102. De Pinedo 忘れられた英雄
探索の出発点は「淡水水上機場」だったのですが、その隣の敷地「嘉士洋行」や「殼牌倉庫」にも広がり
淡水地図に記載されていた「巡洋艦海門」を探して古文書をあさり
機場の歴史についての台湾の論文から、イタリア人パイロット Francesco de Pinedo にたどり着きました。
元の探索からはるか遠くに来てしまいましたが、どうせヒマつぶし(笑)まあいいか。
以下、探索で見つけた順序に紹介します。あえて内容を整理しません。(こんな風にアッチコッチをさ迷うのです)
     [1] PinedoのHP
     [2] 紅の豚
     [3] 水上機速度記録
     [4] オーストラリア・ブリスベーン
     [5] バグダッド
     [6] ビルマ・ラングーン
     [7] 55000kmの飛行
     [8] 模型
     [9] フニクリ・フニクラ
     [10] 淡水着水
     [11] 別の飛行機野郎
     [12] 霞ヶ浦にて
     [13] エルネスト・カンパネッリ
     [14] 飛行ルート
     [15] 見つけた別の写真


[1] PinedoのHP
このピネードを調べて 素晴らしい HP を見つけました。
その名前どころか、イタリア人が大正末にやってきたことなどまったく知りませんでした。
          Pinedoは1924年(大正13)遅くに空軍から東アジアへの飛行の許可をもらい
          翌25年にローマからオーストラリアを経由して日本をめざします。(55000km)
          選んだ機体はSavoia S-16で5人乗りの複葉単発ですが、3人分のシートを外し
          装備や燃料を積めるようにしました。
          
                   (これは彼がオーストラリアのブリスベーンに来た時の写真)
                   (横に並んで2人座っています)
          飛行の手配はシェル石油・イギリス政府および途中給油地の現地当局です。
           (イタリアに比べてやはりイギリスは世界に広がっていたのと、ファシスト嫌いという面もあったのでしょう)
           (1897年(明治29)にライジングサン石油は淡水の土地を購入し石油販売拠点としていた。       )
           (つまり、台湾で給油するには淡水はよい場所だったのです。                        )
          de Pinedoと機関士Ernesto Campanelliがミラノ郊外のSesto Calendeから離陸したのは
          1925年(大正14)4月20日の雨降る夜明け前でした。
          周到な準備にもかかわらず、いろいろな故障がおこり
             バグダッドでは燃料タンクの油漏れのため銅板の代わりに銅製フライパンを入手
             潤滑油の補給はインドの市場で代用品を入手
          思わぬ修理からインドシナ到着はモンスーンの季節になってしまい
          露天のコックピットはひどいありさまになった。
          それでも5月31日にオーストラリアの海岸に到着するまで機体は耐えた。
          メルボルン・シドニー・ブリスベーンを廻る旅は8月中ごろまでかかった。
          ヨーロッパからオーストラリアまで水上機で初めてたどり着いたのがPinedoであった。
          彼の次の目標は初めての豪州ー日本間の飛行であった。
           (その途中のボルネオ・フィリピン・台湾などにはHPでは触れていない)
          9月26日に東京に着陸した彼らは大歓迎され、積めるだけの贈り物と
           (東京湾ではなく霞ヶ浦)
          交換したエンジンでイタリアへ戻る旅に出た。
           (Wikiでは2枚の翼のうち1枚も交換したとあるが、このHPでは触れていない)
          11月7日、Pinedoはカエサルが戻った時のように、ローマ郊外のティベレ河に到着した。

          Pinedoは途中経由地からは母国ムソリーニにごく短い単語で報告するだけであった。
          東京に着いた時、イタリア政府から詳しい報告を求められ、その返事は次の文であった。
           Finished 2nd part of journy. Arrived late owing to grave difficulties
           旅の2番部分が終り        困難な事態のため到着は遅れた
           in Zamboanca-Tensui region due to storms and strain on motor.
           サンボアンガから淡水の間で台風に会ったりエンジンの不調の理由
           Machine and crew in excellent condition. Am overhauling machine.
           機体も乗員も好調で、現在はエンジンのオーバーホール中
           Will wire when ready to return.
           帰国できるようになれば連絡予定
          というそっけないが、彼にとって最長の連絡だった。


     
左が Pinedo      右が Campanelli
       HPではPinedoを「Forgotten Hero忘れられた英雄」あるいは
                 「Lord of Distance長距離飛行の守護者」とHPでは呼んでいます。
       少し残念なのは肝心の淡水訪問についてまったく触れられていないことでした。
       ともあれ、Pinedoが淡水に来たのは1925年(大正14)9月19日
       帰国時は経由していない。(後述)
       乗機Savoia S-16は大型(5人乗)で長距離飛行に適しています。
       Pinedoの第2の飛行は大西洋横断してブラジルへの飛行です。
       このときの乗機は Savoia S-55 かなり大型の水上機です。
       

