103. 烏龍茶の父J.Doddが見た淡水攻撃 その1
まずはJohn Doddが何者か紹介します。
http://blog.udn.com/ChangleStudy
スコットランド人で、1859年に香港に来て翌1860年に台湾に来るも一旦帰国。
1864年再び香港に来て、1866年来台して樟腦・茶葉市場を調査し、「寶順洋行」(Dodd & Co.)を作った。
寶順洋行ではバイヤー李春生の協力で福建省安渓から茶苗を持ち込み、農民に資金を貸してまで
茶の生産に尽力した。
1867年には怡和洋行(Jardine, Matheson & Co.)代理商となる。
1867-1868年の舟孟舟甲租屋事件のため大稲土呈に移転し
1868年には廈門・福州から職人を連れ烏龍茶の精製も手がけ、外国へ直接輸出するようになった。
品質がよく特に米国で歓迎され、「福爾摩沙烏龍」の名前で有名になり、台湾烏龍の父と呼ばれる。
1868年にはNorth China Insulanceの代理店となり、さらに1870年に美利士洋行が倒産して寶順洋行は
怡和洋行の唯一の代理店となった。
清仏戦争では負傷した清兵の医療を助けたため、戦後に清から褒められる。
台湾人との関係は大変良く、「獨先生」と呼ばれた。(馬偕は道先生と呼ばれた)
国際的な関係も良く、1868年から1874年まで英国民でありながら、米国の領事代理となり
台湾に住むこと半世紀、清末には北台湾の外国商人の領袖となった。
1890年3月3日英国に帰国して台湾に戻ることはなく、いつ死んだかも不明。
寶順洋行は1895年まで存在していたが1896年には洋商一覧から名前が消えている。
http://www.laijohn.com/book6/591.htm 馬偕日記を引用してこんな文章が
1890年2月18日Doddは馬偕に1頭のオーストラリア産雄牛と1頭の雌子牛と
大きな鐘を贈った。鐘には"1840,Quintin Leiteh"と刻まれていた。
2月24日馬偕はこの鐘を牛津學堂に吊った。(馬偕が学校にいる日は早朝と
授業の最初と終わりに馬偕自身が鐘を打った)
2月27日Doddは馬偕を訪れ昔の話をして帰り、3月3日Doddは福建を経由して帰国した。
こんな本です
Cornel大学図書館にありました
台湾がフランスに侵攻されたうち1884年(明治17)から1885年までの2年間
茶商John Doddが淡水で経験した内容を、刻々と友人に手紙として送り
香港のHongkong Daily Pressのコラムとして掲載されました。
1888年(明治20)にR.C.Wilcoxが解説を追記して出版したのがこの本です。
台湾で2007年出版された「清法戰爭台灣外記」は本書の訳文です。
また2010年出版された「The Witnessed Account of British Resident John Dodd at Tamsui」も同じです。
これから数回にわけて内容を紹介するのですが、正直ワカラナイ部分が多いっス。
120年前の古文(じゃあ現代文ならとツッコまないでね)であるのと
彼の日記風の文で、身の回りの人には説明不要なことはわざと書いてない、という事情があります。
とまあ、言い訳をカマしておいて・・・
この1884年がどのような時期であったかを予備知識として知っておくと
より深く楽しむことができます。
19世紀末、清帝国は力を失い西欧に荒らされていました。
清だけでなく、全世界が西欧諸国の植民地になっていたのです。
日本も1871年の台湾南部での牡丹社事件をきっかけに進出を狙っていました。
西欧の中でも出遅れていたフランスがベトナム領有のため露骨な
1884年に清仏戦争をしかけたのです。台湾侵攻はその中の1コマです。
戦争の結果は・・・・
そして海外進出を目指す日本は日清戦争(1894年)で・・・
基隆砲撃(8月11日)から淡水砲撃(9月28日)まで
以下、 ( )内と画像は僕が勝手に付け加えたものです。
原文は文章のみで図は一切ありません。
(台湾侵攻をめざすフランスは北台湾のうち重要な基隆・淡水を占領しようとします)
