大阪をホジクル
31.樽屋町

南濱墓地の調査で「たる」という字の入った花立がありました。
墓自体は整理撤去されているのですが、なぜか花立1本だけが片隅に残っています。

もちろん、樽屋のものと想像がつき、さらに天満堀川の南にある樽屋町を思い起こします。
                            墓の主が樽屋町にいたかどうかは今となっては確認のしようもありません
                            だってその墓も行方不明なのですから。
      (そもそも樽屋という仕事を知る人が少ないし、樽屋町があったことを知る人はもっと少ない   )
      (地名はもうありませんが、堀川に架かっていた樽屋橋の親柱は阪神高速の高架下に残されています)
大正3年(1914)
大阪天満宮の門前を1筋南側に東西に延びる道が「鳥居筋」で天神橋筋との交差点から西側の堀川までが樽屋町で
堀川から西へは老松町とありますが幕末までは西樽屋町でした。
大阪に限らず古い町名はそこに並ぶ店の業種を指すことが多いです。
    天満かいわいだけでも 与力町・同心町・旅籠町・大工町・金屋町・樽屋町

では、樽屋町にはどれくらいの数の樽屋があったのでしょうか?
これが・・・無いのですデータが。
近世十二郷酒樽屋仲間の成立とその動態」という論文を見つけました。
明和6年(1769) 伊丹から灘にかけての酒樽屋数
村名明和6年
(1769)
寛政2年
(1790)
文化5年
(1808)
天保4年
(1833)
天保9年
(1838)
安政3年
(1856)
今津村 16    818
魚崎村 08    23
御影村 39    78 
伊丹  8261   41
   ここでは樽屋の数、幕末までには随分増えているのがわかりますが、大坂三郷との比較ができません。

   池田の酒造家の文書 文化7年(1810)では
      樽並びに立入樽屋之事
      一、樽屋と申者、当地其外大坂・西宮・尼ケ崎・伝法・伊丹等也
      一、酒造家大小桶輪替並びに小道具申付候樽屋は、其家々立入樽屋之棟梁也
      一、樽値段之儀は、樽木買入候而手間銀ニ而相極候茂有之、家別大相違有之候事
        樽値段荒増左之通
          樽100駄ニ而  凡銀800目より有之
                  凡銀1貫500目迄
      一、樽屋者共酒造蔵立入、働之者江可上寄音信物遺候儀、無用之事
      一、同手間取樽出之者至迄、酒蔵這入候而酒呑候儀、上相成候事
      一、樽屋共酒家江対し上働上勤上法之儀有之候ハ、仲間申合立入差留可申事
      一、樽屋手間料、宿元ニ而飯食候而
                  賃銀通用三匁二分宛
        右召遣ひ候節は、小昼之酒一日間ニ為呑候事
   ここで、樽屋には自前の店で樽を作るのと、酒造家に出かけて作る立入樽屋の2つがあり
   明記されてはいないが、すべて材木は酒造家の支給だったようである。
   それだけ酒造家は資本が必要で、逆に樽屋は手間賃作業の小規模だったとわかる。
   この当時では江戸に届く酒樽は100万樽/年にも及び、酒樽の需要は膨大であったにも関わらず
   樽屋への支払だけに留まらず小うるさい制限を設けているのは、酒造家自体が江戸商人から
   搾取されていたことを想像させる。

   江戸積酒が激増し新興の灘が発展するにつれ、既存の酒造家組合は同業者再編を図り
   摂泉十二郷酒造仲間を結成したのが天明年間(1781~1789)だった。
   ここでは、酒造量・値段だけでなく、蔵人賃金・酒樽代までが決められていた。
   以前からあった各郷の酒樽仲間がこれに対抗するため天保15年(1844)にようやく結成されたのが
   摂泉十二郷酒樽屋仲間だった。

