大阪をホジクル 39. 天満切子
天満切子の名前を聞いたこと・・・ ないですよね
天満と聞いて、今はやりの飲食店街、JR環状線の天満駅 と思うのが普通です。
江戸切子のマガイモノ? と思われるかも。
チガイマス
Wikiにはこうあります。
大阪における切子製造の歴史
ガラス商人の播磨屋久兵衛は、江戸時代にオランダ人より伝えられたガラス製法を長崎で学んだ。
その後大阪に持ち込み天満宮近くでガラス工芸を始めたといわれており、大阪天満宮正門脇には
「大阪ガラス発祥の地」の碑が残っている。
1819年(文政2年)には渡辺朝吉が大坂にガラス工場を作った。
同じ頃にガラス製造法が江戸に伝わった(江戸切子)といわれている。
このためガラス製造の開始は江戸よりも大坂の方が早かったとされる。
1882年(明治15年)には大阪最初の洋式ガラス工場が新設され、同地に日本硝子会社が設立した。
1888年(明治21年)には日本硝子会社を退職した島田孫市が天満地区に島田硝子製造所を興す。
島田孫市は大阪における洋式切子の端緒を開いた職人の一人であり、大阪の近代ガラスを象徴する人物だった。
これ以後、大阪市北区・天満界隈の与力町・同心町を中心にガラス工場が増えていき、
大阪のガラス産業は急速に膨張する。その業者の数は東京を凌いでいたとする書籍もあり、
往時の盛況ぶりがうかがえる。ガラスのビー玉がはじめて国産化されたのも大阪市北区である。
その後、国内の競争や安い輸入品に押されて、隆盛を誇った大阪のガラス産業も衰退した。
2010年代には "大阪ガラス発祥之地" である天満界隈からガラス工場はほとんど姿を消した。
切子工房RAUによる製品
1933年(昭和8年)に創業された宇良硝子加工所が1998年(平成10年)に切子工房RAUと屋号を改め
宇良武一が生み出した技法で作られた切子を「天満切子《と命吊して商品化した。
宇良武一が他界した後は、宇良孝次に事業が引き継がれる。
1行にまとめると
"江戸時代からあった大阪天満のガラス産業が衰退し、平成10年に個人が復活命名したのが天満切子"
なぜ天満切子をホジクルのか、理由・背景があるのです。(たいてい思いつきで理由なんぞないのですが)
大阪市内の地蔵調査で天満かいわいを歩きまわったことがあります。
見つけたオモシロイものをホジクルため、古い地図や写真を探し出すことも。
いろいろな地図の中の1枚に 昭和25年(1950)の天満商工地図があります。
(天満橋から天神橋の間にあった天満青物市場の調査で探し出した)
地図のあちこちにガラス屋が散らばっていることに気がついたのです。建具ガラス屋にしては多すぎます。
大阪天満宮の門前に "大阪ガラス発祥" の石碑があることは知っていたので、このことかと。
見つけたオモシロイものをホジクルため、古い地図や写真を探し出すことも。
いろいろな地図の中の1枚に 昭和25年(1950)の天満商工地図があります。
(天満橋から天神橋の間にあった天満青物市場の調査で探し出した)
地図右下隅が造幣局。太い破線は市電です。
ガラス店の集中しているのが北同心町、そこから南に 与力町、南同心町、東寺町と続きます。
実家に綺麗なブドウ色のガラスコップがありました。(今もあります)
実家は元々は奈良の山奥だったのが、ヒイ爺さんが大阪で一旗あげようと出てきたそうで
そこが本庄、今の中崎町。天満と至近距離にあります。
私が小学生だった頃からこのコップを見ていた(夏の来客時に使っていたらしい)ので
戦前からあったと思うのですが、入手の詳細は聞けずじまい。
コップをよく見ると
ベースの透明ガラスの外側にブドウ色ガラスを貼り付け
砥石で模様を削りだす 切子細工
透明ガラスはごく普通のソーダガラスのようで、キラキラしていません。
色ガラスは厚さが不均等で色の濃い薄いがある
幅広砥石で一気にカットしたようで、砥石の筋が残っており、工芸品ではなくちょっと良い日用品です。
(現在の天満切子ならツルツルピカピカ)
ここからは妄想です
ヒイ爺さんが大阪に出てきたのは明治の中頃。
大正初めに阪神間に転居し、さらに戦争末期に大阪郊外に転居。
小学生の私がコップを見たのはここです。
なのでコップは明治末から大正初めの間に買ったのでしょう。
割れやすいガラスコップを転居のたびに包んで持っていく
爺さんにとって親(ヒイ爺)の思い出の品だったのでは?
