104.烏龍茶の父J.Doddが見た淡水攻撃 その2
          淡水砲撃(10月2日)からフランス軍上陸まで(10月7日)まで
戦争経過の真実を突き止めるのが目的ではないので、被害者である茶商Doddの日記のみを読んでいます。
清軍やフランス軍の報告書、あるいは米国領事の報告書、さらにはDoddが代理人として報告したであろうJardin Masethonの社内書類
それらを付き合わせるのが歴史家の仕事であ〜りますが
僕はそんなメンドーな事はごめんなさい。


ついでながら、たまたま見つけた海軍資料で、1884年4月21日にようやく軍艦海門が工廠から海軍に引き渡されました。
その後もいろいろな修理を行っており、清法戦争では何の役にも立っていません。


淡水砲撃
1884/10/2
  昨日の朝、河から知らせが届き、2隻のフランス装甲艦が柵の外にいると。
  このことは領事Fraterの手紙でも確認されている。
  これに対して大稻土呈の5人の外人のうち4人が署名した返事をよこした。
  No.3通知(本書に添付なし)は我々の連名手紙に対する領事の返書であったが、2日の朝ようやく届いた。
           (我々の連名手紙our joint letterという表現に、Doddの立場がわかる)
  11時まで返事がなかったので、我々は港から避難することを決めた。滬尾は砲撃されれば安全ではないから。
  大稻土呈で受領されたNo.4通知は我々の決断以上の内容であった。
  財宝・アヘン・茶などはできる限り速やかに船に積むが、多くの財産は大稻土呈に残したままとなる。
  外国商館は買弁(調べてみてください)と傭兵にまかせ、裕福な清人は各商館に兵を増やす約束をしてくれた。
  夜11:00に我々は滬尾を離れ、1〜2時ころに到着した。
  作戦が始まる前に5〜6時間眠ることを祈った。
  驚いたことに、清はフランス艦への砲撃を朝6:40分に開始し、フランス艦は数分後に反撃した。
  どの艦もWhite Fort白砦とこの2ヶ月で作られた新しい土塁(下図のFort Neuf)を狙っていた。
  新しい土塁には4,5門のクルップ砲が据え付けられていた。
  清人も外国人も、2つの砦はフランス軍によって30分以内に破壊されると予想していた。
  そして数時間のうちに淡水は占領されるだろうと。
  砲撃の内容を説明する前に、港口と砦と艦隊の配置を説明しておこう。
    (次の地図はフランスが後に作ったもので、Doddの説明と比較するため紹介)

