期待できるのか?
  また、河岸から英国砲艦に乗る必要が出たとき、誰が残された財産を守るのか?
        (かなり追い詰められても、まだ財産保全にこだわるのは商人だから)
  意見はすぐにはまとまらず、我々の意見を戦わす会議は招集されず、状況は日毎に危険となった。
  しかしながら、ある1点については、只一つの考えしかなかった。それは、英国提督がChampionかあるいは別の艦に
  港の外側に残ることを命令し、状況を観察して最悪になったときに備える、というものだった。
           ( in case the worst comes to the worst)
  もし封鎖が1ヶ月以上も伸びれば、生活必需品をどうやって入手するか、すべてアモイや香港から来るのに?
  多くの人はもうすでに不足しており、注文しても届けられることがないという事実に大変失望している。
  今日からは何者も出ることができなくなる。
  高雄・台湾府・淡水・基隆の外国貿易の9割、ほぼすべては英国商社によるということは知られていない。
  またほとんど全ての外国資産は英国人のものだということも。
  北台湾での茶葉・石炭および南台湾での砂糖の輸出はすべて英国企業によって開発され
  今や全ての貿易は行き詰り、英国商人は不利益を被っている。
  ここの誰も不平を言ってはいないが、どんな期間であれ島が封鎖された間の損害を計算する時期が来た。
  誰もがこの数ヶ月で商売に深刻な障害をかぶり、淡水と大稻土呈が基隆と同じ目にあえば
  年末前には損害は大変大きくなるだろう。
  我々の顧客もまた同様に被害を受けるだろう。米国は毎年30万個の烏龍茶を求めており、砂糖業者を探している国もある。
  石炭輸出の停止は封鎖が解除されなければ、同様に被害が出るだろう。
  もうこれ以上書く時間がない。
  Galissoniereは今朝南方へ出航し、DuguayTrouinだけが河口を守っている。
  Championは姿を消した、多分基隆かアモイだろう。
1884/10/23
         (この日は出来事の記述はなく、彼の考えを1ページにわたりしつこく書いている)
         (周囲の動きがなく時間だけが有り余って、無益な思考に陥っているのか?)
  今日は淡水で一番美しい日である。(なぜか天気について5行も述べているが省略)
  楽しみとなった光景は、柵外で封鎖を続けるDuguayTrouinの姿である。
  我々は檻に閉じ込められたネズミのようで、清ネコが檻のそばにおり、開いた口から我々が逃げ出すのをフランスが見張っている。
  我々は上流に避難するわけにはいかない、疑いもなく萬華までに略奪されるから。
  あるいは、河岸の清兵に撃たれる恐怖から逃れたり英艦で海に逃げ出すこともできない。
  なぜこんな不幸な状況に陥ったのか、説明がつかないunaccountable。
  封鎖の前に逃げ出すことも可能ではあったが、誰も残した財産がどうなるか考えられなかった。
  たとえ清がいなくなってもその選択は間違いなのは明らかだった。
  しかし今や、我々は逃げ出すことは不可能になり、選択の余地は全くなくなった。
  午前中に清の税関に属する沿岸ボートが突然に帆を揚げ、強い陸風に乗って明らかに基隆に向かった。
  この意図は、封鎖はまだ完全には始まっておらず東海岸へ行ける可能性のある基隆に到着できるかも知れない   ということだろう。
  しかし、ボートが水先案内人村や白砦跡を過ぎ、黒い標識をまわると、古い海の王様DuguayTrouinが発砲し
  最初は近弾だったが続いてボートに非常に近く着弾した。
  どのボートにも当たらなかったが、フランスは当てようとしていた。
  陸風だったのでボートは戻るのに躊躇した。
  彼らの躊躇と決断の遅れは長くはなかったが、フランス艦の甲板上で機関銃が動き出すのが見えた。
  この日はホチキスが勝利した。(Hotchkissは銃器メーカ)
  沿岸ボートは安全に港に戻ったが、封鎖の意味を理解させられることになった。
  Hailoonは午後1時頃に出航し、誰もがこの出航が外部との最後のつながりになると、煙が見えなくなるまで見送った。
  その後、2隻のジャンクが満帆で港を出ようとしたが機関銃が発砲され、ジャンクはそこで一晩中停止させられた。
  夕方には照明が繰り返し当てられ、河岸にいる我々にはその光はかえって物悲しく思えた。
1884/10/24
  強い北東風が吹いている。
  午後にかけて風は弱まり部分的に青空も見える。
  蒸気船Fokienは正午少し前に姿を見せ、フランス艦のそばに到着した。
  12:30の時報(鐘かラッパか不明)がフランス艦から鳴ったが、Fokienが着くときに
  フランス艦が発砲し両舷側に着弾した。
  2時前にFokienは無事アモイに向け出航した。
  郵便物を荷揚げすることは認められなかった。もしこの件でフランスが助言を求めたなら
  許可を出すべきと指摘されただろう。
  我々の困難を増したいと彼ら(フランス)は望んではいないが、この海域の海軍力(清・仏だけでなく)を
  彼らが引き付けていると思う。
  我々はBoteler艦長の能力を信頼しており、危機状況がやってくれば彼が守てくれ
  またこの状況で彼以上の人物は見当たらない。
  しかし、Cockchaferが港に閉じ込められ、柵上の障害物を取り除かない限り、外洋に出られない
  ということを忘れてはならない。
  Cockchaferは多少とも戦争の中での寛容さに支えられているだけで、我々の状況は十分に危機的で
  呼び寄せることを拒否されている商船などの援助が必要であると確信している。
  地域社会は中国沿海の港町福州と比べて小さく、戦争の流れによっては同様の事態が起こるだろう。
  今回限りと言えるだろうか?
