大阪をホジクル 35.住所表示

大阪をホジクル、と言っておきながら京都の話題から始めます。

京都市内の住所表示は独特です。
例えば、四条烏丸交差点にある三菱UFJ銀行の表示はGoogleMAPでは
「京都市下京区長刀鉾町 京都市下京区四条通烏丸東入長刀鉾町10」

住所が2回も並んでいて、何かヘンですよね?
   この2回並ぶのはどうもGoogleの住所表記基準がズサンなためですが
   問題はそこではありません。
後半の「京都市下京区四条通烏丸東入長刀鉾町10」にあるのです。
   問題点1 実は「四条通烏丸東入長刀鉾町10」の赤字部は住所ではありません。
            「長刀鉾町10」が住所なのです。
   問題点2 四条通りを挟んで北側の三井住友銀行は「長刀鉾町8」
        町の境界は道路中心ではないのです。赤線で長刀鉾町を示しました。

では赤字部分は何を意味しているか?
   四条通り  東西に伸びる誰もが知る大通りの名称です
   烏丸通り  これは四条通りと直交する南北の大通りの名称です。
なので
「四条通烏丸東入る」は次の意味になります。
   四条通りに面した建物で、烏丸通りとの交差点から東に少し行った所(東洞院通りまでは行かない)
         ただし、これだけでは四条通りの北側なのか南側なのかはわかりません。
「烏丸通り四条下がる」だったら
   烏丸通りに面した建物で、四条通りとの交差点から南に少し行った所(綾小路までは行かない)
   もし銀行入口が烏丸通りに面していればこっちの表示になったはずです。(住所は同じだが)
つまり、「○○通り□□東入る」は行先案内の機能を果たしているのです。
このような表示が成立するのは、道路が碁盤目に通っていて、すべての通りに名称があるからなのです。
   例えば、三条通りから四条通りの間の約600mには
     六角通り・蛸薬師通り・錦小路通り  の3つの通りがあります。
     (まるたけえびすにおしおいけ、あねさんろっかくたこにしき・・・の歌を思い出しました)

銀行入口が交差点角で斜めになってたらどう表示するんだろ?

実は全く同じ町名が京都市内には多いのですが、この表示のおかげで間違うことはありません。
  「今出川町」は同じ上京区に2箇所あり
     @今出川通り烏丸西入る
     A元請願寺通り浄福寺西入る
   この2箇所は1kmほど離れています。    逆に、住所表示だけだと全く離れた場所に行くハメになります。
「鍛冶屋町」に至っては市内に6箇所もあるのです。
     @600-8079 下京区堺町通松原下ル
     A600-8329 下京区北小路通西洞院西入ル
     B604-0964 中京区富小路通夷川下ル
     C604-8052 中京区錦小路通御幸町西入ル
     D604-8345 中京区六角通猪熊西入ル
     E612-8071 伏見区
なぜ同じ町名としたのか? まったくわかりませんデス。
でも、京都人なら「なんでウチが名前変えなナランの?」ときっと言うはず。
        「別に困ってないし」
とまあ、こんな感じでよろし?

「西入る」「東入る」「上る」「下る」 の使い方わかりました?
       ×四条通り河原町上る
       ◎河原町通り四条上る
道を教えるときに「ここ真っ直ぐ行って、六角通りを西に入ってすぐ」
京都人は頭の中に地図があるらしい・・・



四条通りを挟んで「長刀鉾町10」は南側、「長刀鉾町8」は北側
現在の日本の住所システムでは道路が住所境界なのですが、昔は違っていました。
         お向かいさんは同じ町内なのでした。
自分の家の裏側の家とは顔を合わせたことがないかも。なのに同じ町内というのはヘンです。
昔は良かったとは言いませんが、住所システムと町内会とがズレてしまっているのです。
この古い町名区画システムは京都だけでなく大阪・奈良にも残っています。
当然、昔ながらの地域に限られますが。
その代わりに(代償に)町名がやたら多くて覚えきれません。
     だからこそ行先案内が必要だったともいえます。
大阪は町村大合併で町名がずいぶん減りましたが、戦前の地図を見ると

旧東区上町(東船場と城の間)のごく一部です。右端に大阪城の堀が見えています。
町名は上から順に、嶋町・釣鐘町・舩越町・内平野町・内淡路町・大手通・糸屋町・北新町・・・
今も同じ町名なのです。(江戸期に遡ると違っている町名もありますが)
京都と違うのは、1丁目・2丁目と分かれている点です。
この方法は江戸時代から変わっておらず、多分秀吉の大坂時代からでしょう。
                   京都人は「なんや新しいねえ」というだろうなあ
                   僕は大阪人なので理由もなく京都人が嫌いです。
                            新しくて迷惑かけたか!フン

