大阪をホジクル 43.じっちょめ
現在の天神橋筋商店街を昔は「じっちょめ 十丁目」と呼んでいた、とあちこちのHPにあります。
祖父(明治35生)がそう呼んでいました。 が
ホントかぁ?
大阪市はどう説明してるのか?
天神橋の説明で、天神橋北詰は天満十丁目 だったと。
疑り深い私は古地図を探しました。もちろん日文研で。
1882年(明治15)
大阪都市計画の前なので古い町名も見えるがほぼ現在に近い。
1872年(明治5)
1872年(明治5)
1847年(弘化4)
幕末では東(図の上方)から一丁目・二丁目と続き、天満橋筋が天満二丁目、天神橋筋が天満十丁目。
ナルホド、説明の通りダ。
ですが、ちょっとした発見。
一丁目と二丁目の間に臼ヤ丁(臼屋町)
二丁目が2つの通りに
四丁目が2つの通りに
四丁目と五丁目の間にシンホ丁(信保町)
五丁目と六丁目の間にタツタ丁(龍田町)
七丁目と八丁目の間にタキ川丁(瀧川町)
八丁目と九丁目の間に市ノ丁 (市之町)
1691年(元禄4)
江戸中期にジャンプすると、何と天神橋筋は天満九丁目だし、堀川沿いは西十一丁目。
1657年(明暦3)
もう少し古いと、天神橋筋は九丁目ですが、通りには天神橋筋とついています。
何かモヤモヤしてますね~
ハッキリしているのは 天満じっちょめだったのは江戸時代後期のこと。
ジーチャンが大人になったのは明治末なので50年くらいは昔の町名で呼び続けていたことになります。
元禄と弘化の間に、通り名がズレています。 どこで? なぜ?
江戸中期頃までは2本の筋をまとめて1つの丁目としていたようです。
とはいえ、ところどころに臼屋町とか独自の町名もあり、併用していたのか?
幕末には数字の町名と独自の町名が交互に並ぶようになっています。
明治になって完全に数字の町名はなくなりました。
ですが、これは役所からの押し付けではなく、単に市中で呼ばれていた町名の追認だったと思えるのです。
住民がカンカンガクガク、ア~ダコ~ダ文句言いいあいながら町名を変更した昭和と同じ感じ♪
あげくに後悔した町名もあるそうですが・・・
役人が区や町の年寄どもから意見を聞いて、新町名を決めて広く住民の意見を求めると
さようですかと鵜呑みにする町もあれば、文句だけ言ってくる町とか、代案を持ってくる町も。