父が10歳でヒイ爺さんは亡くなり、思い出話を聞いたことがありません。
それでも毎年お盆には座敷机にコップを並べて冷たいサイダーを飲んでました。
何かしら思うところがあったはず。親から引き継いだのはコップだけですから。
こんな理由・背景から、同じ形で色違いの切子を作ってもらおうと♪
ところが
切子工房昌榮さんに相談すると、意外な状況がわかったのです。
結論は 同じものはできない・似たものも不可能
切子ガラスは 大きく分けて2つの作業(職種)を経て作られます。
透明ガラスを型吹きにてつくり、外側に色ガラスをかぶせる
砥石で思い通りの柄が出るよう削る
相談した工房は、被せガラスを仕入れて自分のオリジナルの削りをしている。
最初の型に入れる作業がミソで、型吹きすることで形状が揃うのです。
(1個1個不揃いならプロの商品じゃない)
100年前と同じ型があるはずもなく、宙吹きで成型するとエライ値段になるだろうと。
(旋盤工だった父なら簡単に型を削り出せたのですが)
何種類かの形状と色から選択すれば、削るのは自由(制約はあるが)にできるとのこと。
打ち合わせの結果、こういう風に
オリジナルの筒状に一番近いロックグラス型を選択
ガラスの質は現行の鉛ガラスに
色ガラスは青をチョイス(自由な色は・・・)
カットデザインは100年前オリジナルに似せる
最初に1個を作って仕上がりを確認、手直しあればして残り3個も。
期間は3か月程度かかる
値段は、聞かないでください・・・
試作品ができたので見に行くと
思っていた以上にスッキリした仕上がり。夏向きです。
天満切子はカット形状が柔らかいのが江戸切子と違うのですが
せっかく夏らしい青色にするなら、カット端部を鋭く伸ばしてほしい
オリジナルでは砥石の擦り目がほんの少し残っているのでこれも生かす
(ワザと日用品の雰囲気をちょっとだけ残す)
要望はこの2点。
ついにクリスマス前日にできあがったと連絡が。
1個だけはカットした跡を磨いてガラスがより輝くようにしたと。
削ったままでは不十分と職人魂がそうさせたのでしょうね。
左がオリジナル。 右が今回作成品。
さて明日はクリスマス。 何を入れて飲もうかしらん?
2023/11/25 追記
家内の実家から全く違うタイプの切子グラスが出てきました。
曰く、子供の頃からあった。 お前もか笑
現在地に住みだしたのは戦後すぐ。なので多分その頃のものでしょう。
2人で上述の切子屋に出かけて、同じような注文をしたのです。
同じ形の生地グラスは無理だけど
似たグラスでカットだけを似せる
重ねガラスの色はブドウ色で。
店主の返答は
店頭に並ぶ形状しかない
希望の形状グラスではブドウ色はない(青はある)
オーダー生産は3年以上待つことに。
前回注文は4年前、そのときは3ヶ月でできたのに・・・
う~ん、1年ならまだ元気で待つこともできるが、3年は正直自信がない。
年寄りには3年先のことなどワカラン!
ということで2人の意見は一致。
帰り道、こんなことを妄想してました。
切子グラスは既製品でも高価(1個1~2万円)
オーダーとなると2倍以上高くなります。
3年待ちとなるほど注文が殺到するとは思えないのです。
となると 職人が減った?
客のアヤフヤな注文を聞いて具体化したデザインを考え
さらに現物を加工仕上げていく
それも、日々の既製品製作もこなしながら。
コロナ流行で大事な年寄り職人が亡くなるか退職したか
新しい職人が育っていなかったか。
翻って、自分自身の仕事もそうだったなあ。
グローバル化と言いながら設計者・施工管理者は減るばかり
過去にできていた仕事内容が今の人員では無理。