奈良は手抜きして現在のGoogleMAPで済ませました。

古い町並みの残る地域から花園町を選んでみました。他意はありません。
道路を挟んで両側で1つの狭い町を形成しています。京都と同じですね。
この地図の中に3つの変わった町名があるのに後から気がつきました。
上端 :芝突抜町    
    元興寺が戦乱で荒廃し芝原になったところへ道を作ったのが由来だとか。
下右 :川之上突抜北方町かわのかみつきぬけほっぽうちょう
    川之上町も元興寺境内にあたり、新たに開いた道を突抜と言いました。
下左 :京終地方西側町きょうばてじかたにしがわちょう
    地方と書いて「じかた」と読む地名は奈良に限りません。福井にもあります。
どちらも突抜は新たに開いた道を指します。



京都の通り名はまだまだ奥が深いです。
地図には記載されない小道が多いのですが、それに名前が付いていることを知っていますか?
大きな道は「大路おうじ」、 小さな道は「小路こうじ」 と呼んでいますが、さらに細い道は
「厨子ずし」とか「路地ろうじ」 とか呼ぶものがあります。

道と道をつなぐものを厨子、袋小路を路地、と呼ぶと本にはありますが
  某HPでは 「京都に多い路地、読み方は「ろじ」の他に「ろうじ」、「ろーじ」とも読みます。
        本来は「露地」と表記し、意味は大通りから折れた、民家の間の細い通路のことを言います。
        最近ではこのような小路全てを露地といいますが
        本来は露地は行き止まりになった小路(細道)のことを言いました。
        行き止まりにならずに次の通りまで突き抜けている路地は「辻子(図子)」(づし)と言います。
                                   (「突抜」ともいいます。)


実はそれほど明確な区別はされていません。
通り抜けできる路地も多数あります。 それどころか、路地のくせに小路と名乗るものもあります。
                        「四条通花見小路東入ル北側八番小路」
                         四条通りと花見小路の交差点を東に行った北側にある八番路地
                         住所などなくても確実にたどり着けます。
厨子には名前がついており、路地は番号で呼ばれる、と説明する本もありますがそうでない路地も多数あります。

先斗町24番路地(この路地は・・・通り抜けできる路地もあるということ)


住宅と店に挟まれた田中厨子ですが、通り抜けできません。


さらにこんな通りもあります。
「天使突抜てんしつきぬけ」
天使が飛び去る、そんなわけありません。なんとも不思議な由来なのです。
  話は平安遷都(794年)に始まります。 大げさだなあ
  遷都にあたって大和国宇陀から天神を勧進して「天使宮」を創建したと。
  「てんじん」が訛って「てんし」となったのではという説もあり
  平安末期(1200年頃)に後鳥羽天皇により五条天神宮と名前を改めた。
  鎌倉から桃山時代にかけては広大な敷地を持っていたようで(内容不明)
  秀吉が天下統一したあと、京都市内を大々的に改造するのですが
  そのうちの一部として五条天神宮を突っ切る道路を開いたのです。
  これが「天使突抜」の由来です。
  京都人にとっては、田舎者の秀吉が無理やり作った道、という皮肉を込めた名称です。
慣習的な地名では「東中筋通り五条上る 天使突抜2丁目」というような表示になります。

赤丸が五条天神です。

ちょっと気になる点が1つ。 なぜ1丁目・2丁目なんだろう?
昔からの名前ではなく、案外と新しいのかも。




ようやく大阪の地名の話題をしましょう。
大阪にはヘンな住所がいくつかあります♪
   @中央区久太郎町4丁目渡辺
       きゅうたろうまち
   A中央区上町A
       うえまち
   B中央区博労町4丁目
       ばくろうまち (東京だったら馬喰町がある)
複雑な理由があるもの、妄想するしかないものも。

@中央区久太郎町4丁目渡辺

住所に「渡辺」がついているのはもちろん深い深い理由があります。
坐摩神社と渡辺の関係を知る人は渡辺さんでも数少ないでしょう。
坐摩神社の住所は「久太郎町4丁目渡辺3号」です。
宮司の苗字はお察しの通り「渡辺」
   私の住む地域の寺の住職の苗字は地名と同じ、さすがに渡辺ではないです。
1989年の町村合併までは「渡辺町」でしたが、他と統合して久太郎町とすることに。
それを全国の渡辺さん「全国渡辺会」が猛反対して住所に渡辺の名を残すことになったと。
渡辺の姓は平安時代にまで遡り、大江山の酒呑童子を退治した渡辺綱も一族です。
もと、天満橋の渡し場あたりにいた一族が、秀吉が坐摩神社とともに現在地に移転させられ
地名も渡辺町になった由来があるのです。
市役所の町名変更担当者はきっと胃潰瘍になったハズ♪

