難波宮2
場所 :大阪市中央区
日時 : 2024/11/25
モデル: 山南あかね
冬の難波宮跡は観光客ゼロ、近所の人が散歩に来るぐらい。撮り放題ですが
何もないだけにモデル・カメラマン泣かせ。どうすりゃいいんだ?
自業自得
こういう場合は破れかぶれの出たところ勝負、スナップ撮影でいってみよう。
なげやり
カメラの設定を適切に(テキトーに)したので白く飛んでしまいました。
でも意外とエー感じなので残す。現像ではアチコチいじった。
肉眼で見たのに近いように設定も現像も修正。
僕のは遊び写真なのでイジルことに何の抵抗もない(さすがに描くことはしないが)
こうあってほしいと思う画面になればそれOK。
元設計屋なので、この陸橋がなぜ折れ曲がっているかなぜ弓なりなのか想像つきます。
でも写真は素人なので、めざす画面を撮影前に具体化できないのでありまする。
なので撮影後の現像処理でイジらざるを得ない。あ~面倒だなあ。
寒そうですが実は背中はポカポカ♪ 寒そうなポーズをお願いしたのです。
逆光でシルエットを真っ黒にしようかとも思ったのですが、ほぼスナップ。
立つ位置だけ固定でポーズはおまかせ。カメラマンは楽ちん(手抜き?)です。
どこにいるか誰なのかワカラン、というと、写ってる私だけはわかる、と返されました。
こういう場所で衣装を古代飛鳥風・中華風・ロングドレスなどいろいろ考えられる。
場所にマッチした衣装、逆に場違いな衣装 どちらが良いというより好きか?
今回は雲の形・位置にはコダワリませんでした。あるがまま。
モデルさんの普段撮影とまったく違う子供みたいなスナップを目指したのです。
ワザと水平垂直がない構図に。だって直線だらけなんだも~ん。
モデルさんが何を考えていたか? 何も考えていない、と妄想するのです。
幹に光が当たって影が伸びる場所を探してたどりつきました。
冬どころか紅葉もイマイチ。
通りすがりの竹薮、そういえば大阪市内には他にないかも。
暇つぶしに読んだカメラのマニュアルに多重露光があり試した結果がコレ・・・
ワザワザ三脚を持っていったのに。亡霊が2人。そういえばここは細川ガラシアの屋敷前
仕方ないので普通に撮影
知ってます?ガラシアがどのように死んだか? ガウンの赤縁がそれを想起させるのです。
顔に光が当たっていないので代わりに手先に光を。
撮影で訪れた場所に地蔵堂と井戸がありました。
石碑には「細川忠興夫人秀林院殉節之遺址」とあります。
忠興の正室玉は明智光秀の三女。
信長の命令で細川藤孝(幽斎)の嫡男忠興に嫁いだ。
光秀の死後直後は謀叛人の娘として丹波国船井郡に幽閉された。
明智一族は皆殺しにされたが、忠興は離縁することもなく保護していた。
忠興は秀吉の部下として生き残りをはかりつつも
謀反人の娘である玉は細川家大坂屋敷に幽閉された。
洗礼名ガラシアは幽閉中も密かに信仰し教会に認められていたため。
とはいえ秀吉のバテレン追放令があるため、ガラシアは屋敷内に
幽閉されたまま、信仰は捨てなかった。
なぜ屋敷で自害することになったのか
波乱万丈の人生でもさらにドラマチックな経緯の連続でぜひ一読を勧めます。
いろんな本がでています。
細川家記に「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」
という時世の句があるそうです。私は「散り時を間違えたという悔悟」と読んだのですが・・・
墓はいくつもあり、大阪市の崇禅寺・京都大徳寺の高桐院・熊本の泰勝寺など
ガラシアの死後直後、屋敷の焼け跡からガラシアの遺骨を神父が拾い
堺にあったキリシタン墓地に埋葬したが、後に徳川により墓地は破壊されたと。
では崇禅寺などの墓には何が埋葬されているのか?
かつて、墓には必ずしも遺体・遺骨が埋葬されていたわけではありません。
故人の愛用品や遺髪のほかに、遺族が納めてあげたい品物などがあります。
墓が各地にあるというのは、ガラシアを思う人がそれだけ各地にいた証です。
ガラシアは洗礼名で、普段そのように名乗ったり呼ばれることはありません。
キリシタン迫害の時代ですから。 玉あるいは球子だそうです。