大阪をホジクル
32.天満堀川の橋
南濱墓地に残っている1本の花立の文字「たる」をきっかけに、天満堀川にあった樽屋町と酒造業まで話が広がりました。
天満をブラブラ調査をして、堀川にかつてあった2つの橋の痕跡をみつけたのは偶然です。
まずは、その2つの紹介をして、それから天満堀川に懸っていた橋(今は1つもない)を調べましょう。
樽屋橋
横断歩道を渡ってズンズン行くと天満宮の正面に出ます。
お吉稲荷と一緒に南西に親柱があります。
横断歩道の向こうにある陰は説明板で、親柱ではありません。
樽屋橋はこの横断歩道の左にあったハズ。
古い橋は斜めにかかっていたことがわかります。向こうに延びる道の先に赤い鳥居が見えます。鳥居から先が鳥居筋。
南西の親柱には「たるやはし」の文字の左側に手摺がついていた跡が2つ。
従って、置き間違いです。ちょっと考えれば正しい向きがわかるのに、建設省/道路公団なんて
歴史も文化も理解できないヤクザ集団です。(ヤクザが怒る・・・)
その裏側です。 ここには手摺の跡が1つ。
北東の親柱はフェンスの中です。(もともと北東にあったかどうか?)
橋名が内側を向いているのは置き間違えです。
橋名の右側に丸い手摺の痕跡があります。
太平橋
太平橋は天満堀川の大川への出口に懸かっていた橋で、昭和50年(1975)まではありました。
入口に1本②、木の下に1本①
入口の反対側に向き合うように③
ポツンと離れて④
④の字体が②と違います。
③の正面
この親柱②の側面(道路側)に「昭和三年十二月改築」とあります。架け替えたわけです。
木の下の①
天満堀川の移り変わり
例によって古地図と航空写真で移り変わりを追いかけてみます。
絵図・地図は正しくない場合が結構あるのでほかの地図などとの比較が大事です。
たった5行の超超カンタン歴史
天満堀川は秀吉が慶長4年(1599)に開削。このときは南北だけ1.1kmの行き止まり。
天保9年(1838)に東側へ1km延長して両端が大川に繋がる。
昭和3年(1928)頃に大阪市の第1次都市計画事業の一環で鋼橋・コンクリート橋に架け替え。
昭和43年(1968)に南端を除いて埋め立て、道路とする。
昭和61年(1986)に残る部分150mもすべて埋め立て。
手に入る最も古い絵図は江戸初期のもので
明暦3年(1657)開削後58年も経っています。天満堀川は北に行きどまりなのがわかります。
上流側から、●うずはし・名前のない橋・天神町はし・ひとつはし・ひの衛はし・いやとふはし の6橋がありますが
以後とはかなり名前が違っています。
天神橋筋を北に同心町を越えたところに2つの池があり、「めうといけの町」とあります。
元禄4年(1691)開削後90年
上流側から、寺町橋・堀川橋・天神橋・樽や橋・樋上橋・門樋橋 の6橋があります。
天神橋筋を北に同心町を越えたところに「●うふ池」とその中を通る「橋のようなもの」がありますが
まだ東西の堀はなく、田畑の排水・小舟のための井路川でした。
天保8年(1837)大塩の乱の年で、延長開削直前です。
上流側から、寺町ハシ・堀川ハシ・天神小ハシ・タルヤハシ・樋ノ上ハシ・太平ハシ の6橋で
一般に呼ばれる名前になりました。
天神橋筋を北に同心町を越えたところの「女夫池」は1つとなり「橋のようなもの」も消えています。
明治5年(1872) すでに明治ですが地図はまだ江戸時代の絵図様式のまま。
天保9年の延長開削は示されていますが、橋名はありません。単なる手抜きでしょう。
明治18年(1887) 内務省の測量による近代的な地図が作成されました。
天満とはどの範囲か? この地図は明確に示しています。
北同心町(地図では北町)より南側です。
堀川とそれに懸る橋が示されていますが、名前のないものも。
上流側より
天満橋筋に懸る橋(名前なしだが樋ノ口橋のはず)
字観音寺と字東子家場の境目の橋(名前なし)
その後大阪鉄道(環状線)になる橋(名前)
夫婦橋(天神橋筋に懸る)
陸軍兵営(堀川監獄となる)南東隅の橋(名前なし)
同南西隅の橋らしきもの
寺町橋
堀川橋
天神小橋
樽屋橋
●●●(判読上能)
●●橋(判読上能) の12橋(11かも)
大正13年(1923)の有名なパノラマ地図です。
上流から、ひのくちばし・ながえばし・(環状線橋梁)・ほくたつばし・めうとばし・扇橋
わたやばし・てらまちばし・ほりかわばし・てんじん小ばし・たるやばし
すがはらばし・ひのうへばし・たいへいばし の13橋です。
昭和3年(1928)10月のものです。(公開されている最古の航空写真)
中央の灰色部分は撮影もれのエリアで、その左上の四角い敷地は大正9年(1920)まで堀川監獄だった場所。
この時点ではまだ公園化が進んでいないようです。
太い道路は都市計画事業のもので、まだ工事中です。
昭和22年の米軍撮影のもので、戦災の焼野原が広がります。
上流側から
溝之口橋・長江橋・吊前上明の橋・環状線・北辰橋・夫婦橋・扇橋