基隆砲撃
1884/8/11
フランス巡洋艦Volta(艦長Fournier)は2ヶ月前から基隆におり、石炭などの補給が遅れており
(Voltaはフランス艦隊では小型で、全長70m・1323t・砲5門)
直ちに補給しなければ砦に砲撃すると清に通告した。
この脅しは効果があり、直ちに補給がなされた後、Voltaは北方に出航した。
これ以降Fournier艦長は外交官のようにふるまい、脅迫を繰り返すことになる。
砦は強固でクルップ製の大砲が備え付けられ、400名の兵がいた。基隆住民は1000人程度。
(ドイツの武器メーカー、後日淡水砦の建設にドイツ技師が関わることから
清は少なくとも台湾ではドイツと組んでいたと思われる。英仏対策のためか)
1884/8/14
清艦Hailoong(海龍?)が出航してからは北台湾では大した問題は起こらず
清の役人が基隆から淡水に多数の手紙を送り、その中には巡撫劉銘傳が壊れた砦の修復命令もあった。
(劉銘傳は生地の安徽省肥西県劉老に葬られたが、歴史的理由から5度も場所を転々とし、1964年に秘密裏に合肥市長豐県三十頭郷に葬られた。ところが2000年に道路改修のため再び掘り出され、子孫の家で遺骨が保管されたあと、2010年に肥西縣大潛山北麓にようやく劉銘傳陵園が建設されて安置された。)
噂ではフランス上陸兵は120名で、1人死亡・6人が負傷とあり、要するにフランス軍の損害は微小であった。
昨日、基隆からの伝令で軍艦2隻が到着し、合計5隻となったとのこと。
Flater領事の11日の通知ではフランス軍提督は基隆の外国人保護のため何か大きなことを突然やるかもしれないと。
領事の通知文
The undersigned has, in consequence of the receipt of a communication from
the Rear-Admiral in command of the French Naval Forces at Kelung, hereby to declare
that British subjects returning to, or remaining at, Kelung while affairs are
unsettled must do so at thier own risk.
H.B.M.'s Consul, officiating at Tansui.
フランス海軍提督からの情報によると、基隆のイギリス国民(残っている・これから戻るを問わず)は
事件が落ち着くまで自己のリスクにおいて行動すること。
(これが正しい表現= at own risk ≠ 自己責任 )
基隆砲撃のあった8月5日から12日のあと、淡水から10マイル上流の大稻土呈での茶市場は停止している。
商人は毎日1〜2時間かけてD.Lapraik & Co.までやってきて茶葉を買い、大稻土呈では問題は起こって
いないことを互いに確かめ合う。
基隆からの知らせでは比較的静かであり、唯一の問題は港で石炭を積むのに雇う小船や苦力がいないこと。
英国領事は税関が開かれてはいるが、フランスも清も石炭を入手できていないことを確認した。
港内のどの船も苦力・小船どころか石炭そのものを手に入れられないでいる。
石炭を買う資金は途中での強奪を恐れ、陸上で運ぶことができない。
12日には大稻土呈は安全とみなされているが、外国人の家には国旗が立つようになった。
外国人茶行には5人の清兵がつき、略奪者から守ると言っているが、我々は英国兵のほうがよい。
報告では劉銘傳は基隆近くのLokTaw(六斗?)の丘にいるらしい。
噂ではLespes提督は作戦を再開するとの手紙を劉銘傳に送ったと。
返事は[ Go ahead ]やってみろ。
もし提督がLokTawに兵を進めれば、台北府に侵攻するのも遠くないのだが、提督は未だ動かない。
1884/8/16
すべて静かで、大稻土呈での商売は12日から再開しているが、砲撃以来、茶葉の入荷は前ほど自由ではない。
5人の清兵は今日も各外人商に立っている。
5隻のフランス艦隊は基隆港内にいるが、毎日の伝令のもたらす手紙は2倍に増えた。
