101.淡水八里 その昔
探索のもとになった地図 フランス語です
1885年(明治17) C.Imbault-Huartの「L'ile Formose Histoire et Description」より
この図で八里にスペイン砦跡(Ruines du Fort Espagnol)があることを始めて知りました。
八里のことを Village de Palihoun と書いているのも曰くがありそうです。
調査のはじめは「八里 スペイン 砦」の3語で検索です。
関係ないものを除外して、こんな風に見つかりました。
1)淡水紅毛城
1629年、スペイン人が淡水河口の丘の上に建設した、サントドミンゴ城。
スペイン人が撤退した後、この地を支配したオランダ人が、城砦をさらに強固な
ものとしました。 当時の台湾 ... アントニー要塞の前から、対岸の八里にある
観音山を眺めることができます。
2)『*[台北周辺]』の検索結果 - 安穏日記
八里でサイクリング ? 台北周辺. 淡水に行ってからしばらくして、今度は淡水河
をはさんだ対岸の八里へ。 こちらは、近年になってから公園の整備などが始まっ ..
最初はスペインが建設したサン・ドミンゴ城。その後オランダがスペインを駆逐して、アントニオ砦に。
3)金融そして時々山: 【台北旅行③】淡水・二つのレンガ館を楽しむ
2011/04/12 -- なお左岸公園から少し右(淡水河に向かって)に行った八里埠頭の方が
船便は多いような気がした。 10分ほどで ... 紅毛城は17世紀初期にスペイン人が建設し
後にオランダ人が再建した城砦である。1867年に英国が租借し領事館を置いた。
4)淡水: 2011年09月 アーカイブ
2011/09/01 -- 1628年にスペイン人がセントドミニカ砦を築き、オランダが
淡水港を攻撃したがこれを撃退した。 1634年頃、200人程度 ....
いまは港湾機能も満杯状態で、淡水の対岸八里に大規模なコンテナヤードが拡張されている。
5)紺碧の海:(台湾紀行:4) 淡水再訪(2)
2006/01/06 -- スペイン人が1629年に築いた砦であり、その後鄭成功、清朝、イギリスなど
の管理を経て現在は台湾政府が管轄している。
昨年夏に ... 淡水の対岸にあたる八里は何もなかったが、最近観光スポットとしても
開発途上にあるようである。
同じものに微妙に違う呼び名をつけています。
サントドミンゴ城・アントニー要塞・サン・ドミンゴ城・アントニオ砦・セントドミニカ砦・紅毛城
「一体どの呼び名が正しいの?」
wiki英文 http://en.wikipedia.org/wiki/Fort_Santo_Domingo では
Fuerte Santo Domingo または Fort San Domingo は1628年にスペインが建て
住民の反乱で1637年に破壊されたが、1642年にスペインが再建した。
1644年にオランダ人が占領する前に既にスペイン人砦を壊していた。
オランダが同じ場所に再建した砦は Fort Antonio 或いは Fort Anthonio と呼ばれる。
住民はオランダ人を紅毛人と呼び、その城なので紅毛城と呼んでいた。
というわけで、サントドミンゴ城が最もらしいです。
ですが、八里の砦についてはまったく見つかりません。
さらに検索すると
wiki台湾の「八里區」を見ると、遺跡が2ヵ所あるのですが、スペイン砦跡はまったく記述がありません。
十三行遺址・大(分の下に土)坑遺址 これらははるかに昔の先史遺跡
八里的歴史 http://dns2.tksh.ntpc.edu.tw/web/b4/p4-2.htm では4ヶ所だそうです
從今日大?坑、十三行、訊塘埔、長道舊社等遺址的考古發崛中
1629年にスペイン人が淡水に入り北岸に城を築いた(現在の紅毛城)
南岸の八里には原住民部落があり、宣教活動を行った。
その後オランダ人がスペインを駆逐した。
とあるのですが、八里砦について記述なし。
淡水鎮對岸-八里郷興衰始末考 http://studentclub.tku.edu.tw/~taiwan/taiwan/b/02-1.htm
収穫なし
八里地区的地形変遷・海水面変遷と考古遺址関係の研究
http://tgru.geog.ntu.edu.tw/GeogWeb/pages/a01/publish/C16.pdf
ここにはもっと多数の遺跡が載っていますが、いずれも台湾海峡側です。
僕の専門領域に近いですが、砦にはカスリもしません。
八庄大道公 八里?的興衰起落 http://www.918.org.tw/top5/view.asp?id=13
西荷明鄭時期的八里?(1626~1673年) 西=Spain 荷=Holland
