阿波座

場所 :西区靱本町スタジオユニット.
日時 :      2020年7月24日 .
モデル:      Artreit Aliy .

大阪市西区は第2次大戦の爆撃で焼け野原になり、復興とともにすべての掘割は埋立てられ
今や事務所ビルとマンションばかりの町になりました。今回スタジオもそのような事務所ビルの一角にあります。

今回の出来いかがでしょうか、蛇を衣装の一部のように扱った写真もあります。
シャッター押すのが遅い爺には複数カメラマンでの撮影会は時間不足です。
制約の中でもそれなりに自由にさせてもらえましたが、あ~したかった、こうできなかったか
振り返ると不満な点ばかりが目につきます。いつものことなんだけど
生き物とのポートレートは思い通りに動いてくれないもどかしさと、意外な動きへの驚きと
モデルさんの忍耐と血と汗、蛇使いさんのタイムリーな解説、ともりだくさん。
ですが、公開できる写真はごくわずか。失敗ばかりでほとんどボツになりました。








































なぜ 阿波座 と呼ぶのか疑問に思ったことありませんか?ないだろうなあ
一説には 豊臣時代に徳島藩蜂須賀家の大坂倉屋敷が中ノ島にあり、藍や砂糖などの阿波商人も集まっていたから。
二説には、蜂須賀の倉屋敷名代を務めていた阿波屋太郎助が阿波堀を開削したから。                   .
この太郎助は太郎助橋(現存せず)や立売堀の名前の元となった人物ですが、よくわからないのデス。
秀吉から阿波座に領地8丁四方(800m四方)を与えられた、とネットに出てくるのですが
根拠となる古文書はどうしても見つかりません。
阿波屋西村太郎助の屋敷がどこにあったかを調べてみました。
国文学研究資料館の蔵書「千代のかがみ」明治35年10月19日刊 非売品
編纂発行 西村太郎助 大阪市西区阿波堀通三丁目二百拾五番屋敷
阿波堀の南側真ん中あたりが三丁目で太郎助橋もありました。

千代のかがみは和歌集で、巻頭には伏見宮文秀女王の歌があります。
女王は天保15年(1844)1月29日生まれ。邦家親王の第7王女。
嘉永4年(1851)円照寺六世門跡をつぐ。(皇族最後の門跡尼)
(故山本静山尼は十世門跡)
維新後は伏見宮家に復籍したが仏門にとどまる。書,和歌に秀れた。
大正15年2月15日死去。83歳。幼称は福喜宮。法号は大和。
円照寺奥の宮墓地に他の女王8名と共に眠っています。
もちろん静山尼も。

なぜ西村太郎助が自選の和歌集の巻頭に文秀女王の歌を置いたのか
文秀女王の歌は「寄竹祝」なので、太郎助の還暦祝に贈った歌なのか?
2人にどういう関係があったのか


西村家がなぜ歴史から消えていったのか、三井や住友とどう違っていたのか、誰か知りませんかあ?
泉佐野の飯家は明治維新を契機に没落していったのですが。