[ 脱線 ]

1995年の新神戸 生田川から東は住宅街のまま

1975年の新神戸 まだホテルやモールは手つかず

1948年の神戸 爆撃で一面の焼け野原。米軍による撮影

1935年(昭和10) 布引滝は観光名所、でもロープウェイはありません

1895年(明治28) 生田川周辺の道路は曲がりくねっています

1880年(明治13) 生田川のあたりは空白。何もなかったのではなく書く価値がなかった
生田川の名称に注意。「新生田川」

1871年(明治4)に現在のフラワーロードから付け替えられ、河川跡と周辺の合計17万坪
は加納宗七に払い下げられ、加納は幅18mの道路(現在のフラワーロード)を設け
両側は造成して宅地としました。一部は名前にちなんで加納町となります。
加納宗七はWikipediaを見るとオモシロイ人物で、調べたくなります。
実家は和歌山紀州藩の御用商人宮本家で、酒造業や廻船業で財をなし、結婚時に加納に改姓。
宗七は実家を継いだわけではなく加納家に養子に出されたのでは?
結婚後に倒幕運動に参加とあるが、加納家は大阪か京都か?
慶応3年4月23日岡山県笠岡沖合で海援隊が操縦する「いろは丸」160t と紀州藩の軍艦「明光丸」877tとが
衝突しいろは丸は大破沈没、その賠償責任をめぐる交渉は海援隊側竜馬と紀州藩側船長高柳で
竜馬の無理を通せば論で紀州藩は屈服。紀州藩は8万3千両を払うことになる。
(三浦休太郎が紀州藩代表との異説もある、もしそうなら三浦は竜馬に深い恨みができた)
慶応3年10月14日に徳川慶喜は政権返上を天皇に奏上した。(大政奉還)
なのに周辺はゴタゴタの連続。
慶応3年11月15日坂本竜馬が京都蛸薬師の近江屋で暗殺された。犯人は十津川郷士と名乗っていたと。
海援隊は新選組か紀州藩の報復と疑い、宗七や陸奥宗光(のちの外務大臣)らは12月7日に
紀州藩用人の三浦と護衛の新選組を襲撃、だが失敗する。
三浦休太郎が竜馬暗殺に関与していると海援隊に知らせたのは宗七だとの説がある。
三浦は紀州藩の上級武士の子、宮本家時代のウラミツラミがあったのでは?
宗七も三浦襲撃に参加しており、資金援助や見張りをしたと。
失敗のあと宗七は海援隊士竹中の手助けで神戸花隈に隠れ住む。
どういうわけか神戸で材木商、廻船、舟宿を開き成功する。はて、どんなワルモノだった?
事件の2日後、慶応3年12月9日に明治天皇が王政復古の勅令を出し
慶応4年1月3日に鳥羽伏見の戦いで幕府軍は破れ
1月10日には二条城にいた慶喜や兵庫奉行などは江戸に逃れ
京・大阪・兵庫などは無政府状態に近くなる。
慶応4年1月11日に三宮で備前藩の隊列を横切ったとしてフランス水兵と銃撃戦
さらに欧米諸国公使らにも銃撃し明治政府初めての外交大問題に発展。
宗七の盟友陸奥宗光の尽力で解決する。
こうして宗七は幕府のお尋ね者から勤皇の商人へとかわっていく。
宗七の材木店は兵庫県や大阪府の御用達となる。(どんな貸しがあったのか)
慶応4年4月21日に東征大総督(天皇側)が江戸城に入城
慶応4年8月27日(1868年9月18日)に元号を明治に改元
(慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日となった)
明治2年、紀州藩経営船運会社の神戸支店頭取に就任、陸奥宗光は兵庫県知事に。
明治4年3月10日生田川の付け替え工事着工、同6月9日に竣工、請負ったのは宗七。
旧生田川跡地を払い下げた日時は不明だが、41700坪を5518両だった。
明治4年11月から地均し開始、明治6年6月に竣工。幅10間の大道路を設けた。