飛田  コメント付き
場所 :大阪市西成区山王
日時 :      2025/1/20
モデル:        Kinana

モデルさんより「私主催の撮影会に参加しませんか?」(意訳:参加しないとシバクヨ)
場所の名前を聞くだけでどんな場所か多くの大阪人は知っているはず
鯛よし百番
そう、飛田新地の端っこにある元遊郭の料理屋さんで、すでに撮影貸しは中止だとか。
大正時代に建築されて第2次大戦の戦災を生き残り、戦後に改装され、今に至る・・・
建築写真も好きな爺はポートレート撮影の合間に抜けてアチコチ撮って
今回の成果の中に混ぜておきましょう。
ポートレート写真らしくないコメントを多めに付けています。ご容赦。


たくさん部屋がある中で一体どこから始めるか? メンドーなので控室から近いトコロ。
板襖に4人の女姿が描かれています。照明はおまかせでラクチン♪


LED照明と隙間から見える廊下を並べてみました。今回は照明灯具も気にせず。
着物は桜、襦袢は牡丹。季節なら山茶花だけど。


泥臭い赤茶色ばかり。牡丹がまるで彫り物のよう。姐さんの狙いですヨネ?




なぜ左側の襖が白っぽいのか、右側と比べればわかります。さらに↓の写真と比べれば。
わからないのは、右側の襖の縦枠がなぜ太いのか?引手の位置からすると継ぎ足したか。
ではなぜ?料亭に改築した際に別の場所から持ってきたのではないか?




背景は↑が好きなんだけど  袖は↓ のほうが良い・・・



大きなガラスの下半分が摺ガラスになっている。時代的にはサンドブラスト処理か。


あっ 中央の照明スタンドは故意に入れてますデス。




大奥風の室内。両脇からの照明では力不足なので後側に強い光源を。




その前の中庭に面したロビー。曲線の椅子だが青色がクールに映えています。


窓枠にある膨らみは直線を避けるためか。


玄関には下足箱が。料亭に改装したときのものかそれとも遊郭時代からか?
なぜ鍵に各種の色がついているのか聞きもらした・・・


この撮影のためのいろんな努力はナイショ♪


風の吹かない中庭だからこそこんなガラス窓が成立するのです。


床近くの掃出し窓はイマイチですが、全体の意図はいいなあ。


火灯窓の印象に隠れてしまいますが、実は壁の模様がいいのですヨ。


中庭には昼間でも照明がついています。
1階には 楼主の住居と娼妓の部屋があったはず。通いの娼妓などいませんてば。


モデルさんの自撮り姿を撮ろうとする私にチラッと目線♪


自撮り中。 右の鏡に写っているのであわててカメラ横向き。


建物内をウロウロ探索中。右側の窓に注目


こんな型板ガラスが入っているのです。この模様は始めてみました。


何かの作品の背景に使えないかなあ。


建築写真撮影。 玄関の床石(タイルではない)


建築写真撮影。 現像中に発見した床の丸い痕跡、長年なにかを置いてあったか。
私の立つのは玄関脇の小部屋、娼妓の写真を並べて客が選ぶためのもの。
出入口の丸石はわかるが、その前を塞ぐ位置にある痕跡は何のため?


衣装をドレスに替えて大奥の間での撮影をさらに挑戦じゃ~~。




片肌脱ぎの姐御では決してありませヌ。




ちょいと刺激的な色あいに仕上げてみました。
三葉葵紋(徳川家)があちらこちらに。扉の桃のような紋は一葉葵か猪目か?


上半身がちょっと平面的になったのが残念・・・


足元を撮ったのであって、決して脚を出してなどとお願いしたわけではありません!

同じポーズで4枚の写真が続きます。 さてどれがアナタの好み?









