21. ジャーディン・マセソン商会
あまり聞たことがない会社名でしょうが、実は日本にも深い関係がありました。
幕末を背景にした小説「交代寄合伊那衆異聞」では長崎から香港・バタビアへ飛び出す武士を主人公にして
ジャーディン・マセソン商会は深くかかわっています。
小説ではなく実際はどうだったのでしょうか。
ごく手近にWikipediaでどう紹介しているか?
   ジャーディン・マセソン(Jardine Matheson Holdings Limited, 怡和控股有限公司)は
   香港に本拠(登記上の本社はバミューダ諸島・ハミルトン)を置くイギリス系企業グループの持株会社。
香港のJardine House
   ロスチャイルド系であり、米誌フォーチュン誌の世界企業番付上位500社の企業ランキング
   「フォーチュン・グローバル500」(2009年度版)では世界411位。
   創設から170年たった今日でも、アジアを基盤に世界最大級の国際コングロマリット(複合企業)
   として影響力を持っている。
       世界最大級と言いながら400位はちょいとオカシイなあ
同じランクの日本企業
356中部電力
379アイシン精機
389昭和シェル石油
400富士フィルム
422住友電気工業
427日本たばこ産業
428マツダ
436小松製作所
と比べると企業規模が想像できます。
ところがグループ企業を並べるとビックリです。
Jardine PacificGammon Construction
HongKong Aircargo Terminal
Jardine Aviation Service
Jardine Engineering
Jardine OneSolution
Jardine Property
Jardine Reastaurant
Jardine Schindler
Jardine Shipping
Jardine Travel
Jardineの実業部隊?
Jardine MotersZung Fu
Jardine Moters
中国・香港での自動車販売
Jardine Lloyd Thompson  保険
Jardine Strategic 持株管理
HongKong Land 不動産
Daily FarmWellcomeスーパー
Manningsドラッグ
Seven Eleven香港
Seven Elevenシンガポール
IKEA 香港
IKEA 台湾
Starbacks香港
Starbacksマカオ
元気寿司
Mandarin Oriental ホテル
Jardine Cycle & Carriage
Astra International
自動車販売
Rothschild Continuation ロスチャイルドの持株会社
Jardine Freming 現在はJP Morgan
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さらにWikipediaではこんなことも。
   前身は東インド会社で、元は貿易商社。
     これは間違い。東インド会社の仕事をしていただけ
   1832年、スコットランド出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンにより
   中国の広州(沙面島)に設立された。中国語名は「怡和洋行」。この名前がDoddの話で出てきました
   当時、広州はヨーロッパ商人に唯一開かれた貿易港であった。
     もっと多くの港を開く要求は当然あった
   設立当初の主な業務は、アヘンの輸入と茶のイギリスへの輸出。
   同じロスチャイルド系の香港上海銀行(HSBC)は、ジャーディン・マセソンなどが香港で稼いだ資金を
   イギリス本国に送金するために設立された銀行である。
     HSBCビルはJardine Houseの側にある
   清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争に深く関わっている。
   アヘンの輸入を規制しようとする清朝政府とイギリスの争いが起こった際に、当時のアヘン商人の一つである
   ジャーディン・マセソン商会のロビー活動により、イギリス本国の国会は9票という僅差で軍の派遣を決定した。

左がWilliam Jardin     右がJames Matheson



どうです? かなりイカガワシイ会社だった(現在は違うでしょうが)のです。
もっとも、これはJardin Mathesonに限らず幕末から明治にかけての欧米会社はどこも同じで
弱体化して崩壊寸前の清の富を欧米で搾取していたのはまぎれもない事実です。
当時の日本も危機にあり、日清戦争や太平洋戦争では逆に中国・アジアに打って出たとも言えます。
Jardine Mathesonなど欧米商社はアヘン輸入と茶葉輸出でボロ儲けしており、はしこい欧米商人は生産者と商社の間で儲ける図式が浮かびます。
John Doddは当初は茶葉輸出でそのような活動をしていたのですが、直接に消費地に輸出する方向に進みました。
儲けは大きいのですが、船の難破・海賊の跳梁などリスクも大きかったのです。
もちろん、Jardine Mathesonとよい関係を続けるのは難しく、英国政府出先機関・英国海軍ともモメたでしょう。
茶葉商人Doddと英国領事Fraterの関係はそういう点から想像してみてください。
彼の文章のあちらこちらに、Fraterに対する揶揄があります。
ところが、彼が台湾での代理をしていたJardine Mathesonについては全く記載がありません。
よほど怖かったのでしょう。(いつかJardine Mathesonの膨大な記録文書をあさってみたいものです)
彼ら英国商人が英国政府に守ってもらうためには、領事よりもJardineとの関係を重視する必要があったのです。