梅ケ枝橋・綿屋橋・寺町橋・溝之側橋・堀川橋・天神小橋・樽屋橋・菅原橋・太平橋
が認められます。
昭和25年(1950)の大阪市街区分図で、官公庁・商店のみが表示されています。
昭和36年(1961)の航空写真で、埋め立て前です。
Wikipedia
Wikipediaで 天満堀川を検索すると、かかっていた橋として次の15橋が列挙されています。
樋之口橋
長江橋
北辰橋
夫婦橋 - 天神橋筋商店街になっている。
延長開削以前には夫婦池という池があった。現在の夫婦橋は観光用に建てられたもので
当時の欄干は天神橋4丁目2番地にある地蔵尊脇に保存されている。
これは間違い。親柱2本が4丁目近辺にある。
扇橋 - 天神橋筋になっている。
梅ヶ枝橋 紹介した地図には出てこない
綿屋橋
寺町橋 - 寺町通になっている。
溝側橋 紹介した地図には出てこない
堀川橋 - 国道1号になっている。
天神小橋
樽屋橋
菅原橋 - 堺筋になっている。
樋之上橋
太平橋 - 現在、天満堀川抽水所が存在。南側の河川公園に橋の欄干がある。
「欄干がある」というのは間違いで、「親柱がある」です。
大阪市内の多数の橋は大正末から昭和初めにかけての第1次都市計画事業で近代化されました。
それまでの木橋が鋼橋やコンクリート橋にしたということ
その報告書である「第一次大阪都市計畫事業誌」に157橋の一覧がありました。
大阪市立中央図書館にあり
以下の橋桁の説明はそのデータによるものです。
数値データのないものはこの計画事業外ということになります。
太平橋
太平橋は天満堀川の大川への出口に懸かっていた橋で、昭和50年(1975)まではありました。
鉄筋コンクリートアーチ橋 橋長17.58m 径間長17.58m 全幅8.0m
工期 昭和3年5月15日~3年12月31日
これは第1次大阪都市計画事業の一環で、架け替えられる前の橋の親柱も1本残されています。
昭和50年(1975)の航空写真で、堀川の出口に見えるのが太平橋です。
堀川はこの時点ではほんの少しだけ残っていたわけです。(現在は完全に埋め立て)
昭和39年(1964)では堀川はまだ埋立て前です。堀の両側に細長い建物が並んでいます。
この写真は昭和3年(1928)で上記の昭和39年との違いは
①太平橋がない →実は鉄筋コンクリート橋に架け替え工事中
②樋之上橋がない →実はもっと以前からない
③天神橋の幅が狭くて古い
明治19年(1887)の内務省地図には太平橋も樋之上橋も記載されています。
この写真はストリートビューのもので、2016年4月2日現在はビル建替えのため避難中。
天神橋筋4丁目の夫婦橋の親柱と似ています。
石造の親柱で、明治~大正のものらしい。
橋梁年表には 明治35年(1902)に木橋として懸けられたらしい。(未確認)
関西大学図書館の資料に撤去前の太平橋の写真がありました。
大川にかかる難波橋のデザインにあわせたのでしょう、アーチ橋です。
橋の右側のビル・その奥の蔵は現存しますが、橋両側の岸壁は橋建設当初とも現状とも違います。
樋之上橋
この橋は大正14年~昭和3年の間に撤去されていたようで、第1次大阪都市計画事業には含まれていません。
何も痕跡を発見できませんでした。なにしろ100年前に撤去されたのですから。
菅原橋
昭和3年の航空写真ではすでに架け替えられています。
第1次大阪都市計画事業には含まれていませんが、それ以前に建設されたように思えます。
何も痕跡を発見できませんでした。
樽屋橋
1径間単純鋼鈑桁 橋長18.32m 径間長17.03m 全幅7.52m
工期 昭和3年5月12日~3年10月18日
昭和3年の航空写真に写る斜めの橋は架け替え前のようです。
昭和50年のカラー航空写真では高架下に斜めの横断歩道が見えます。
天神小橋
天神橋は大川を渡る南北の橋なのに、なぜ東西に懸るこの橋が天神小橋なのか?
東に行くと天満宮(天神)の門前なのです。かつて、○○小橋という橋があちこちに・・・
例外は「東小橋ひがしおばせ」
この橋の通りを源蔵町といいます。 角川地名辞典には
江戸期は大坂三郷天満組のうち天満堀川天神小橋西詰から難波橋筋までの町(宝暦町鑑)
元禄13年の大坂三郷水帳寄せ帳によれば,家数29軒,役数31.5,うち無役数1(年寄)年寄は雑賀屋次郎右衛門
明治5年堂島中町に渋谷しぶたにビール製造所を設立し,初めて企業としてのビール製造に着手した渋谷庄三郎は
当町に住居していた。
生家は綿問屋,清酒醸造も行っていたという。
おや、こんなところで酒造家を発見♪
北区堂島のANAクラウンプラザホテルの斜め向かいに国産ビール発祥の石碑があります。
橋の痕跡は発見できませんでした。
堀川橋
なぜか、この橋も都市計画事業には含まれていません。それでも橋は架け替えられたようです。
(昭和3年の航空写真を参照)
堀川橋の通りは後に国道1号線となる大阪の動脈です。写真には拡幅工事中の道路が見え
架け替え前の木橋は広い道路のどちら側にあったのでしょうか?