   十二郷酒樽屋仲間の自己規制として、安政3年(1856) 十二郷酒樽家一統取締規定書があり、その中で
安政3年(1856)摂泉十二郷酒樽屋人数
上灘魚崎村23
上灘青木村23
上灘御影西ノ町30
上灘御影中ノ町10
上灘御影弓場町16
上灘御影東ノ町22
上灘住吉村呉田町11
上灘東明村18
上灘石屋村9
上灘新在家村23
上灘大石村21
上灘河原村7
上灘岩屋村8
下灘脇浜村22
下灘小野村8
下灘下灘郷23
灘合計 274
  今津村18
  西宮郷27
  伊丹郷41
  池田郷10
  尼崎組18
  伝法村9
  兵庫津28
  堺郷8
全合計 433
   幕末には大坂三郷の樽屋はもうなかったのでしょうか? そんなハズはありません。
   樽屋がないと醸造も出荷もできないからです。
   この表の433人は姓名・屋号がわかっているそうですが、大坂三郷はそれに含まれていないのです。
   この規定書には  大坂行事  姫路屋清兵衛
             同木取屋組 灘屋忠兵衛  の2名の名があるのですが
                           樽屋の名前は記載されていません。
   大坂三郷桶樽職仲間は文政7年(1824)に山村与助支配のもとに結成されているが
   仲間の姓名・屋号・人数などは一切不明です。
   ここで天満の樽屋を探すことは降参しました。何かの機会にデータが見つかればよいのですが。


しかたがないので、摂泉十二郷の酒造家数(後述)を利用して大坂の樽屋数を推測してみます。

 樽屋数
安政3年(1856)
酒造家数酒造量
享和3年(1803)
274188226287
今津 18 2725327
西宮 27 4354200
伊丹 41 6868906
池田 10 2223201
尼崎 18 1612468
伝法  9  68496
  8 6835218
大坂 ??? ???172795
   樽屋の数は酒造量に比例すると仮定した場合
       大坂三郷の樽屋数= 274x172795/226287= 209軒
   となりますが、天満郷はその半分以上を占めていたハズなので 209/2= 105軒 となります。
   樽は酒以外にも、醤油・味噌・棺桶などいろいろな用途があるので、天満だけでも100数十軒はあったのではないでしょうか?



さらに連想ゲームは続き、樽屋から造酒屋つくりざかやに。
江戸時代から明治まではここ天満には蔵元が多数あったそうです。現在は1軒もありません。
当時の酒は醸造も出荷も樽で行っていたので、膨大な樽が必要だったわけです。
堀川ぞいには材木屋もあり、当然竹材屋もありました。創業享保7年(1722)の勢山竹材店は現存します。
2016年現在の大阪府酒造組合に入っている蔵元は次の16社で、もちろん大阪市内には1社もありません。
 
秋鹿酒造㈲    豊能郡吉田酒造㈱   池田市呉春㈱    池田市高島酒造㈱    茨木市寿酒造㈱   高槻市
清鶴酒造㈱    高槻市山野酒造㈱   交野市大門酒造㈱  交野市長龍酒造㈱    八尾市藤本酒造場  藤井寺市
西條合資会社   河内長野市寺田酒造㈲   岸和田市井坂酒造場  岸和田市㈲北庄司酒造店 泉佐野市浪花酒造㈲  阪南市
サントリー酒類㈱    
            実は「大阪府酒造組合」は天満の真ん中にあります。
                                  天満惣会所の近く

現在では天満に蔵元があったことを知る人はいません。なにしろ天満で営業している創業100年の酒屋に尋ねてもまったく聞いたことがないと。
これにはビックリで、言葉もありません。
「近世大坂の都市空間と社会構造」という本には幕末の酒造家の分布図があります。●が天満組です。

    堀川ぞいに密集しているのがわかります。
ではなぜこれだけの蔵元が跡形もなく消え去ったのでしょうか?またそれはいつ頃?

近世大坂三郷酒造仲間の構造(近世大坂の都市空間と社会構造より)
酒造が免許制なのは江戸時代からで、幕藩体制の基本は税の取り立てが米を基本としていて
その米を原料に酒が造られるので、製造人・製造場所・製造量をセットにして免許が与えられた。
     農民からは米の現物で(必ずしもそうではないのですが、そこはマァ・・・)
     商人からは売上の一部を現金で
     造酒屋からは醸造量に応じた現金で(現在は出荷量に応じて現金で)
全国各地の中で、大阪近辺の酒造はその量が群を抜いて多く、「摂泉十二郷」「大阪三郷」「灘五郷」などの
酒造株仲間(要するに組合)がありました。もちろん離合集散も
摂泉十二郷大阪三郷灘五郷
大坂天満今津
伝法魚崎
北在御影
池田 西
尼崎 下灘
西宮  
兵庫  
  
