大阪をホジクル 33.南濱墓地にある町奉行の墓

第19話「 南濱墓地」では墓地内の墓の紹介をしました。
その中に大阪東町奉行の上思議な墓石もあったのですが、上思議さを放置していました。

   山口丹波守源直清墓
   なぜ石碑のような墓石なのか?
   なぜ菩提寺でなく公共墓地に?
            この2つの疑問は無関係に見えて実は1つの答えになります。

墓の主「山口直清」が3000石の大身旗本で、宇和島藩主伊達村候の次男で養子に出されたこともわかっていたのですが
その宇和島に今も尚、「宇和島伊達文化保存会」が活動していることを知り、問い合わせてみました。
   ①南濱にある墓以外に東京・宇和島にも墓があるのでは?
   ②生没年月日は?
丁寧な回答をもらいました。
   山口直清の詳細について兵頭賢一氏「伊達村寿公伝」から該当ページを送っていただいた上に
   ①墓所は天満法界寺にあり
    西成郡南濱村に市民が建碑  →これが墓地にあったものです
    宇和島では大超寺に位牌を安置
   ②宝暦10年3月3日生まれ、寛政10年1月24日卒(諌死)


たまたま、法界寺は職場の近くにあるので、住職から直接に墓を案内していただきました。
第2次大戦末期の爆撃で寺は焼失し、墓石も黒コゲになり、境内整理で移動したそうです。

   右から2番目の焼けて破搊したのが直清の墓です。
   硬い御影石なので風化はあまり見られません。
   昔はこの場所ではなく、入り口に近かったが手狭になり移設したと。


   台座の「山口姓かばね」という表記は初めて見ました。
       本来の姓は氏うじとは違い、朝廷からもらう尊称でした。
       藤原朝臣あそんの朝臣が姓です。
他にも連むらじ、臣おみ、造みやつこなど。
       なので、山口姓という使いかたは気取ったものの間違ってしまったのでしょう。
   祀る方もいなくなり、足元に見えるような掲示をしてある上に、住職の説明では残念な事情がありました。
   直清が亡くなったのは寛政10年(1798)のことで、200年忌を子孫が開いたそうです。
   その子孫が言うに、この墓は文化財なのだから大事にしてほしいと。
   住職は、祀られている墓を守るのは寺の務めですが墓を修繕維持するのは子孫の務めではと返すと
   子孫は憤然として帰ってしまい、2度と現ることもなく、連絡もつかないとのこと。
   どうも寺の費用で修繕してほしかったのです。
   もちろん住職はこの墓の主がどのような人物だったのかご存知で、中ノ島の蔵屋敷街に近かったこともあり
   寺には宇和島藩・松山藩の関係者と思われる墓が多いと。
   繁華街の中にある寺で、狭い墓地に無縁墓が次第に増えていくので、どうしたものかと悩まれています。


   正面  載芳院殿寛譽宣春大居士
              上部に並ぶ家紋は左が「なでしこ」これは山口の家紋です。
                      右は「丸に結び雁金」
                      宇和島伊達なら竹に雀のはず。
                      いろんな想像をしてしまいました。


   左面  山口丹波守直清女むすめ
        指光院殿挩?月智玉大童女
             大童女とあるのは成年していないというだけで、幼女とは限りません。
        寛政九年歳次丁巳八月二日卒
             直清の亡くなる前年です。
この墓ができたときに彫られたのですが
             家臣あるいは江戸に住む子供直勝がこれを指示したとは思えず
             直清本人が生前から決めていたと想像します。


   右面  寛政十年歳次戊午二月八日卒
             この日付については後述。


   裏面  前丹州刺史
        山口丹波守直清墓
             刺史とは中国での官吏名で「州の長官」
             丹州=丹波
             丹波守と東町奉行という役職からの連想でしょうか
             中国の三国志に出てくる「劉備」は豫州刺史でした。
             刻文の作者は劉備元徳のことを頭に置いたのです。


