100.軍艦海門と淡水
淡水地図
日本海軍が作成した測量図
右側に作成由来が書かれているのですが、疑問ばかりです。
残念ながらオリジナル地図にはたどりついていません。
右上文章は
g.礫 m.泥 r.岩 st.石 ←水底の状態を示します
●四四八分一 ←何とも不思議な縮尺です
●十八年 ←英文では明治28年です
●門従事 ←英文KAIMONは海門のこと
●大尉小椋元吉・技手大林正作 測量
●三十二年二月軍艦操 ←明治でしょう
●海軍大尉小倉寛一
●戦によりて改補す ←●戦とは何でしょうか?
地図下端に淡水機場(この時点では農家が並ぶだけの鼻仔頭)が見えますが
その西側に長方形の敷地があります。これが嘉士洋行倉庫で、シェル石油はまだ油タンクなど建設していません。
ライジングサン石油がこの土地を買うのは明治29年のことです。(油タンクはそのすぐ後に建設されたのでは?)
小椋大尉が測量した明治28年とはどういう年だったのでしょうか? Wikipediaからまとめると
日清戦争は朝鮮を舞台に明治27年7月から28年3月にかけて日本と清が戦ったのですが
28年4月に下関で講和条約(下関条約)が結ばれ、5月8日に発効した。
遼東半島・台湾・澎湖列島の割譲
2億両(清の歳入総額2年半分)の賠償金
日本に最恵国待遇を与える
ところがその内容を妬んだ仏独露の3国は遼東半島の還付要求した。
困った日本は、還付するが有償(3000万両)で清と決着した。
5月29日から台湾北部に陸軍を派遣し、6月中頃には台北に総督府を開いた。
しかし、武装住民の抵抗が激しく、南部の制圧は10月までかかることになる。
海軍は陸戦隊を除いて船上生活のため脚気や伝染病の恐れは少なかったが
陸軍はまったく準備せず戦死者以上の病死者を出すことになる。
(脚気については軍医部長の森鴎外の責任重大)http://www.mars.dti.ne.jp/~akaki/igaku02.html
28年後半の台湾攻略(海軍では征湾と呼ぶ)は海軍が保護しながら陸軍が上陸するもので
第二次大戦の米軍のような上陸前の艦砲射撃はあまり行われていません。
海軍の役割は上陸地点の調査確認でしかなかったようです。
淡水への上陸は対岸の八里の台湾海峡側にあり、淡水市街ではありません。(市街地に上陸する軍隊はない)
この地図のような測深測量は時間がかかり、清の砲台前で行うことは不可能です。
つまり、地図にある「小椋大尉が28年に測量」というのはかなりアヤシイのです。
少なくとも、上陸して砲台を制圧してからでないと測量などできません。
むしろ、制圧したずっと後(多分明治32年の小倉大尉)だったのではないでしょうか?
そうまでして小椋・大林を持ち上げる意図は何だったのでしょうね。
どうも個人的な感謝・敬意などがあるのかと。
軍艦海門
地図に出てくる海門 とはどのような艦なのでしょうか?
Wikiの記述にすこし足すと
1877年(明治10)9月1日起工
1882年(明治15)8月28日進水
1884年(明治17)8月13日就役
1891年(明治24)千島列島巡察
1892年(明治25)7月27日沖縄大東島探検
1893年(明治26)3月21日三等海防艦に
1894年(明治27)日清戦争で威海衛攻略作戦に参加
1904年(明治37)7月2日露戦争で掃海作業援護
同 5日帰投時に触雷沈没
排水量 1381t
全長 64m
最大速力 12ノット
兵員 210名
鉄骨木貼・日本最初の純国産軍艦
明治26年の日清戦争で中国本土まで出撃しており
明治36年の日露戦争で掃海作業中に蝕雷沈没。
明治23年の勅令235号に軍艦定員表があります。(天皇の御璽あり)
大佐が艦長の艦は20艦あり、海門もその1艦です。
大佐 1
大尉 5
少尉 4
その他とあわせ合計211名
当時最大の軍艦厳島で370名なので、大型の艦です。
ただ、明治28年ではすでに旧式で、三等海防艦(要するに敵と砲戦しない)に分類されています。
では記載の明治28年には海門はどういう軍務についていたのでしょうか?