神戸市文書館 灘の酒造業には江戸前期の酒造量があります。
元禄11(1698)年の酒造状況 (『灘酒沿革史』より)
地域酒造家数(軒)醸造米高(石)樽数(樽)
畿内4630118318538053
中国321583955239872
西国4468160841459547
四国120139091111689
北国163681530232944
関東363679721227774
出羽・奥羽二国4422142953448439
その他3043132928379796
272519093372628114
この表では、全国で畿内の地位比較がわかりますが、灘・大坂の比較はできません。

元禄11(1698)年の灘酒造業
村名酒造米高(石)清酒成高(石)
今津6842
打出13280
深江  
東青木1710
魚崎780470
芦屋2918
三条1610
住吉8752
川原117
原田  
神戸6439
二つ茶屋1912
小路85
1240747
この表では灘の各郷の比較はできますが、大坂との比較は無理です。

享保9年(1724)の下り酒生産地と酒造家数
西宮82人大坂459人天満135人北在78人伊丹54人尼崎41人
兵庫40人池田27人伝法23人三田12人武庫4人鴻池1人
今津29人御影10人魚崎4人森4人神戸4人 脇浜1人
青木1人鳴尾1人本庄1人   
河州6人泉州4人尾州72人濃州65人参州56人 播州3人
大坂・天満が群を抜いていたことがわかります。ただし、人数だけで、酒造量の比較はできません。
          実は灘は大規模化していくのですが大坂はそれができませんでした。

幕末期の摂泉十二郷酒造株石高控 享和3(1803)年
 
郷名酒造株石高酒造人数(軒)
伊丹6890668
池田2320122
北在1996132
今津2532727
西宮5420043
下灘4272633
上灘183561155
兵庫1937532
尼崎1246816
伝法84966
3521868
大坂三郷172795 
この表でようやく灘と大坂の比較ができます。灘が大坂をはるかに超えています。
つまり、1700年代中ごろ(宝暦・明和)には灘は大坂を超えていたことがわかります。


大坂三郷の株高(石高)を江戸中期から明治初めまでの移り変わりデータがあります。

    北組と南組の仲間人数は宝永3年(1706)を頂点に随分減りますが、天満組は人数を維持しており
    株高は南組が倍増しているのに比べ、天満組は6倍に激増しています。
    それだけ天満の酒造家は繁栄し大型化していたといえます。
    ⑧と⑨を比べると合計株高が減っています。40年の間に大坂三郷の酒造量は減っているわけです。
    天満の酒蔵が消えるのはまだ先です。

