39.旧好茶村への回帰

長いあいだ「積ん読」状態だった原住民文化の本をジックリ読む機会があり、僕の理解と大きく違っていたので、整理する意味で関係する部分を紹介します。
題名「台湾原住民文化(1)」光華書報雑誌社刊 

「重回旧好茶」
経済・教育・医療・その他の理由からたいていの人は都会をめざす。しかし、好茶村の魯凱族のいくらかはそうではなく、嵐に立ち向かうことを好み、山岳の中で不便な通信手段しかなく物資も不足するような生活を選択した。なぜ?
屏東県の瑪家山地文化園区は有名な観光地で、台湾の九族原住民の文化を理解するよい場所でもある。園区の道路をそのまま進むと甲種山地管制区の検査所がありそこから30分で南隘寮渓のほとりの新好茶村に着く。
新好茶村ができた理由は、旧好茶が僻地にあったことによる。村の外へ出ることは難しく、医療・教育あるいは経済的にあまりに低いレベルにあった。住民の生活改善のため、旧好茶村の住民は移転することを1974年に決めた。1978年には南隘寮渓の下流で水門から8kmの現在の位置に移転する許可が出た。移転は1979年には完了した。
それから間もなく、瑪家ダムが建設されることになり新好茶村は水没エリアに含まれていた。住民は一体どこへ行くのかわからなくなっていたが、たまたまその1年前に旧好茶村が2級古蹟に指定され、これを契機に旧好茶村への回帰希望が芽生えた。
魯凱族の邱金士は旧好茶への復帰を積極的にうたい、新好茶と水門を結ぶ道路が建設される以前には6時間も山道を歩なねばならなかったことを問題にした。最大の問題は病人を運ぶのに時間が大変かかることであった。病状が悪化したり場合によっては手遅れとなった。

故郷への遠い道
新好茶への移転によって医療の問題は完全に解決された。しかし住民に外部への交通が確保されたと同時にもっと他に問題が生まれた。
好茶派出所のKo Chi-Liの統計によると好茶には118家族430人が登録されていた。しかし働くためあるいは教育のため外部に出ているため通常は100人程度の老人と小さな子供しかいなかった。昨年(民国82年以前)好茶小学校は児童の数が少なくなったことから閉校になった。外に出ている住民は豊年祭や長期休暇に戻ってくるだけとなっていた。
しかし、外部の異なった環境にさらされ貧しい状態にある人々はもっと抑圧を感じていた。
49才の邱金士は人生の半分を平地で過ごしてきたが、彼の経験では、もし原住民が仕事で平地人と競争になれば彼が極めて優秀でない限り認められることはない、であった。
邱が都会を離れることができずに山に戻ろうとしたのか、いぶかしむ人がいるだろう。事実はこうだ。邱は分校で勉強してから大学を卒業するまでになった。ビジネス管理を勉強し退職するまで経理の長として働いた。三地門へ続く水門のメインストリートに3階建ての家を持っていた。長年耕した畑では各種の果物がとれ、彼の人生は大変良かったと言える。
退職後、邱は自宅で書き物に没頭した。人生での経験や都会での生活で感じたこと思ったことを書きたかった。また彼は部族の老人を訪れ、昔話を記録し、旧好茶の全家族の系図を作成した。 邱が旧好茶へ戻ることを決意すると彼の家族は当然に反対した。なぜ彼はこの難しい道を選んだのか?

心動不如行動
実際問題として長期間の住処というのは1つではない、と邱は言う。なぜなら瑪家ダムは遅かれ早かれ建設され、新好茶村は確実に水没してしまうと。水没するということが村人にパニックをもたらしていた。
魯凱族の老人の経験からすると、川のほとりの檳榔の木が腰まわりほどに太く育つと川の氾濫が近づいているそうである。この言い伝えを知る人は新好茶村の地形図を見、そして瑪家ダム建設のもたらす影響を考えた時、言い伝えは正しいように見えた。
この理由から邱は、心理的反応は物理的行動と同じくこの場合は良くないと感じ、村人への啓蒙活動を始めることにした。彼が旧好茶村への期間を提唱した時、多くの老人は肯定したが若い人達はまだ懐疑的であった。幾人かは彼の考えがばかげているとか実際的でないと考えていた。−どうやって過去の生活に戻ることができようか?これには最初の移転時の動機がいまだ消えておらず以前の問題がいまだ残っていることによる。
輸送・薬品・教育その他の問題に直面して、邱はいくつかのアイデアを持っていたものの多数の同意を得るまでに至らなかった。それでも彼は信念にもとづき行動した。昨年10月末(注1992?)に邱は慮朝奉・江得洋など5人の好茶老人を招き、旧好茶の石造家屋を立て直すためであった。5日間の作業で、人間国宝の彫刻家力大古の家を復元することができ、ほかの4軒の家も修理できた。
これらの石造家屋は長年旧好茶に建ち村人が生まれ、育ち、病気にもなりそして死ぬのをずっと見守ってきた。現在その多くは崩壊しているが、かつての輝かしい歴史をいまだ持ち続けている。
旧好茶の石板屋根の家の前に立つと、正面には北大武山が高くそびえ、東には霧頭山が見え、はるかに南隘寮渓と排灣族の筏灣部落が見える。