    港口の南側には長い砂浜があり、河のさらに南は最高500mの丘になる。
    淡水河の南側では戦いは起こらなかったのでこれ以上の説明はしない。
    防護柵を越え、河の北側には平たい浜と黒い航路標識があり、白砦の奥の丘の上に土塁がある。
         (地図の防護柵の位置と説明が食い違う)
    海側から追って説明すると
    砦の後ろの丘には野営テントがある。最高1000mの丘の中腹でフランス軍から見えない場所に。
                (1000mはかなり奥の山のことで、このあたりはなだらかな丘が続く)
    さらに白砦を過ぎ、税関標識があり、水先人の村(Mackayの説明では漁村)が見える。
    ここからは外国人の作った道路が延び、800mくらいで税関があり、その奥に元オランダ砦、現在の英国領事館がある。
    赤砦(領事館)の横には領事公邸が並ぶ。
    下の道路を進み、泥の貧民街を抜けるとバニヤン樹が並び、D.Lapraik & Co.の商館がある。
    Lapraikの上、領事館と同じ高さで2つの伝道会の建物群が並ぶ。
    どの建物にも英国旗が上がっている。
    Lapraikを過ぎると Tate & Co.の商館があり、海館と軍事館の後ろには
    ドイツ旗のあがった医者宅と英国旗のあがった病院がある。
    そこからようやく町に入る。
    町から1.6km離れた終わりで、河に面した斜面の高台にDodd & Co.のバンガローと倉庫がある。
               (Cassが土地を購入するのは1894年なのでこの時点ではまだない)
    このあたりは鼻仔頭と呼ばれている。
  住民全員がこれから起こることを考え、自分が砲撃の観衆になると予想していた。
  柵の外には土塁を臨む位置にTriomphanteが見え、離れてGalissoniereが鼻仔頭からもかすかに見えた。
  その次にはDuguay Trouinがいて、Vipereは戦いの最初はTriomphanteの近く海岸ぎわにいた。
                   (地図では河口に描かれている)
  合計4隻であった。 (地図には7隻みえる)
  フランス軍から清に砲撃予告があったとは我々は信じていない。
  砲撃は2門の発砲から始まった。1発はTriomphanteを越えていった。
  数分のうちに、以前説明したごとく、4艦は"槌と梃"作戦を急いだ。
                   (2方向からの挟み撃ちと思われるが不明)
  砲撃音はすさまじく、どの家も震えて天井の漆喰が落ちるほどだった。
  艦隊から3マイル離れた鼻仔頭でも同様に感じられた。
  英国砲艦Cockchafer,艦長Boteler,はLapraik & Coの向かい側にあり、岸壁の財産や人命を守るため
  10人の水兵を出した。
  Dodd & Co.は茶葉などの財産をLapraik前の倉庫に移動するには時間がなかったし、鼻仔頭は離れていた。
  61人の雇い人から18人を選んで岸壁作業に振り向けた。
  最初の砲撃で砲弾は白砦と土塁や野営に飛ぶように見えたが、やがて、それらが無事であることがわかり
  7:30から9:00の間で白砦から鼻仔頭にかけて安全な場所はなくなった。
  その間、GalissoniereとTriomphanteの舷側から砲声は止まなった。
  砲撃が砦や兵を狙う内は問題はなかったが、開始して30分もたつと空気を震わして音が聞こえ
  外国人街の隣に弾着するのが見え、いくつかは英国砲艦近くに落ちた。
  発砲が始まると丘の上で見ていた女性達は自分の家ではなくLapraikの方へ逃げた。
              (Lapraik & Co.の向かいには砲艦Cockchaferがいた)
  それは危険な道のりで、砲弾が落ちてきて、爆発するのが見え、何かが跳ね飛んでいた。
  女性達に1発も命中しなかったのはすばらしいことだった。
              (perfectly wonderful と表現)
  Lapraikに着くとTriomphanteからの砲撃は他の2隻の砲撃と交差しているように見える。
  たくさんの砲弾が軌跡を見せ、いくつかは土塁の丘に落ち、外人宅の近くに跳ねた。
  最後に1発が赤砦(英国領事館)の後ろ側に落ち、領事事務室から50mくらいの庭に埋まった。
  他の1発はMr.Jamiesen宅の屋根を貫通し、またあるものは女学校の屋根に穴をあけた。
  Dr.Mackayの庭にはたくさん落ちた。
  この間、Lapraikとその前の砲艦は騒然hot quarterとなった。
  いくつかの砲弾はLapraikと砲艦の間に落ち、1発はLapraikの建物に命中した。
  鼻仔頭の隣の丘では農民がいて、GalissoniereかTriomphanteの砲撃にさらされていた。
  発射の砲声・砲弾が空気を切る音は気持ちのいいものではなく、4マイルかなたから飛んできて
  あるものは右側に、あるものは左側に、またあるものは前に着弾した。
  我々の建物は遠くからは砦に見えたと思っていた。
  数発は旗から100ヤードも離れておらず、数発は桟橋隅の荷船近くに落ちた。
     (この文章からDoddの屋敷には桟橋と旗竿があったことがわかる)
  朝8:00に小船で砲艦に行きそこで何が起こっているか見に行くことにした。
  砲艦に近づくと税関近くに砲弾が落ちるのが見え、砲艦に沿って進むと砲弾の破片がLapraik桟橋近くに落ちた。
  砲艦のまわりにいた30分で数発が右舷近くに落ちた。
  我々が鼻仔頭に戻る途中で街の後の丘や鼻仔頭近くに何発も次から次に落ちるのが見えた。
  鼻仔頭の農民は町よりも安全と思っていたが、ある者は「鍛冶屋に売り飛ばされたようだ」と述懐する。
  不発弾の中を見たいと思った男がその好奇心を満たそうとして死んだのを見た、という報告もある。
  鼻仔頭に到着すると砲艦は潮に乗ってゆっくりと河を上がってくるのに気が付いた。
  Boteler艦長はLapraik前の女性達は河を1マイル以上遡れば安全と考え、彼女達を甲板に乗せたが
  それはフライパンから火の中に飛び込むように見えた。
  砲弾は砲艦の周り中に落ちていた。
  女性達は最初は艦橋にいたが、1発がほんの数ヤードに落ちると艦が押しやられた。
  砲艦はゆっくり進み、フランス艦は正確に狙っているようだった。進んだ直前の位置に着弾していた。
  それは砲艦が鼻仔頭に着くまで続いた。
  あるときは艦から遠く、次には近く着弾し、砲艦は普段停泊する位置から遠く遡った。
  ようやく危険から離れたが、まだ1時間程度の潮があるので、後に400〜500ヤード戻ってしまい
  再び射程内に入るので、彼女達を鼻仔頭に上陸させた。
  10時をまわってから砲撃はまばらになり、白砦は破壊され土塁の砲兵はそこが余りに暑く10:00には
  射撃をやめたものと思われる。
  土塁は他よりも安全に見え、砲弾が来れば塹壕に飛び込むことができた。
  砦から誰かが乗り出せば即座に砲撃されたが、負傷者は少なく、交代された。
  死者の数は不明だが、13時間の砲撃で20人が死傷したとは思っていない。(もっと少ない)
  負傷者のうち8人は教会病院に運び込まれ、淡水のDr.JohansenとCockchaferのDr.Browneが治療した。
  幾人かは軽傷で残りは重傷であった。
  負傷した兵だけでなく街で負傷した者も病院に運ばれ、すべて同様に治療された。
  忘れられる前に記録しておこう、この2ヶ月の間、兵も一般人も清政府から手厚く扱われ(keep well in hand)
  金持ちや軍上層ともに部下を十分コントロールしており、敵が門前にやってきて避けられない敗北になっても
  清との平和条約を結んだ国々の民を保護する義務を果たしたことを。
     I must here state, before it is forgotten, that throughout the trying
     times experienced by everyone here during the past two months,
     the soldiery and people have been kept well in hand by the authorities,
     and that both the Civil and the Military Mandarines have shown so far
     that they can control their men, and even when the enemy is at the gate
     and thier weakness has been proved, and when ultimate defeat appears
     inevitable, they can still carry out their Treaty obligations in regard
     to the protection to be afforded to nationals of countries at peace with China.
    ・・・ Doddの怒りあふれる文章は1ページ続く ・・・
  ここで、砲撃の話題に戻ろう。
  独特の砲声・頭上を越える砲弾は淡水の人々は決して忘れられないだろう。
  砲撃が4時間続き、臆病な人でも少し慣れてきて、もう昼になった。
  太陽は止まってしまい、1年も経ったように感じる。
  人々は、以前の時間がいかにゆっくりと流れていたか、今はいろんなことが次々起こる。
  砲弾は鼻仔頭に飛び交い、何度も同じ場所に落下した。
  フランス砲手は家やバンガローのある丘の麓の荷船を狙っているのは明らかだった。
  それから再び砲艦はまるで身を挺するように丘側に近く寄り、砲弾の破片が降り注いだ。
  その破片はその後ミヤゲものとして多くの人に仕事を提供することになる。
  午後1:00、我々は食卓に座った。GalissoniereやTriomphanteの砲がいくら炸裂しても
  食卓に座れば恐ろしいことも忘れてしまうし、食卓を用意してくれる2人の女性がいかに勇敢でかわいらしいか。
  彼女達は自宅からLapraikまで走り、Cockchaferに乗り、最も安全と思える場所まで3時間も砲火をくぐってきたのです。
  それでもまだ安全とはいえません。
  フランス艦は午後もバラバラに砲撃を続け、1,2マイル内には敵は見えないのにところかまわず砲撃しています。
  このような無謀な行為に彼らはどんな言い訳をするのか、何か間違っている。
  そんなときに1発が街のはずれ右側の住宅の屋根を貫き、住宅は崩壊し土煙が高く登った。
  廃墟からは老夫婦と赤ん坊1人が見つかったらしい。
  午後3〜4時に砲撃が散発になったので女性達は鼻仔頭を離れた。
  桟橋からボートまで歩く間に1発が30ヤードほどの泥の中に落ち、不発弾で、掘り出すと60〜70ポンドあった。
  このため、周り中を探し、近くから他の不発弾を見つけた。
  後日、清人は砲弾を1発2ドルで買い求め、最後には70ポンド弾で60セントになった。
  どの外国人も自分の土地から何発も掘り出した。
  午後4:00、4隻からの砲撃はほぼ終わったが、夜8:00ごろまで思い出したように撃った。
  砲撃は13時間に及んだことになる。
  朝にはVipereは位置をDuguay-Trouinの南側に移動し小船を出せるようにした、多分航路を探すためと思われる。
  Vipereは前マストに被弾し、舷側に孔があいていたと言う。損傷したのは間違いない。
  経験した最も長い一日はついに終わった。
  これまで誰も見たことがない非情な砲撃を眺めて誰もが1日中太陽に晒され疲れはてていた。
  どんなことが起こったか詳細はわからないし、商館にどのような影響を与えたかもわからない。
  Lapraikから日を追って出来事を見ることが重要で、旧オランダ砦の城壁の内側からこの一日を見た目撃者を
  得ることは大変興味深い。(Doddは領事館にいたのか?)
  この場所以上のよい観察地はないだろう。
  数日前に劉銘傳司令官がDr.BrowneとDr.Johansenが基龍での負傷兵を治療してくれたことに感謝し
  病院業務は公式に認める旨の連絡をもらった。