摂泉十二郷早造禁止申合書 1861
        関西大学の史料ですが現在は見つかりません
    申合之事
   一、当酉年稲作豊熟之趣ニ付キ未タ時節上来候
     新酒早造之儀被申出候者有之由粗風聞相聞
     米価追々下直ニ相成候折柄聊たり共造
     致候得者米相場ニも相響奉恐入候義、尤例年
     新酒日限相定メ甚勿々御支配所江御届
     奉申上酛取仕来りニ御座候間、決而猥ニ新酒   抜け駆けするなよ(実はそういう奴がいる証拠)
     早造致間敷事
   一、酒造人者上及申、郷中より他領江出稼早造致   自領内はよいが他領への出稼ぎは禁止されていた
     させ間敷事
   一、酒口次渡世之者、早造酒取扱上致様取締
     可致合事
   一、江戸積入酒者勿論新酒交酒杯一紙祓者
     御改御突合之廉相違仕奉恐入候御義兼而
     上相成儀一同乍相瓣、近頃上取締ニ相成候間
     向後決而一紙祓積入致間敷事
     但、積問屋江厳重申附置候事
   前書之通拾二郷席中ニ而取究候上者違背
   申間敷候、前書ケ條之廉々粉敷風聞たり共
   有之候節者、拾二郷評定之上急度取斗
   可致事
   文久元酉年(1861)十月
            伊丹酒家中
            池田酒家中
            北在酒家中
            今津酒家中
            東組酒家中
            中組酒家中
            西組酒家中
            八幡酒家中
            下灘酒家中
            兵庫酒家中
            尼崎酒家中
            傳法酒家中
            左海酒家中
            西宮酒家中
            三郷酒家中   酒造地の地図はココ
酒造仲間諸書物控 1854
神戸市文書館 灘の酒造業
近畿における近代酒造業の変遷:灘五郷を中心に
近世十二郷酒樽屋仲間の成立とその動態 (リンク切れ)
江戸期から昭和初期(1657~1931)の灘酒造家と東京酒問屋との取引関係の変化 (リンク切れ)
    明治4年(1871) 酒税規則が改正され、清酒醸造への参入が自由化された。
    この結果、幕末での石高300万石に対して明治10年(1877)には500万石に達する。
    全国での急成長に比べて、灘の酒造は実は停滞あるいは減少をしている。
        江戸最盛期   50万石
        明治2年(1869) 13万石
        明治6年(1873) 19万石
        明治12年(1879) 25万石
        明治21年(1888) 34万石
    この原因は江戸の下り酒問屋25軒が株仲間を作り量・値段を決める商慣行を明治になっても維持していたことにある。
    一方、摂泉十二郷江戸積酒造株仲間は逆に解散してしまい(明治7年)摂津灘酒造業組合が明治19年に結成されたが
    これも明治20年(1887)には解散してしまい、酒造家は問屋と交渉するシステムを失い問屋優位の流通システムとなる。
    酒造家の出荷量は問屋の指示によるもので、販売価格の決定権も持たなかった。
    それどころか、問屋は月2回相場を立てるが、代金決済は年に1回で、酒造家はそのときに始めて販売価格を知ることになる。
    酒造家は代金回収までに2~3年かかることになる。
    倉庫料・販売後の変味返品搊などもすべて酒造家の負担となっていた。
              こんなことではクーデターが起こるに決まっている
    次のグラフは灘酒造家の生産高と東京問屋の販売高です。
    1877年から1889年(明治22)までは生産高と販売高がほぼ一致しています。
         問屋の指示で生産しているから当然です
    ところが、その後はグラフは分かれていきます。問屋販売高は減少してゆき、生産高はほぼ直線的に増加します。
    この差は生産者の直接販売と考えてよいでしょう。
    日清・日露戦争を契機として灘酒造家は急速に発展します。
        白鹿・菊正宗・櫻正宗・日本盛・白鶴などは2~3万石にも達します。
    躍進の原因は販売革新であり、地方市場の販売重視・東京市場での直販なのです。
    地方市場への販路拡大をめざしたのは、堺の春駒・金露・沢亀の3者と北風家の隊長および灘の白鶴だけでした。
         大坂三郷は一体何をしていたか?
    灘酒造家と違い、白鶴は地方だけでなく大坂にも販売を拡大し、支店まで設け
    さらに半樽販売だけでなくビン詰め販売も開始します。(明治34)
    酒の小売は樽から消費者持参の徳利に入れる販売方法が江戸時代からの伝統だったが
    これは樽の中身をゴマ化す偽造酒売りの温床で、酒造家には規制できなかったので
    一升瓶売りは偽造防止の決定打となる。
    白鶴の販売会社嘉紊は白鶴だけでなく菊正宗の関西一手販売代理店となり、酒造家が販売網を手にすることになる。
    嘉紊は清酒だけなくビール・サイダー・醤油まで扱う販売代理店に変身する。昭和2年(1927)
    一方
    日本盛は地方ではなく東京販売への取引集中をはかります。
    西宮酒造として始まった明治22年(1889)には東京問屋5店だったが、明治29年(1896)には20社に増えた。
    地方(沼津・金沢・吊古屋・京都・大津・長浜・大坂など)の問屋と販売契約を結ぶが、どれも1年で取引中止
    結局、東京への集中、特に中核5店への販売依存を高めていき
    明治43年(1910)には石高24,764石と当時の日本一となった。
    大正3年(1914)に起こった第1次大戦は日本に好景気をもたらし、酒造業もそうであった。
    大正5年(1916)桜正宗・菊正宗・白鶴・富久娘などは東京に営業所を設け、直販を開始する。
    大正8年(1919)に第1次大戦が終わると上況の波が来て、販売競争は激化する。
    その中で大正12年(1923)関東大震災が起こり、東京酒問屋は酒造家に対する莫大な売り掛け金が残ってしまう。
    こうして、東京酒問屋は完全に力を失う。
         戦争と地震がその原因となったわけです
    昭和6年(1931)に西宮酒造は問屋の専売を中止し、これまで2次問屋であった26店からなる「盛会」を結成した。
    会員は酒販売専門だけでなく、醤油・洋酒・缶詰なども扱う店であった。
    酒販売より大規模な販売・流通の革命であった。
         これがクーデターです