1884/10/25
  Duguay Trouinが停泊地をさらに北側、土塁と対向する位置に移動した。
  静かな1日だった。
  病院には20人だけが入院しており、8人は通常の患者(村人・外国人)と12人の負傷兵。
  入院した負傷兵100人のうち20人は亡くなり、8人は簡単な治療で戻った。
  基隆では2000人のフランス兵がいるらしい。
  外人住居はフランス軍が使っているが、戦争後に使用料が払われると理解している。
  別の問題が一昨日から今日にかけて起こった。
  一人のChinaman(どうも大陸本土人ではなく台湾人を指すようだ)が町のどこでも見つけられる不発弾を
  開けようとして爆発し、頭と片足を吹き飛ばし、胴体は無残にズタズタになった。
  若い外国人が同様に不発弾で実験することを防止することになった。
  もっと興味深い話題が今日あった。
  あるChinese(どうも台湾人ではなく清人を指すらしい)がフランス人と情報をやりとりをずっとしていて
  その疑いがここ数日に在住外国人が持ちはじめた、という噂である。
  清の孫将軍の部下が非常に疑わしい容疑で2人のChineseを捕らえ
  持ち物から外国の手紙・お金それに丸い継ぎ当てされたフランス国旗が見つかったと。
  旗は清の反逆者が信号や上陸時の兵への案内としてしばしば用いるものと考えられている。
  捕まった男達は牢に入れられ、後に滬尾人のTan Akoonを巻き込むことになる。
  Tan Akoonの家はフランス軍艦の停泊する浜から数百mしか離れていない。
  Tanは15年くらい前に外国人の雇用を首になり、それ以来裕福な清人の役宅の管理や通訳をしていた。
  数日前に彼は外国人商館に呼ばれていた。この商館はある富裕清人が明白な証拠を持っていると。
  それは商館長がフランスと組んでおり、商館に雇われた買弁やその他の雇人も同様だという証拠であった。
  大稻土呈と滬尾では何か話し合われたが、認めることのできない嘘の報告が野火のように広まり
  より深刻な事態をもたらした。
  しかしながら、事態は領事の手にゆだねられ(外国人である領事になぜ?)