ネット検索では資料は見つからず、意外な(実は当然なのですが)防衛研究所の資料に出てきます。
国立公文書館アジア歴史資料センターのデジタルライブラリに防衛研究所の保有する陸海軍資料が公開されています。
ただし、単に画像データが見れるだけで、文書がテキスト化されてはおらず検索にはひっかかりません。
征湾
「征湾第○回報告」という名称で第1回から13回まで膨大な報告書が公開されています。
これは日清戦争の仕上げともいうべきもので、割譲された台湾を実際に占領しにいくというものです。
なので、陸海軍協同の作戦なのですが、敵地の情報をまったく入手していない陸軍は上陸後サンザンな目にあいます。
今回は海軍側の報告書だけを調べたので、そのような内容は出てきません。
ついでながら、99話の最後で紹介した米国領事の著書に現場にいた者として記述があります。
「征湾第1回報告」
日清戦争の後半、明治28年5月18日に大本営より台湾南部・膨湖島に派遣する命令が出た。
常備艦隊司令長官有地品之允中将は派遣中は台湾総督樺山の指揮を受けるべし。
樺山は初代総督で、この時点では台湾は日本のもの
なぜなら日清戦争の結果台湾などを割譲する下関条約は4月17日に調印され、5月8日に発効している。
要するに日本の領土になったのだからトットと実効支配しないといけない。
三国干渉のように、後から横槍が入るから
ついでに、海軍艦隊は当時、常備艦隊と西海艦隊に分かれており
合体して連合艦隊になるのがずっと先の話
2017/9/18 追記
父の残した写真などを整理していて海軍中将有地品之允の書が出てきました。
絹本で大版なのですが、なぜ父が持っていたのか謎です。
父は陸軍で大阪生まれ・有地は長州藩士。何の接点もなさそうです。
祖父も陸軍なので、なぜ父が有地の書を手に入れたのか?????
派遣されたのは
松嶋・高千穂・浪速・千代田・大嶋・西京丸
第4水雷艇隊
母艦近江丸
病院及び供給船神戸丸
造船及び兵器工作船元山丸
常備艦隊の残りは一時的に西海艦隊の指揮下とする。
行けというだけで何をせよ、とは書いてないのがミソ
同日、台湾総督樺山からの命令
本官は台湾島を領収し台北府を以て駐(答+リ)の地と定めんとす。もし彼の軍隊にして我に抗せば
兵力を以て之を撃○せんとす。
彼の軍隊とは誰か書いてないが清を指す。
我が陸海軍の集合点を沖縄県中城湾とす。
陸海軍合同の作戦。この時点では台湾はまだ清が支配しており、樺山総督は沖縄まで来ていた。
貴官は部下の軍艦をして
台湾東岸の蘇澳より以北、サンチョウ角付近
西岸淡水港より以南コウザンコウ付近
さらに西南岸打狗港安平鎮付近の沿岸において
上陸に適すべき地点を偵察せしめて、なるべく速やかに中城湾において結果を本官に報告すべし
占領部隊を上陸させる場所を探せという命令。
アブナイ場所には総督は出ていかない(武官ではないから)
5月23日、有地指令長官より千代田艦長への命令
・・・
本官は5月28日午前中に淡水港外に達せんとす。樺山総督は28日までに横浜丸で淡水港に達せらるる筈なり。
遅れるなという意味
5月26日、常備艦隊司令官東郷平八郎より上陸地点偵察報告
東郷は日清戦争では司令官(長官は有地)
淡水港外南岸陸兵上陸地点は別紙浪速艦長報告の通り、A地点を適当と認む。
A地点とは淡水の向かい側八里の台湾海峡側です
西方の風起らば非常に波濤高く真に困難を来たすのみならず
この頃実際に台風がきていたのです
・・・
案ずるに○町は海岸の水深よく上陸に適し岩礁等の危険なく、且つ淡水港口なる
敵砲台の弾着外にありとす。
