105.烏龍茶の父J.Doddが見た淡水攻撃 その3
フランス軍上陸(10月7日)から撃退(10月17日)まで
フランス軍上陸と撃退
1884/10/7
今日は甲板掃除の日のように見えるが、Galissoniereや他の艦では準備が続いている。
いろいろな艦から数隻のボートが出て、発砲はないものの、淡水の陥落は砂丘の方角から来ると考えられる。
河口の北側にいる艦隊はできるだけ海岸に近く停泊しており、提督旗はGalissoniereから一時的に別の艦に移された。
北方から数発の砲声があった以外は何も起こらない。
想像できるのは、我々が2度目の砲撃の直前にいて、そのあと兵隊が上陸してくる、というものだ。
1884/10/8
朝8:00に双眼鏡で見ると艦隊の間でいろいろな活動の兆候が見える。
1時間たって9:00の朝食に座った時に、どの艦からも発砲が始まり、5日間の休息の後、嵐の日が始まった。
暗い色の輸送船が見え、長い間緊張していた我々は、フランス軍が全力を出す一日がやってきて
夕方には淡水は占領され、至る所に野営していた多数の清兵は港境界を越えてくるものと思われた。
淡水砲撃を受けて、清兵や盗賊の攻撃を受けず、あるいはヨーロッパ人を尊敬することをしないアルジェリア人や
安南人のようなのに遭遇することがなければ、戦いの最後の日の夜までには、三色旗のもと
あるいは急ぎ設立された政府の旗のもと、我々が安全であることがわかるだろう。
(よっぽど清の敗残兵や盗賊が怖いのです)
(要するに英国人にとっては主が清でも仏でもかまわないということか?)
ああ、我々の運は尽きており、長年静かに生活と商売をしてきても、フランスが勝ち
多くの在住者はフランスの武力に勝利が来ることを期待している。
同時に、我々は清の将軍Soon孫を信頼しており、勝っても負けても彼は誇り高く生きると思う。
(将軍はいいが、兵隊はクズだと?)
古くからの兵が基隆に移っても、Soon孫将軍は1874年の日本との戦争以来率いている兵から愛されてきた。
(南台湾での牡丹社事件を指す)
彼の影響力はここ全ての兵に浸透しており、だからここ数ヶ月の安全は彼に負うと考えている。
彼は優しく、外国人とも友好的で、外国の食物・酒を好み、特にシャンペンとコカコーラが好きだった。
(コカコーラができたのは1885年。なので、この記述には疑問がわきます)
(孫将軍が飲んでいたのはCocaColaなのか?別メーカーが同名で先に売っていたのか?)
(CocaColaの商標登録は1886で、その元となったVin Marianiは1863年に売り出されている)
孫将軍は昨夜清人の友人に出かけた。その友人は彼が将軍をやめないと死ぬことになると言ってきたのだ。
将軍の予定では、フランス軍が砲撃するまで、部下をあちこちに分散させておくというものだった。
砲撃が始まれば、兵隊に反撃を命じるのだ。
9:00をすこし過ぎてフランス軍は重砲による砲撃を開始し、2度目の砲撃より少ないがそれでも外国人にとって危険だった。
最初はフランスの目標がどこであるのかわからなかった。
VipereとGalissoniereの砲撃は主に白砦と土塁の近くを狙っており、兵の上陸は砦の北側を計画しているようだった。
土塁を占領し、機雷を爆破すれば、Vipereは防護柵を超えて港に入るに違いない。
Vipereの砲は孫将軍の司令部や多くの野営地を狙える位置に来ることができる。
(外海からは狙えない)
フランス軍は黒い信号標識(丘か?)の北側に上陸し、砂丘の麓に到達した。
そこは赤砦や街の高い場所からでも見ることができない。
GalissoniereとVipereから次々と発砲され、砲声からすると多分港の北側に停泊しているらしい。
