松原通 コメント付
場所 :京都市下京区本燈籠町
日時 :        2024/9/14
モデル:         なすたろう
BGM:   MINA/CASSIOPEA

毎日ボ-ッと見ているTV番組「人間国宝さん」で大阪十三をウロウロする回があって
レポータがたまたま見つけた電信柱の看板「ない株式会社」ってどこやネン?
その会社が手がけるステッカーが今や話題の「イケズステッカー」 その主役がなぜか京都の扇子店女将。
というわけで、その扇子店「大西常商店」を探すと、何と知り合い写真スタジオの近所。
店のHPを眺めると、お~座敷・茶室のレンタルもある♪ その結果が今回の撮影でありまする。
恩師中村昌生先生の好みではないがそれでも本物の茶室。モノズキな爺カメラマンとモデルで
楽しく撮影ゴッコ♪  姿見がないので着付け手直しを店員さんに助けてもらいました。


1階茶席。右は床の間、左隅ににじり口、背後の窓は実は飾り
現代的に天井は高い目にしてある。私が設計するなら飾り窓を腰より少~し下げたい



衣装の希望は小紋柄着物と青い帯をお願いしました。
もう少し大きめの柄も提案してくれたのですが上品な方を選択。
帯止めをしない選択はモデルさん。配色からそう判断したのでしょう。
でもそのままでは当たり前、チョイとひとひねり、黒のチョーカーを用意。
では撮影スターーーとぉ


照明もコンセントも要するに電気製品のない和室。光は背後の障子のみでかなり薄暗いのです。
ほんの少しだけ右側から照明を当てました。


背後のにじり口をほんの少し明けて画面を引き締めました。
完璧にポーズをとっている姿もよいけれど、意識が何か別を向いている瞬間もいいなあ。


カメラのモニターでは畳みについた手先が何かオカシイ。モデルさんと見直すと袖の袂だと判明。


あースッキリしました。
画面の安定感のためには水平・垂直がどこかに欲しいものです。


にじり口の光がジャマです。カメラの位置が悪いのです。


画面に入る窓の面積を減らしました。より暗くみえるように。


明暗をハッキリ出すため窓の障子を全開に。赤色を散らすため花札をば。


彩度をちょいと落として。あ~右手が押える皺をもっと出したらよかったなあ。


なかなかエー感じの色あいでしょ?


ピントをどこに合わせると良いのか、苦肉の1枚。アカン・・・


工夫なしのこれでお茶を濁すしかない。


右側からの光をほんのちょっと追加。


実はこんなことをしてもらっています。持つのはマナ板笑


窓からの光、左側からのLED照明、さて顔をどれだけ出せばよいのか悩み中。


あ~これは失敗。


茶席での撮影は終了、手洗い休憩中。スタジオではないので姿見で確認できず
たまたま来た店員さんに帯揚げを直してもらっています。カメラマンは無力・・・


全面窓で光タップリの座敷。椅子を使ってどうにかしよう。


同じポーズで色・露出を変えて再度撮影。
写真館での記念撮影とか見合い写真を念頭に置きました。
ここで、畳の縁を踏んでいることに気がつきました。アカン


何してるの? チョーカーを上げてもらっています。


チョーカーらしくなりました。つま先を前後にズラしてワザと膝の高さを変えました。


ほんの少し暖色に、左の柱を整理。梅より柿か石榴が好きだなあ


カメラマンはいつもモデルの隙を狙っています。ちょっとした動作が画面に動きを出すのです。


粋なポーズでしょ? 宮川町のオネーサンみたい♪
この写真を現像していて気がついたのです。身体の向きを変えて着物の裾前がちょっと開いていたら・・・


撮影しながら、私の曾祖母の写真の話をしていました。明治時代には女性は袖から手を出さないことを。
古い習慣ですが、今なら粋筋のしぐさにも見えます。


帯の青色で画面が引締まります。歯を覗かせたのもよろしい。


全身を納めるのも考えたのですがこちらに。


2匹目のドジョウを狙って椅子からテーブルに変更。新鮮さがないなあ。


苦しまぎれにカメラを斜めに。カメラマンが斜めに構えたときは必ずそうです。


これは意識的に畳の縁を選びました。テーブル裏の白いラベルが大いに邪魔。


邪魔な窓を整理。でも画面が少し寂しい・・・


本当は何か赤いもの・柿色のものがほしかったのだけど。


気分は宴会の後片付けをする仲居さん笑



ほんの少しの表情の違いで現像の色まで変えようという気分にさせてくれます。



[ 脱線1 ]                                      
いろいろ手違いやらミスが重なり、モデルさんと待ち合わせ失敗。 
扇子店でいろいろイイワケしているところにモデルさんから電話。 
オーニシさんのボンが「そんな偶然ある~~?」とアキレてましたあ
  結局無事に集合。                           
店員さんは「遅くなった分だけ後に遅らせてもらっていいですよ~」
「今日はキャンセルして別日にしても大丈夫です~」         