基隆での石炭販売は5日から止まったまま。
フランス側には通常の取引に反対することはないように見える。
地方行政府は取引が再開できるか心配しているが、実際には苦力・水夫がいない。
基隆の税関(税関長Brownlow)は数日前から再開しており
淡水では金持ちはドイツ商船Wellから銃砲を荷下ろし、いくつかを村の後ろの高台に据えている。
もしフランス軍が来れば、防船柵にそって石を満載したジャンクを沈めて邪魔をすることも考えている。
防船柵の内側には6個の機雷を沈め、出入りする船は北側(砦側)に寄らなければならない。
フランス艦が淡水に来れば、最初に機雷を破壊することになる。
1884/8/17
基隆からの伝令でフランス艦隊は昨朝にGalissoniereを残して出航したとのこと。
(Triomphanteと同形艦・全長86m・4585y・砲13門)
金持ちは人夫を集め石炭を船に供給する努力を始めた。英国領事は今後の取引停止が起こらないよう強く求めた。
Galissoniereはずっと停泊しており、清軍の負傷者は大稻土呈や淡水に戻り始めた。
昨日2人がタンカで運ばれるのを見た。
負傷兵の手当ては軍・役所は行っていない。十分な給料を払っており、自分で処置するのだと。
淡水の教会病院を訪れた負傷者は幸運で、Dr.MackayとDr.Johansenの治療を受けることになる。
1884/8/18
英国領事の通知1
北台湾の英国人は問題の起こっている地域(基隆とは断言していない)に旅行しないように。
通知2
巡撫劉銘傳は基隆の鉱山再開を命じたが、現在の状況では再開できるに至っていない。
基隆は静かで、フランス軍は行動していない。
英国砲艦Cockchaferは淡水河に停泊している。
(1881年進水の小型艦・455t・砲4門)
1884/8/19
コレラなどがここ(淡水だけではなく台湾全体を指す)では何度も広がったことがあり
多くの死者が出た。これはだいたい8月に起こった。(この1884年のことは触れていない)
宗教行事はほぼ毎日行われ、爆竹やドラが1日中鳴り、眠れない夜になる。
(伝染病と絡んでのことか、祭日のことか不明)
しかし、外人商館の前の5人の兵はあいかわらず立ち続けている。
1884/8/21
北東の強い風が吹き、台風が来ることを示している。
兵隊が大稻土呈からやってくるという噂が流れ、多数が河ぞいの外人商館前で
棒に刺された原住民の首2個を眺めていた。この首は清人bordererが大稻土呈から4時間で持ち帰ってきたもの。
(原住民だけでなく清人も同じ行為をしていたということか)
1884/8/23
Galissoniereは福州に向け基隆を出航したそうだ。
Bayardは到着し、砲艦Lutinは基隆に停泊している。
(Bayard 全長88m・5915t・砲12門)(Lutin 不明)
1884/8/24
蒸気船Anton Guntherが石炭を満載して香港に向け出航した。
基隆は静か
1884/8/26
基隆からの伝令ではフランス艦隊は近いうちに出航らしい。
淡水河の防御柵に沈める石を積んだ小船は準備完了した。
福州からのジャンクの報告では、福州では何か作戦が始まったと。福州港を出るときに砲声を聞いた。
1884/8/27
基隆の清兵はここ数日土を掘り塹壕を湾の東側、港を望む場所に作っている。
フランス軍はBayardにヨーロッパ人を招き、塹壕に砲撃すると予告。
さらにBayard艦長からの通知
宛先 税関代理人・Dodd&Lapraik代表殿
清が建設しつつある塹壕に対していつでも砲撃開始できることを通知します。
ここ数日、清からフランス艦に毎日射撃があり、フランスもそれに応射している。
1884/8/30
本日フランス軍から銃に代わって大砲の射撃が始まったが、大した効果は見えない。
1884/8/31
英国砲艦Cockchaferが基隆まで行き税関職員を乗せて淡水に戻ってきた。
基隆港は閉鎖された。
1884/9/1
淡水と大稻土呈は静か。
基隆からの知らせではフランスは連日砲撃しているが効果は少ない。