9:30を過ぎて、重いマスケット銃のような音が聞こえたが、これは上陸兵を援護するマシンガンと思われる。
激しい戦闘は砂丘で行われ、フランス軍の前にはいつも清の旗を期待していた。
10:00に艦隊からの砲撃は赤砦で特に激しくなった。
Boteler艦長・英領事・税関長などは自分の場所を早々に赤砦に移していた。
赤砦はオランダのレンガ造で、壁の厚さは7〜8フィート(2m以上)もあった。
数発は砦に落下し、他は女学校の施設を粉塵に変えた。
11:00にはVipereは大砲とマシンガンを前方に向け、猛烈に発砲した。
(当時のマシンガンは多銃身で現在のバルカン砲)
Galissoniereのものとわかる砲撃とマシンガンの銃撃の間、我々は戦争の誤解のしようのない姿を見せ付けられた。
砲弾は外国人施設の至る所で破裂し、どの建物も無事ではなかった。
これを絵にすると、赤砦に砲弾が激しく着弾したが、砦にはさしてダメージを与えることはなく
監房や厨房を粉みじんにしたが、人的被害はなかった。
疑いもなく、これはヘタクソな砲撃だった。
砦内の人間は、厚い壁に囲まれているのに、上陸や会戦を観察する冒険者の立場にいるとさえ感じていた。
滬尾からは、我々は女学校付近に次々と落下する砲弾が見え、そのいくつかは近くに野営していた兵のテントに当たった。
多数の砲弾は村にも着弾し大騒ぎとなったが、ここには清兵の姿はなかった。
12:00になったが、なお砲弾は滬尾の市場に落ち、寺の壁を打ち壊し、レンガの破片が不運な老女の足にあたった。
Ccokchaferの"sick boy man"(何て訳す?)が彼女に応急手当で包帯を巻いたが、Browne医師はすでに病院で
次々と運び込まれる清の負傷兵を診てきたので、彼女には注意を払うことはなかった。
北方への砲撃が雷鳴のように聞こえ、Galissoniereの砲撃は短時間に成功しつつあった。
危険な着弾圏は2度目の砲撃より凄まじかったが、外国人の住む場所に落ちることは稀だった。
赤砦や教会施設での激しさに加えて、今回は外国人の安全性は不確かであった。
1人の青ジャケット(領事館の兵隊)が赤砦から教会施設に派遣されたが、その途中で至近弾が落ちた。
別の砲弾は税関職員住宅の壁に当たって痕跡を残した。
Lapraikの前の泥地には膨大な数が落ち、またある砲弾はテニスコートに埋まった。
誤射弾が病院すぐ近くの住宅に落ち、別の砲弾はAssoon倉庫の近くの道路に着弾した。
鼻仔頭に近く河の上流でも、砲弾は危険なくらい近くで爆発し、続けて落ちた2発の砲弾は見物していた農夫達を吹き飛ばした。
これらの事が起こっている間、(以下4行の内容が場違いなようで理解できません。降参)
Whilst all this was passing, men's mind were undergoing a variety of excercise;
the good and true qualities of some rose to the surface, and the eccentric and curious
traits of others wer developed to an absurd degree.
(英国の詩か戯曲からの引用ではないかと想像するのですが)
しかしながら、ほとんどの場所では非道徳化(暴行・略奪など)は見られなかった一方
あちこちで心が揺れる事態があってもCockchafer上の士官は冷静であった。
この日の記述は3ページにも及ぶ
・・・ 疲れたので省略・・・
1884/10/10
フランス艦どうしで信号がたくさんやりとりされ、全ての艦は半旗を掲げた。
夜の間に艦内で死者が出たらしい。
病院の清兵は2人の士官が包帯で腕を吊っているのを見たと報告している。
(清の砲撃か、艦内事故か?)