別室ではすでに宴会が始まり、仕出屋さんが出入りしたり      
本業よりも忙しいご様子。                          


[ 脱線2 ]                                      
HPの申込フォームからレンタル依頼するとまもなく返事が      
この度は京町家レンタルに関するお問合せをいただき
誠にありがとうございます。                 
折り返し担当者より連絡させていただきます。     
尚、1週間経ちましても返信が無い場合はメール受信
の不具合の可能性もございますので、大変お手数  
おかけいたしますが、お電話でお問合せくださいます
ようお願い申し上げます。                 
普段の撮影申込なら確認メールを待つだけなのですが、深読みを
申込が本気なら電話を待ってます~」    
というわけで電話をすると、メールを見ていますよ、との返事    
ああやっぱり電話を待ってたのね♪                   


[ 脱線3 ]                                      
モデルさんと話をしていて気がついたというか理解したというか。
    茶室の客の入り口「にじり口」を知らない           
よ~く考えたら、私の娘だって知らない。茶室に入ったこともない
私のようなモノズキ老人でない限り                  
「茶をたてる」こともないだろうなあ。         
生活からなくなり、身の回りからも消えた過去の文化でしかない。
高校生の頃に茶の体験があったヨネ という話から         
高校の担任が茶道部の顧問をしており
「ボクタチいらっしゃい」茶道室へ呼ばれ
センセから1人づつ薄茶と菓子を頂いた
どうせ何も知らないから、せめて正座だけ
あとの作法などいいから、まあお飲み。 
もちろん、どんな味だったのか雲のかなた
画面で見るのと実際にその場にいるのとでは雲泥の差      
もちろん「にじり口」がなぜそんなに小さいのか、理由を説明。  
歴史的な説明はスッ飛ばして                     
   小さな狭い入り口から、頭を下げ、刀を持たず入る      
世の中では「主人と客が平等に」という説明をしていますが    
私はそうは思いません。頭を下げてなぜ平等なんだ?      
亭主と客の間には上下関係があるはず。利休の草庵では2畳の
極限に狭い空間で亭主と客の2人が緊張しながら相対したはず。
(恩師中村センセ、この解釈でいいですか~?)      


[ 脱線4 ]                                      
ずいぶん昔に、現在の松原通りは平安京では五条通りだったと
聞いた(読んだ)ことがあります。                   
確かに、現在の四条通りと五条通りの間隔は広いです。    
平安京は碁盤目の通りで構成され、通りの間隔はすべて同じ。

江戸時代以前(1111-1592)の絵図  応仁の乱以前とも言われる
真ん中を南北に流れる鴨川、東西に走る四条通りと五条通り 
右端の祇園さん(八坂神社)から南に下って五条との角が六道珍皇寺
なのでこの地図の五条通りとは今の松原通りなのです。     
五条橋の西詰めの池の西側に赤点が並び、上から順に    
四条                
綾小路              
五条坊門             
高辻                
条と条の中間には坊門があったので、例えば四条坊門とか。 
五条坊門通りの大宮あたりには「坊門町」の地名が今も。    

ではなぜ松原通り?                          
例にもれず秀吉がその原因なのです。               
もともと五条通り室町には平安末に藤原俊成(定家の父)屋敷が
あってその跡地に神社ができ、歌を目指す人が大勢詣でたと。
通りには松が植えられ、五条松原通りと呼ばれたそう。     
絵図にも松並木が描かれています。                
秀吉は京都を大改造(御土囲・突抜けなど)した中に方広寺を
建てたことは有名です。方広寺は豊國廟の前に今もありますが
その正門前に新たに通したのが正面通り。            
五条松原通りから2筋南の六条坊門通りを方広寺への参詣道
として整備し橋もかけた。これが五条橋通りと呼ばれ、ついには
五条通りとなって、五条松原通りは松原通りに。         

この絵図をじっくり眺めるといろいろな固有名詞がおもしろそう。
佐々木京極館とかね。   あ~でも調べる時間が・・・      


赤線は現在の三条通・四条通・五条通  緑線は松原通    
松原通りを東に進むと清水坂・大谷廟・六波羅          
六波羅は平清盛の政治の中心地                  


[ 脱線5 ]                                      
京都(特に洛中)も江戸・大阪と同じく何度と大火で焼失しています。

幕末禁門の変(蛤御門の変)で焼けた範囲を示す絵図     
  元治元年(1864)7月19日  明治維新の2年前        
直前の6月に池田屋事件で新撰組により藩士を殺された長州は
公武合体派に京都を追放されたこともあり、反撃を行った。   
結局、長州藩は負けるのだが、一説によると長州が放火して  
火災は御苑西側から広がり2日間で南は本願寺の先の御土居
まで、西は堀川までの広大な範囲に及ぶ。            
従って多くの建物は明治になってからの再建。