明治期から大正期における灘酒造業
    灘酒造家の酒質向上と会社組織化
    江戸最盛期には灘の石高50万石を超えていたが、明治2年(1869)には13万石まで減少し
                          明治25年(1892) 30万石
                          明治38年(1905) 40万石
                          明治44年(1911) 48万石
                          大正8年 (1919) 59万石 まで回復する。
    ただし、造酒家の顔ぶれは大きく変わり、次の表のとおり。
順位代表銘柄造石高1892造石高1911増加率%
1白鹿23,51025,80210
2 日本盛5,79024,272319
3 桜正宗70719,7972,700
4 月桂冠55016,5142,973
5 菊正宗3,06916,389438
6沢之鶴9,05414,32181
7戎面13,78315,1554
8牡丹正宗14,69415,0113
9 東自慢12,65814,37919
10忠勇-11,450-
11白鶴1,04311,255998
12富久娘5,5098,395104
-大関5,7125,88247
- 白鷹5,712 5,88241
 合計328,451481,52747
 蔵数295 427 
この19年間の平均増加率は 47/19=2.5%/年 となります。
    明治中期から石高の増加と並行して灘酒造家は
           生産性の向上 :蒸気機関を用いた機械精米  明治19年(1886)
           品質の向上  :原料米の自己調達・多年契約・青田買・村買  明治24年(1891)頃より
    ただし、このようなことは資金力が必要で、個人商店ではなく会社組織への脱皮が必要であった。
            中略
    灘酒造家の地方市場開拓は大阪市場を手始めとする。これは元々江戸積だけの専業酒造として発展してきたため
    大坂市場は未開拓であったため。
    江戸期の大坂は諸国産物の集散地であり、あらゆる商品は大阪を経由していたが、酒だけは別で
    市中には多数の酒造家があり、問屋業務を兼務して小売店に販売していたため、酒問屋は発達しなかった。
    灘酒の大坂開拓は、明治18年(1885)の沢之鶴による直営出店が最初で、以後多くの灘酒造家が大阪に出店する。
    白鶴は最も成功した例で、大坂市内のほぼすべての酒店と特約し、他家醸造酒も買い入れて販売した結果
    明治45年(1912)には 自醸酒の3倍の3万1764石を販売するまでになった。
    灘酒の地方販売は 明治34年(1901) 14万6932石
             明治36年(1903) 20万5426石と増加し、東京積み12万476石を大きく逆転する。
    その地方販売の73%は実に大坂市場(大阪府・兵庫県)だった。

    明治44年(1911)と大正12年(1923)の造石高 (上の表と微妙に数字が違う)
順位代表銘柄造石高1911造石高1923増加率%
3桜正宗19,79736,61685
5菊正宗16,51435,028112
1白鹿25,80231,33521
4桂冠16,90331,31985
2日本盛16,09630,11887
11白鶴11,45025,727125
6沢之鶴16,38921,93834
9東自慢15,01117,92019
10忠勇14,37917,92025
12富久娘11,25514,92233
7戎面8,54812,12242
8泉正宗9,20811,29723
- 大関8,39510,94930
8大黒正宗8,72710,91925
-白鷹5,8829,30758
8金露-7,436-
-都菊-3,072-
 合計481,572572,249 19
 蔵数427481
この12年間の平均増加率は 19/12=1.6%/年 となり、増加傾向は半減しています。


堺市立図書館 堺と酒造
    堺の酒造は江戸時代に最盛期を迎え、明治初めにはまだ100軒(多くは個人)近くの酒造家がいた。
        堺の合計石高は6万石を上まわっていた
    明治・大正期を通じて堺の酒造は反映していたが、良質の水が得にくい、市街地のため敷地を拡大できない
    などの理由から灘へ進出し、堺の酒造は衰退する。
    第2次大戦前には20数軒あった酒造家は昭和18年(1943)に国策で堺酒造株式会社に統合され
    戦災で多くの酒蔵を失い、堺酒造は新泉酒造と名前を変えて営業したが、昭和41年(1966)に灘の酒造メーカーと
    合併して堺の酒造は消滅した。
         灘の百万両と合併し、百万両新泉㈱となり
         さらに平成3年(1991)にメルシャン㈱に吸収合併され
         またまたさらに、平成18年(2006)キリンビールに吸収  となっています。