1884/10/3
  基隆のニュースから始めると、この前の戦闘でフランス軍は2度上陸し、(港を)取り戻したが、
  1回目で、多数の清兵を殺し、中には2名の司令官も含まれ、多数の広東兵を捕虜にした。
                                  (劉銘傳が連れてきたと思われる)
  劉銘傳は退却命令を出し、軍は淡水や大稻土呈に通じる谷間めざし丘を一目散に越えた。
  フランス軍はLiang Kahを過ぎてChit Tawと呼ばれる村まで追撃した。
  基隆市は一時的に荒れ(略奪され)ていると報告されている。
  大稻土呈からの最新の知らせでは、劉銘傳はBancaに1000人の兵を送り、資産を奪って新しい町を作ろうとした。
  しかしBancaの人々は立ち上がって劉銘傳を止め、逆に彼を寺院に閉じ込めた。
     (この時点のことではなくもっと以前のことと思われるが時期不明)
  Bancaは人口40000人の町で、昔は北台湾で最も気の荒いことで知られていた。
  もし今回の危機で町が政府を屈服させることがあれば、大稻土呈は奇妙な事態になっただろう。
  なぜ、フランス軍が上陸しなかったのか、謎である。
                 (2度上陸したという記述と矛盾する)
  昨日の砲撃に対する反撃はわずかであった。
  基隆での上陸は大変な危険をはらんでいたが、淡水では300人の兵で十分に清を駆逐できると考えていた。
  Galissoniereはずっと姿を見せ、誰かが砦に姿を出せば砲撃し、鼻仔頭にも好きなだけ砲弾を落とすことができた。
  家家の後ろには清兵と山人(淡水黒旗党)がいた。
  英艦Cockchaferの水兵はそれをずっと観察しており、清兵がたった8人でも集まると解散するよう命じた。
  河岸にいる男(水兵)たちは勇敢でエジプトの英雄(一体誰?)のようだった。
  長い間船に閉じこもっていたので、彼らは河岸を楽しんでいるようだった。
  略奪者(上記文面だと清?)を追い払うのが彼らの唯一の仕事であった。
  GalissoniereとTriomphanteからの時たまの砲撃をのぞいて、本日は大きな出来事は起こっていない。
  フランス軍が上陸するものと確実視されている。
  一日中我々は緊張状態にあり、完全に落ち着いたわけではなかった。
  英艦H.M.S.Merlinが港外に現れ、Cockchaferと信号をやりとりした後、基隆の方向に消えた。
  多分ニュースを福州に持ち帰り、香港に伝えられるのであろう。
                (香港は英国出先の元締めだった)
  大したことは何も起こらず夜はふけた。