道路計画図あるいは土地買収図を見ればわかるのですが。
溝側橋
いったいどこからこの名前の橋があるとしたのでしょうか? 堀川橋と寺町橋の間には何もなかったのです。
実は、堀川橋と寺町橋の間の通りを「溝之側筋」とかつて呼んでいました。
その証拠が歩道橋にありました。
溝之側みぞのかわ歩道橋
溝側橋は戦前に架けられ、昭和43年には堀川の埋立で姿を消した短命(30年程度)の橋です。
寺町橋
鉄筋コンクリートアーチ橋 橋長15.45m 径間長15.45m 全幅10.91m
工期 大正15年12月24日~昭和2年7月13日
親柱が2本残されており 「昭和二年六月改築」とあります。
改築以前のものは残っていません。
寺町橋は堀川戎神社の北側(写真で右側)の寺町筋にありました。
左端のフェンスの中に石柱が1本見えます。
もう1本は反対側のフェンスの中です。
橋名が刻まれていないのと形状から、橋端部の親柱ではなく、欄干中央にあった飾り柱です。
綿屋橋
堀川を挟んで両側に東堀川町と西堀川町がありました。
東堀川町の堀川橋より北側は越後町・有馬町となり、さらに寺町橋から北側が綿屋町でした。
綿屋橋はこの綿屋町に懸っていました。
現在は堀川跡を渡る鉄筋コンクリート製の道路(綿屋橋)になっています。
梅ケ枝橋
第1次大阪都市計画事業では新築として記載されています。(古い橋の架け替えではない)
鋼板桁 橋長14.84m 径間長13.65m 全幅27.27m
工期 大正15年9月26日~昭和2年4月20日
親柱はなくなったが橋名板が残されている。
江戸時代にはなかった道路が堀川監獄の南側にできて、現在は扇町通りと呼んでいます。
この道路が堀川を渡るのが梅ケ枝橋です。
梅ケ枝町はもっと西側で、この橋とどんな関係があるのか不明です。
最も人通りの少ない場所で、フェンスの中に記念碑があります。
どういうわけか銘板が錆びています。青銅ではなく鋳鉄なのでしょう。
扇橋
この橋も大きな割りに都市計画事業には入っていません。新天神橋筋全体がそれ以前の計画だからです。
扇町通りはこの扇橋からついた名前で、扇町通りにあったわけではないっス。
ナゼ扇橋だったのか? まったくわかりません。ウサンクサイ説もありますが。
堀川監獄の跡地が東扇町・西扇町・南扇町・北扇町と名付けられました。
明治15年(1882)に堀川監獄ができます
大正9年(1920)に堺に移転
この移転は第1次都市計画事業と関係がありとニランではいるのですが、まだ証拠が見つかりません。
夫婦橋
なぜ、天神橋筋商店街なのに都市計画事業に含まれたか、不思議です。
誰かの政治的圧力としか思えないのです。 市長はタイヘンだったろうなあ。
鋼板桁 橋長13.27m 径間長12.07m 車道幅7.5m
工期 昭和3年1月11日~昭和4年1月25日
天神橋筋商店街4丁目の西洋茶館大清堂内に親柱が1本残されているらしいのですが、表からは見えません。
かつて大清堂が商店街の入口にあったころの写真です。
もう1本がこれまた近くの「錦地蔵」にあります。
ラブホテルの角にあるのです。
この錦地蔵の由来は結構おもしろいのですが、ネットで探してね。
錦地蔵からほんの100mで、次の北辰橋が見えています。
地蔵堂には2つの親柱があり、1つは「夫婦橋」
右側面に大正三年十一月●●●●
夫婦橋というのに2つが別々の場所にある、というのは皮肉なことです。
親柱の上に獅子が乗せられているのは、多分この地蔵堂のオーナーの趣味
すぐに気が付くのは「西喜=錦」、大正の頃には南錦町と呼ばれた地域なのです。
この西喜橋がどこにあったかは探し出せませんでした。
北辰橋の先代だったかもと思ってはみたものの、木橋に石の親柱はないので石橋だったことになり
それをコンクリート橋に架け替えるか? というわけで、由来不明です。
北辰橋
なぜ「ほくたつ」と音訓読みなのでしょうか?
辰たつみの方角なら南東4時ですので北辰はムチャクチャです。
もっとも、大阪には「巽たつみ」という地名があり
その北側は「北たつみ」なのです♪まぎらわしいです。
第3次大阪都市計画事業(昭和12年3月20日大阪市告示)に含まれているが、実施されたかどうか疑問。
平均幅員7m
橋の痕跡はこのビルの看板にありました。
北辰橋は何らかの謂れがあり、このビルは北辰橋のそばにあるのが謂れです。
う~ん、「ほくたつ」って何だ???