・・・
清の砲台が怖くて淡水河には入れなかった。
「征湾第2回報告」
「征湾第3回報告」
「征湾第4回報告」
「征湾第5回報告」
「征湾第6回報告」
「征湾第7回報告」
「征湾第8回報告」
「征湾第9回報告」
「征湾第10回報告」
「征湾第11回報告」
軍艦吉野を率いて8月20日午後より8月22日午前まで
淡水港外に停泊すと強風波のため陸上と交通するあたわざるを以て
基隆港に回艦せり。当時基隆在泊の艦船は軍艦海門・工作船元山丸
ほかに陸軍運送船7隻なり。
・・・
この時代の日本はまだ台湾全土を掌握しておらず
南部には清国・イギリス軍・海賊などが横行していた。
「征湾第12回報告」
「征湾第13回報告」
多数の命令とその実施報告が含まれます。
明治28年9月14日 病院船神戸丸を艦隊から脱し佐世保鎮守府に復帰せしむ
去る5日6日の暴風により基隆及淡水付近に在りし艦船は少なからざる困難に
陥りしが、沖合いに風波を避けたるは軍艦近江丸及海軍運送船福井丸にして
・・・
輸送船や水雷艇に大きな被害が出た。
死者も出て、後日慰霊碑が淡水と佐世保に建立されたはず。
第4水雷艇隊および母艦近江丸を佐世保に回航せしむべし。
軍艦大島を修理のため長崎に回航せしむべし。
警備艦広内を基隆に回航し常備艦隊に入らしむ。
これだけの被害を受けたのはオオゴトです。
9月16日、軍艦大島回航のため基隆を発す
軍艦西京丸は軍需品搭載のため長崎に向け抜錨
軍艦秋津州、膨湖島より入港
9月17日、軍艦近江丸膨湖島より入港
命令
貴官は母艦近江丸を以て第4水雷船隊を護送して佐世保へ回航すべし
南台湾攻略の準備があわただしくなってきた。
海門への命令
台湾攻略が終わってからの大本営からの訓令 (なぜ直接に艦長に命令する?)
海門艦長・天龍艦長へ訓令
一 貴官は本令第3項の測量計画に基づき天龍艦長遠藤増蔵(海門艦長早崎源吾)と協議の上
測量場所を分担して之に従事すべし
二 分担測量場所定まるときは連名にて大本営台湾総督及び常備艦隊司令長官に報告すべし
三 測量計画左の如し
一.膨湖島港泊図 | 尺度2寸5 | 全紙 |
一.膨湖列島 | 尺度0寸7.5 | 全紙 |
一.八○島錨地 | 尺度4寸 | 1/4紙 |
一.膨湖水道 | 尺度0寸7.5 | 全紙 |
一.安平港 | 尺度4寸 | 1/4紙 |
一.鶏篭港 | 尺度5寸 | 1/4紙 |
一.淡水港 | 尺度4寸 | 1/4紙 |
一.蘇澳 | 尺度4寸 | 1/4紙 |
一.打狗 | 尺度8寸2 | 1/4紙 |
一.各西港 | 尺度6寸 | 1/4紙 |
一.膨湖港口 | 尺度18寸 | |
一.鶏篭港口 | 尺度18寸 | |
一.淡水港口 | 尺度18寸 | |
明治28年11月15日 大本営
小倉大尉が作成した淡水測深地図はこの命令によるものだったのです。
他にも命令がないか探すと、小椋大尉に係る命令がありました。
軍艦海門を派し、台湾及び之に属する諸島を測量せしむるの○○を○め、之につき
左記の水深測量員を同船に乗り組ませたく○○○○議候なり
明治28年6月23日 海軍軍令部長伊藤祐亨 樺山資紀の後任・東郷平八郎の前任
海軍大臣伯爵西郷従道殿 西郷隆盛の弟
追記
追って軍艦海門は測量中、常備艦隊に転属され○○○○○○らるる予定に付き、この段中添○なり
班長 海軍少佐 三浦重卿
海軍大尉 小椋元吉 ←
測量士 海軍大技士 イ真賀寛
海軍技手 大林正作 ←
同 清末虎男
同 渡邊真吉
小椋・大林の名前が確かに出てくるのですが、三浦・イ真はなぜ無視された?