八里の歴史についてまとまっています。
「歐洲人と原住民の相互関係」
スペイン人とオランダ人は17世紀初めには台湾北部を統治していた。
スパイン人は1626年に基隆・淡水を占領し、城堡と教會を建てた。
穆洛神父(Rev. Luis Muro, O.P.)は1633年から八里で宣教を始め、多数を天主教の洗礼を受けさせた。
1642年にオランダ人がスペイン人に取って代わったが、八里は原住民が納め
頭目Kilaesはスペイン語・オランダ語の通訳として淡水地区の重要な人物であった。
清は1674年に台南安平に進出し、八里には1711年に海防機関を設け、この時から漢人が大量流入する。
1724年には淡水に北台湾で最も重要な役所を置いている。
1731年八里巡検署が置かれ、北台湾の政治中心となった。
当時の亀山には強大な原住民がおり、安平から陸路であれば海側の林口を経由し
八里から水路で台北に至る重要な位置であった。
当初は対外貿易に開かれた港は小数で八里は優勢であり、福州との窓口として
指定された1757年以降は八里の最も輝いた時期であった。
「沙塞港淤、風災毀街」
淡水河の海口は次第に泥砂で浅くなり、更に1796年の台風で河は氾濫し、八里市街と城は没した。
港としての機能は失われ、多数の住民は対岸淡水に避難した。
八里港は滬尾港に移り、桃仔園から龜山経由で新莊までの官道が開通し、八里は陸運・水運ともに重要性を失う。
八里は農魚業に転換し、漢人がさらに入植して耕地を増やしていった。
1796年から1895年の日治100年に八里は農漁村集落へと変貌する。
ここにも八里砦の記載はない。
八里深度之旅目録 - 台北縣八里國民中學全球資訊網
大衆爺廟--渡船頭1796 年. 八里現存人文史蹟. 1. 西班牙城堡遺跡---渡船頭大衆爺廟. 旁陸軍營區1630 年代.
ここでようやく何か引っかかりました。
八里の桟橋近くにある廟のあたりにスペイン砦があったらしいが
1630年頃に砦ができて、1796年に廟が建てられ、もう既に再開発整備されて面影もありません。
http://www.planning.ntpc.gov.tw/_file/1691/SG/31468/D.html
これは整備後の風景。 残念。
ようやく、それらしいものが......
http://blog.xuite.net/evanhoe/balihun/4378883?st=c&re=list&p=1&w=128120
傳説中的西班牙五稜廓:老榕?堡?1630年代@ 文化資産八里:: 隨意 ...
スペイン人が滬尾(淡水)に紅毛城を建てた時に、左岸八里にも城堡を作ったのか?
軍事的觀點からは八里と淡水からの交叉射界で海からの侵入を防ぎやすいといえる。
八里にもスペイン城堡遺跡があったか、日本時代に学者で話題になったことがあった。
但し証拠はなく、史料は1654年のオランダ人の書いた大臺北地圖のみ。
そのオリジナルはここ オランダ Atlas of Mutual Heritage (解像度は低い)
淡水にはSan Domingo砦が見えますが八里には何もありません。
1884年に清法戰爭が起こり、翌年にフランス人C.Imbault-Huartが書いた
にある挿図「Plan du Port de Hou-Ouei ou Tam-Soui」には八里街の北面河岸に五角形の城堡があり
「Ruines du Fort Espagnol(スペイン城堡遺跡)」と説明がついている。
これをサンドミンゴ砦だと言う人もいる。
文献に表れるのはどうもこの1枚だけのようです。
日本時代に台北帝國大學岩生成一助教授が八里に来て調べたが「正確な位置は確定できない」と結論し
戰後これを追求する人は誰もいなかった。
な~んだ、結局よくわからん、ということか。
次のような歴史ではないかと妄想するのです(またか)
スペイン人が1626年に台湾北部を占領し、淡水にSan Domingo砦を建設し
そのあと引き続いて八里にも砦を築いた。
次第にスペインの統治力は衰え
1644年にオランダが取って代わる。
オランダは八里砦には価値を見出さず、放棄した。
実は、八里は淡水よりも栄えていたのですが、港に砂堆積が進行し、さらに陸路も通過しなくなって
繁栄は失われてしまいます。1796年の水害がその決定打となりました。
砦のあった場所に廟が建つのはその年のことで、もちろん水害被災者を弔うものです。
はるか昔のスペイン遺跡よりもそれは重大なことで、いつしかスペイン砦は忘れられたのでしょう。
おまけ
大臺北地圖の解像度のよいものが臺北市大同區延平國小のHPにありました。
地図の各所に小さな番号が付けられています。きっと欄外に一覧表があるのでしょう。
おまけ2
八里に2000年に開設された十三行博物館