関西大学図書館の資料にこの写真がありました。 昭和44年(1969)8月12日撮影だそうです。
場所は「天満」としか書いてありませんが、高架の曲がり方・右側建物との近さなどから
天神橋4丁目の少し東にある「北辰橋」です。
写真から明らかなように高架道路を建設してから埋め立てをしたわけです。
長江橋
地図にも航空写真にも出てくるのですが、謎の橋です。
橋のあった場所の北西にある駐車場ビルの緑地に古い石灯篭があります。
灯篭なので橋とは直接は関係なく、ここにあった屋敷のものの可能性が高いです。
ひょっとしたら、長江さんが私費で架けた橋か?
樋之口橋
第3次大阪都市計画事業(昭和12年3月20日大阪市告示)に含まれているが、実施されたかどうか疑問。
平均幅員16m
昭和36年(1961)の航空写真では堀川をまたぐ天満橋筋がまだ古いままで道幅も狭いことがわかります。
おまけ1 第一次大阪都市計画事業
大阪市のHPで橋の近代化について説明があります。
明治初期には、明治3年に高麗橋が鉄橋になったのを皮切りに、鉄製の輸入橋が次々に架けられた。
これは大阪の経済力の高さのほかに、大阪人の進取の気風を表している。
しかし、依然として橋の主流は木製で、明治18年の大洪水では旧淀川の橋のほとんどが破壊され
永久橋の必要性が痛感された。その直後、天満・天神橋を始め、肥後・渡辺橋、木津川橋が鉄橋になった。
大阪は工業都市として蘇ったが、急激な都市発展に対応した都市改造が必要となった。
大量輸送機関として市電の導入が急がれ、明治36年に営業が開始された。
市電を敷設するために道路の拡幅と橋の近代化が促進され、この事業で50橋以上が永久橋化された。
中でも難波橋、大正橋、木津川橋、本町橋などが近代都市にふさわしいデザインの橋になった。
現在、私達が見ることのできる大阪市内の橋梁景観の基本を作り上げたのは
大正10年にスタートした大阪市第一次都市計画事業である。
その後、約20年間で150橋を越える橋が耐震設計を基本とした永久橋になるとともに都市の景観の*翼を担うものとなった。
御堂筋を始めとする39街路・天神橋を始めとする157橋
大川筋では、曲線の美しい桁橋の天満橋、中之島の剣先にマッチした天神橋などが各々の個性を競いながら
一連の景観を作っている。また、東横堀川に架かる高麗橋・大手橋、平野橋・九之助橋などコンクリートや鋼のアーチ橋群も
この事業での代表作である。
同じ頃、大阪府によって実施された十大放射線事業でも
淀川の十三大橋や長柄橋、大和川の大和川大橋や遠里小野橋などが近代橋となった。
157橋にはどの橋が含まれていたのか、ネット検索ではわかりません。
国会図書館なら?
ありました タダで読める~~
表紙 「第一次大阪都市計畫事業誌」 昭和19年(1944) 大阪市役所刊
取扱注意・禁譲渡
昭和17年11月1日 大阪府警察部内閲済 そういう時代でした
限定出版 第1号
ところが、甘くない! 地図が黒くつぶれてまったく読めないのです。一番知りたいのに。
図書館に行くしかないなあ・・・
おまけ2 阪神高速道路公団
天満堀川を埋め立てたのは大阪市ですが、その上を走る高架橋の建設は阪神高速道路公団でした。
現在の阪神高速道路㈱
北辰橋の写真から推測すると、先に高架橋を建設し、それから堀川を埋立てたと。
すると、高架橋の建設記録に堀川と橋が写っている可能性がありそう。
なぜ大阪市の記録を探さないか? 埋め立て前より埋め立て後の完成写真を残すからです。
では会社のどこへ行けばよいのか? 大きな会社ではこれがヤッカイなんです。
お前は誰だ? 何を知りたい? その理由は? 知ってどうする?
あげくに、ココではない。 あっちで聞いてみろ・・・
組織図
聞いてみました。 本社受付→広報部
希望は理解できるが、工事記録写真などは一般には公開していないと。
言外に、役所・学校・研究所などを通せば・・・
昨年発行した阪神高速創立50周年記念誌なら提供できるが、と。
ゴ遠慮しましたデス。
おまけ3 堀川監獄
天満堀川の歴史を調べて古い地図を見ていると、「監獄署」「堀川監獄」の文字が飛び込んできます。
文字通りここには監獄=刑務所があったのですが、疑問がわきました。
監獄になる前は何だったのか?
Googleで堀川監獄を検索すると、「怖い」だの「不気味」だのといったHPが出てきます。
大阪で、不気味と思う通りがあるんですが、昔何かあったのか、ご存じ ...
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp › 地域、旅行、お出かけ › 国内
今は無きOMS近くにある扇町公園。 戦前は 「堀川監獄」 と呼ばれる刑務所だった。
堺へ移転後、大正12年に公園とプールを兼ね備えた 公園になったが、現在古いプールは
取り壊され 屋内プールと関西テレビ社屋が建っている。 新しい公園に生まれ変わっても
どうも監獄跡の扇町公園が心霊スポットだというそうです。
知らんがな
そんなこと言えば、アソコもココも怖~~~い所がおまっせ、なぜ急に大阪弁?