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日本とJardine
Jardineにとって日本は極東の小国、商売の相手では格下だったでしょう。
それでも、支店・代理店などの出先機関が必要で、その例としてWikipediaにも出ているのが
     横浜支店     1859年(安政6)William Jardineの甥William Keswickが初代支店長

              Keswik一族は後にJardineオーナーとなる。(今も)
     長州五傑     1863年(文久3)伊藤博文ら5名の英国留学をWilliamが支援し
              James Mathesonの甥Hugh Mathesonが滞在を世話した。
     グラバー商会   1859年(安政6)Thormas Graverが長崎にJardineの代理店を設立。
              Graverは五代友厚・坂本龍馬・岩崎弥太郎を支援した。

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Matheson一族の紹介はここにあります。
その中でJardine Mathesonに関わる部分には興味深い名前が出てきます。
   一族はScotlandのAberdeen(東部)Blair(中部)などに住んでいたが後にLochalsh(西部)に。
        Doddもスコットランド出身(どこか不明)
   JamesはWilliam Jardineとアヘン貿易を始めた。
   一族の収益はアヘンなどのドラッグ貿易によるものだったが、Davidはその薬害を理由に退職した。
   Jamesの甥Hughは鉱山業を始め、その会社Rio Tinto Zinc Companyは今も発展している。
   Jamesの母方の一族Mckaysは蒸気船会社を経営しており、アヘン貿易にも関わっていた。
        馬偕もこの一族か?
   William Jardineもスコットランド西部のLochmabenの農家で生まれ、エジンバラ大学で薬学を学び、王立外科学校で学位を取った。
   東インド会社の船Brunwickの船医としてインドから中国まで旅行し
   Mathesonと共同で商船Sarahを所有した。1820頃までWilliamはアヘン商人として広東に住んでいた。
   1832年にWilliam JardineとJames MathesonはJardine, Matheson & Company of Cantonを設立した。
   Jardineは未婚のまま1843年に亡くなる。
   Jamesはロンドンの本社の名称をMatheson & Companyと変え、英国議会でのJardineの席を引き継いだ。
   Jamesはカナダ人女性Mary Jane Percivalと結婚したが子供はなかった。
   1878年にフランスで亡くなる(90歳)
      Mentonは南仏ニースの近郊(82歳が正しい)


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英文Wikiを見るともう少し詳しいことが記載されていました。
   Jardine Matheson設立には2人が上級パートナーで、、Hollingworth Magniac, Alexander Matheson,
   Jardineの甥Andrew Johnstone, Mathesonの甥Hugh Matheson, John Abel Smith, Henry Wrightもパートナー。
   1834年に英国議会は清との貿易で東インド会社の独占を終える決定をした。
   このチャンスをとらえ茶葉を英国にSarahで送った。
   Jardine Mathesonは東インド会社の代理店からアジアにおける英国最大の貿易会社に変貌し始める。
   Mathesonはロンドンに戻り、清に英国政府から圧力をかけてもらおうとしたが失敗し
   外務大臣Wellinton卿を怒らせてしまった。1838年にはロビー活動のためJardineがロンドンに戻ることになる。
   Jardineは新しい外務大臣Palmerston卿を動かして清とのアヘン戦争開始に成功した。
        政治力はMathesonよりJardineがはるかに上でした。
        ひょっとするとWellinton卿をひきずり降ろす工作もしたのでは?

   戦争の結果の南京条約でJardine Mathesonは広東だけでなく香港・清全土に拡大できた。
   1843年にJardineの死後、Jamesの2人の甥DavidとAndrewが補佐していたが
   間もなくJamesは別の甥Davidに会社を譲った。
   1843年にJamesはMary Jane Percivalと結婚し、翌44年にスコットランドのLewis島を50万ポンドで買い
   さらにStornoway近くにLewis城を建てて住んだ。

   島の開発(道路・排水など)に熱心で、国会議員にもなり、死後男爵を授けられている。
   1878年にフランスのMentonで82歳で亡くなった。
   妻はLewis城に彼の記念碑を建てた。


        (この碑文には1796年11月17日生、1843年11月9日結婚、1878年12月31日死亡とある)