さらにこんな上申書が出てきました。
「測量の為め台湾方面へ出航に付き 人夫雇入外3件御免許相成たく上申」
今般測量のため台湾方面に出航致すべく候に付き、予て左の権限を御委任相成候よう致したく
この段上申仕り候なり
一 舟夫・人夫雇入の件
一 士官以下出張せしむる件
一 験潮所その他として家屋借入れの件
一 通船雇入の件
明治28年7月2日 海門艦長矢部興功
海軍大臣伯爵西郷従道殿
小椋等の測量員は大臣に直接上申すると問題になるので艦長経由で上申している。
この文章を読んでいてようやく測深というのは面倒な仕事であることに気が付きました。
船あるいはボートから錘を底まで下ろして深さを測るだけ、じゃあないのです。
満潮時に測っても意味はないので、干潮の短い時間しか作業できない
特に港内であれば、どの位置で何mという分布が必要なので、位置計測も同時に必要
水底が砂なのか岩なのか、錨の効きかたが違う
位置測量には陸上からの作業も必要になるが、他人の土地に立ち入ることになる
人夫を雇うにしてもボートを借りるにしても、通訳が必要。それも当時は台湾語通訳
測量や探検というのは軍艦にとっては非日常業務(戦争もそうだが)
大東島探検
明治25年(台湾攻略の3年前)に練習艦海門は単独で沖縄・大東島・沖大東島を調査しています。
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/senkaku/kaimon-1892/
ここに海門への命令書・調査後の復命書・航海図などが詳しく(脱帽です)紹介されています。
「海軍次官より佐世保鎮守府長官あて
大東島等探検には別に訓令を発せず、期節の許す限り探検せしめられたし
参謀部長の追記
本件は司令長官の権限に以て練習船を派遣探検せしめられ差支え之なく、
又季節も未だ不良の期に至らずと(そんなことはない)思考○○
左の通りに電報に成○ 」
「佐世保鎮守府司令長官から海軍次官へ
さきに井上参謀部長当地出張中大臣の意を受け沖縄県知事より上申したる(ホント?)
南北大東島外5島探検のため軍艦海門派遣の儀申す談之あり候。
未だ該艦派遣相成らず趣に付き、修理落成次第至急派遣すべき旨御申し越し
承知つかまつり候。(江戸時代か!)右件に付き最初井上参謀部長と
本官の間において少々意思行き違いあり、且つ探島の如き特別任務に派遣せらるるは
これに対する御訓令なくては只探検と申し計りには艦長に訓令も興し難し(ごもっとも)
知事の上申の通り只その位置と周囲に止まるものとすれば、大東島は既に海図にも
位置を示しあり、周囲も詳らかなり。外5島のうち久米赤島・久場島・魚釣島は
その位置判然せざるも知事の上申書によれば現在せししに相違なし(要するにワカランということか)
南風波照間島・ラサ島(沖大東島)の2島はいまだ有無も判然せず(明治25年でもこの状態)
故に、これらはその有無を探索するものの如きなるも御訓令なくては探検の事柄不相分、
また練習船たる海門を探島のため派遣するには46名の練習火夫は乗せ置き難く
一時練習船の名義を除き、同船昨年北海道に派遣せられたる例により
特別役務を命ぜらるべき順序と思考し、別紙甲乙2度井上参謀部長には
照会いたし置きたり。(エーカゲンな命令を出すなよ、ということ)
右の実際につき私に以って海門を是○御派遣なる儀に候へて、大臣殿より
相当の御訓令相成るよう御取り計らいたく候なり。
明治25年7月4日
伊藤海軍次官殿 」
実際に那覇について冷たくあしらわれた事からすると、県知事の探検上申が本当にあったのかアヤシイです。
知事が個人的に参謀部長にもらして、参謀部長は何も調整せず勝手に命令を出してしまった。
派遣される長崎鎮守府はナニ勝手なこと言いやがってと参謀部長の上司である海軍次官にネジ込んだ。