[2] おまけ情報 紅の豚
乗機「Savoia」はもちろんイタリアの航空機メーカーです。
  Wikiによると、最初は SIAI(Societe Idrovolanti Alta Italia)
         Societe Anonima Costruzioni Aeronautiche Savoiaを吸収してSIAI-Savoia
         Savoia-Marchettiと改称
         SIAI-Marchettiと改称
         Agustaに吸収
         Aermacchi S.p.A.に吸収
  ファシストがクーデターを起こす前の王家がSavoiaです。

アニメ映画「紅の豚」に出てくる水上戦闘機は サボイアS-21 となっています。

これは実在しません。

実在した水上スピードレーサー Macchi M.33 をモデルにしたと云われています。

[3] 水上機速度記録
マッキの名前で思い出したのが、水上機速度記録を出した Macchi MC72

1934年(昭和9年!)の時速706kmは今も破られていません。
洗練された機体形状と怪物エンジン(V型12気筒x2基を結合して3100馬力)
   冷却は機体表面にめぐらせた配管による(日本軍は第2次大戦で試みるも結局失敗)
   二重反転プロペラを怪物エンジンで駆動(これも日本軍は完成できなかった)
もちろん、メーカーAeronautica Macchi も操縦士Francesco Agello(Pinedoも同じフランチェスコ)もイタリア野郎


[4] オーストラリア・ブリスベーン
http://airpower.airforce.gov.au/HistoryRecord/HistoryRecordDetail.aspx?rid=194
オーストラリア空軍 歴史館
ここにPinedoがオーストラリアに来た時の写真があります。
メルボルンに6月9日に到着し、Point Cookの空軍でオーバーホールを受け、記念にRAAFのエンブレムを機体に描いたそうです。

  
  左がが現在のRAAFエンブレム        右は1992年エアショーのもの
この写真にはどちらも見当たりません。
ついでながら、機体先頭には S16TER のロゴがあります。
   オーストラリア国立図書館National Libraly of Australiaの説明(http://trove.nla.gov.au/work/157877576?versionId=172102215)では
     この写真で個人が特定できるのはCampanelliだけ(給油している)
     着水したのはPort Philip BayのSt.Kilda beach (RAAFの説明と違う)
     ここで給油し点検修理のあとPoint Cookから離水した(どうもRAAFよりNLAの方が正しそう)
     出発してNew South Wales や Queenslandを目指した。

[5] バグダッド
サンディエゴ航空宇宙博物館

ピネドがバグダットのチグリス河に着水したものです。


[6] ビルマ・ラングーン
http://www.flightglobal.com/FlightPDFArchive/1925/1925%20-%200361.PDF
航空宇宙に関わるニュース紙FlightGlobalの1925年バックナンバー

ピネドがビルマのラングーンのAir Survey Co.のスロープでの写真(5月14日)です。
  本文 西オーストラリアのCarnarvonを6月3日に出発して530マイル飛びPerthに到着したPinedoは盛大な歓迎を受けた。
     続く6月5日にはAlbanyに到着、さらに翌6日にIsraelite湾に到着した。
     6月8日にはオーストラリア湾を横断してAdelaideに飛び、そこで更なる大歓迎を受ける。
     6月10日に再び飛行を開始、560マイル6時間35分かかってMelbourneのSt.Kildaに到着、25000人の歓迎を受けた。
     本誌は読者からPinedoのRangoon到着の模様と写真をもらった。
       RangoonのMonkey PointにあるAir Survey Coの水上機基地にPinedoは5月14日朝に到着した。
       Akyabから移動しAir Survey Co.の格納庫で痛んだ舷側の修理・塗装を行い、他部分の修理も行った。
       Air Surveyのスタッフはイタリア機のいろいろな部分に大変興味を持ったようだった。
       PinedoはRangoonで4日過ごし、我々はこの魅力的な紳士に別れをつげた。
       PinedoはLangoonにある小さなしかし美しい水上機基地に正直驚いていた。
       Air Survey Co.はビルマ政府のため航空測量や森林再生を行っているのです。
       この業務のためDH9を改造した水上機を3機持っているのです。