  これ以上の説明はなされないだろう。というのは、報告の書き手は一方的に疑われているだけで
  その清人雇人も同様であったから。
  Tan Akoon問題の進展はより深刻になるかもしれない。
  今夕、Akoonは大稻土呈で富裕清人により捕まった。
1884/10/26
  Akoonは兵によって河を下った。その前に拷問を受けたと言われている。
  彼は反逆者として処刑され、首は孫将軍官邸前のポールに挿され一般への警告とされた。
  小型のフランス砲艦が他の艦隊の北側に現れた。
  大したことは起こらなかったが、大稻土呈で騒乱が起きて清兵または警官が1人死亡した。
  他の数人と一緒に1人のChinamanを捕まえようとしていたのだ。容疑はフランスとの結託。
  「疑い」は明白になった。
1884/10/27
  今朝の噂は、8隻が安平(台南)沖合いに現れ、砦と開戦したというものだ。
  だがどちらの砲弾も届かなかったと。
  この噂は台湾府から陸路伝わってきた。
1884/10/28
  好天が続いている。1つの雲も見えない。例年よりも暖かい。
  正午には80度F  1週間前は70度Fだった。
  港外の小型砲艦はLynxと思われる。(465t フランス・シェルブールで進水)
  26日に大稻土呈で刺した容疑者は捕まり、滬尾に連行されてきた。
1884/10/29
  今朝フランス砲艦1隻が港前を通過し、夕方5時に別の船が港に近づこうとした。
  艦籍を示す番号はまりに桁が多く記録できなかった。
  ある時見た艦は英国艦と思ったが、結局あとでフランス艦とわかったことがあった。
  我々は現状に病的になっているようだ。
1884/10/30
  重大なことは起こっていない。
  偉大な劉銘伝将軍は滬尾の英雄孫将軍を訪問し、また河を上って帰った、と我々は信じる。
劉銘伝  孫開華
    (Doddはこの2人に偉大・英雄という称号をつけており、彼の思いが読み取れる)
  ここ(滬尾か淡水)の行政官事務所の要求は外国商館の買弁案件に対して出されたが
  買弁を呼び出すことはこれまでなかった。
  役人の行動は不可思議で、9日たっても外国人とその反逆者である雇人の扱いは決まっていない。
1884/10/31
  好天が続いている。朝9時にWillarsと思われるフランス艦が港に近づこうとしたが
  11時には南方に向かった。
  外洋には良い風があり、Willarsは満帆にしており、完璧な絵のようだった。
  この1ヶ月は何ということか、どれだけ多くの事が起こったことか!
  フランス軍はこれから作戦を早めるのか?我々はこれからどうなるのか?
  これらの疑問はたいていの人の頭を悩ませるだけで、侵略者の脳味噌に何が浮かぶか
  問題状況で役人がどう考えるか、それらは我々にミステリーを残すだけである。
  我々にできることは、来月には運命は良くなると期待することだ。
  今では「大英帝国は波濤を越えて」を力強く歌うことがない。
  時が移ればマナーも変わる、Thanks to the Grand Old Man!
1884/11/1
  晴天は終わった。多くの噂が南のほうから来た。
  フランス艦隊はよく動き、1,2隻が南からやってきた。多分安平からの増援だろう。
  外国人社会に病気が流行している。1,2例の砲撃肝炎とその他は熱病である。
  野営している清兵は病院にやってきてキニーネを求める。多くの兵が死につつあり
  事実、毎日いくつかの葬儀が行われている。
1884/11/2
  台湾では月齢によってなにかの行事を決めることがある。
  高潮はフランス軍が上陸のに適しており
      以下は意味不明 降参です。
  and Chinese who ar&ever ready toprognosticate give
  out authoritatively that "Francy man must begin fightee
  tomollow ; have got good water."

1884/11/3
  VipereかLynxがDuguayTrouinの北側に停泊していた小型船が今朝南方に向かった。
  美しい静かな日で、まだ何も起こっていない。
  基隆からの報告では、基隆渓谷rapidsを望むLiang-kahとWan Wanの高台に機関砲が据えられた。
  昨日の昼間に同地で清兵の攻撃があり、200人の兵で砦は落ちたと。
  残ったフランス兵は戦いを中止した。
  1,2隻のジャンクが淡水の外側にやってきた。噂は飛び交い、止むことがない。
  日没時にGalissoniereらしき船が淡水の外側に到着した。
1884/11/4
  Massagerie社の蒸気船によく似た長い船が午前6:30に柵外に到着した。
  さらに2,3隻の蒸気船が港の北にいるらしい。
  フランスの郵便船はやってきて2時間で基隆に向け出発した。
  午前11:00に清の燈台守船Feihooらしき船が清旗の上にフランス旗を掲げて、フランス艦のほうに行った。
  Galissoniereの横に行ってからDuguayTrouinと共に基隆に向かった。
  基隆からは1隻の砲艦がやってきた。
  今朝、1隻のジャンクが柵のすぐ外でGalissonierの蒸気ランチに拿捕された。
  大変暑い日で、夏のようだった。
  北東風は吹かず、雨も降らない。
  兵隊達(どちらの軍か不明)は熱にグッタリし、数人の在住者も倒れた。
  外部との通信が途絶しており、新聞も古い情報しかない。
  封鎖状態の退屈に何かをもらすことしかない。
1884/11/5
  この年で一番暑い日。
  港外にはGalissoniereだけがいる。
  基隆での戦闘のニュースはだいたい正しいらしい。
  数人の負傷者が逃げ出してきて語ったのだ。
  清側からの報告では、清がフランスを打ち破ったと。
  陸路、高雄からの伝令はアモイから27日までのものを持ってきたが、安平城(台南)の戦闘報告はなかった。
1884/11/6
  名称不明な別のフランス艦が来て、河口に停泊し、北に移動した。
  現在は4隻のフランス艦が見える。
  北東風が吹き、海のほうに黒雲が集まっている。
1884/11/8
  再び天候は晴れ。 強い陸風が吹いている。
  税関職員のMr.Currieは午前11:00に死亡した。数日前から下痢と肝臓の衰弱をしており、肝臓腫瘍で死亡。
1884/11/9
  暖かい朝だが曇っている。
  Mr.Currieの葬儀は墓地で10:30に行われた。
       (馬諧病院の山側にある外国人墓地で、99話で紹介した墓地案内に)
        彼の墓石の場所が示されています。
            氏名  Neil Currie
            墓碑銘 Sacred to the memory of Neil Currie.