そんな風に想像できます。
とはいえ、名義さえ変えれば訓練生をのせていてもOKという鎮守府の考えもどうかと思うなあ。
しかも、急に派遣されたので長崎での修理に手間取った始末。
訓練中にもかかわらず台風の来る沖縄・大東島に派遣される中古艦海門は大変だったでしょう。
復命書では大東島・沖大東島を訪れたとの記述はなく、航海図には
8月4日 那覇出航して東進し
南北大東島の間を通過して南進
8月6日 沖大東島の東を通過しても島が見つからずすぐ戻り(海図の間違い)
途中で浅瀬を発見
島をようやく発見、天測により位置を修正
大東島に向け北進
8月7日 大東島の東側を通過し
大島に向かう(いつ到着か記入なし)
以下がその復命書「無人島探検報告書」です
軍人らしく抑えてはいますが相当に辛辣な内容です。
明治25年7月27日午後1時38分抜錨、長崎港を発し2時10分まさに高鋒を経過せんとするに
おいて機関に軋熱を起こし為に進路を転じ高鋒と立神岬との間に仮泊し直ちに機関の
調整に取り掛かりて午後11時頃に至り之をしまう。
港で修理してから出発したはずなのに?
同28日早天より不穏の兆しあり、甚だ不安心なる故、暫く出航を見合わせ午後1時15分
端艇を下ろし航海士志摩少尉を長崎測候所に派遣し警報の有無を問い合わせたる所
今朝9時発の東京通信に日本北部もしくは朝鮮海の近傍台風の兆しありと来報ありし趣を
承知せり、依って本日は出航を見合わせたり。
当日にならないと判らないのか?
なぜ直接に東京に問い合わせない?
同29日午前6時抜錨。牛深に向かい発航す。これ機関の調整を試みるの目的を以てなり。
午後4時頃同地へ投錨仮泊す。
同30日午前6時抜錨出航せり。5~6里を行進するに及びて更に機関に故障を生じ再び牛深港に
投錨仮泊せり、この故障たる気缶のストップバルブのハンドル破損したるを以て
一旦蒸気を落としこれが修理を要せり。本日午後に至り右修理を終われり。
同31日午前6時抜錨出艦SWに進路を定め沖縄県那覇港に向かえり。
おや風向きだけは英語ですか
8月1日終日航行。海上SW風にして時々驟雨を来たすも波浪高からず。
同2日未明に始めて伊平屋島を望み9時42分那覇港に投錨す。後ち副長中尾大尉をして
県令を訪問して傍ら今回無人島探見のため回航の事由を伝え、且つ、県庁より人員派遣等の
有無を協議せしむ(拙官発熱のため引入中に付き代理)のち副長帰報して曰く
県令は近々交代退庁の趣にて面会を遂げず、依って書記官檜垣直枝氏へ面会懇々協議に
及びたる所、彼大東島の如きは既に両回も踏査を遂げたるに付き、今日においては別に
踏査員を派遣するの必要なし、時宜に依りては諸島開墾志願者の中2~3名を依頼に及ぶかも
計り難く、その他諸島に関する従来の経歴は別冊帳簿に就いて承知ありたし云々の
挨拶にて別に県庁において必要の目的も無きやに察せらりたり。
とにかく、諸帳簿は参考として備用し来れりとここにおいて拙官は県庁の冷淡なる固より
怪に足らず、右無人島踏査の件についてはすでに明治18年頃内務大臣の内命により
要するに内務省と海軍省の風通しの悪さというわけですか
協同汽船会社所有の出雲丸を雇入し親しく大東島以下諸島の踏査を実施せしめ
その報告等も可なり。詳密なりもの数通ありて今や探見の必要とも思われず
依って方方察する所或いは本県庁より上申の趣旨と海軍省の命令とは少少相齟齬するところ
なきやの疑惑を生じたるを以て予て備用の書類を少しく質問の要する件あり。
齟齬は認めたがその原因は海軍ではなく沖縄県にあるとほのめかしている
右関係の庁員1名来艦ありたき旨を県庁へ照会せり。
同3日午後2時頃檜垣書記官並びに沖縄県属戸田敬義を同伴来艦に依りて
病若を侵して面会の上左の要領を質問す
本当に病気だった?