   直清の墓の並び左端の墓の主は松山藩家臣です。
   台座(花崗岩)の大きさに比べて竿石(砂岩)がすこし貧弱に見えます。よくあるとも見えますが。


   正面  豫州松山臣
        竹内九郎兵衛藤原信好墓
             豫州=伊豫=伊予
   供花があり、守をする方がいるのです。


   裏面  寛政十二庚申年九月十八日
             寛政10年では戊午なので「二」が欠落と判断
             住職の説明では、伊予松山藩の家老だとのこと。
             確かに竹内九郎兵衛という人物がいるが家老だったかどうか。
             「えひめの記憶」によると14代松山藩主松平定昭の家老竹内九郎兵衛は慶応4年の活動が記載されています。
                 慶応4年(1868)は幕末で寛政10年(1798)の70年後
                 従ってこの墓の人物はその祖父にあたるのか
             定昭は親藩であるのもかかわらず戊辰戦争・鳥羽伏見の戦いにも参加せず
             戦いの直後に大阪から松山に戻ってしまい、竹内九郎兵衛などと図って
             藩主は謹慎して藩を朝廷に返上する動きに出るのです。
             九郎兵衛は明治2年にも松山の改革で役割を果たします。
             このような重要な役割を果たす九郎兵衛の死亡時期を間違うことは考えにくく
             同名の別人と想像します。
             直清の諌死から2年半後に亡くなっているので、生前の親交があったはず。
             一方は幕臣、片方は大名の家臣ですが。

             13代藩主松平勝成の用人竹内九郎兵衛という記述も見えます。
             同一人物なのか別人なのか不明です。


ここまでは、墓石調査の補足というだけで大して面白くもないのですが・・・
それくらいでは、「大阪をホジクル」で1つの話題になんてしません。フン!

生没年月日の疑問
   Wikipediaには 山口直清
           山口 直清(やまぐち なおきよ、宝暦4年(1754年)- 寛政5年(1793年)は
           江戸時代の旗本。3,000石。伊予宇和島藩第5代藩主伊達村候の次男で
           山口直承の養子。従五位下、丹波守。
   一方、大阪府立図書館の資料「大坂城代・定番・町奉行・加番一覧」では
           東町奉行在職 寛政7.7.16~寛政10.2.8 とあります。
   私の2番目の疑問はWikipediaでの没年が在職前となってしまう点にあります。
   もちろん、Wikipediaの方が疑わしいのです。
   保存会からの回答では
           宝暦10年3月3日生まれ、寛政10年1月24日卒(諌死)
                         (2月8日ではない)
   これでもまだ死亡日には納得できません。
   理解のヒントは「諌死」という言葉にあります。
           死んで目上の者を諌める
   つまり直清は病死でも事故死でもなく、腹を切って死んだのです。
   保存会からもらった抜粋資料「伊達村壽公傳」兵頭賢一 では
      ・・・
      安永7年(1778)幕臣山口兵庫直承殿の御養子となられ、翌8年9月9日御養家へ御引越あり
      寛政元年(1789)11月19日御結婚の上御家督相続、更に兵庫と御襲名、
      寛政5年(1793)従五位に叙し丹波守と称せられ、御諱を直清と改められた。
      寛政7年(1795)7月16日日光奉行より転じて大阪東町奉行となられたのであるが
      資性剛毅果断にして裁決流るるが如く、市民皆悦朊していたとの事である。
      大阪は天下富豪の集まる所であったから幕府は事ある毎に之れ等に対して縷々御用金を
      命ずるが例であったという。御就任の頃はこの御用金の賦課が余りに頗繁であり
      大阪市民は其の弊に堪えないで困難を感じていたのみならず、時は天明の飢饉を
      去ること遠からず市中の疲弊の際であったが、またまた御用金賦課の沙汰があったので
      あるから丹波守殿は幕府に対して熱心に其の上可なる所以を陳述し、若しも御用金が
      海陸の軍備とか其の他非常の事のあった場合ならばやむをえない事であるkれども
      平時の場合単に幕府の御都合ということで縷々多額の御用金を課せらるるは御仁政の
      趣旨にも反する仕方であると反対の意を表せられたけれども、当局者は之れを顧ざる
      而己ならず、御用金紊付の督促のみしきりに至るという次第であったので、丹波守殿は
      遂に死を以て此の挙を諌止するの外なしと決心せられき。
      遺書を認めて見事に割腹せられたのである。ここにおいて当局者も大に悟る所あり、
      此の事は其のまま中止の姿となってしまった。時に御年39、大阪天満法開寺に葬った。
      此の事市民の知る所となり市民の犠牲となられた高徳を頒し、相謀って西成郡南濱村に
      建碑したとのことである。
      凡封建の世に於いて親の為にまた君主の為に死んだものは多いことであるが、
      政府の官吏であって人民の為に犠牲となって死んだものは甚珍しいことであろう。
      前記した日記の記事の中に「実は先月二十四日御卒去なり」と割註してあるのは
      幕府では割腹の事を公表することを好まないで二月八日に病死したという旨に
      公表せしめたが故であり、現に法開寺の過去帳にも左のように記されているとのことである。
         實家豫州宇和島大守伊達遠江守村候殿御次男
         載法院殿丹州刺史寛譽宣春大居士
         當町東町奉行山口丹波守直清御享年三十九歳
         表披露二月八日、内分は正月廿四終焉也
         寛政七年より今年迄御勤、迎僧龍道云々
           (以上は過る大正4年故村松恒一郎氏が試みられたる講演筆記によって略記)
      ・・・
         村松恒一郎氏が大正4年以前に法界寺で過去帳を見たことがわかりますが(兵頭氏は見ていない)
         過去帳の現物は大戦末期の爆撃で焼失しています。
本当は1月24日に割腹死したのに、幕府の都合で2月8日に病死ということにされた、というわけです。
1月24日に病死ということでもいいんじゃないの?
あなた、それで納得できます?