大奥の間の外側で撮影。 両脇にある手摺はよっぽど大事なものを守るため。




ちょいと角度を変えたので色も変えちゃえ。


さらに大奥の間で挑戦。 外の照明を真っ赤に。






東海道は島田宿だったと・・・ 障子を開いて奥に座れば見える景色。


乱れた花魁おいらんを念頭においたのです。
背後の絵に柱まがいのものは、描いた後で貼り付けた柱が剥がれて紛失したものか。




襖でなく障子にしてあるのは田舎宿の雰囲気を出すため。横桟もその表れ。


背後の井戸に照明を仕込んで透ける浴衣風にしてみました。イマイチ・・・
左の縦羽目板も、奥の障子の桟の間隔が広いのも現代的なのです。






[ 脱線1 ]                                                                                
リタイアする前の職業は 古い工場建築の耐震診断
図面も残っていない旧陸軍がらみの工場とか一筋縄
ではいかないことがほとんど。              
どう手をつけて良いかわからないゲテモノ専門。   
現物を調査し実測し歴史資料をあさることから始まり
見たことのないボルトだったりコンクリート杭だったり
あまりに古い場合は実物サンプルを切り取って強度試験
ほんのちょっとした写真から製造メーカーが判明したり
ディテールに真実が宿っているのです。ナンチャッテ♪


[ 脱線2 ]                                                                                

1900年(明治32)の阿倍野   天王寺駅が見えますが
この時代はJRでも国鉄でもなく私鉄(大阪鉄道)のもの。
図中の「甼」は町の別字。絵図にはよく見えます。
地図上部には茶臼山、下部には阿倍野墓地
環状線の南側はほぼ田畑だった。なぜそこに遊郭が
できたのか、もちろん理由がありまっせ。


1912年(明治44)の阿倍野   天王寺公園が見えます。
内国勧業博覧会が1903年に開かれ、その跡地を整備したもの。
天王寺駅と天下茶屋駅を斜めに結ぶ南海線は今はありません。


1928年(昭和3)の阿倍野  環状線の南側もかなり開発。
中央に飛田町の名前が出てきました。飛田を横断する南海平野線。
南海阪堺線にそってゴバン目に整備したのはよくわからない会社。
Wikipediaから引用                           
1912年(明治45)難波新地乙部遊廓が全焼する
ミナミの大火が発生した。焼け跡には妓楼の再建
が許可されなかったため、天王寺村(阿倍野墓地
北西の低地)に代替地を求め、1916年(大正5)に
遊郭の指定を受けた。規模は、22,600坪。    
同年、「阪南土地建物会社」が設立され、一帯の
土地を買収し、道路等を整備した。建物も同社が
建設し、業者に貸し出す形態を取った。      
芸娼妓開放令のため難波新地での復興が不許可
となったのになぜ飛田で許可が出たのか。府会議員
が1枚どころか数十枚も噛んでいる。東京まで陳情
に行って大活躍だが、その土地を事前に入手して
いたならニオウ。また阪南土地建物の代表者が
その議員とあればもうバレバレ。          
1918年(大正7)に開廓式が行われ、当時58戸の
妓楼(貸座敷)があった。妓楼の数は昭和初期には
200軒を超える。大阪のほとんどの花街が戦災を
受けたが、飛田の一部は焼失を免れた。     


1928年(昭和3)の航空写真  上部は天王寺公園
飛田のあたりはよく整備されています。中庭があります。


百番付近を拡大しています。ほぼ現在の百番と同じ。
近くにはもっと大きな建物が5軒あります。
飛田は阪南土地が開発して建物も建築し店子に貸す
システムだったので多数の妓楼は同じ大きさ同じ外観
ですが百番付近の大型妓楼は違っていたのではないか?
妓楼が自費で建築したように妄想するのです。


1948年(昭和23)の阿倍野  米軍の空撮写真です。
見にくいですがほとんど無事。今池あたりが爆撃あり。
新町遊郭や堀江遊郭は焼失したのですが。


1955年(昭和30)の阿倍野  町名の大整理がありました。
百番は中央の金塚小学校の西側にあります。


[ 脱線3 ]                                                                                
飛田のすぐ南側に広大な阿倍野墓地があり
その中央にはあの五代友厚の墓があります。
幕末の薩摩藩の武士だった五代がなぜ大阪
に骨を埋めることになったのか、調べてネ。 
爺の興味は、なぜ一族の墓所ではないのか
この墓を作ったのは一族ではなく、大阪の誰か
だったのでは?なので記念碑のようなものでは
ないかと妄想するのです。            
ここの墓石の裏側に経緯が刻まれているはず
いつか確かめてみよう。さすがに鹿児島には
行く気もお金も時間もないが。