新神戸2 コメント付
場所 :神戸市中央区北野
日時 :   2025/9/26
モデル:   なすたろう

ようやく地獄の熱気が去ったけれども、雨が持ってきた湿気。
新神戸の建物内から一歩も出ず・・・  ヘナチョコ爺であります。
さて、どんな風に撮ろうか? な~んにも準備していません。夏ボケかそれとも本当のボケか?

モデルさんとのお話の時間が長いとわかってはいるのですが
他人と会話する機会がマッタクない爺のリハビリだと思っているのです。
モデルさんのSNS写真が最近になって肌色多めになった?
意識的に増やしていると。   反響がグッと増える♪
あ~某撮影会主催者さんとそんな話したのを思い出した。
撮影会の企画で水着だとかランジェリーだと応募が激増と(笑)
僕がよく知るモデルさんはたいてい脱ぐのも厭わない人たち
でも僕は化ける人・演技する人が大好き。なので申し訳ないが
衣装を着た(時には肌を出さない)撮影をお願いするばかり。
ゴメンネ、時代遅れのワガママ爺で♪
モデルさん衣装のお願いは「明るく」それだけ。


同じ規模の吹き抜けのある施設はたくさんあるが、通行人がいないのは数すくない。
以前なら背景の三角コーンを消したり遠くのビルの看板赤色を灰色にしたが、今はそれも許容。


久しぶりに持ち出した超広角10mmレンズ。使い方忘れた・・・


手すりに寄りかかって片足あげてナンタラカンタラ


足のあげかた、靴裏の向き、いろいろ変えてもらったのです。


チョット大きすぎませんかあ?(ナニガ?)


というわけで、素直なポートレートでごまかしておこう。


現像で色を青めに。大した意味はないです。




某撮影会主催モデルさんの話から、ワザと暗い目のポーズで暗い目の表情に。


眉間にシワを寄せてもらったのです



10mm超広角の威力。歪みを補正しないと目も当てられないッス。


カメラの設定をずいぶんイジリました。現像処理ではないです。


撮ってから右手が画面からハミ出ているのを発見


モデルさんは手を引き寄せたのですが、僕の好みではないなあ。


天を向くまでそっくり返ってもらいました。手すりがもっと低いと良かったなあ。


ダンススタジオのような吹き抜け。もちろん踊ってもらいましたとも。


通路で見つけた大きな鏡。ちょっとエロチックに見えるように♪


モデルさんと話したのです。2人のモデルで色違い衣装着るのはどうだろ?
同じ身長が条件かなあ? 面白い遊びができそう。


こんな感じか?笑)



閉店した店舗跡の続く廊下で、挨拶練習するスタッフ。黒か紺のスーツならシュールな光景。




同じ位置で少しづつ身体にヒネリを。




テキトーに動いてもらったら影が面白かったので、いろいろ試したのです。
本人はどんな影になっているか全くわかりません。


スタジオなら壁と隙間をあけて背後から光をすこうし入れるとか。でも、これもいいなあ。


再び、困り顔に挑戦。 ポートレートで困り顔ってナンヤ?



裏口(奥には新神戸駅が)の光が面白いので。でもドア枠が太すぎてジャマだなあ。


よくあるポーズですが、逆光でディテールを消すと何とも不思議なフォルムになりました。
今考えたら、後ろのドアを全開にしたら良かった・・・


ダンスの一瞬。 コワ~イ。


何の意味もありませんが、元気よく大股で歩いてもらったのです。ソレガドーシタ


横引シャッターが鉄格子のようだったので、安易な設定で。


全景はこんなの。人がほとんど通らないので好き放題な撮影ができます。


吹き抜けの大空間。実はそこそこ人通りがあり、誰もいない一瞬を狙ったのです。











[ 脱線 ]

1995年の新神戸  生田川から東は住宅街のまま


1975年の新神戸  まだホテルやモールは手つかず


1948年の神戸  爆撃で一面の焼け野原。米軍による撮影


1935年(昭和10) 布引滝は観光名所、でもロープウェイはありません


1895年(明治28) 生田川周辺の道路は曲がりくねっています


1880年(明治13) 生田川のあたりは空白。何もなかったのではなく書く価値がなかった
生田川の名称に注意。「新生田川」


1871年(明治4)に現在のフラワーロードから付け替えられ、河川跡と周辺の合計17万坪
は加納宗七に払い下げられ、加納は幅18mの道路(現在のフラワーロード)を設け
両側は造成して宅地としました。一部は名前にちなんで加納町となります。

加納宗七はWikipediaを見るとオモシロイ人物で、調べたくなります。
実家は和歌山紀州藩の御用商人宮本家で、酒造業や廻船業で財をなし、結婚時に加納に改姓。
宗七は実家を継いだわけではなく加納家に養子に出されたのでは?
結婚後に倒幕運動に参加とあるが、加納家は大阪か京都か?
慶応3年4月23日岡山県笠岡沖合で海援隊が操縦する「いろは丸」160t と紀州藩の軍艦「明光丸」877tとが
衝突しいろは丸は大破沈没、その賠償責任をめぐる交渉は海援隊側竜馬と紀州藩側船長高柳で
竜馬の無理を通せば論で紀州藩は屈服。紀州藩は8万3千両を払うことになる。
(三浦休太郎が紀州藩代表との異説もある、もしそうなら三浦は竜馬に深い恨みができた)
慶応3年10月14日に徳川慶喜は政権返上を天皇に奏上した。(大政奉還)
なのに周辺はゴタゴタの連続。
慶応3年11月15日坂本竜馬が京都蛸薬師の近江屋で暗殺された。犯人は十津川郷士と名乗っていたと。
海援隊は新選組か紀州藩の報復と疑い、宗七や陸奥宗光(のちの外務大臣)らは12月7日に
紀州藩用人の三浦と護衛の新選組を襲撃、だが失敗する。
三浦休太郎が竜馬暗殺に関与していると海援隊に知らせたのは宗七だとの説がある。
三浦は紀州藩の上級武士の子、宮本家時代のウラミツラミがあったのでは?
宗七も三浦襲撃に参加しており、資金援助や見張りをしたと。
失敗のあと宗七は海援隊士竹中の手助けで神戸花隈に隠れ住む。
どういうわけか神戸で材木商、廻船、舟宿を開き成功する。はて、どんなワルモノだった?
事件の2日後、慶応3年12月9日に明治天皇が王政復古の勅令を出し
慶応4年1月3日に鳥羽伏見の戦いで幕府軍は破れ
1月10日には二条城にいた慶喜や兵庫奉行などは江戸に逃れ
京・大阪・兵庫などは無政府状態に近くなる。
慶応4年1月11日に三宮で備前藩の隊列を横切ったとしてフランス水兵と銃撃戦
さらに欧米諸国公使らにも銃撃し明治政府初めての外交大問題に発展。
宗七の盟友陸奥宗光の尽力で解決する。
こうして宗七は幕府のお尋ね者から勤皇の商人へとかわっていく。
宗七の材木店は兵庫県や大阪府の御用達となる。(どんな貸しがあったのか)
慶応4年4月21日に東征大総督(天皇側)が江戸城に入城
慶応4年8月27日(1868年9月18日)に元号を明治に改元
(慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日となった)
明治2年、紀州藩経営船運会社の神戸支店頭取に就任、陸奥宗光は兵庫県知事に。
明治4年3月10日生田川の付け替え工事着工、同6月9日に竣工、請負ったのは宗七。
旧生田川跡地を払い下げた日時は不明だが、41700坪を5518両だった。
明治4年11月から地均し開始、明治6年6月に竣工。幅10間の大道路を設けた。