雲豹の故郷
好茶村の伝説的始祖Puranuyanはずば抜けた猟師であった。600年前、台東から1匹の雲豹を従えて渓谷を遡り北大武山と霧頭山の間にやってきた。雲豹はある滝の下の小さな湖のほとりから離れなくなった。この滝から200mの場所が後日に好茶と呼ばれる。その時になってPuranuyanはそこが住むには絶好の場所だと気がついた。彼は台東に戻り友人や親族を連れて移住にやってきた。
この伝説によると好茶の人々は雲豹を聖なる動物とみなし決して猟の対象とはしなかった。村の横の湖は村の飲み水となるため村人は清らかに保つことを重要と考えた。井歩山に発する小さな滝はこの伝説から天からさずかったおのとして敬われた。
新好茶から旧好茶への道は約5kmで山肌にそって曲がりくねっている。道の最初と最後は平坦だが、中間は高度差のため歩くには厳しい。道にそって3箇所の休憩地があり、最後の休憩箇所はオーバーハングした丘の上で脇には赤ニレの木があり腰掛ける適当な石もある。
昔はニレの木のあたりは好茶への入り口であり、好茶の魯凱族と隣の排灣族との諍いには戦略的に重要な場所であった。赤ニレの木のそばに立つと山の麓が一望でき敵のどんな動きも知ることができる。守るには好適な場所であった。大昔に筏灣村と馬兒村の排灣族村長の首がこのニレの木にぶら下げられ、敵の軽挙盲動に対する警告とされた。
それ以来、この赤ニレの場所は好茶文化の重要な一部となっている。これは古い中国での「亭」に相当する。村人が仕事のためなどで長い間村を離れる時に友人や家族はこの場所まで見送りにきたそうである。また逆に、結婚して嫁にやってくる時や重要な客がやってくる時にはここで出迎えた。言い換えると、この赤ニレの木は他の誰よりも旧好茶の歴史を知っている。

獲致外来助力
旧好茶の最盛時には強力で清帝国や占領日本の影響はあまり受けなかった。人口が増え外部の近代文明と接触するようになると、人口は次第に減りはじめた。1961〜69年の間に80家族以上が出て行った。
1979年の村の移転で山中の生活の構造は悪化し、今や旧好茶に住むものはいなくなった。 旧好茶を失った魯凱族にとって同時に自分自身を失うのと同じことであり、深い悔恨をもたらした。邱金士が故郷に戻ることを言い出してから、邱は原住民文化の保護に熱心な人々から同情と支持を受けるようになった。
その中に写真家の王有邦がおり、彼は魯凱族の文化について仕事をしていた。彼はすでに1年以上にわたって旧好茶の石造家屋や木々や草花まで撮影していた。咋8月の新好茶での豊年祭において、彼は旧好茶の状況の写真展を開き村人に希望を持つよううながした。
山地文化協会会長の洪国勝はしばしば友人や台湾原住民文化に興味を持つ人々を連れ旧好茶を案内してまわった。彼は脚光をあびることで多元文化に一般大衆が興味を持つようにしたかった。 原住民文化を存続させる目的の定期刊行物「原報」はこの運動に大きな力を与えた。発行者趙貴忠は旧好茶の出身で好茶小学校の最後の卒業生でもあるので、この考えには自然に支持するようになった。また彼は昨年、旧好茶で魯凱キャンプを開き、3日間の活動で多数の魯凱族の若者が彼ら自身の文化について理解を深めることができた。
村の再建修理の資金を集めるため、邱と趙は「重建旧好茶」ロゴのTシャツを作って販売した。それは政府が本格的な資金援助をする前に数軒でも石造家屋の修理をするためであった。