英国領事の通知
清から淡水港入り口は完全にブロックしたと通知があったが、実行したわけではなく
実行したいとの意思を表すのみ。
石を満載したジャンクはすでに沈められ、清の友好国の通過船には水先案内をつけるとのこと。
蒸気船Fookien福建は淡水を明日出航予定。
英国Cockchafer・蒸気船Ingeborg・帆船Dorita・清輸送船13号は淡水港に留まる。
Doritaを裕福な清商人がチャーターして、フランス軍が淡水に来れば家族・友人を乗せる。
淡水と大稻土呈は閉鎖されるまで静か。
1884/9/4
前回手紙から昨夜まで何も起こらず。昨夜フランス砲艦が淡水港口の防御柵のはずれに来た。
水先人を呼ぶため信号を送ったが拒否され戻った。
フランス砲艦は水先人Mr.Bentleyを寄越すようCockchaferに信号を送ったが艦長Botelerは拒否。
その後、フランス砲艦は清輸送船13号に目撃されているが、13号は淡水河を遡った。
Hailoong海龍は防御柵の外側で荷物を積み、明朝10:00にアモイに向け出航予定。
英国領事の次の通知がすべてを物語る。
清から通知があり、明日真夜中に淡水港は閉鎖すると。
外商の船は柵の外側に停泊するか荷役すること、外国人は他の港へ移るか留まってもよいとのこと。
Cockchaferは明朝の最初の満潮で出航し柵外に停泊する予定。
これに対して外商達は連名で返事をし
受領した手紙の意図と例外を理解しました。外国人は退去しても留まってもよいと。
これは、英国領事は英国民に港を退去するよう命令し、清政府は我々の財産を保証する、と意味しています。
清政府の提案を実行する前に、我々は領事を訪問して、大稻土呈に留まることが安全かどうか
聞きたいと思います。
もし大稻土呈を離れなければならないと分かれば、生じるかも知れない財産の損失に清政府が責任あると
領事にお知らせします。
Dodd & Co.
For Tate & Co. C.H.Best
A.Brooke Agent Brown & Co.
For Boyd & Co. Grant Scott
(Doddは英商Jardine Mathesonの代理商であることに注意)
さらにこれに対する領事の返事は
昨夜の私からの手紙に対して今朝返事を受領しました。
大稻土呈は全く安全と考えており、現時点では退去要請することはありません。
私の手紙中の「淡水」という言葉は清からの通知文をコピーしただけで
滬尾港だけを指しているのではありません。
A.Frater 領事
1884/9/5
大稻土呈は静かで外商前にいた清兵は姿を消した。
いつも食事時に姿を現し、食事になると姿を消し、一晩中死んだように眠っていたのに。
毎日繰り返される質問は、「一体奴らは何しているんだ?」
砲艦CockchaferはHailoongやDorettaと同じく柵の外側に停泊している。
1884/9/6
基隆からの知らせでは、基隆港のフランス艦は2隻だけだと。
Lutinは福州へ行った模様。
滬尾の清兵は水先人村の近くの丘に塹壕と土塁を作ったが、始めてから1ヶ月なので
蒸気船Wellから陸揚げした大砲は運びこんだものの据付はまでしていない。
1884/9/9
巡撫劉銘傳は基隆から淡水にやってきた。目的は新しい土塁を視察し部下Soon(孫)が淡水河河口をどう閉鎖するか
彼自身が考えることにあるらしい。
劉銘傳が来たと聞くと外商前の清兵は装備を万全にした。
フランスの輸送船らしい3本マストの蒸気船が淡水沖から基隆に向かうのが見えた。
1884/9/10
今朝清兵は制服を着てライフルを持ち警戒態勢をとった。劉銘傳が基隆に戻るのは明白であった。
皇后から劉銘傳への下賜金が届き、基隆兵に分けられたらしい。
砦からGalissoniereに3発あてた砲兵には劉銘傳から直接500ドルが渡されたという。
これで他の将兵を奮い立たせるのだ。
劉銘傳は淡水から蒸気ランチで移動してきて、水兵200人・ラッパ手5人・太鼓手2,3人が岸壁で出迎えた。
ラッパと太鼓の響きが鳴ったが、それよりも大きな音でフランス艦からラッパが鳴った。