多分輸送船と思われる1隻が数時間海に出て、それから戻ってきた。
昨日までは砲弾と心配の種ばかりを探していた。
1週間以上もずっと海の方を緊張しながら英国軍艦が姿を現すのを待っていた。
MerlinとLinnetはフランス艦を訪問したが、来たときと同様にすぐさま消えた。
我々全員は非常にまずい状況にあるのは間違いなく、滬尾をフランス軍が取ると
戦いは我々のど真ん中でおこり、そのとき我々は何ができるか難しいことになってしまう。
英国領事館の近くの家は危険であることが分かっており、教会の2家族・領事・税関長・その他5,6人は
現在D.Lapraik & Co.の建物で暮らしており、護衛に10人の青ジャケットと士官1人がいる。
鼻仔頭のDodd & Co.では2人の女性と数人の男性およびCockchaferの水兵5人がいる。
税関職員はボートにいるらしい。
もし我々全員がCockchaferに乗らなければならないときは、住むスペースは限られてくる。
Fokkienが到着すれば女性はそれに乗ることにしている。
砲撃の間はどの家も危険であり、街が占領されれば、女性が避難するのは適切である。
数隻のボートがフランス艦から下ろされ、淡水の北のほうへ行った。
今日、多数が上陸するものと思われる。
Vipereは1点のまわりを廻っている。
機銃の発砲するのが聞こえたが、砲撃は聞こえない。
フランス軍が何をしているか謎である。
多分Mason湾のKimpaoli付近に上陸するものと思われた。
(瑪錬か?)
砂丘の沖に停泊していた1,2隻の艦がさらに北に移動した、多分基隆へ。
Galissoniereは以前の場所に留まっている。
基隆奪回のニュースは間違いだった。
6000人の兵とともに劉銘傳はBanca(萬華)平野の台北府にいるらしい。
フランス軍は基隆だけでなく、基隆から2時間、台北府から5時間の地まで占領している。
今日は戦闘はなかった。120人以上が病院に運びこまれ、11人は死亡、2人は危篤。
病院には現在55人が入院しており、2人の医師は大変忙しい。
清人(清兵とは言っていない)はその業務遂行に極めてすばらしい。
兵隊のいくらかは信頼がおけず、医師は病院内でも武器を持たねばならない。
1884/10/11
防護柵の外側で行われている船積は静かに行われている。
一日中砲声は聞こえなかった。
次の通知が出された。
淡水 10月14日
英国民が岸に所有する財産の管理は自身で十分に行うよう薦める。
フランス軍が上陸する日には目録に記載reviseすれば、領事が安全に保管する。
Frater 英国領事
Fokienが到着し女性たちはこの船で離れる準備を始めた。
今日は何も変わったことは起きていない。
清兵は毎日pouring(酒を飲む?)しており、6000人くらいが近くにいる。
もっと多くのHillmen(客家人)が雇われている。
私は負傷者にhillmenを見たことはない。
数人のフランス人の首をBanca萬華への道で見たとの報告を受けている。
今や、大稻土呈への道は安全でなくなった。
1884/10/12
Hailoongの到着はFokienの出発3:30の直前だと注意された。
フランス士官がこれまでと同様にHailoonに乗船したが、臨検はあまり厳しくはなかった。
何も起こらない一日だった。
フランス軍が何をしているのか不明でだが、ここ淡水と基隆の間のどこかで塹壕を掘っているのは間違いない。
午後には砲声がたまに聞こえたが、大稻土呈の商館は無事だった。
裕福な人は破壊を逃れるのに苦労していた。
長老教会のチャペルを守るため資金を払おうとしていた。
日本のスループ天城、艦長東郷平八郎、は今まで戦争を観察し、今日アモイに向け出航した。
1884/10/13
今朝は静か。フランス艦は甲板掃除の一日か。
Vipereは基隆に廻ったようである。(Lespes提督は旗艦Bayardに乗り基隆にいる)
防護柵の外側に残る艦は、河口にGalissoniere、北に沿ってChateauRenaud、DugnayTrouin、Triomphante、さらに視界外にD'Estaing。
(フランスが作った地図での順序と違う。入れ替わりがあったらしい)
基隆奪回の話はつくり話だった。
1884/10/14
Hailoongは昼に出航した。
今日は大したことは起こっていない。
フランス軍はHailoongが出航した後で砲撃を開始し上陸すると清は考えている。
負傷者は病院に大勢いる。
顎を砕かれた兵や他の重傷者も医師達の手当てを受けると、感謝の印に持っているだけのお金を差し出した。
もちろん、それは辞退されたが。
清人が感謝をあらわすのに、乏しくて貴重なものを提供するこのことを記録にとどめるべきである。
突然天候が変わったのは、Hailoongが出航を予定していた昼であった。
思いもかけない強い北東の風が吹き、ほんの1時間のうちに、防護柵に行ったボートが戻ってきて
天候はどんどん悪くなった。
Hailoongは信号も出さず、潮に乗って出航してしまった。アモイのMr.Nichollsを川岸に残し、彼の荷物は船の上。
フランス艦は碇を揚げ、危険なほど互いに近づいた。(戦術的に意味あるか?)