江戸時代の処刑場なんて、私の家の近くでっせ、もうイイってば
そんな話は別にして
監獄になる前は何だったのか?
監獄ができたのは明治15年(1882)とWikiにあるのですが、それ本当?
大阪市立図書館のQ/Aにこうあります。
明治15(1882)年、堀川監獄(ほりかわかんごく)分署が開かれたそうです。
天満堀川に沿っているため堀川の名がついたと、『てんま』にありますが、
天満堀川は戦後、阪神高速道路の用地とされて埋め立てられ、現在は川の面影はありません。
『大阪府全志 巻之5』によりますと、堀川監獄分署には明治18年に松屋町分署が、
次いで20年に中之島監獄が、21年には若松町監獄が合併し、23年大阪府監獄署と改称されました。
大阪府の管轄下にありましたが、のち司法省の管轄に移りました。
「大阪府誌 警察史」が何と大塩平八郎の乱資料館にありました。
監獄署。徳川の朝政を奉還するや、大阪は一時混乱の巷となり、警察権の
行はれざると共に、監獄制は、亦依然として旧制の如くなりしが、明治元年
十月三十日、初めて囚人に関する諸達を下し、漸にして事務の整理、茲
に其の緒に着けり。
当時は瓦土取場なる、元高原溜を以つて徒刑場に充て、又、堺に分署を設
け、称して徒刑場といひ、後、また分署を中ノ島旧佐賀藩鍋島屋敷趾に置
けり。即その諸令中、徒刑場の者は、髪元結際より一寸許先を切り放ち、
首に鉄輪を嵌め、空色の法被に、白にて徒の字を背に染め抜き、同色のパ
ツチを着せ、以つて毎日普請場に於いて使役せしめき。
又、明治二年二月十九日より、堺県徒刑の者は、眉毛を剃り、首に堺県と
彫付けし鉄輪を嵌め、被服は、柿色にして、背に白三箇所の丸に徒の字を
記し、且、肩に欠の字を印せり。
又、同年五月三日、摂津県、徒刑の者に向かひては、男は左の片眉、女は
前髪を剃り落し、髪は男女とも藁にて結び、首には摂津県と彫りたる真鍮
(同月十七日鉄に改む)の輪を嵌め、被服は木綿の白地に、背に浅黄色に
て徒の字を染込む。
翌三年十月五日、牢内差入物は、従来食物迄をも許可せられたるに、再後
衣類の外、都べて之れを禁ぜられしが、同五年三月十二日に至り、食物の
代金の差入を願ふを許し、後また金銭の差入を禁じて、衣類食物、その他
道徳上に関する書類等、現品の差入を許せり。而して罪科の吟味中、入獄、
若くは入圏の者に向かひ、従来親族、又は町村より宿下ゲを出願したると
き、之れを許可せしが、吟味上繁雑の手数を要するを以つて、爾後之れを
禁ぜり。
越えて同五年九月に至り、道路修繕、溝浚へ、土地の開墾、その他、之れ
に類したる労役のため囚人を雇入れんとする者は、規則書熟覧のうへ、徒
刑場へ申出でしむ。
翌六年三月十二日、徒刑場を改めて懲役場と称し、同七年四月十七日、本
署を中ノ島分署、即、北第十一区旧佐賀藩邸趾に移転し、後、また北区若
松町に移転し、分署を堀川、中ノ島、松屋の各所に置けり。
降りて同十三年四月三十日、本府は是れより先、同七年六月二十九日に設
けられし警察課中の囚獄掛を、未決監獄署、懲役掛を已決監獄署、監倉掛
を未決監倉署と改称し、翌十四年に至り、政府は初めて各国一般に刑法を
実施し、之れと同時に、懲役場の吊称は、監獄となり、典獄、副典獄、書
記、看守長、看守を置き、典獄は監獄長を兼ね、府知事に旨を受けて、之
れを総理し、副典獄は、典獄を助け、書記は、主務に従事し、監守長は、
監獄の戒護を掌り、兼ねて看守の勤惰を視察し、看守は、監獄の戒護に従
事す、其の他、女監取締、教誨師、医師、授業手、押丁、使丁等を設けて、
監獄内百般の事務を分掌せしむ。
斯の如く当所監獄の、本府より管理せられし迄は、其の制度、屡、改正を
加へられ、殊に当初囚人待遇の如き、眉毛を剃り落す等、猶少しく旧制の
遺風の存するものありて、各府県、稊その制を異にしたりしが、政府の刑
法実施以来は、全国その揆を一にし、其の以前に於ける地方制度の如き、
亦、改正増補して、或ひは、非現行とするものあり。或ひは現行とするも
のあり。
越えて同十七年に至り、松屋町の分署を廃し、同十九年、本署、分署の称
呼を改めて、何れも監獄と称し、同八月、中ノ島、及び奈良、五條の監獄
を廃し、同二十一年に至りて、終に若松町監獄を廃して、堀川、及び堺の
二箇所となし、同二十三年十月、監獄の名称を改めて、堀川監獄署、堺監
獄分署となし、以つて今日に至れり。
明治元年10月30日 高原溜(現在の中央区瓦屋町二丁目)を徒刑場とした
明治6年3月12日 徒刑場を懲役場に改称
明治7年4月17日 懲役場分署を堀川に設ける ←堀川監獄の始まりといえる
明治14年 懲役場を監獄に改称 ←Wikiは監獄の名称にこだわっている
明治19年 監獄・監獄分署をすべて監獄に統一
明治21年 堀川監獄と堺監獄のみとなる
明治23年10月 堀川監獄署・堺監獄分署に改称
堀川懲役場ができる明治7年以前の地図はあるでしょうか?