諌死というからには、申立書を事前に用意しておいて、割腹の立会人に託したに違いありません。
考えられる提出先は上司である大阪城代・江戸幕府(寺社奉行・勘定奉行・町奉行・老中など)
幕府の指示に逆らったのだから、何らかの処分を受けて当然で、閉門・断絶など考えられますが
直清の孫が宇和島藩8代目宗城となるので、大した処分は受けていないでしょう。
ですが、諌死したことを大阪では誰もが知ったはずで、江戸でも噂を聞くこともあるし
申立書をみた幕閣もいるので、それをなかったことにするのは大仕事です。
なかったことにするには
    申立書を処分する
    諌死ではなく病死とする
    家督相続を決める
    諌死の原因となった御用金問題をウヤムヤにする
          (正式に取り消すと別の処分者が出てしまう)
    大阪城内の関係者に言い含める(書類は残さない)
    幕府内の関係者に言い含める(書類は残さない)
大阪と江戸の間では往復1週間程度かかり、死後2週間後というのは案外素早い処理でしょう。
でも
   日付まで変えなくてもエーじゃないかぁ?

ですが
山口直清が助けた大阪町人がどう思って石碑を南濱墓地に建てたのか、知りたくなりました。
このあたりの事情は宇和島の資料からは出てきそうにありません。
何しろ大阪のことですから。
石碑に何かしらの刻文があるのでは?
ほとんど読み取れない裏面の刻文、御影石だから風化することもなく、最初から浅い彫り方で
一般の人には読めないようにしたのでは、と勘ぐってしまいました。
さあ
拓本とる勉強しなくっちゃ・・・