兵隊が先頭で次にバンド、最後に劉銘傳が椅子に乗って続いた。
劉銘傳は壁に囲まれた新しい市、台北府に戻り、翌日に基隆に急いで戻ったに違いない。
1884/9/11
清にチャーターされたDorettaの艦長は雇い主を乗せ出航した。
英国砲艦Merlinが福州から到着し柵の外側でCockchaferと並んで停泊した。
すぐにCockchaferは水先案内されて柵を超えた。柵にはまだ軽い船を通すスペースがあった。
Merlinは夕刻、再び出航した。提督からの命令を持ってきたらしい。
誰もが老艦Cockchaferが再び河に停泊するのを喜んでいた。
Merlinに乗っていたLient Carey Brentonと裕福な旅行家Mr.A.R.Colquhounは慌しく大稻土呈を訪れた。
基隆からは大した知らせはない。フランス艦は出たり入ったりしている。
基隆には淡水を通った輸送船を含んで3隻がいると思われる。
金持ちは大きなジャンクを購入し、港閉鎖で大変忙しくしている。
Cockchaferが入港してから、金持ちは港入り口を完全に閉鎖することを決めた。
1,2ヶ月商館前にいた兵は静かで、外国人に対しては良いマナーで応対していたが
ここ数日は立哨場所・人員が増え、険悪な様子を示している。
これらの兵を指揮するSoon将軍は外国人に優しいことで知られているが、士官のいくらかが退役
させられたと考えられる。
1884/9/13
新しいことな何も起こっていない。4人の大稻土呈在住外国人は安全である。
1884/9/16
蒸気船Fokien福建はごく少ない茶葉を積んでアモイに向け出航した。
ここ数日は極めて静かである。
1884/9/17
基隆には現在5隻のフランス艦がいる。
ここ淡水には少数の客家山地人がフランス軍と戦うため清政府に雇われている。
彼らは外国製のライフルは好まず、自前の火縄銃で武装している。
銃の狙いは正確で、蛮人と戦うのに便利な山刀も持っている。
この客家人は台湾における中華のパイオニアであり、蛮人の土地と接して台湾の西半分に広がっており
他のどの清人よりも蛮人と接触しているのである。
客家はいろいろな時代から広東の南地方から台湾に流れ着き、蛮人を排除して文明人の手に触れたことのない
蛮人の土地を奪取したと考えられている。
これらの客家は戦いにおいては半分蛮人に近く、生活は原住民に近い。
彼らは清人の地でも自らの服装をしていた。
・・・ 省略 ・・・
福建省を一時占拠していた黒旗党は清政府にとって問題の種で、たびたび清のため傭兵となっていた。
(清の軍人劉永福が組織した私兵で、清軍に押し出されてベトナムに逃げるが
そこでフランス軍を駆逐し清に迎えられていた)
私は黒旗党のいとこ達6人を夜警として雇っており、それは疑いもなく悪いことではあるが、
数年も見てきて彼らをよく知っている。寝ぼけ頭の清兵に比べて彼らは疑うことをせず
契約を守ってこんな事態でも警備を続けている。
1884/9/18-19
大変暑い。風が吹きそう。
1884/9/20
今日は静かで、領事館で最も穏やかな通知文を読む私が部屋で最も危険で嫌な人間であろう。
柵の外側に蒸気船WaverleyとWellが到着したことを報告した。
彼らの淡水訪問の目的は、知っていても漏らすことはできない。
1884/9/21
予想したように強風がこの瞬間に吹き、台風となりそう。
大雨となり水があふれ、一晩中風が吹いた。基隆の船はひどい夜だろう。
1884/9/22
早朝に雨風は止んだが10:00ごろスコールを伴った南西の風が午後4時まで吹き、
最後に西の強風が吹き、嵐は台風となった。
昨日の基隆には2隻しかなく、19日と20日に劉銘傳は2箇所から合計4門でフランス艦に砲撃した。
1発は命中し、フランス艦も応射した。
面白い話が基隆からもたらされた。劉がフランス人を呼んで海岸で決闘したというのだ。
1884/9/24
大変興奮した。淡水からの報告では、フランス艦が朝8:00に柵外に来て、それはChateau Renaudとわかった。
(木造クルーザ 1820t )
この艦はWellを臨検してから姿を消していた。