「難波丸綱目」(1808)より

    酒造株     北組  百八十株
             南組  三百十二株
             天満組 百五十株
             合  六百三十六株
    右之内より五十人選出し、五十人之内より
    年行司五人●年替り此●板番板之●●●
    ●千●●●之名●●●之

江戸積酒屋之分■ う●●町 ざこや●●兵衛
■ 同町  同 ●右衛門■ 同町   難波や嘉兵衛
● 上町 利倉や利助-  ●●● 大和屋助三郎
■ 幸町 津国や五兵衛■ ●田町  ●●や●兵衛
■ 天ま 伊賀や太助-  幸町  石屋仁右衛門
■ ???? め●や久兵衛■ 市の川  ●池屋小右衛門
-  泉町 ●●や●●■ ●●ぢ川一丁 ●●や七兵衛
■ ●●●1丁目 伏見や嘉七■ 同   同 又七
■ 同    辰蔵■ 同   津国や嘉兵衛
■ 松江丁 ●●や●兵衛■ 下福島 木屋市十郎


最近の新聞で、堺の酒を復興したとありました。
       元醸造家の孫娘が、関東の蔵元に醸造からビン詰めまでを依頼し
                ラベルを貼って堺の酒だと。
       地ビールや地ワインを醸造販売している人と比べて・・・
       他人の●●ドシでナンタラカンタラ


大阪春秋 121号の特集「大阪の酒造り」というのを見つけて、ポチッとしてしまいました。
   本文もともかく、引用文献に「大阪の酒造業 その由来と変遷」がありました。
                 出版社:和源酒造 1959刊
   この「和源酒造」を検索してみると
      戦前昭和18年(1943)の企業整備令で、天満組4社(男山・五郷一・花房・倭錦)
                              南組1社(錦城)
                              伝法1社(松田正宗)
                              住吉1社(国自慢) の7社が合併して「大阪酒類醸造㈲」として出発。
       以後の変転はサイトによってまちまちで、どれが正しいのか判断できません。
       ので、紹介もしません。
       大阪酒造から和源酒造が生まれたという程度にとどめておきます。
       ここでようやく三郷の酒造家の名前がホンの少し出てきました。


大阪の酒造業 その由来と変遷」は国会図書館にも古書店にもなく、大阪市立図書館にはありました。
   ここでやっと天満の酒造家にたどり着きました。
   この本は和源酒造の常務取締役である多賀谷陳が絶滅した大坂の酒造についてまとめたもので
   特に明治以降については多賀谷自身が見知ったことも含めて書かれています。
   内容については単なる個人的思い出ではなく、第3者のチェックも入っています。
   大阪の酒造業は天明期すでに凋落の兆が見られ、徳川末期に於いては、その伝統と消費都市としての経済力が
   わずかに特権的地位を保たせたに過ぎず、上方酒造の頭領としての実力は、最早や灘に移っていた。
   明治に入り、近代産業都市として大阪が発展するに至り、地価の高騰、近代工業の有利性が酒造業を全面的崩潰へと
   導いたことは明らかな事実である。
   明治15年(1882)天満酒造中が、京都、松尾神社に奉献した石灯籠の建築人名によれば、この天満組のみにて101名
   となっており、これに南組・北組を加うれば、大阪三郷の酒造家は衰えたとは云え明治20年頃まで150戸はあり
   大阪市の工産業としては猶優位にあったものと推測される。

   大正元年(1912)の大阪市の酒造組合の会員吊簿には何と16名しか残っておらず、さらにその後次々と廃業していきます。
氏名廃業年月日
犬養嘉左衛門昭和3年4月13日
伊丹富蔵大正5年5月2日
豊田阿以大正13年2月25日
大島民蔵昭和18年大阪酒類醸造に参加
高島清助大正5年12月7日
立川市三郎昭和7年11月15日
中西スエ昭和8年12月20日
倉本三蔵昭和10年4月19日
山瀬徳次郎大正13年4月19日
阿波野栄次郎大正6年4月24日
浅本徳三昭和18年大阪酒類醸造に参加
斉藤房次郎大阪酒類醸造に合同後に分離し個人にて醸造、西宮にあり現在に至る
木村伊太郎昭和2年8月15日
平松徳兵衛大正15年10月13日
森 政治郎昭和18年大阪酒類醸造に参加
泉谷宗兵衛巴屋商店として昭和18年大阪酒類醸造に参加
   明治40年(1907)には酒造組合員は30戸に減少し、超えて大正元年には16戸と激減している。
   但しこの4年間の急減な廃業は、明治42年(1909)7月30日の天満大火が直接の原因であると考えられる。