由比正雪の乱 というのをご存知ですか?
武士をクビになった浪人集団が幕府転覆のため江戸を焼き払うテロを計画して、事前につかまった事件です。
家康が開いた幕藩体制を引き締めるため大名に限らず旗本まで改易取り潰しが頻繁にありました。
このため膨大な数の浪人が生まれたのです。
慶安4年(1651)三河刈谷藩主松平定政(家康の甥)は出家した上、困窮する旗本の救済がないことを批判し
自分の知行2万石を返上して旗本1人あたり5石を分配すれば4000人が救われると申し出ます。
将軍家綱は刈谷藩を改易し、定政を伊予松山藩松平定行に預けます。
この事件があった2週間後に由比正雪の乱(慶安事件)が起こるわけです。
改易で浪人となった元武士は大阪・江戸に集まり、社会不安の原因となります
      大名が改易されると、一族だけでなく臣下も全員もれなくクビです。
      もちろん臣下の下郎・一族郎党すべてプータローになります。
      次にやってくる大名が再雇用してくれればよいですが。
      江戸藩邸・大阪蔵屋敷からも出なければなりません。
      サラリーマン同様につらいのです。
      赤穂のトノサマのせいで路頭に迷ったサラリーマン武士とその家族・・・

慶安事件の4ヶ月後、幕府は末期養子の制限緩和をします。
末期養子とは、死期の迫ったときに養子をもらうことで、あらかじめ届出しておかねばならなかったのです。
大名は跡継ぎがいないと改易となり、臣下はすべて浪人になってしまうので、病気で死にそうな場合には
末期養子を認められたわけです。もちろん、幕府官吏がその生存と本人の意思を確認する必要がありました。
        これと直清の諌死はどう関連するか?
             もうすこし我慢してください
仮養子についても紹介しましょう。
大名は参勤交代で、1年おきに江戸と藩とを行き来していました。(藩によって違うが)
藩主がまだ若く子供がいない、あるいは子供が病弱で跡継ぎがいない場合に問題があります。
藩に戻っている間に藩主が病死すると、どういうことになるでしょうか?
跡継ぎがいないので改易です。
このような事態を避けるため、仮養子制度があります。帰国している間だけの仮養子です。
無事に江戸に参勤してくれば解除されます。もし病死すれば、仮養子が本当の養子として扱われるわけです。
仮養子を選定するというからには、子供がいないあるいは養子をもらっていない、というわけで
仮養子をどこから選ぶかが問題となるのです。
近い一族にいないわけで、一族の中の遠い親戚、あるいはすでに養子として出された子など。

宇和島藩7代目伊達宗紀(直清より1代若い)の場合がそうで、さらにこみいった事情がありました。
                   大森映子「江戸時代における仮養子と相続」より

宗紀が相続したころ、弟の宗翰は支藩の伊予吉田藩藩主で、子供は女ばかりでした。
文政8年(1825)帰国するとき、仮養子を選ぶのに大モメになったのです。
  宗翰を仮養子とすることはよいが、もし宗翰が本家を継ぐことになると、吉田藩は改易だと。
  単なる支藩であればそんなことはないのですが、吉田藩は幕府から朱印状をもらっており
      単なる支藩なら宇和島藩内での決め事としてよいが
      朱印状を持つ支藩は一般の大名と同じ扱いとなる
  このように老中水野忠成から示され
  宗紀は従兄弟である弾正を仮養子に指名します。
問題は2年後の文政10年(1827)です。
  弾正が病弱で仮養子として不適当になっていました。
  そこで叔父直清の孫亀太郎を仮養子に指名します。
      苗字が山口でも血縁であるからで、宗紀は他人よりも血縁を重視したわけです。
結局宗紀は跡継ぎを亀太郎とし、文政11年11月山口亀太郎を伊達弾正の養子として迎え
さらに帰国前の文政12年4月11日に婿養子の届けが提出された。
前年の文政11年に生まれたばかりの娘貞の婿宗城として。(結局貞は若くして亡くなります)
翌年の天保元年(1830)3月についに宗紀に男子が生まれる。宗徳です。
天保5年に宗城は将軍お目見えをし、6年に元服し、8年(1837)に弟宗徳を自分の養子とした。
本来の血筋に戻そうとしたわけです。
上記系図で矢印は養子関係を示しています。