文化3年(1806) 堀川北端に繋がる井路川が多数あるだけです。
天神橋筋の東側、女夫池の北側に非人村とあるのは天満垣外のことです。
天保8年(1837) 同様ですが、情報ははるかに少ないです。
弘化4年(1847) 堀川が東へ延長掘削された天保9年(1838)から9年後で、堀川の角の内側に岡山藩の名前が見えます。
また、文化3年地図にあった非人村は長吏と表記されています。天満垣外のこと。
大坂の非人村・長吏・垣外については江戸の非人溜と全く違った歴史・存在理由・抗争があり
絵図での名称が変わることの裏側にもその歴史が隠されています。
「大坂の非人ー乞食・四天王寺・転びキリシタン」塚田孝
文久3年(1863) 堀川の角の外側に四角い土地があり、「備前」と見えます。
これは備前岡山藩の陣屋(蔵屋敷ではない)です。
弘化4年地図で岡山とあった場所は「川崎」とあり、天満橋筋の川崎東照宮の所領になったのでしょう。
「浪花百景 堀川備前陣屋」堀川の突き当たりにあります。
この備前陣屋がいつできたのか、岡山藩の資料に少し記述が見えます。
全国に外国船が来て開国を迫る幕末に岡山藩は大阪湾警備を命じられる。(安政5年)
安政5年(1858)から文久元年(1861)までの陣屋詰め家臣の交代記録
文久3年(1863)に岡山藩は大阪湾警備を解かれ、岡山沖の警備を命じられる。
天満にあった蔵屋敷(中之島肥後橋近く)は手狭で上坂・下坂に不便なので
陣屋を引き続き使うこと許可される。
幕末の大坂は京都と共に大荒れで、
安政5年(1858) 家茂は13歳で14代将軍となる
文久2年(1862)公武合体として皇女和宮と結婚
慶應2年(1866)長州征伐の途上、病気のため大阪城で死亡
大阪湾警護のためであれば、堀川ではなく海辺に陣屋を設けるのが筋で、むしろ大坂の北側を警備するのが
堀川陣屋の主な目的だったと推測できます。
結局、慶應4年(明治元年)に幕府は倒れ、堀川陣屋から岡山藩は退去したのでしょう。
明治5年(1872)の現代的な地図には四角い区域が示されていますが説明はありません。
なにかの用途に使われていたのか、全く不明ですが、軍・警察に関わると推測できます。
同年の地図ですが表現は江戸期の絵図を踏襲しています。こちらも同様に説明がありません。
明治19年(1887)の地図です。陸軍兵営とあり、周囲の状況が上記2つの地図と一致します。
明治7年に堀川懲役場分署ができてから既に12年も経っており、本当に兵営なのか疑ってしまいます。
周囲をめぐる堀は単なる兵営ではなく幕末の陣屋だった名残りです。
明治31年(1898)のこの地図では説明はありませんが、兵営の西側に拡大しています。
兵営がいつできたのか、いつまであったのか、国立公文書館の資料を探したのですがよくわかりませんでした。
明治36年(1903)の地図では監獄署とはありますが、敷地内の建物は表示されていません。
このように拡張された時点で古い掘割は埋立てられたようです。
明治39年(1906) 新しいハズなのに内容が貧しいです。天満駅の場所も間違っています。
大正3年(1914) 珍しく監獄内を書いた戦前の地図です。
この時代は監獄北側の鉄道はまだ高架ではありませんでした。
昭和3年の空撮です。監獄が堺に移転した大正9年(1920)の8年後になります。
おまけ4 明治初期における朝鮮修信吏の日本見聞
江戸時代の朝鮮通信吏は文化8年(1811)に対馬に送られたのを最後に途絶え
「朝鮮修信吏」として復活したのが明治9年(1876)であり、以後明治17年(1884)まで5回送られた。
明治14年(1881)の使節随行員の李金憲永の残した記録(原文に到達できず)には
5月5日 朝鮮草梁港で日本商船安寧丸乗船
5月8日 対馬を経由して長崎到着
5月12日 博多、小倉、赤馬関、多度津、明石経由神戸到着
海岸通四丁目に一日間泊まりながら海関、鉄道局訪問
5月14日 火輪車に乗って大阪へ行き造紙局、紡績所、監獄署、博物会、療病院、
造幣局、陸軍鎮台、博覧会など訪問または見物
5月17日 砲兵工廠と師範学校訪問(本人上参)後、火輪車で西京 到着、三条石橋堂島町の旅所にはいる。
翌日から博物会、西陣織錦所、女学校、盲唖院、西本願寺など見物
途中省略
7月26日 草梁港到着
監獄署についての記述
(大阪で)飯後、諸公とともに監獄署へ往った。罪人の士族と婦女はそれぞれ別の所にあって、
士族は本を読み、婦女は針仕事や機織りをしながら家庭同様に過ごしている。
どんな罪であれ、処決は裁判所を通るので監獄署の仕事ではないし、未決囚と既決囚は一千五百余名あるという。
1500人を収容する刑務所がすでにあった。
明治19年地図にある陸軍兵営はすべて監獄署となっていたのではないか?