生存是最大難事
これらの支援者の情熱と対照的に好茶住民は比較的に保守的であった。事実、そこには難怪なものはないが、最も大きな音で太鼓を叩いているのは外部の人間であり、村人とは違って旧好茶に戻ってからどう生活するか心配しなくていい人であったから。
ここが邱にとっての問題であり、村人を啓蒙するのにどうしたらよいのかわからなかった。村人に北西風を避けて暮らせと言えないように。原始的な生活に戻るのは今更不可能であった。
邱は言う。平地での世界に触れて10年以上も暮らして村人は近代文明について学んできた。これが将来に山に戻っての生活に大きな助けとなるはずだと。そこが山だからと言うだけで原始的な生活を送らねばならないわけではない。過去10年以上の間に得た経験から村人は先祖から受け継いだ伝統とその経験とを融合し、現在の生活よりずっとよい生活を送るべきだと。
がしかし、村人は一体どうやって収入を得るのか?狩猟はもはや非現実的である。邱は、現金収入は山の斜面での高価値作物の栽培による、と言う。例えば、日本の農業専門家の指摘によるとここの土壌はコーヒー栽培に適している。
また彼は、村人が手工芸品を作って売ることができれば収入増加の一方法となると考えた。
国立屏東教育大学の高義軍助教授は25年にわたって旧好茶の文化研究をしており、彼はこの点ではもっと慎重な立場にある。芸術の面から見ると、原住民の手工芸や芸術作品のすべてが素晴らしいというわけではなく、たくさん売れるとは思えない。弱さ・貧しさへの同情のシンボルになってしまう。彼らの作品をアフリカ・バリ・中南米での作品と比較すれば大きく遅れている。 残念ながら現在の彫刻家には自分の作品の良さを判断する能力がなく、ムカデを彫ってるだけでそれが売れると考えている。作品を買うべき一般の人の共感が薄れれば結果は悲惨なことは目に見えている。
もし手工芸品をそのようなことにしたくないなら、最良の道は手工芸品を現在の生活でも使えるものにすることである。(このあたりの論議はかつての日本での民芸運動に似ている)壁飾りとか灰皿とか。魯凱族の荒い織物は進んだ技術であり、テーブルクロスや壁掛けになりうる。

保存石板屋文化
輸送を考慮して現代では産業道路が建設されているが、政府は将来に補修することを考えてはいない。旧好茶への道路が建設されても、それは問題の半分が解決されたに過ぎない。ある人は旧好茶に直接つながる道路は建設すべきでなく、どこか途中から徒歩で行くようにしたほうがいいと考えている。それによって外来文明からの汚染をすこしは防ぐことができると。
2級古蹟に指定されてようやく、旧好茶の保存の基礎が固まった。
現在の急務は石造家屋の修理と保存である。高教授が1967年に作成した旧好茶の住居配置図をもとに行われている建設で村は印象的に蘇った。また、村の配置の特殊性から観光客には道や家のありかがわかりにくかった。これは外部に対する防衛のため村内に入りにくくしていたのである。
平たい石板を積み上げてつくられた家はたったの1mしかないように見える。入り口と窓は日の出の方向に作られ、石造のため夏は涼しく冬は暖かいのである。
邱金士が自分のポケットマネーで修復した5軒を除いて、再建の第1段階は村の北側に位置する村No.2のAn-Mu-Lanの家の周辺から始まった。この作業では家の修復とまわりの道の掃除、木彫刻や石彫刻の修繕と作成などである。
現在の最大の問題は、村長Ku-Tseng-Hsiuによるとヒツジである。ヒツジが2級古蹟の家の上を踏み荒らして激しい破壊をもたらしているのである。(このヒツジが野生化したものか村長の飼ってるものかは不明)
これらの修復計画は台湾大学の建築科や都市計画科が立案している。高義軍によると修復の優先順序は段階を追って考えられ、さらに家々の特性も細かく考慮される。
邱の計画では、生活しやすくするためには村人が戻ってくる魅力を感じるために石造家屋を改良する必要があると。このため政府が適切な費用を負担することになる。

保存活的生活(生きている生活の保存)
古い習慣へ戻る勇気と理想は最初の一歩であり、そうすることで村社会に属していることを強く実感させる。都会で働く若い原住民で都会に住むことに失望していたり適応できない者はこの理想を支持するだろう。重要なことは、具体的行動と将来の生活を考慮するうえで、如何に村社会への従属感を持たせるかにある。上記の最初の一歩では具体的行動は伴っておらず、却って傷つくかもしれない。原住民によって理想と行動が支えられねばならない。
旧好茶への帰還は難しくはないだろう。難しい問題は道路にあるわけではない。むしろ問題は帰還後にどう生活を続けるか、どう外部社会と折り合いをつけていくかにある。種々の措置や公共施設が継続されるなら、多くの村人が帰還するという理想が一歩実現するに違いない。 了
[原文は光華雑誌1993年2月号 鄭元慶、Phil Newell英訳]


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