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Undiscovered Scotland / The Ultimate Online Guide to Scotlandというサイトを見つけました。
James MathesonはSutherlandのLairg近くにあるShinessで生まれた。
父はインドで貿易商をしており、Jamesはエジンバラ高校・エジンバラ大学で学んだ。
卒業後は父親の足跡をたどりインドで貿易商となった。
1828年にスコットランド人William Jardineと共同で商社Magniac and Co.を運営した。
これで互いのパートナーシップができあがり、1832年7月1日に Jardine, Matheson and Company Ltd.を設立し
清との間でアヘン・茶葉などの貿易を始めた
ただしこれは英国東インド会社と密接に関係していた。
数年後に英国議会が東インド会社の英清貿易独占を禁止したのちJardine Mathesonsは素早くアジア貿易の重要な地位を占めるようになった。
1841年にはJardine Mathesonsは19隻のクリッパーを保有し、ライバルの13隻よりも多くなった。
それ以外にの100艙以上の小型船・ジャンクなども保有した。
商売の主な内容はインドから中国とのアヘン茶葉絹貿易・フィリピンとの香辛料砂糖貿易であった。
船主だけでなく保険代理店・港湾設備運営も行った。
清がアヘンの流入を止めようとした時、William Jardineは他の貿易商の支援を受けて英国政府を動かし
戦争を開始させ、1839年から1842年に英国の勝利で終り、アヘンは再び清に持ち込まれ、その利益は商社を潤した。
第1次アヘン戦争では香港の植民地化ももたらし、それは1997年まで続いた。
1843年2月にWilliam Jardineが亡くなるとJardineはDevonのAshburton選出国会議員を受け継ぐ。
1843年11月9日にMary Jane Percivalと結婚する。
その後に彼はLewis島を19万ポンドで購入した。
当時の規範としても彼は領主として十分以上に投資を行い、失業者を救い、貧困をなくした。
事業には道路建設や排水施設整備や雇用増加による飢饉防止などがあった。
1850年までに彼は329,000ポンド使ったと言われている。
1851年から1855年の間に1771人が移民するのを援助した。
これらの人たちの出発はスコットランドの他の地域よりもずっと自発的voluntaryであった。
1847年から1851にかけてMathesonはLews城を建設する。城はチューダーゴシック様式で今もStornowayにある。
1851年に爵位を授かり Sir James Matheson, 1st Baronet of Lewisと呼ばれた。
    Baronetは男爵Baronの下でナイトknightの上、世襲できるが貴族ではない
    彼の碑文の名前の最後にBARTとあるのはBaronetの略号だそうです。
1847年にAshburtonの国会議員を辞めたが、1852年から1868年までRoss and Cromartyの議員であった。
その議席は甥のSir Alexander Mathesonが引き継ぐ。
Sir James MathesonはフランスのMentonで82歳で亡くなるが、相続する子はいなかった。
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William KeswickやHugh Mathesonがなぜ長州を支援したのか、ほんのちょっと調べてみました。
まずは、William Keswickについて(Wiki)
   Keswickは1834年にスコットランドのローランド(具体的な地名は不明)で生まれ
   祖母がWilliam Jardineの姉。父Thomas KeswickはDumfriesshireの人で、結婚してから
   Jardineの会社に入った。
   Williamが香港にやってきたのは1855年。彼が横浜支店を作ったのが1859年。(安政6)
   1862年にJardine Mathesonのパートナーとして香港に戻っている。
   さらに大班として1874年から1886年まで従事し、1886年には上級パートナーSir Robert Jardineを補佐するためロンドンへ。

次に 長州五傑について(Wiki)
   1863年4月18日長州藩主より洋行の内命をうけた井上聞多・山尾庸三・野村弥吉の3名は
   5月6日に江戸到着、翌7日に英国総領事Abel Gowerに面会し洋行斡旋を依頼する。
   5月12日にJardine Matheson商会の船Chelswickで横浜を出港、上海に向かう。
   5月18日に上海到着し、Jardine Matheson上海支店長と面会。
   井上と伊藤は300tonのPagasus号で、他3名は10日後のWhite Adder号でロンドンに向かった。
   11月4日ロンドンに到着。
      腑に落ちない点がいくつかあります。
      @Abel Gowerは中国で働いたあと江戸の東禅寺で英国総領事ラザフォード・オルコックの元で働きます。
       長崎領事を経て(年代不明)1866年に函館領事になります。
       つまり、井上らが会ったのはガウアーではなくラザフォードだったのでは?
       もう少し調べると、彼らが斡旋依頼したのはJardine Mathson商会の横浜支店長Samuel Gowerの名が出てきました。
       Wikiは混同していたのです。The Choshu Five
       これなら短時間に船を用意できたのもうなずけます。
      A彼らは英国でどうしたか?
       上記で紹介した文章でその記載がありました。
       Hugh Mathesonが彼らをHampsteadにある自宅に受け入れました。
       HughはUCLのAlexander Williamson教授に依頼して教授の分析化学の講座に登録してもらったのです。
            以降省略

Jardine Mathesonが特別に長州だけに肩入れしていたとは思えません。
支店長Gowerは1人当たりの船賃+1年間滞在費合計1000両x5人=5000両を要求。
現在の貨幣価値に直すと5000万円程度になります。まあ妥当な値段でしょう。
Hugh Mathesonが自宅に彼らを受け入れたのはかなりの厚遇だと思います。
滞在を途中で切り上げて急遽戻った井上・伊藤だが4国連合(英仏蘭米)の下関砲撃を止めることはできなかった。
下関戦争で負けた結果の賠償金を要求されるも、2人は「幕府の指示で戦ったのだから幕府に請求せよ」とうまく逃げた。
遠藤は1866年(慶応2)、野村と山尾は1868年(明治元)に帰国した。
2人は5年間も滞在したことになる。


