[ 脱線1 ]
リタイアする前の職業は 古い工場建築の耐震診断
図面も残っていない旧陸軍がらみの工場とか一筋縄
ではいかないことがほとんど。
どう手をつけて良いかわからないゲテモノ専門。
現物を調査し実測し歴史資料をあさることから始まり
見たことのないボルトだったりコンクリート杭だったり
あまりに古い場合は実物サンプルを切り取って強度試験
ほんのちょっとした写真から製造メーカーが判明したり
ディテールに真実が宿っているのです。ナンチャッテ♪
[ 脱線2 ]

1900年(明治32)の阿倍野 天王寺駅が見えますが
この時代はJRでも国鉄でもなく私鉄(大阪鉄道)のもの。
図中の「甼」は町の別字。絵図にはよく見えます。
地図上部には茶臼山、下部には阿倍野墓地
環状線の南側はほぼ田畑だった。なぜそこに遊郭が
できたのか、もちろん理由がありまっせ。

1912年(明治44)の阿倍野 天王寺公園が見えます。
内国勧業博覧会が1903年に開かれ、その跡地を整備したもの。
天王寺駅と天下茶屋駅を斜めに結ぶ南海線は今はありません。

1928年(昭和3)の阿倍野 環状線の南側もかなり開発。
中央に飛田町の名前が出てきました。飛田を横断する南海平野線。
南海阪堺線にそってゴバン目に整備したのはよくわからない会社。
Wikipediaから引用
1912年(明治45)難波新地乙部遊廓が全焼する
ミナミの大火が発生した。焼け跡には妓楼の再建
が許可されなかったため、天王寺村(阿倍野墓地
北西の低地)に代替地を求め、1916年(大正5)に
遊郭の指定を受けた。規模は、22,600坪。
同年、「阪南土地建物会社」が設立され、一帯の
土地を買収し、道路等を整備した。建物も同社が
建設し、業者に貸し出す形態を取った。
芸娼妓開放令のため難波新地での復興が不許可
となったのになぜ飛田で許可が出たのか。府会議員
が1枚どころか数十枚も噛んでいる。東京まで陳情
に行って大活躍だが、その土地を事前に入手して
いたならニオウ。また阪南土地建物の代表者が
その議員とあればもうバレバレ。
1918年(大正7)に開廓式が行われ、当時58戸の
妓楼(貸座敷)があった。妓楼の数は昭和初期には
200軒を超える。大阪のほとんどの花街が戦災を
受けたが、飛田の一部は焼失を免れた。

1928年(昭和3)の航空写真 上部は天王寺公園
飛田のあたりはよく整備されています。中庭があります。

百番付近を拡大しています。ほぼ現在の百番と同じ。
近くにはもっと大きな建物が5軒あります。
飛田は阪南土地が開発して建物も建築し店子に貸す
システムだったので多数の妓楼は同じ大きさ同じ外観
ですが百番付近の大型妓楼は違っていたのではないか?
妓楼が自費で建築したように妄想するのです。

1948年(昭和23)の阿倍野 米軍の空撮写真です。
見にくいですがほとんど無事。今池あたりが爆撃あり。
新町遊郭や堀江遊郭は焼失したのですが。

1955年(昭和30)の阿倍野 町名の大整理がありました。
百番は中央の金塚小学校の西側にあります。
[ 脱線3 ]
飛田のすぐ南側に広大な阿倍野墓地があり
その中央にはあの五代友厚の墓があります。
幕末の薩摩藩の武士だった五代がなぜ大阪
に骨を埋めることになったのか、調べてネ。
爺の興味は、なぜ一族の墓所ではないのか
この墓を作ったのは一族ではなく、大阪の誰か
だったのでは?なので記念碑のようなものでは
ないかと妄想するのです。
ここの墓石の裏側に経緯が刻まれているはず
いつか確かめてみよう。さすがに鹿児島には
行く気もお金も時間もないが。