一 本県付近の無人島探検のいたる去る明治18年頃始めて本県今より内務大臣へ具申の末
右探検のため軍艦を派遣するに付き、県令自らこれに本艦に出張すべき指令ありしものの如し
二 さて本県令より右探検の要領を伺定けし且つ海軍大臣へ軍艦派遣の如きは少なくも
40日間以前にその出発の報を得たき旨上申されたるものが如し
三 その後内務大臣の内令に依り協同汽船会社所有出雲丸を雇入れ、県属等数名を派遣され
南北大東島・久米赤島・魚釣島・久場島の5島精密に踏査を行われたる者の如し
四 以上の事実に依ればラサ・南波照間の2島を除き他は既に無人島探検の時期経過せし者のごとし
然るに本年1月に至り更に無人島探検を海軍大臣へ具申されたるは抑も何の目的たるや
これまで踏査を遂げ得ざりしラサ島ならびに南波照間島の2島を探検されたしとの注意なるや
或いは、踏査既済の諸島においてその位置周回等を精測されたしとの義なるや
今海軍大臣の命令及び鎮守府長官の訓令の意を察するに、本県の事実と少しく相齟齬
するやの疑いあるを以て仔細の説明を承知したし
檜垣書記官答えて曰く、本件は専ら旧県令丸岡氏の意に出たるものにして本官は
あまりその意を説明し難し。因って一応退艦の上旧県令の意見を聞き何分の次第を
確答にすべしと一旦退艦せり。のち、戸田属ふたたび来艦、右説明の大意に曰く
一 南北大東島は既に両回の踏査を遂げその地勢風土等も細かに調査せんを以て今や探検の必要なし
二 本年1月海軍大臣へ具申の本音は従前より未着手のラサ・南波照間の2島探検にありて
久米赤島・魚釣島・久場島3島は先の踏査不十分のため右2島探検の序を以て今一度
探検ありたしとの主意に外ならず
三 ラサ・南波照間の2島は位置の判明せざるのみならず、其の有無さえ確然たらず
故に雇船を以て之を探検するも到底其の効覚束なし。依りて右2島の探検は
之を海軍に依頼せし所以なり
そんなワケワカラン探検に県の金など出せません
・・・・・
鎮守府長官の訓令固より動かす可からず、
・・・・・
今回は先ず南北大東島及びラサ(沖大東)島の3島を探検し其の結果を報告するに決せり
同4日午前8時30分抜錨出艦、沖縄島の南角を廻り
同11時進路をE(1/4)Sに定め南大東島に向かえり。この日天候晴朗波静穏なり
同5日午前7時始めて南北大東島を左舷艦首に望む
・・・・・
上陸の用意に掛る時既に11時8分なり。上陸員は左の如く定め、之に与える訓令及び信号等左の如し
上陸員は8名(士官1・少尉候補生1・軍医少佐1・水兵4)
カッター1隻にさらに少尉1・艇員13を用意している
訓令では8名を上陸させ、海門はその後北大東島を廻ってラサ島を探した後、南大東島に戻るとある
同6日今朝6時頃には必ずラサ島を10里以内には望見するの
予期なりしも、同時に至り更に島影を見る能はず。
ウロウロ探し回ったあげく、午後2時前にようやく発見。海図のせいにしている
再び上陸するが今度は3名(大尉1・水兵2)を午後4時に出発させた
6時48分に3名はカッターで戻るが、海門はその間フカを釣っていた(大漁)
そんな夕方の短時間で何がわかる?