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ケンブリッジ大学の所蔵する文書アーカイブYanus ProjectにJardine Matheson文書があります。
ここにはJardine Mathesonの歴史的な全貌があります。
膨大な文書がJardine Mathesonから寄贈されましたが、閲覧は自由ではなく今なおMathesonの許可が必要です。
http://janus.lib.cam.ac.uk/db/node.xsp?id=EAD%2FGBR%2F0012%2FMS%20JM


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James Mathesonの死後、妻のLady Janeはどうしていたのか?
Family Gohstsによると Mary Janeは10人兄弟姉妹の6番目でした。
   死亡 19 March 1896 (Age 77) 13 Cleveland Row, St. James's, London
というのが見つかりました。
スコットランドの城ではなくロンドン市内です。なぜロンドンで?
しかもJamesの墓とは違う墓地です。Parcival家の墓があるのでしょうか?

Hebridean Connectionに少し記載がありました。
夫James Mathesonが1878年に亡くなった後も島の開発事業を継続するが、トラブルLand struggleで大変な困難にあった。
   それが何だったのか説明がない
彼女は夫より18年長生きして1896年にロンドンで亡くなった。

Jamesの墓はスコットランドではなくロンドン市内ケンジントンにあります。
だからLady janeはロンドンに住んでいたのでしょうか?

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1870年代のMatheson家のディナーパーティ

家の中ではなく森の中の岩で囲まれた窪地で開かれました。
テーブル中央に座るのがJamesでしょうか?
実はこの写真はLady Janeが撮ったそうです。彼女は当時は有名な写真家でした。


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トーマス・グラバー
まずは定番のWikiから
スコットランド・アバディーンで1837年に生まれ、1859年(安政6)に上海に渡りJardine Mathesonに入社。
同年9月19日に長崎に移り、2年後にJardine Matheson長崎代理店としてGlover商会を設立。
当初は生糸や茶の輸出を中心として扱ったが八月十八日の政変後の政治的混乱に着目して
薩摩・長州・土佐ら討幕派を支援し武器や弾薬を販売。亀山社中とも取引を行った。
薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長澤鼎らの海外留学、長州五傑のイギリス渡航の手引きもしている。
   長州にも薩摩にも援助していたということか。
   長州五人の渡航手引きをしたということが本当だとすると、横浜支店になぜ行ったのか?
   渡航資金が国許でなく江戸藩邸にしかないことを3人が知っていたからではないか?
   江戸藩邸で資金を調達するなら横浜で交渉するのはうなずける。
   グラバーは関わりなかったかあるいは横浜への口利き程度では、と想像します。

1865年4月12日(元治2)大浦海岸において蒸気機関車を走らせた。
本業の商売にも力を注ぎ、1866年(慶応2)には大規模な製茶工場を建設。
1868年(明治元)には肥前藩と契約して高島炭鉱開発に着手。さらに、長崎の小菅に船工場を造った。
明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深めたが
武器が売れなくなったことや諸藩からの資金回収が滞ったことなどで1870年(明治3)グラバー商会は破産。
グラバー自身は高島炭鉱(のち官営になる)の実質的経営者として日本に留まった。
1881年(明治14)、官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収してからも所長として経営に当たった。
1885年(明治18)以後は三菱財閥の相談役としても活躍し、経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの
再建参画を岩崎に勧めて後の麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎を築いた。
英文Wikiには彼がJardine Mathesonに入社する経緯について興味深い記述がある。
    What trading houses like Jardine Matheson were looking for were boys of high ambition
    who showed strength of character useful in negotiation and who were willing to spend
    years away from their families. In Thomas Blake’s case, the scouts may have been masons:
    one of the buildings in the Glover Garden complex is a masonic lodge, and there is
   Glover Gardenがどこなのか不明です。(Grosvenor Garden?)
    a close system of business contacts running through his career.
    Jardine Matheson invited Thomas to interview sometime in early 1857 at the age of 18,
    and not long after he was posted to China.
    The reason for Jardine Matheson’s appointing Thomas Blake Glover are not documented,
    even in their own records, and may have involved exotic handshakes. We don’t know.
   Jardine Mathesonがグラバーを選んだ理由は文書に残されていないと。
   逆に読むと、通常は理由が残されているということ。



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Thomas Blake Glover Scholarshipグラバー奨学金
スコットランドで上級日本語・日本文化を学ぶ学生のため、日本での夏季講座を開いて援助しています。

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