まわりくどい紹介をしましたが、ようやく 山口直清と宇和島伊達家が養子・仮養子で結びつけられました。
さて、本来の「諌死と末期養子」の関連は?
割腹自殺でしかも幕府を批判するのですから、末期養子など考えられません。
幕閣にも諌死で思い当たる点があったのでしょう、何とか救う手立てはないものかと。
そこで「なかったことにしよう」なのです。
      諌死もなければ、その原因もないことに。
諌死を認めれば、山口家は最悪断絶・関係者も処分しなければなりません。
山口家だけでなく、宇和島藩にも問い合わせることに。
そのような事態は避けなければなりません、絶対に。
残された山口家も断絶を避けられるなら、多少どころかどんな条件でも受け入れるでしょう。
諌死を病死とすることに異存などあるはずもなく
死亡日を変えるという指示にも異存はなかったはず。山口側から提案したはずはありません。
では、幕府にとって死亡日を後にズラすことにどういう意図があったのでしょうか?
ここからは大胆な想像です。
   1月24日に立会のもと切腹、申立書は大阪城代・江戸幕閣に送られ
   申立書や城代からの手紙が江戸に届くのは3日後の1月27日ごろ。
   同時に立会人は江戸に出発
   幕府は震撼し、老中は対応を協議するも、立会人の説明を直接聞いてからということに。
   幕閣が詳細に聞き取ったのは1月31日のこと
   結論は「なかったことに」だが、関係者への根回し指示があるので
   立会人に対応策を言い含めて大阪に返したのが2月2日
   大阪に帰着するのが2月8日なので、山口直清は大阪で病死2月8日ということに。
   内容を知る関係者をできるだけ増やさないようにしたでしょう。


おまけ1
宇和島藩蔵屋敷が近くにあると書きました。
その場所とは朝日新聞大阪本社にあたります。
明治維新で中ノ島の蔵屋敷だけでなく全国の各藩所有不動産は国のものとなりました。
宇和島藩蔵屋敷も同様ですが、明治18年(1885)跡地に朝日新聞が入り、藩の神社は新聞社の管理下に。
現在はフェスティバルタワー13階屋上に鎮座しています。

次の地図は天保8年(1837)天保新改攝州大坂全圖で、水色四角が法界寺、赤四角が宇和島藩・伊予松山藩の蔵屋敷です。
歩いてすぐの距離にあります。



おまけ2
山口家についてほんの少し調べてみました。
3000石の大身旗本ですが無役で、領地は甲府・三河にありました。旗本本人は領地に行ったこともないでしょう。
代官がすべて取り仕切っていたのです。

領地 駿河3ケ村450石  吉野家が代官
山口氏の所領の代官屋敷の長屋門は現存しており、山本代官屋敷と呼ばれています。
代官は吉野家が代々つとめており、甲府武田の軍師山本勘助の生誕地でもあります。

領地 三河7ケ村2548石 伊奈家が代官
この紹介HPに山口家の菩提寺が記載されていました。
          東京高輪の広岳院
ところが、この墓の主は旗本山口重恒で、牛久藩2代藩主山口弘隆の弟で5000石を分知されたとのこと。
(未確認) さてどっちが本当?
 広岳院に聞けばわかりますが、もういいか・・・
山口家の旗本屋敷がどこにあったのか、これはもっと難しいかも。
なにしろ旗本八万騎ですから。
山本屋敷に尋ねる手もありますが・・・


おまけ3
法界寺のある場所は天満なのか?
私の頭の中では「曽根崎」なのです。
 浄瑠璃に曽根崎心中ってありますよね。
昔は天満だったのかしらん・・・
上で示した天保大阪全圖ではわかりませんが、東西に並ぶ寺町の西端から2軒目が法界寺。
この寺のある町を天満寺町と呼んでいるので、そうかも・・・

もう少し新しい地図(明治5年の甼名改正繪圖)では

まだわかりません。

明治33年の大阪市街全圖ではもうすこし

どうも曽根崎ではなく北野というべきか、どちらにしても天満でないのは間違いない。

大正元年の實地踏測大阪市街全圖では

やはり北野が正解です。

2016年のGoogleMapで西天満を表示すると

が法界寺で、現在の住所は大阪市北区兎我野町
曽根崎も北野も地域名ではなくなりました。