久しぶりの撮影会で始めてのモデルさん
さてどうしたものか、いつも悩みます。
モデルさんに自由なポーズをしてもらうには経験が少なそう
でも、細かく注文つけても思うとおりにはならないかも。
適当に(適切に)両方をマゼてやってみようかあ・・・
緊張をほぐす必殺技「意味なく笑う」
立入禁止とか火気厳禁とかのカンバンが好きです。
今回は地味な環境が多かったので、逆に刺激的な現像処理を。
肉眼で見たとおりの色をめざしました。木漏れ日での撮影はトンデモなく面倒です。
落ち葉でわかるように秋はもうすぐそこ。でもアッチィ
現像処理の失敗例 服のシワが目立ってしまいました。
意味なく笑ったり、左右の動きを違えてみたり、モデルさんの注意を逸らすと
それ以降の表情がずいぶんほぐれるのです。これはヒミツだよ。
↑↓どちらも色をイジッています。
これはもっとイジリ倒して フワッとした写真にしました。
逆光で光の輪を出そうとしたのですがイマイチ。
腕の開き・髪の毛などイマ2ですが表情はベストです。
何度もやり直したのですが、偶然に頼るしかないようです。
緑の中で再度逆光に挑戦。
真っ赤なピンヒールを履くとピッタリ。
これも無意味なポーズ。 楽しさだけは見て取れませんかあ?
[ 脱線 ]
秀吉の大阪城は壊されたり埋められたりして
目に見える形では残っていません。
1つの例外は竹生島に移築された極楽橋。
ピースおおさかの隣の林にひっそりと建つ
「城中焼亡埋骨墳」
誰が建てたか調べると意外な歴史が
「中央区役所」
大阪城玉造門の南側にある。明治元年
戊辰戦争のとき、燃える大坂城から逃げ
出さずに自害した幕府軍の兵士を讃えて
薩摩・長州藩が共同で建てた。
「大阪城観光ガイド」
1868年(慶応四年=明治元年)1月、維新
により旧幕府軍が本拠地としていた大坂城
が新政府軍(薩長軍)に引き渡される時に
いさぎよしとしない幕臣たちが、城内に火を
放ち自害をしました。
新政府軍の主力だった薩摩藩と長州藩の
有志達が、彼らの遺骨を埋葬し、武士の鑑
とたたえて、1868年7月この石碑を建立しました。
戊辰戦争は京都と思われがちですが、大阪城
が最後の地でした。
慶応4年1月2日幕府の軍艦が兵庫沖の薩摩艦
に砲撃して戦争開始。
翌3日には大阪の薩摩藩邸を襲撃炎上させた。
同日鳥羽・伏見で幕府と薩長軍が交戦。
数も武器も勝る幕府軍だが薩長に押され退却
翌4日には朝廷が薩長側について幕府を朝敵
だとして薩長が官軍として糾合された。
老中稲葉の淀藩は退却する幕軍を受け入れず
6日には八幡山崎の戦いで山崎にいた津藩は
幕軍を砲撃する始末。
鳥羽伏見から大阪城に戻った徳川慶喜は
6日夜に側近だけを連れ大阪を脱出、海路で
江戸に戻った。
幕府を支えていた各藩は当然兵を自藩に戻す。
自分だけ逃げ出すような慶喜に誰が付いて行く?
大阪城中に残る兵は 碑文の通り