                Age 23 years. Died 8th Nov 1884 at Tamsui.
                A native of Glasgow, Scotland.
        Doddと同じスコットランド人です。)
  午後になると冷たく強い北東風が吹きだし、気温は7度も下がった。
  1隻のフランス軍艦が南のほうへ出航した、Villarsと思われる。
  礼砲が鳴ったので提督が乗っているのであろう。(LespesかCourbetか不明)
1884/11/10
  風は非常に強いが雨は降っていない。
  気温は68度F、暖をとるほど寒い。
  フランス艦は重々しい音を響かせている。(砲撃とは言っていない)
  清人の葬儀は毎日ある。(多分兵隊)
  特に兵隊の間で熱病が大流行している。
  大きなフランス軍艦が他のフランス艦の脇を通って南方に行き、Triomphanteが到着してGallisoniereの南側に停泊した。
  午後5:00 Gallisoniereは領事あての手紙あるいは小包があると知らせてきたので、返事は「ありがとう」。
  この小さなニュースは興奮をもたらした。
  どんな船も出て行けないので、その船(Gallisoniere)に郵便があるとか、あるけれども受け取れないとか
  いろんな考えがわきおこり、ある若い修道士は妻からの手紙を期待して一晩眠れなかった。
1884/11/11
  北東の風が吹き、封鎖は続き、フランス艦は音を響かせている。
  午後1:00 2隻の小型船がGalissoniereとDuguayTrouinに近く停泊した。
  3:00に税関の舟が柵を超えて提督の艦に乗艦したのち郵便袋を持ち帰った。
  何ということか。古き良き帆船時代にもなかったことで、5,6週間以上も手紙や商品なしの生活で
  これは興奮することだった。
  修道士は1時間以上も閉じこもり、再び現れたときにはその若い顔に笑みを浮かべていた。
  夕刻にはGalissoniereと別の艦はどこかへ出航した。
1884/11/12
  再び暖かい日が戻り、気圧は下がり、気温は上昇した。昼には74度までなった。
  今朝はGalissoniereとDuguayTrouinの2隻がいた。
  我々は基隆で何が起こっているか全くわからない。
  清の伝令はフランス軍の防衛線を突破することができないでいる。
1884/11/13
  今日も晴れで暖かい。何も起こらない。
  だれもがこの状態に不平を言っている。
  清人の葬儀は毎日途切れることがない。
  清人は外国人ほどには天候の日々変わることを気にしないようだ。
  清人が病気になると1日か2日で死ぬことが多い。
1884/11/14
  晴れてはいるが寒い。北東の冷たい風が吹いている。
  この変化はきまぐれのようだ。
  柵の外の2隻はDuguay TrouinとChateau Renaudであるらしい。
  フランス艦の動きは毎日ある。
1884/11/15
  今日は暖かい。昨日とは大きな違いだ。
  外にはDuguay Trouinの1隻だけがいる。
  毎日が同じで、恐ろしく単調な日々が続く。
  出来事は記録するほどのこともない。
  タバコと酒は残り少なくなってきた。数本のウイスキーだけ。
  ワイン・ビール・シェリーは過去のものとなった。
  シガーや蒸留酒を持つ者は出し惜しみしている。
  たとえ1ダースの蒸留酒を持っていても1本しかないと言う。
  1本の酒瓶の話からは未亡人の壷の話を思い出す。
  最後の瓶が空になった時、この国で唯一安全な飲み物である茶に切り替えざるを得ないが
  毎日鶏?を洗うには茶は適さない。(翻訳しながらマッタク理解できませんです)
     When we really arrive at the bottom of of the last bottle
     we shall be reduced to tea, the only safe beverage of the country,
     but not the best stuff to wash to toujours fowl of the country down with.