獄舎の広さを推測すると 1500人x5=7500m2 となります。
既決の者は赤い衣服を着けて公役(懲役)にはいるが、罪の軽重により一日または一年から終身まであり、
重罪は殺人者であるという<『日槎集略』巻地四月十八日>
日本で裁判所という吊称が一般化したのは明治4年(1871)7月司法省設置にともない、
同年12月26日(新暦明治5年2月4日)東京裁判所が設けられてからのことである。
その後明治5年(1872)8月には各裁判所、検事局、明法寮章程など司法省職制章程が定められる一方、
11月には監獄則も定められる。これで司法制度や行刑制度が一応整えられるわけであるが、
要するに上の記録に出てくる監獄署はむかしのような厳しいところではなく、新しい感じをほのめかすところである。
それを記録に残したのはそのためであろう。
陸軍兵営と堀川監獄の場所が同じことから、この兵営は陸軍の監獄ではなかったか?とまたまた妄想してしまいました。
そこで
国立公文書館のアジア歴史資料センターで公開されている軍関係の文書を探してみました。
明治13年9月8日 工兵第4方面提理 陸軍歩兵大佐品川氏章代理 歩兵少佐木村漸
在城内(大阪鎮台は大阪城内にあった)官馬厩移転之儀ニ付伺
一金339円50銭
右ハ大阪鎮台付属官馬厩城内ニ有之候処追々破搊シ今日ニ至リテハ頗ル大破ヲ極メ最早大修理ヲ
要セサレハ使用難相成ニ付加修致度然ルニ囚獄所モ詼厩ノ為メニ境線ヲ屈曲シ囚獄内最モ狭隘ニ付
他日若シ増築ヲ要シ候節ハ支障上少相考候間今回修理ノ砌リ別紙図面朱線内薄墨色ノヶ所ヘ移転候様致度
右入費之儀ハ本行之通消費可致見込ニ候得共当本署●額営繕費之内ヨリ繰合ヲ以テ可支払候間右御許可相成度
此段相伺候也
陸軍卿大山巖殿
大阪城内に設けた厩舎が古くて建て替えを要するが隣接の囚獄もひどくて狭いのでいずれ増築時には困った事態になる。
そこで別紙位置(添付されておらず)に移転したいと。
この文章からすると、少なくとも明治13年までは陸軍の囚獄は城内にあり、堀川にはなかった。
移転先が堀川の可能性もあるが。
明治15年7月1日~17年9月17日 大阪鎮台年報
①半年間犯罪人の景況
当鎮台下軍人軍属明治16年7月1日ヨリ同12月31日迄半年間軍法会議ニ於テ処断サレタルモノ
総数286吊内他管轄ニ係ルモノ19名ナリ
今其犯罪ノ尤モ多キモノヲ挙レハ逃亡ニテ其数138名殆ニト全数ノ半ニ及フ之ニ次クモノハ違令ニシテ
其数41名窃盗ニテ32名ナリ
又之ニ次クモノハ官給品売却詐欺取財ニシテ10名乃至14名ナリ
其刑ノ軽重ヲ区別スレハ重罪ニシテ6名軽罪ニシテ280名ナリ
以下省略
②半年間監獄ノ景況
6月30日ヨリ越未決囚172名入刑ハ
準流 2名
有期徒刑 3名
重懲役 1名
軽懲役 3名
重禁固 84名
軽禁固 174名
拘留 3名 ナリ
差引現在員193名ナリ
200人程度であれば大阪城内の施設に収容することは容易でしょう。
大阪鎮台には第4師団4個連隊が配属されていたので、総数1万人程度になります。
周辺に配置されている陸軍もあわせて2万人とすると、1%の囚人数で、かなり高率です。
現在の大阪拘置所は定員2500名なので、規模が想像できます。そんなことできるか!
おまけ5 大坂裁判所 醍醐総督
アジア歴史資料センターで検索するうち、こんな資料を見つけました。(ただし本文はデジタル化されていない)
慶応4年(1868)5月2日 太政類典
「大坂裁判所ヲ改テ大坂府ト為シ総督醍醐忠順ヲ以テ知事ト為ス」
元年(明治元年)五月二日醍醐忠順ヘ達醍醐大紊言是迄之職務被免大阪府知事被仰出候事
職務進退録官中日記○復古記云按大阪府記ニ五月七日大阪府ト改称スト曰ヒ忠順履歴書ハ此命ヲ五日トス
蓋シ府記ハ立庁若シクハ布告ノ日ニシテ履歴ハ宜旨称拝受ノ日ナリ
○御罰二十三日大阪府知事醍醐忠順ヲ罷メ参与小松清廉後藤元樺ニ命シテ府事ヲ管理セシム
辞令ハ官規ニ任免ニ載ス
明治元年5月2日付けで大坂裁判所を大阪府と吊称変更し醍醐総督を知事として継続させた。
大坂裁判所は名前は裁判所だが機能は府庁だったことを指す。
幕末の天満宮が維新の嵐を避けて天神祭を中止する届出を裁判所に出していたのが、ようやく紊得できました。
では大坂裁判所はいつ設置されたか?