同7日午前4時51分南大東島を右舷艦首に認む。6時53分既に
同島の北東海岸に近通せるを以て例の如く本艦を漂泊し、先ず大砲を3発・サイレン長声3回
の信号をなし、陸上の員へ帰艦を通じ・・・・・
同8日午前5時右舷艦首に大島を、左舷艦首に徳之島を望見す
午後4時名瀬港に投錨寄泊す
同9日同港滞泊
あ~休養というヤツね
同10日午前8時15分抜錨出艦、進路をN(1/4)Wに定め
佐世保軍港へ向かえり。この日天候晴朗風向東にありて好須風なり
同11日0時46分佐世保軍港へ投錨寄泊す
・・・・・・・・・
明治25年8月12日 海門艦長海軍大佐柴山矢八
佐世保鎮守府司令長官林清康殿
海門艦長柴山矢八大佐の復命書の最初のページは何と
なぜカニ(ヤシガニ)なのでしょう? 結構ウマイ図です。
柴山大佐が描いたかどうか判りませんが、どんな皮肉を込めたのでしょうか?
海門の歴代艦長
坪井航三 中佐 | 1883年8月16日 | 1884年2月9日 |
磯辺包義 中佐 | 1884年2月9日 | 4月15日 |
児玉利国 中佐 | 1884年5月19日 | 1886年1月6日 |
隈崎守約 中佐 | 1886年1月6日 | 1886年7月14日 |
新井有貫 大佐 | 1886年7月14日 | 1888年6月14日 |
尾本知道 大佐 | 1888年6月14日 | 1889年3月9日 |
(心得)平尾福三郎 少佐 | 1889年4月12日 | 8月29日 |
平尾福三郎 大佐 | 1889年8月29日 | 1890年9月17日 |
松永雄樹 大佐 | 1890年9月17日 | 1891年12月14日 |
柴山矢八 大佐 | 1891年12月14日 | 1893年4月20日 | 大東島探検 |
(心得)桜井規矩之左右 少佐 | 1893年5月20日 | 1894年6月8日 |
早崎源吾 少佐 | 1895年8月20日 | 1896年4月1日 | 台湾攻略 |
梨羽時起 少佐 | 1896年4月1日 | 8月13日 |
大塚暢雄 少佐 | 1896年8月13日 - |
新島一郎 少佐 | 1897年4月17日 | 10月8日 |
大井上久麿 少佐 | 1897年10月8日 | 12月1日 |
矢島功 中佐 | 1897年12月27日 | 1898年2月10日 |
有川貞白 中佐 | 1898年2月10日 | 1899年9月29日 |
高橋守道 中佐 | 1901年3月23日 | 1904年7月5日戦死 |
さらに少し前
台湾調査に行く前年(明治24年)に海門は千島列島の調査を何度も命ぜられています。
「千島群島巡航報告」
8月9日 午前4時7分根室出艦
同日 午後7時43分エトロフ島内保湾に投錨
同12日 午前7時6分内保出艦
同日 午後3時12分エトロフ島紗那湾に投錨
同15日 午前4時30分紗那出艦
同16日 午後0時24分シムシル島ブロートン湾岬外おおよそ5海里の所より
深霧のため進路を転じ沖合に漂泊す
同日 午後3時28分霧少々晴れる依りて針路を定め航行同6時30分シムシル島ブロトン岬の
北側無岩湾に入るも水深く風向き覇泊に便ならざるを以て沖合いに漂泊す
同17日 午後4時霧少々晴れる依りて針路を定め7時45分ブロートン湾口外にストリームエンコルを投ずるも
遂に効なきに依り直ちに沖合いに出て漂泊す
同18日 雲霧及び北西偏風高浪のため漂泊
同19日 午前7時雲霧少々晴れる依りて針路を定め航行、午後4時35分よりブロートン湾内外の