[6] 事故死
http://www.flightglobal.com/FlightPDFArchive/1933/1933%20-%200488.PDF
同じFlight Global誌1933年9月7日号で Pinedoの事故死を大々的に報じています。
ニューヨーク離陸時の事故だと。
なぜか彼の名前はここでは Marchese De Pinedo となっています。
別人ではなく確かにPinedoなのです。Marchese Francesco De Pinedo が正しいようです。


[7] 55000kmの飛行
http://www.adamoli.org/progetto-ocr/volo-55000-chilometri/PAGE0300.HTM

Pinedoの著書「Un volo di 55.000 chilometri」55000kmの飛行
   181-194ページにフィリピンから日本までの文章があります
     ですが、イタリア語なので降参です。
     といいながら、Google翻訳でところどころをツマミ食い
A VOI
BENITO MUSSOLINI
Principe del Pensiero e dell'azione
Un Milite Devoto
dedica
Questo Modesto e Salmastro Diario
della Sua Fatica
   ムソリーニ嫌いのPinedoがこんな献辞を書くとは思えないのですが・・・
目次
I.La preparazione 準備13
II.Le prime tappe 最初の段階23
III.Dalla Siria all'India シリアからインドへ29
IV.La traversata dell'India インド横断45
V. Tra le piogge e i Monsoni 雨期とモンスーン61
VI.Nell'arcipelago della Sonda スンダ列島85
VII.Lungo le coste dell'Australiaオーストラリアの海岸線に沿って99
VIII.Melbourne メルボルン111
IX.Una sosta imprevista 予期しない故障121
X. Verso il Nord 北へ向かって129
XI.Lungo la Papuasia e le Moluccheパプアとモルッカ諸島に沿って141
XII.I Tifoni 台風159
XIII. Dalle Filippine al Giapponeフィリピンから日本へ181
XIV.Nel paese del Sol Levante太陽の昇る土地で195
XV. Sulla via del ritorno帰路で211
XVI.Nell'Indocina インドシナ221
XVII. Lungo i fiumi sacri dell'Indiaインドの聖なる河に沿って235
XVIII.Le ultime tappe 最終段階249
付録
 Caratteristiche di allestimento dell'idrovolante e risultasi263
 Elenco delle caratteristiche dell'idorovolante S.16ter(Savoia)
 motore Lorraine 450HP286
 Tabella dimostractiva del carico287