Wikiには
慶応4年(明治元年)1月22日 大坂鎮台を設置 鎮台の名称はたった5日間
もっとも、陸軍は長く使い続けたようですが。
1月27日 大坂裁判所と改称 裁判所の名称はたった4か月間
5月2日 大阪府設置
以後明治20年頃まで近畿の行政区分はゴロゴロ改変されます。
面白いのですが、あまりに話が飛ぶので割愛。
醍醐忠順とはどんな人物かWikiで調べると・・・
醍醐 忠順(だいご ただおさ)、文政13年3月17日(1830年4月9日) - 明治33年(1900年)7月4日)は
江戸時代末期の公卿、廷臣。仁孝天皇(120代)・孝明天皇(121代)・明治天皇(122代)の三帝にわたり仕え
官位は正二位権大納言まで昇った。明治時代には政治家となり、特に初代大阪府知事として知られる。
父は内大臣醍醐輝弘。母は関白鷹司政熙の娘。
子に醍醐忠告、醍醐忠敬、一条忠貞、醍醐忠直、娘に好子(賀陽宮邦憲王妃)、親子(鶴殿忠善妻)がいる。
ここまでは通り一遍ですが
晩年は隠居し、家督は長男・忠告(1848-1896)が病弱ということで次男・忠敬(1849-1899)が継いだが
明治32年(1899)5月23日、この家督相続が原因となり、東京府麹町にある自身の邸宅にて子の忠敬が
甥の格太郎(忠告の子)に射殺され死亡するというスキャンダルが発生した。
忠敬の嫡男・忠重はまだ幼少であったため、忠順が再度当主となったが、翌年忠順も亡くなった。
醍醐家は没落し、忠重は公卿摂家の一条家に引き取られて養育された。
幼少であった醍醐忠重とは、海軍マニアならだれもが知るアノ醍醐提督なのです。
開戦時から潜水艦隊を指揮し、終戦時は第6艦隊司令官でした。
日本軍の戦局が悪化していく1945年5月1日、醍醐は第六艦隊司令長官として大日本帝国海軍の指揮を取るが
同年8月15日正午に終戦を迎えた。終戦後も同年9月15日に旧大日本帝国海軍の軍令部へ出仕され、
同年9月25日に予備役へ編入された。旧大日本帝国海軍で第六艦隊司令長官として終戦を迎えた醍醐は
艦隊で保管していた約5万円の機密費の使途について検討した結果、1946年から部下などの手や郵送によって
醍醐の弔辞・香料と共に終戦まで出撃していった回天特別攻撃隊員の霊前に捧げられた。
同年12月、オランダ当局によってポンティアナック事件の容疑者として戦犯指名され、日本国内で逮捕、巣鴨刑務所へ収監された。
醍醐は1943年から1年弱に渡って、第22特別根拠地隊司令官としてボルネオ・バリックパパンに滞在していたが、
現地の華僑が抗日陰謀として日本陸海軍部隊が壊滅危機に陥ったため、自軍の安全維持のために処理作戦を行っていた。
これが戦後になって大々的に報じられ、日本軍のトップである司令長官を務めていた醍醐が戦犯とされた。
その後、1947年にインドネシアへ身柄が移され、同年9月22日に最終裁判が行われた。
その結果、同年10月3日に反対尋問も証人喚問も許されない、
オランダ軍の報復とされる3時間の即決裁判で死刑判決が言い渡された。
醍醐は自身に有利な事実があっても、他に危害が及ぶ資料を取り上げることを全て拒否して
最小限度の犠牲によって事態の解決を試みたが、最終的には死刑判決となった。
死刑判決が言い渡されたあと、醍醐はポンティアナック監獄へ収容された。
そして同年12月4日、2日後の死刑執行を通達された際に以下のような遺書を残している。
皆様長い事御世話になりまして有難う。
九月二十二日約三時間の裁判あり、十月三日約五分間で判決、死刑の宣告を受け、
十二月六日午前八時死刑執行の旨、昨十二月四日午前申渡されました。
別段心の乱れることもなく、案外平常と異ならず誠に有難く思っております。
嘆願書誠に有難う。感涙にむせび拝読しました。
(中略)
何卒日本再建の各自の使命に全力を注がれ度し、私も霊界より又何遍も生れかはり、
日本再建に全力を注ぐつもりです。私の部下の戦死者遺族達の事も心に留められ度し。
同年12月6日午前7時過ぎ、醍醐は目隠しを拒否し、黒色の洋服を着用した上で羅沙の帽子を被り、
刑場にて君が代を声高らかに歌った後に「天皇陛下万歳」を三唱した。
そして同日午前8時、12名の銃手によって一斉に射撃が行われ、執行された。享年56。
延々と醍醐提督の話を紹介したのは、トップは責任を取るという事例のためです。
一方、淵田美津雄・源田実・草鹿龍之介は責任を取らずに逃げ切ったことを忘れないように。
(醍醐提督の遺書の全文は見つけることができませんでした)