A中央区上町A

上町はありますが、下町という住所はありません。
上町1丁目はありますが、2丁目も3丁目もなく、代わりにABCがあるのです。(Dはない)
なぜそんなことになったのか、必ずしも住民エゴの結果とはいえない複雑な事情があります。
1979年に東区の10町が統合されて「東区上町1丁目」ができました。
         寺山町・広小路町・清水谷西之町・上本町筋2丁目・内安堂寺町通1丁目
         紀伊国町・内久宝寺町1-4丁目・仁右衛門町・清水谷東之町・東雲町1-3丁目
すぐ西隣には「南区上町」があるのですが、区名が違うので問題にはならなかったのです。
1989年に今度は大規模な統合があり、南区と東区が中央区となったのですが
  「旧南区上町1番」と「旧東区上町1丁目1番」はどうなるのか?
大阪市は何と「南区上町のほうを上町2丁目に変える」と言ってきたので
旧南区住民は猛反発、南区上町は江戸時代から栄えた場所で、2丁目にするなどケシカラン
というわけだが、東区上町は10年前に変更したばかり、再度変更するわけにはいかない。
そこで、丁目の代わりに「ABC」「あいう」「いろは」などの案からABCになったとのこと。
なぜ全国唯一のアルファベットにしたのか理由は不明です。
町民はいまでも「伝統ある町名なのになぜアルファベットに」と悔やんでいるそうです。


B中央区博労町4丁目

町名や住所ではヘンな点はないのですが、町域がオカシイのです。
                   なぜその細い細い路地が?
想像(妄想)できるストーリーは
   1989年の町村合併で博労町も整理されたのですが、ある地主さんがゴネたのです。
   この路地もワシの土地じゃ、町名も同じにせんかい!
   土地登記がどうなっているのか知る由もないですが、言いそうだなあ


C尼崎市戸ノ内
大阪から外れますが、余りの奇怪さから選びました。

GoogleMAPで「尼崎市戸ノ内」で検索した結果です。
緑線内が「戸ノ内町」 赤線内が「戸ノ内」
   @なぜ川沿いだけなのか?
   Aなぜ三角の飛び地があるのか?
など疑問がわきませんか?
戸ノ内は秀吉時代より前からある古い地名ですが、上記のようになったのはごく新しいのです。
「戸ノ内町」の東側に川の残りがあります。現状に付け替えられる前の旧猪名川です。
つまり「戸ノ内町」は藻川と旧猪名川に囲まれたデルタだったわけです。
60年代に猪名川の付け替え直線化工事が行われ、草ボウボウの川原はなくなりました。
そこを埋め立てたのが「戸ノ内」というわけです。



大阪の丁目
大阪市内の丁目は大阪城に近いほうから1丁目・2丁目・・・となっている  と聞いたことがあります。
これは大阪市の住所表示基準に明記されています。
   「大阪市住居表示実施基準」 2017年12月15日
   1 町界及び町名の整理
      町の名称の定め方、町割りの方式、町の境界、町の形状及び規模等についての基準は
      「大阪市町界町名地番整理方針」(昭和16年制定、同40年改正)によるものとする。
   2 街区割り
      (1) 街区は、道路、河川、水路、鉄道又は軌道の路線その他恒久的な施設等によって定めるものとする。
      (2) 街区の規模は、面積5,000平方メートル(約1,500坪)程度を基準とし、道路網の疎密の度合及び当該
         地域における家屋の密度の状況を勘案して定めるものとする。
   3 街区符号のつけ方
      街区符号は、数字を用い、大阪城にもっとも近い街区を起点として、連続蛇行式により順序よくつけるものとする。
   4 住居番号のつけ方
      (1) 住居番号は、住居表示台帳として作製される地図に基づいて次の基準により建物その他の
        工作物(以下「建物等」という。)につけるものとする。
        ア 大阪城に近い街区の角を起点として原則として右廻りに街区の境界線を
          あらかじめ本市で定める一定の間隔(以下「フロンテージ」という。)に区切り
          住居番号の基礎となるべき番号(以下「基礎番号」という。)を当該間隔に順次つけるものとする。
        イ 住居番号は、次の各号に該当する基礎番号をもって当該建物等の住居番号とする。
                以下えんえんと続く

城から近い順とすることが戦前(少なくとも昭和16年以降)に決まっていたことがわかりますが
とすれば
   そうでない順番の地図が江戸時代にあったのでは?
   順序を切り替えたのは昭和16年よりもっと前からでは?
などの疑問がわきます。


大正14年(1925)年  大阪城周辺には陸軍関係施設ばかり。


明治39年(1906)年  陸軍施設も移り変わりがあります。


明治5年(1872)年  維新後すぐの地図です。


天保8年(1837)年  幕末のころ。


元禄4年(1691)年  江戸中期のころ。5代将軍綱吉


明暦3年(1657)年  江戸初期のころ。4代将軍家綱
大坂市街図としては最古の地図。
ここでようやく丁目の順序が逆になりました。
つまり、元禄期に順序を変えたわけで、なぜその時期に?という理由があるハズ
元禄時代というのは江戸文化が豪華絢爛になっただけでなく、農業・工業・商業も劇的に伸びた時代で
大坂も当然のように繁栄し、外へ外へと拡張していました。
このあたりに丁目変更の理由がありそうです。

調査はメンドウな予感がするので、ここまで。  チョ〜〜〜〜〜〜ン