1884/10/4
  GalissoniereとDuguay-Trouinから朝に少し砲撃があり、フランス軍は何か忙しように思えたが、何も続かなかった。
  土塁は砲撃以来静かだが、兵は今も近くに居続けている。
  Soon司令官は砲撃に間ずっと兵と共にあり、砲弾が頭上を越えても木陰で食事を楽しんでいた。
  司令官の好みはフランス料理で特にシャンペンが好きだった。
  小数の兵を連れていて何かあると兵はすぐ逃げ出したが彼は悠々としており
  Soon司令官に勇気がないなどというものはいない。
  一日中、兵が町を越えてLapraikのまわりに姿を見せ、ある者は河を下ってきて、またある者は砦からやってきた。
  通りで彼らとすれ違うと、いろいろな隊の構成員で、ライフルや他の武器を持っていることがわかる。
  士官がおらず、我々が見えなくなるまで睨み続け、規律はなく、顔つきからは食欲のみが伺える。
            ( 10月2日の清軍についての記述と様変わりしている)
  私の勘違いでなければ、彼らはフランスとの戦いより略奪に向いている。
  道路に沿って歩けば、教会住宅の近くで1,2発の砲弾が地面をえぐる。
  今日、フランス艦隊は名前のわからない複数の船と合流し、
  いくらか留まった後、基隆や南の方に行った。
  提督の船とその他の船との間の通信にはボートがよく使われ、上陸が予想された。
  領事のNo.5通知はコニュニティにまわされたが、散発的な砲撃を超えるものは何もなかった。
  大半の砲弾は敵(フランスにとっての敵)には占領されていない丘に落ちた。
  淡水砲撃は火薬と砲弾をおびただしく使い、費用は膨大であった。
  4隻が1000発づつ2回、合計2000発打ち、1発5ポンドとしてそれだけの砲弾で約20人を死傷させたことになる。