ChateauRenaudはHailoongの南に付き、Triomphanteははるか南方に移動した。
北東からのスコールは視界を閉ざし、午後から夜まで降り続いた。
1884/10/15
風は吹いていたが、嵐は止み、天気は回復するらしい。
防護柵を壊す者が入り口の上におり、石を満載して沈めたジャンクはゆり動かされ
巨大なローラーでその上を転がせば破壊されてしまうだろう。
TriomphanteとVipereは一晩中やていた。
DuguayTrouin・ChateauRenaud・Galissoniereは今朝はかなたに小さく見えた。
1884/10/16
Triomphanteはサイゴンに行ってしまったらしい。
Vipereはアモイに行くらしい。
ChateauRenaudは今日は姿を消し、GalissoniereとDuguayTrouinだけが港に残った。
今日は雨は降らず、風も強くない。
昨日の嵐の間、清は白砦から8時に上陸したフランス軍を見下ろせる位置に大砲を移動した。
上陸地点での準備が行われているが、清の戦術情報を漏らすのに中立的な個人individualにとってはこれは適切ではない。
(訳してはみたが、意味不明。 だったら訳すなよ)
どれだけ障害がたくさんあっても打ち勝つことはできる、もしフランス軍が8時の時と同じくらい強力な上陸隊で
追加の予備隊を続けて上陸させ、軽い野砲も持っていき・・・そうすれば8時のような敗退はしないだろうと思った。
それでも、味方艦隊からの砲撃下で上陸隊の安全を確保するには塹壕を掘り土塁を築く必要があった。
しかしこれらは実際には行われなかった such ideas are not "events"
我々は次の行動を待たねばならなかったが、実行されることはなかった。
1884/10/17
比較的穏やかな日である。 フランス軍は活動していない。
Hillmen(客家人)がさらに到着した。
こういう臨時の傭兵は近隣には非常に危険であり、彼らは上官とは違う言語を話すが、清本土の兵隊northern soldiersには会話できなかった。
(劉銘傳は福建の人で士官の多くは彼が連れてきたので、客家とは福建語で話せた)
戦闘が再開するとき、兵隊は何を求められているか理解できなかったと思う。
略奪が始まれば、兵隊は孫将軍の命令など聞かないと我々は確信している。
彼らは法律がなくて良いくらい強力で、命令違反や不服従で罰せられるとは思っていない。
砂丘近くに野営している兵隊は十分に武装しており、ほとんどは北の兵隊であった。
悪賢いHillmenは原始的な武器だが、勇敢で戦うことにためらいはなかった。
彼らの持つ火縄銃は銃身が長く、半円形断面の銃床と火皿がつき、藤の紐で右腕に巻きつけていた。
火薬を銃口から詰め、長い鉄棒で2,3度突き固めるが綿棒は使わない。
火皿に火薬を入れ、火縄の長さを調節して火皿にうまく当たるようにする。
引き金を引くと火縄が皿に落ち、発砲する。
晴れた日はよいのだが、雨では難しくなる。
(なぜだかDoddはHillmenの火縄銃の説明をしている)
(この時代ではすでに火縄銃は歴史的遺物になっていたことを意味する)
・・・ 封鎖 ・・・に続く