  9月19日
   8:20にBatan島を出発         フィリピンと台湾の間の島
   9:00にTobago島を一瞬見るが雲で隠れる。台湾南東に浮かぶ蘭嶼島
   10:00にはKarenhoに届き       花蓮と思われる
   11:00には日本政府から指示の通り宣蘭から台湾を横断する位置に来た。
                    台湾西側は飛行禁止したらしい
   12:00に淡水に到着
     学校は休みとなり先生・生徒が岸壁に並び、それぞれイタリアや日本の国旗を持っていた
     役人が映画やカメラがないか調査しにきたが、それを事前に聞いていたのでマニラから上海に直接にカメラを送っておいた
   給油所でエンジンをチェックするとあちこち壊れていることがわかった
   プロペラを外して修理しなければならなかった
   キャブレターはアルミ製で修理はそう簡単ではない
   日曜の夕方時点で東京からの指示はまだ届いておらず、翌日(9月21日)を残すことになった
   21日の朝に上海に向かった    14:00に寧波に到着 上海に近づき天候は良くなった
   乗組員が甲板に並ぶ巡洋艦San Giorgio と Libiaを見た
   この2隻が今回始めて出合ったイタリア海軍軍艦であった
   9月22日火曜日にエンジンの修理点検を受けた
   全備重で上海-鹿児島間を無着陸で飛べるか心配だった
   日本人は朝鮮半島の木浦で途中降機することを助言したが、公的にはまだ認められていなかった
   木浦着水が許可された翌23日の朝、機体調整を行った
   11:30には出発した
   無数の島とギザギザの海岸を通過して午後3:00に木浦に到着した
   ガソリンとオイルはまだ到着しておらず明日午後になると
   翌朝に地元の薬局でガソリン250ガロンと12リットルのヒマシ油を入手した
   12:40に準備ができたが、鹿児島の天気予報は曇りまたは雨だった
   天気が良くなるとは思えなかったが12:45出発することにした
   曇り無風で、木浦から鹿児島へ直行ルートをとり
   15:15には五島列島で雨になった。東の風が強くなり海面は荒れはじめた
   海岸に早く着くためより東側に寄り、速度も低下させた
   16:00には長崎の南でスコールになった
   スコールが続く間は海岸に沿って飛行した    16:40には島原を通過
   海岸から100m以内をめざしたが、あまりの雨に視界を失うこともあった
   17:00スコールを避けるため島原の向こう側に行くことにした
   不時着するかもしれないので鹿児島に電報を送るため着水した
   18:00になって嵐が過ぎ、離水し再び海岸に沿って飛行を開始した
   既に日が暮れ無数の明かりが見えたが 再び雨
   18:35に鹿児島湾に入ったが黄昏の最後の輝きで十分だった
   巨大な湾内の山川で夜を過ごすことにした
   25日の朝にトイレ
   山川で温泉に入り知り合いの日本人の会社を訪問した
   14:00に離水し30分で鹿児島に到着した。日本で最初のピットストップであった
   歓迎は細心の注意のもと分単位で準備されていたが
   私にとって重要なのは燃料補給であった
   先生に連れられた1000人の生徒のパレードがあった
   9月26日朝6時には機上にあったが7時まで出発することができなかった
   東京湾への着水は禁じられ、霞ヶ浦を予定していたので、途中の串本をめざした
   室戸岬を通過
   11:15串本に着水
   12:40に串本を離水、以後の天候はよくなる
   東京は軍事ゾーンと考えられていたので霞ヶ浦をめざした
   15:45に霞ヶ浦に到着
       ・・・ 東京滞在記は省略・・・
   10月17日の朝はローマを出発するときと同様に悲しくなりました
   6:25に霞ヶ浦を離陸
   7:30には暴風時避難先と考えていた野島岬に到達
   淡水での事件を考えると海岸に寄ると軍事上政治上の問題の恐れある
   大島では強風のため海は荒れていた
   8:00には悪条件を抜け出した
   9:30には串本に到達 鹿児島への中継地串本の天候は良好
   14:40に鹿児島の海岸で日本人Into氏を見出す
   私は上海への直接ルートを取ることにした
   韓国をスキップすると、海上を950キロ飛ぶことになるが、私には大きな自信があった
   7:20にはまだ出発できなかった
   11:30になって帆船を見た   Pinedoはかなり不安であったらしい
   13:10に上海でイタリア海軍のIncrociatoreとLibiaにであった
   その日に上海は革命軍に包囲され、陸路は完全に切断されていた  1925年5月30日から翌26年10月まで起きた5.30事件を指す
   3:00前には寝ていないし、4:00には起きていた
   6:30に離水した
   より早く到着するため海岸ではなく陸上を直線に飛行することを選んだ
   11:30にアモイに到着
   11:35分に直ちに給油を開始
   その間に私は英国領事の船に
   彼らは1泊することを薦めたが香港に夜までに到着したかった。よっぽど怖かったのか
   12:45に香港に向け離水
   東の追い風のため15:40には香港到着
   10:45に私は 雷州半島にあった       海南島の根っこ
   13:00にハイフォンに到着         北ベトナムのHai Phone


[8] 模型
http://www.agt2002.it/S16.htm
Pinedoの乗機S16ter の模型です。舷側のロゴが少し違うんですが?
どこの国にも飛行機野郎や模型オタクはいるのです。


[9] フニクリ・フニクラ
http://www.asso4stormo.it/arc_02/arc_02_01/Costigliolo_cos/cos01.htm

PinedoのS16の舷側のSAVOIAの上部に「jammo jammo ncoppa jammo ja」とあり
それはナポリ民謡Funiculi', funicula'の一節だそうです。
もちろん、Pinedoはナポリ人。歌詞はナポリ語(イタリア語ですらない)なのでチンプンカンプン。
歌詞の全文(http://www.ffortune.net/calen/xmas/songs/funiculifunicula.htmより)
   Aieressera, Nannine, me ne sagliette,   夕べばあやがボクをどこかに登らせてくれたんだけど
   tu saie addo? tu saie addo?         それはどこか知らない?(それはどこか知らない?)
   Addo 'stu core 'ngrato cchiu dispiette   どこに行ったらこのもやもやした気分を
   farme nun po! farme nun po!        晴らせるのかな?(晴らせるのかな?)
   Addo lo fuoco coce, ma si fuje       火が燃えている所はどう?行きたくないなら
   te lassa sta! te lassa sta!          置いてくけど(置いてくけど)
   E nun te corre appriesso, nun te struje,  それは近くを走ってはないけど、飽きることはない
   'ncielo a guarda! 'ncielo a guarda!      さあ、空を見て!(空を見て)
   Jammo, jammo, 'ncoppa, jammo ja',     行こう、行こう、上に行こう、行こう、行こう
   Jammo, jammo, 'ncoppa, jammo ja',     行こう、行こう、上に行こう、行こう、行こう
   funiculi, funicula!                フニクリ・フニクラ、フニクリ・フニクラ
   funiculi, funicula!                フニクリ・フニクラ、フニクリ・フニクラ
   'ncoppa, jammo ja',               上に行こう
   funiculi, funicula!                フニクリ・フニクラ