   大正14年には第1次市域拡張が行われ旧東成郡・西成郡を合併した。そこで大阪市の酒造組合は
   旧市内をまとめた大阪市酒造組合と新市を一体とした浪花酒造組合の2組合となり
   昭和12年(1937)9月現在の大阪府酒造組合連合会名簿には左記の如く
          ●印は天満の酒造家を示す
 酒名製造場位置組合員名
大阪錦城西区幸町1丁目森 政治郎
大阪●男山北区天神橋筋2丁目合名会社巴屋商店
大阪●五郷一同 北森町大島民蔵
大阪●花房同 南森町斉藤房次郎
大阪●倭錦同 末広町浅本徳三
浪花国自慢住吉区西長居町合資会社多賀谷商会
浪花富国同 喜連町増池西次郎
浪花松田正宗西淀川区伝法町北3丁目松田栄治
   この様に大阪三郷の清酒業者は、近々3,40年の間に150戸から5戸に減少したのである。
   しかもその減少は殆ど廃業であり、、有利地域への転出継続でないことに注目したい。
   この大阪三郷の酒屋の消長は地価高騰、他の近代産業の有利性が酒造に対する魅力の喪失となって
   現われたものであり、けだし、この事実は、酒造業が他の近代産業に比し生産方式に於ける
   設備・回転率等の上利な経済性と特殊な生産環境の必然性とによる宿命であると考えるべきであろう。
    私はこの意見にうなづけないのです。灘だけでなく池田・摂津などの酒造家が生き残って
    いることを説明できないからです。
    灘が発展してきた努力を怠ってきたからでは?
    酒造家の当事者として衰退の原因を他に求めたイイワケに聞こえるのです。
   かくて明治以降の大阪市の清酒業は衰亡の一途をたどり、産業というには余りにも微々たるもので
   何等見るべきものなく、個々にいうなれば、唯伝統の家業を維持するとの、みえ、に過ぎず
   副業的アクセサリー的性格のものであった。
   そして、昭和18年第2次世界戦争中に行われた全国清酒業者の企業整備が、遂に大阪市の清酒業に
   終止符を打つこととなったのである。
   当時市中に残存する7酒造場は、閉鎖・合同し、新たに大阪酒類醸造有限会社を設立し
   製造場を堺市に設け再出発することとなり、ここに大阪市内の清酒製造場はまったく姿を消すに至った。

   昭和18年に発足した大阪酒類醸造は基本石数 3707石で、本社を堺市材木町東2丁目22に置いた。
   その後不幸にして昭和20年7月、堺市の大空襲にあい、清酒600石全てを焼失したが、休蔵することなく
   大阪府下南河内の休造蔵を借用して復興に努めた。
   処で戦後、休造場の個人復活が認められるようになり、明け渡しの運命にあう事3度、其の間府下の休造蔵を
   求めて転々せしめられ、この度々の苦難に酒造場の復活を計画し、建設の地を灘、西宮に求めて
   ようやく昭和33年7月、西宮市東町2丁目44に於いて酒造場の建設に着手した。昨年11月一応第1次工事の完成を
   みたので、昭和33酒造年度の生産は、この新酒造場にて行い、同時に社吊も酒銘を取り、和源酒造有限会社と
   改めたのである。

