恩師阿部哲三先生の資料を求めた禅文化研究所から届いた
萬福寺の見学セミナーお誘いに家内と参加しました。
宗教には全くと言ってよいほど縁がない2人ですが
観光寺院とは無縁の寺、それも僧侶の案内・解説とあれば
初冬の遊びと割り切って、3年ぶりの旅行気分。
萬福寺は江戸初期に渡来した明僧隠元が徳川の支援を得て開いた寺で
明代の雰囲気を濃く残しています。 その1つが真ん中の敷石、龍の背骨を表し
住職のみが踏めるものだそうで、案内の宗務総長は脇の石を歩かれていました。
今年は灯籠会、それも長崎の万福寺の縁で宇治でも開催するとのこと。
門の中に立って両腕を広げると「福」の文字が完成します。
土曜午後2時、境内は静かです。
12月初旬は僧侶の座禅三昧、境内を行き交うことがありません。
日本建築史を学ぶと、この柱の礎石がチガウことに気がつきます。
柱間隔が広いので全体に伸びやかに見える開山堂。
開山堂そばの松隠堂、禅師の隠居処として寄進された。
玄関脇の丸窓ですが中国の香は皆無、明らかに書院建築です。
広くはない庭に吉兆の亀甲模様を入れ、遠くなるほど模様を小さくし
広く見せる意図があきらかです。それにしても掃除が手間だなあ。
その庭に面した座敷の廊下。手前の障子下部には換気ガラリ、初めて見ました。
釘隠し金物がなぜかスッパリ。他に方法があったはず・・・
手のこんだ菊花模様。寄進者は京の公家のはず。
襖の引手金物。こちらは葉も含む菊花模様。
後になって気付いたのが、障子の枠を限界まで細くしていること。
軒の出が深く部屋を明るくするためです。
左奥が三門、右は松隠堂裏口。
開山堂内部。 赤い座布団は五体投地のため長い。
その近く二重の円座はエライ人(塔頭住職)一重はヒラ僧侶用。
黄色の幕の奥には隠元禅師の座像。案内僧は近く見たことがないと。
こんな説明をしていると、作務衣の老僧がやってきて
「立派な建物やろ♪ 阪神大震災でもビクともせんかった♪」
片隅にあった太鼓と鉦を打ちながら読経を始めたり
統一教会の話題にひっかけて「一億の寄進してくれる人おらへんかなあ」
自由な管長さん
開山堂の入り口、敷石は乱貼り、メチャクチャ手間がかかります。
さらに全体に上下に波打っているそう。
天王殿にもランタン飾り。
来日した隠元禅師が江戸に行く途中にみた富士山に感動し、自分も登りたいと
周囲から高齢で無謀だと諌められたが、どうしても登りたいとワガママ言うので
境内にミニ富士山を築いて我慢してもらったと♪
何とも不思議な光景。丸窓・四角扉・丸扉。
法堂から見た大雄寶殿。青い水滴はライトアップのための飾り。
開山堂の高欄は卍飾りだったが、法堂では卍崩し。
大雄寶殿への回廊、ランタンにはすでに明かりが。
左側の赤い座布団は五体投地用、右の小さな座布団は膝をつくため。
萬福寺塔頭の1つ、宝蔵院。ここに重要文化財の版木があります。
収蔵庫は鉄筋コンクリート造で昭和36年建築、そろそろ建替えが必要なのですが。
設計者不明ですが、前川國男事務所ではないかと妄想します。
版木は6万枚、各4枚の刷面があるので合計24万面・48万ページになります。
この棚の版木は反り防止の横木を外したまま積み重ねてありホコリが積もったまま。
保管には取り付けたほうが良く、刷りには外したほうが扱いやすいそうです。
昨年刷った作業はここで行ったそうです。もうちょっとどうにかナランか?
宝蔵院住職の談
大半の版木は使われることもなく収蔵されたままホコリを被っている。
木版印刷から活版印刷へ、さらに近年のデジタル化で需要は皆無。
刷るためには専用紙を手配し、墨を擦り、版木に塗り、紙を置いて転写し
1枚1枚確認してから乾燥し、製本しなければならない。
もちろん版木の掃除も。
あまりに高価なため注文が絶えたまま。需要のあるごく一部の経だけが
たまに印刷されるのだとか。
重要文化財といいながら、空調もない収蔵庫で朽ち果てていくのでしょうか。
本当は一体何枚あるのか全数調査すらされていないのです。
60年前に搬入されたまま、新聞紙を挟み麻紐で縛ったまま・・・
収蔵庫から出るともう日没。
黄檗の謂れ
駅名「黄檗」はもちろん「黄檗山萬福寺」の山号をいただいたものですが
隠元禅師が住職をしていた明時代の福建省の同名の寺「黄檗山萬福寺」
の黄檗はさらに起源があります。
日本の禅宗には3つの派、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗があり、中国には黄檗宗はない。
Wikiの記述は若干矛盾していて
[黄檗希運]の項
黄檗希運(おうばく きうん、生年不詳 - 大中4年(850年))は
中国の唐代の禅僧。諡は断際禅師。福州閩県の出身。
黄檗山黄檗寺を開創。臨済宗開祖の臨済義玄の師
幼くして黄檗山建福禅寺(後の福建省万福寺)で修行し
後に百丈懐海(749年 - 814年)の法嗣となる。
洪州鍾陵(江西省宜春市宜豊県)の鷲峰山に黄檗山黄檗寺
を開創。この山号は修行時代を忘れないために用いたという。
大中4年(850年)に同寺で示寂した。
[万福寺 (福清市)]の項
唐の貞元5年(789年)に慧能の弟子の正干が建立したのが
この地の始まりで、創建当初は般若堂と称していた。
大中2年(848年)、黄檗希運が万福寺にて出家得度。
・・・
崇禎10年(1637年)、隠元隆琦が心印を伝え、万福寺
を主宰。彼は漳州・潮州の一帯まで遠征し、数年間の
苦心を経て、大雄宝殿、法堂、山門、斎堂、鐘鼓楼、
倉庫、寮などの大きさは30余りだった。
・・・
1928年に万福寺は土石流によって建物がすべて崩壊。
1949年、伽藍を焼失し、現在の伽藍は1989年から1997
年まで再建されたものである。
かたや848年に出家得度、もう一方は850年に没 ドナイヤネン!
黄檗希運の修行した寺はすでに黄檗山だったのか ああ面倒だなあ