[10] 淡水着水
台湾雲林大学の張志源の論文にPinedoが淡水にやってきた写真がありました。

台湾時報1931年10月号からの引用ですが、年代に疑問があります。
Pinedoがやって来たのは1925年で、雑誌はその6年後になる上、説明には「1930年に」とあるのです。
その年にはニュージーランドから De Habiland Gypsy Moth でFrancis Chichesterがバシー海峡を渡って淡水までやって来ました。

ですが、Gypsy Mossは双舟であり最初の写真はS16に見えます。どうも年代をゴチャ混ぜにしているようです。

Chichesterは和歌山県勝浦港まで来て離陸時に電線に接触して墜落。



[11] 別の飛行機野郎
1942年(昭和17)にもイタリア人がローマから東京までやってきます。
Savoia-Marchetti S.M.75 でモンゴル経由でしたので淡水には寄っていません。


[12] 霞ヶ浦にて
Pinedoがやってきた霞ヶ浦での写真がありました。大正14年9月26日

格納庫に入れられたS-16のエンジン下にいるのはCampanelli。
翼の上に立つのがPinedoかどうかは解りません。


左から3番目がPinedo、後ろがCampanelliです。右から2番目の人物に見覚えがないでしょうか?
当時、霞ヶ浦で教頭をしていた山本五十六大佐その人です。
その左側は多分航空隊司令の安藤昌喬少将、黒い制服はイタリア軍人でしょう。
この写真で初めてCampanelliの顔がわかりました。いかにも陽気なイタリア人ですね。
Pinedoは山本についてまったく何も書いていませんが、Hara Sanという名前が出てきます。
Pinedoは乃木将軍が切腹し妻も自殺したことに興味を持ち、Hara sanは切腹の作法を説明したそうです。
原忠一少佐だったのではと思うのですが、まったく根拠はありません。

Pinedoの本にはCampanelliの名前は出てくるのですが、2人の会話などは記されていません。
機関士としての仕事は書いてあって、2人の関係がどうであったか判らないのです。
Pinedoはナポリ人、Campanelliはサルディーニャ人、それが原因とは思いませんが。
霞ヶ浦での写真を見て、いったいどんな人物だったか興味がわきます。
[13] エルネスト・カンパネッリ
Ernesto Campanelli とは?
彼の伝記「Ernesto Campanelli. L'ala destra di De Pinedoピネドの右腕カンパネッリ」が出版されています。
   著者 Cauli Alberto
   出版 : Delfino Carlo Editore & C. snc
       2008  新刊です
   値段 :43.23$+送料27.29$=70.52$ 手が出ません
彼の故郷、サルディーニャのOristanoには Ernesto Campanelli通りがあります。
http://www.tuttocitta.it/mappa/oristano/via-ernesto-campanelli


[14] 飛行ルート
http://www.flightglobal.com/pdfarchive/view/1925/1925%20-%200756.html
前のほうで紹介した Flight Grovalという航空情報誌のバックナンバーでついに発見しました。
ROME-TOKYO-ROME
Marquis de Pinedo's Grand Air Tour Successfully Concluded

帰路では韓国に渡らず鹿児島から上海へ直行しているので、この地図は当初の予定航路図でしょう。

別のHP(http://www.altomareblu.com/un-aviatore-molto-marinaio-cte-francesco-de-pinedo/)で見つけた航路図は

こちらが実際の航路を示したもののようです。
往路はローマ~メルボルンとメルボルン~東京までの2区間とし
赤線で示す帰路は東京~ローマの1区間で合計3区間としてあります。
よ~く見ると、出発はミラノでローマではありません。
       帰国時はナポリを経由してローマになっています。

 シドニー到着

 シドニーにて 右がPinedo

 ニューギニアにて
 ガンジス河にて

ローマ到着

テベレ河に着水

ナポリにて


[15] 見つけた別の写真

PinedoとCampanelliがブリスベーンに到着したのは1925年8月6日
この写真はブリスベーン河のKangaroo pointにある海軍倉庫近くで撮影
9日には北に向けて出発している。
機体後方にツナギを着ているのがCampanelli、機体前方に乗る灰色服がPinedo


これもブリスベーンでの写真


ブリスベーンからの出発点Point Cookでの写真



機体側面のSAVOIAの後ろに盾のエンブレムが見えます。これがRAAFのものかも。
撮影場所は不明です。