   資料として酒造組合員名簿があるが、年度は明記されていない。 明治39年ごろと思われる。
   残念ながらこの表には住所も酒銘柄もないので他の表との関連付けがしにくい。
創業年月姓名
天明2年11月犬養嘉右衛門
明治5年10月泉谷宗兵衛
慶応元年11月
明治24年より富田町にて製造
伊丹栄助
慶応2年12月伊丹富蔵
享和元年11月林藤兵衛
慶安2年11月豊田阿以
元治元年12月大島民蔵
明治22年11月河原テル
弘化4年12月養田常三郎
寛永3年11月田中宗一
明治13年10月高島清助
明治元年12月立川市三郎
明治18年10月津国民蔵
天明8年11月伴井嘉右衛門
明治5年12月灘 為蔵
明治元年12月中西スエ
明治8年11月久保田タネ
明治35年ヨリ味醂造
38年10月ヨリ清酒両造
桑田佐太郎
嘉永6年10月山瀬徳次郎
明治12年11月安川弥吉郎
慶応3年11月合資会社山下本店社員 山下芳太郎
明治38年11月認可山口義隆
文政6年11月丸山卯兵衛
嘉永元年11月丸山市三郎
明治15年10月丸井長七
文久元年11月丸山卯三郎
明治28年11月
35年度廃業、38年12月再造
前田太三郎
天保元年6月藤原伊太郎
明治38年12月藤原てい
明治7年10月藤井栄三郎
文化11年11月福井善兵衛
弘化2年12月小山松兵衛
元治元年10月浅本信次郎
明治元年10月阿波野栄次郎
明治21年12月麻見徳次郎
明治2年11月斉藤房次郎
明治14年
21年廃業、33年再開始
三田久兵衛
明治7年12月岸本源治郎
案外と女店主がいたことに私は驚いています。逆にそれだけ能無し男がいたことが・・・

明治15年に京都の松尾大社に天満酒造中が寄進した灯篭には次の名簿があります。(赤字は上記組合員名簿にも記載あり)
                                          合計174名
木村伊太郎久保田清助柏塚徳三郎大西栄助
山瀬徳治郎倉本具満若松新兵衛田中佐助
田中半兵衛斉藤房次郎大島民蔵高島清助
田中恵以増井朝七元治豊三郎田中治作
立花伊兵衛辻村伝助寺西小左衛門丸山与三吉
吉田楢造山中善蔵橋本伊三郎佐治姫五郎
堀井栄太郎岩崎喜三郎鈴木直三郎芝軒熊三郎
深沢休兵衛福西喜助糀谷富吉小川起ん
平松嘉兵衛林 勝次郎藤井栄三郎岩城 梅
池田与兵衛小谷与四郎前田源右衛門岡田勝助
木村儀三郎高井市五郎才木彦兵衛 
田中常三郎山田八右衛門生野松太郎 
小森理吉郎武村嘉右衛門吉田卯之松 
浜田か乃広末喜久之助荒木松蔵 
渋谷虎之助福井米吉野田伊左衛門 
松本久右衛門沢田庄左衛門伊丹栄助 
浅本信次郎福井後右衛門泉谷惣兵衛周旋人
小山松兵衛千原幸助豊田多み山下与兵衛
久下佐吉岸本梅蔵伴井音吉伴井嘉右衛門
丸山市右衛門安川弥吉郎寺井藤七田中義兵衛
柴谷恵い中橋又右衛門寺井卯之助今井茂助
林藤兵衛立川市三郎木村満寿丸山卯兵衛
伊東常次郎岩田鹿次郎木村婦で沢井嘉兵衛
阿波野栄次郎多賀谷 陳末広治三郎大塚新蔵
福井善兵衛喜多川竹治郎酒井喜兵衛犬養嘉右衛門
丸山卯三郎灘 庄七沢田仁兵衛藤原伊太郎
三田久兵衛黒田万吉長谷川源四郎安井幸助


松尾大社
   京都洛西の松尾大社にこの灯籠は現存しています。状態は良くありませんが。(木の下にあるせい)

     昭和34年の写真と同じアングルから撮影しようとしたのですが、当時は頭上の手水屋がなかったのです。
     灯篭2基は通常は参道の両側に建つものですが、なぜかここは違うのです。

   チェックした全てのHPでは「天満酒造」という醸造家あるいは会社があったかのように紹介しています。
   「講」や「中」についての知識がないのも若いから当然です。
   「天満酒造」という酒造家などなかったという「非存在証明」はトンでもなく難しいので、責めることはできません。



同様に、天満の神社に何かが寄進されていないか探してみました。ヒマだなあ
   大阪天満宮  青物市場から寄進された石碑・狛犬はあるのですが・・・         
   堀川戎    寄進者の名前が刻まれた石柵があるのですが、家業が何かまでは不明です。
ということで、これも失敗しました。