Hailoongが24日夕刻にやってきた時、同様にHailoongを臨検していた。
Chateau Renaudへの命令は兵や軍備を積む船をすべて止めることだと思われる。
1884/9/26
淡水と大稻土呈は静か。清は塹壕を掘り続けている。
多数のジャンクが防護柵の上に沈められたが、台風の波で流されている。
英国砲艦Cockchaferは河に停泊している。
最も新しい噂は、フランスは基隆港の前のPalm島を占領する積もりで、清に放棄せよと通告したと。
嵐の中も数日間いるChateau Renaudは蛇のような外観のVipereと合流した。
蒸気船HailoongとWellはChateau Renaudによって臨検され、Hailoongのチェックが終わると
Chateau Renaudは淡水封鎖を続けるVipereを残してどこかへ去った。
1884/9/27
昨日Vipereは蒸気船Fokienを非常に厳しく臨検し、今朝蒸気船が北から淡水に向けたのを見た。
この船は英国蒸気船Waverleyと思われる。
Vipereは早朝の闇から突然現れ、Weverleyは自分のコースを変えたが数時間追跡された。
船首を越えたり船尾の下に射撃され、拿捕のため乗艦してきたが、結局Waverleyは福州に向かった。
1884/9/28
本日は記載する事項なし。
Vipereはまだ港外におり、拿捕する獲物を探している。
Waverleyは兵や武器を積んでいたと思われる。
Fokienは柵外で茶葉を積み本日アモイに向け出航予定。
Cockchaferは淡水河に停泊中。 淡水と大稻土呈は静か。
・・・・・・・・ 続く ・・・・・・・・
おまけ フランス極東艦隊の写真
http://fr.wikipedia.org/wiki/Escadre_d%27Extr%C3%AAme-Orient_%28France%29
Bayard
Galissonniere
Triomphante
Duguay-trouin
Volta
Lutin
翌年に従軍記者として台湾に来たJ.W.Davidsonが1903年に出版した台湾史から一部を追記しました。
1884/8/4
Lespes提督旗を掲げた装甲艦Galissoniereは砲艦Lutinと共に基隆に到着し
Villarsと合わせて3艦が港内にそろった。
提督は直ちに砦に降伏するよう使者を送ったが無視された。
1884/8/5
朝8:00に予告通りに3艦から砲撃が開始された。
砲撃は正確で、外れた弾はなかった。
砦はすぐに廃墟となった。
Lutinには被害はなかったが、Galissoniereは3発被弾した。
清軍の被害は50〜200人程度
砲撃のあと、フランス軍は上陸し、砦に3色旗が立った。
清の巡撫劉銘傳は炭鉱に注水し機械を破壊するよう命令した。
基隆在住者は事前にドイツのスクーナに避難しており
そのあと、英艦Cockchaferに移乗して淡水に行くことになる。
1884/8/11
北台湾在住の外国人で砲撃を目撃した人物一覧
英領事館 A.Frater 領事
Mrs.Frater
P.W.Peterson Constable
清国税関 10名
商社 Grout Scott Boyed &Co.
John Dodd Dodd &Co.
E.P.W.Skrimshire Dodd &Co.
A.E.Hubbard Dodd &Co. 3人もいることで当時の勢力がわかります。
W.Christy Douglas Lapraik &Co.
C.H.Best Tait &Co.
教会 G.L.Mackay 奥様は清人なのでリストに記載されていない
J.Jamieson Mrs.Jamieson
医師 C.H.Johansen
米人記者 Albert Sutriffe この名前では記事になっていません
ところが、実際の砲撃体験についてはDoddの文章を引用しており、彼は体験していないことがわかります。
1884/10/始め
日本艦天城、艦長H.Togo , がフランスの作戦を観察するためやって来て
そこへ英艦1隻も短期間加わった。