視察大要を終え同7時4分針路を定めウルップ島に向け航行す
同20日 午後1時3分ウルップ島トコタン湾に投錨
同21日 午前3時58分トコタン出艦
同日 午前11時58分エトロフ島シベトロ湾に投錨
同日 午後1時53分シベトロ出艦
同日 午後5時30分エトロフ島ペットブ沖に投錨
同22日 午前5時52分ペットブ出艦、シヤマンベー湾を経て午後1時59分エトロフ島ルベツ湾に投錨
同日 午後6時2分ルベツ出艦
同23日 午後2時4分根室に帰航す
右概要とりあえず報告候なり
明治24年8月23日 根室港 海門艦長松永雄樹
海軍大臣子爵樺山資紀殿
「千島群島巡航報告」
9月6日 午前7時46分根室出艦
同日 午後5時33分国後島セセキ沖に投錨
同7日 午前7時36分出艦
同日 午後3時27分色丹島斜古丹港に投錨
同9日 小汽船を以て色丹島のうちアナマ湾及びマタコタン奥巡察
同12日 午前10時25分斜古丹港出艦
同 午後4時13分色丹島松ケ濱湾に投錨
同13日 午前7時7分松ケ濱湾出艦、同島ノトロ奥視察
同 午後3時4分根室にに帰航す
右概要とりあえず報告仕り候なり
明治24年9月13日 海門艦長松永雄樹
海軍大臣子爵樺山資紀殿
「千島群島巡航報告」
10月2日 午前11時5分根室出艦
同3日 午前9時47分エトロフ島ヒトカップ湾に投錨
同4日 午前6時16分ヒトカップ湾出艦
同日 午後5時23分エトロフ島モヨロ湾に投錨
同5日 午前5時10分モヨロ湾出艦、ウルップ・シムシル・ケトイ・ウシシル・ラスツア・マツア・ライコケ諸島
の東南側を巡航の末炭水その他の都合に依り同6日午後4時帰航の針路に変ず
同9日 午後0時6分色丹島松ケ濱湾に投錨
同12日 午前6時12分松ケ濱湾出艦
同日 午後2時27分根室投錨
右概要とりあえず報告候なり
明治24年10月12日 海門艦長松永雄樹
海軍大臣子爵樺山資紀殿
このように海門は3度にわたって根室を拠点に千島各地を巡察するのですが、探検とか測量などは一切していません。
その目的は探検ではなく、外国の密漁船が多く出没するので、その実情を調査することにありました。
時期は既に遅く、実際の取り締まりはしていません。 なぜそんな時期を選んだ?
東京にいて命令を受けてから出発まで数日しかなかったが、そんなに急ぐ理由がない。
途中強風や濃霧のためかなり足止めされており、急いだ意味がなくなっている。
なぜ軍艦が? という疑問がわきます。当時は巡視船などなく、軍艦が行うしかなかったのではと推測しますが
では、なぜ海門が? 他にも軍艦があったのに。
松永艦長の報告書はいろいろな妄想を引き起こします。 柴山報告に比べると別の意味の面白さです。
3度の巡察で松永大佐の概要報告は、紋切文で、しかも各回の出航時間もよく似ており、彼が定型業務をこなすタイプ
だということがわかります。(ということは突発事態には弱い?逆に柴山大佐はどんな事態にも動じない?)
ところが、別冊(大田数孝が書いたらしい)では訂正が多数あり、なぜそんな状態のまま提出したのか理解し難い。
事務に強い大佐がなぜ未清書の書類を添付したのか? 書いたのは部下でも、その指示監督責任を問われるのに?
よっぽど海軍用紙が不足していたか、普段から備品・消耗品の無駄使いにうるさい人なのか
どうも後者の気がするのですが、これは妄想です、念のため。
おまけ
公文書館のアジア歴史資料センターに年表があります。
国際条約とそのときの国内・海外の動きを一覧に並べたもので、全体の流れが読み取りやすいのです。