1884/10/5
  フランス軍は上陸の動きを見せず、砲撃の間隔はさらに長くなり、Cockchaferをもっと鼻仔頭に近く
  移動して安全と思われた。
  日中はFokienへの荷役は、フランス艦の南におり柵のずっと外側なので認められた。
  石炭を積んだボートはフランス軍が止めたのでBoteler艦長とFrater領事がGalissoniereに乗艦抗議した。
  提督は愛想良く外国人宅が砲撃を受けたことに申し訳ないとした(謝罪したわけではない)
  石炭を積んだボートはFokienに寄るのを認められ、清軍脱走兵が乗艦するのも認めた。
  提督は次の砲撃が午後2:00になることを予告し、Cockchaferは鼻仔頭に戻った。
  ごくたまの砲撃で外人街のすぐ右に着弾することがあった。
  2隻のフランス輸送船が現れ、1隻の日本軍艦、さらに英国砲艦LinnetまたはSwiftが姿を見せた。
         (この日本艦の名前は不明)
          アジア歴史資料センターで海軍資料を探すと
          明治17年(1884)5月2日に海軍卿川村純義が太政大臣あての文書で
               清国沿海に2隻(扶桑・天城)派遣を報告していました。
          4月24日に中艦隊司令官松村淳少将は5月1日横浜出航を命令しています。
          出航前の予算は2隻x11,038円/月x4ヶ月= 44,152円
          8月13日 海軍省会計局から海軍卿西郷従道あて文書で、電信為替で送金する旨通知あった。
          8月28日 会計局から海軍卿川村あて文書で、追加派遣の磐城分の送金連絡があった。
          8月20日 西郷より中艦隊司令代理の相本大佐あてに磐城を上海に至急回艦し松村少将に指図を受けよ。
          8月20日 太政大臣三条実美から正式に命令書が出ている。
          9月26日 海軍兵学校長伊藤祐麿から川村海軍卿あて上申書で
               学生士官吉井少尉を上海で磐城に乗艦させ勉強させるよう依頼あった。
               (本スジとは離れますが、なぜそんなネジ込みをしたのか、不思議な気がします)
          11月14日 海軍卿より大蔵卿あての文書で、清国派遣費用が莫大になったので
               軍艦航海費の大科目を新たに作って会計することになった。
                    51,796円
               (建造費が50〜100万円なので、これはイタイです)
          とまあ、清法戦争にからんで3艦が派遣されたことまではわかりましたが
          淡水に現れた艦がそのどれなのかは不明です。多分、磐城ではないかと推測しますが。
          ここまで書いてあって、米国領事Davidsonの記述から本当の艦名がわかりました。
             軍艦天城  艦長東郷平八郎
          東郷は清法戦争をまじかで観察して、何かを学んだのでしょうか?

  英艦は少しの間、Triomphanteの側に留まり、Cockchaferから信号があっていつのまにか基隆に出発したようだ。
  輸送船の到着後にCockchafer艦長は領事に手紙(No.6)を書き、その手紙はコミュニティに回覧された。
  2人の女性は水兵にガードされ砲艦に近い鼻仔頭の屋敷を離れた。
  領事はなおその地位に留まり、心配な夜を過ごさねばならなかった。
  さらに、予想されるフランス軍の上陸の間、噂や手紙ではSim Tiamの教会が人々に破壊されたと伝えられた。
  後に、大稻土呈の近くの村Toa Liong-pongの教会が破壊されたと聞いた。
  The people had given out, too, that on the following day they would destroy
  the foreign houses and tea hongs at Twatutia. Comforting sort of news for all
  of us who have properies there. (この2行の意味が納得できません)
          ・・・ちょいと省略・・・

1884/10/6
  誰もが休めない夜を過ごし、しかたなく目覚める準備をしていた。
  結局、上陸はなく、皆がフランス軍の遅れに嫌な思いをしていた。
  数時間のうちに上陸が予想されるのは喜ばしいことではない。
       ・・・ちょいと省略・・・

1884/10/7
       ・・・ちょいと省略・・・