[ 脱線1 ]
いろいろ手違いやらミスが重なり、モデルさんと待ち合わせ失敗。
扇子店でいろいろイイワケしているところにモデルさんから電話。
オーニシさんのボンが「そんな偶然ある~~?」とアキレてましたあ
結局無事に集合。
店員さんは「遅くなった分だけ後に遅らせてもらっていいですよ~」
「今日はキャンセルして別日にしても大丈夫です~」
別室ではすでに宴会が始まり、仕出屋さんが出入りしたり
本業よりも忙しいご様子。
[ 脱線2 ]
HPの申込フォームからレンタル依頼するとまもなく返事が
この度は京町家レンタルに関するお問合せをいただき
誠にありがとうございます。
折り返し担当者より連絡させていただきます。
尚、1週間経ちましても返信が無い場合はメール受信
の不具合の可能性もございますので、大変お手数
おかけいたしますが、お電話でお問合せくださいます
ようお願い申し上げます。
普段の撮影申込なら確認メールを待つだけなのですが、深読みを
「
申込が本気なら電話を待ってます~」
というわけで電話をすると、メールを見ていますよ、との返事
ああやっぱり電話を待ってたのね♪
[ 脱線3 ]
モデルさんと話をしていて気がついたというか理解したというか。
茶室の客の入り口「にじり口」を知らない
よ~く考えたら、私の娘だって知らない。茶室に入ったこともない
私のようなモノズキ老人でない限り
「茶をたてる」こともないだろうなあ。
生活からなくなり、身の回りからも消えた過去の文化でしかない。
高校生の頃に茶の体験があったヨネ という話から
高校の担任が茶道部の顧問をしており
「ボクタチいらっしゃい」茶道室へ呼ばれ
センセから1人づつ薄茶と菓子を頂いた
どうせ何も知らないから、せめて正座だけ
あとの作法などいいから、まあお飲み。
もちろん、どんな味だったのか雲のかなた
画面で見るのと実際にその場にいるのとでは雲泥の差
もちろん「にじり口」がなぜそんなに小さいのか、理由を説明。
歴史的な説明はスッ飛ばして
小さな狭い入り口から、頭を下げ、刀を持たず入る
世の中では「主人と客が平等に」という説明をしていますが
私はそうは思いません。頭を下げてなぜ平等なんだ?
亭主と客の間には上下関係があるはず。利休の草庵では2畳の
極限に狭い空間で亭主と客の2人が緊張しながら相対したはず。
(恩師中村センセ、この解釈でいいですか~?)
[ 脱線4 ]
ずいぶん昔に、現在の松原通りは平安京では五条通りだったと
聞いた(読んだ)ことがあります。
確かに、現在の四条通りと五条通りの間隔は広いです。
平安京は碁盤目の通りで構成され、通りの間隔はすべて同じ。
江戸時代以前(1111-1592)の絵図 応仁の乱以前とも言われる
真ん中を南北に流れる鴨川、東西に走る四条通りと五条通り
右端の祇園さん(八坂神社)から南に下って五条との角が六道珍皇寺
なのでこの地図の五条通りとは今の松原通りなのです。
五条橋の西詰めの池の西側に赤点が並び、上から順に
四条
綾小路
五条坊門
高辻
条と条の中間には坊門があったので、例えば四条坊門とか。
五条坊門通りの大宮あたりには「坊門町」の地名が今も。
ではなぜ松原通り?
例にもれず秀吉がその原因なのです。
もともと五条通り室町には平安末に藤原俊成(定家の父)屋敷が
あってその跡地に神社ができ、歌を目指す人が大勢詣でたと。
通りには松が植えられ、五条松原通りと呼ばれたそう。
絵図にも松並木が描かれています。
秀吉は京都を大改造(御土囲・突抜けなど)した中に方広寺を
建てたことは有名です。方広寺は豊國廟の前に今もありますが
その正門前に新たに通したのが正面通り。
五条松原通りから2筋南の六条坊門通りを方広寺への参詣道
として整備し橋もかけた。これが五条橋通りと呼ばれ、ついには
五条通りとなって、五条松原通りは松原通りに。
この絵図をじっくり眺めるといろいろな固有名詞がおもしろそう。
佐々木京極館とかね。 あ~でも調べる時間が・・・
赤線は現在の三条通・四条通・五条通 緑線は松原通
松原通りを東に進むと清水坂・大谷廟・六波羅
六波羅は平清盛の政治の中心地
[ 脱線5 ]
京都(特に洛中)も江戸・大阪と同じく何度と大火で焼失しています。
幕末禁門の変(蛤御門の変)で焼けた範囲を示す絵図
元治元年(1864)7月19日 明治維新の2年前
直前の6月に池田屋事件で新撰組により藩士を殺された長州は
公武合体派に京都を追放されたこともあり、反撃を行った。
結局、長州藩は負けるのだが、一説によると長州が放火して
火災は御苑西側から広がり2日間で南は本願寺の先の御土居
まで、西は堀川までの広大な範囲に及ぶ。
従って多くの建物は明治になってからの再建。