大阪をホジクル
30.無くなった寺
27回で予告した2つの寺の話です。
@興正寺は土台だけ残して消え公園になり
A定専坊はささやかな建物があります。
興正寺
地図を古い順に並べると
元禄4年(1691)の地図には「御堂興門跡」があります。
その北側(図の左)に「御堂」とあるのは不詳ですが本願寺天満別院でしょう。
御堂のあった跡という意味ではなく、門跡(一門の最高位の僧)がおられる寺という意味です。
興正寺はこの時代はそれだけ権威があったのです。
文政年間(天保の直前)の地図には「興正寺」があります。本願寺天満別院(仏照寺)もわかります。
右端に大きく「御宮」とあるのは川崎東照宮です。(現存せず)
天保8年(1837)の地図は上記とほとんど同じです。
明治4年(1872)の地図には「定専坊」「興正寺」があります。
明治19年(1887)の内務省地図には「興正寺」「仏照寺」はありますが「定専坊」は記載なし。
大正12年(1923)のパノラマ地図にははっきりと寺が描かれています。(説明文はない)
興正寺の北側に寺らしき屋根が見えます。
昭和3年(1928)の航空写真にも寺が写っています。
昭和4年(1929)の番地入り図には「興正寺派別院」とあります。
興正寺の北側には「定専坊」が現在の場所とは違う位置にあり
現在の定専坊の位置には「西綿寺」があります。
昭和22年(1947) 敗戦から2年目の航空写真には焼け野原が広がっています。
以後、興正寺は地図に現れません。
戦後にこの敷地に滝川小学校が移転してすぐに天満橋筋の東側(造幣局との間)に再移転した、と書くHPがありますが
それは間違いで、滝川小学校は明治44年(1912)に現在地に移転しております。(滝川小学校のHPに記載)
明治5年(1873)8月に北大組4区小学校として滝川町(滝川公園北西)に開校 とあります。
地図には出てこないので推測しました。
明治4年地図は区を色分けしており、赤色が第4区なのです。しかも滝川町はその最も西側の通りです。
ここまで来れば、もうあと少し。 明治中期の地図を探すだけです。
明治36年(1903)の地図に学校の記号がありました。興正寺(地図には記載ない)の西側です。
実は、この地図は間違っています。滝川小学校は興正寺の北西にあり、江戸時代の惣会所でした。
「興正寺」を調べると意外な歴史がありました。
京都の西本願寺の南側に浄土真宗興正派本山興正寺があります。
お西さんが余りに広大なので気が付かないのが普通です。私も知りませんでした。
裏の龍谷大学文学部と同じ広さなのです。
天満興正寺はその別院でした。(現在は大阪市旭区らしいのですが・・・)
大阪には別院とつく寺がいくつかあります。
本願寺派 | 津村別院 | (大阪市中央区) |
本願寺派 | 堺別院 | (大阪府堺市) |
大谷派 | 天満別院 | (大阪市北区) |
大谷派 | 難波別院 | (大阪市北区) |
実は、浄土真宗にはいくつかの派閥があります。(時代によって増えたり減ったり)
「真宗教団連合」そんなのがあるなんて知らなかったなあに属する10の派閥は
浄土真宗本願寺派 | 西本願寺 | 京都市 |
真宗大谷派 | 東本願寺 | 京都市 |
真宗高田派 | 専修寺 | 三重県津市 |
真宗佛光寺派 | 佛光寺 | 京都市 |
真宗興正派 | 興正寺 | 京都市 |
真宗木辺派 | 錦織寺 | 滋賀県野洲市 |
真宗出雲路派 | 毫摂寺 | 福井県越前市 |
真宗誠照寺派 | 誠照寺 | 福井県鯖江市 |
真宗三門徒派 | 専照寺 | 福井県福井市 |
真宗山元派 | 證誠寺 | 福井県鯖江市 |
これだけ分かれているのは、派閥争いが激しかったことを示しています。
興正派はメジャーになれなかった(戦いに敗れた)のです。
第2次大戦末の爆撃で焼失しても、他の別院は再建したのに天満興正寺は再建できませんでした。
経済力の差(檀家数の差)なのです。
いつごろ興正寺天満別院ができたのでしょうか?
Wikiにはこうあります。
蓮教は蓮如と力をあわせて念仏弘通に奔走したが
天文元年(1532)8月、山科本願寺と共に兵火にかかって山科興正寺は焼失。
永禄12年(1569)、興正寺に本願寺顕如の次男顕尊が入寺し、石山本願寺の脇門跡に任ぜられる。
天正13年(1585)第15世蓮秀は幸いにつつがなきをえた真影を供奉して、天台宗の寺があった大阪天満の地に
広大な堂舎を配した天満本願寺と共に真宗興正寺として法燈をかかげた。
天正19年(1591)第17世顕尊の時に、豊臣秀吉による都市計画の一環で、本願寺と共に寺基を
再び洛中の七条堀川に移す。この寺地には時宗市屋派本寺の金光寺があった。
元亀元年(1570)から天正8年(1580)の10年にわたる本願寺と信長の戦いが決着し、石山本願寺は信長に明け渡され
天正10年に本能寺の変で信長は自害。秀吉が台頭します。
天正13年には秀吉は関白になっており、19年に本願寺を京都に戻す命令を出したのは
秀吉と本願寺が手を組んだことを意味します。
従って、13年に天満興正寺ができたことは、この秀吉との結託の先触れなのかもしれません。
関西大学と天満興正寺
関西大学の前身である関西法律学校が明治時代に興正寺を間借りしていました。
その詳細を示す論文があります。
「関西法律学校と天満興正寺」に意外な歴史が出ています。
関西法律学校の歴史
明治19年(1886)11月に関西法律学校は大阪市西区京町掘の願宗寺本堂を間借りして開校
翌12月に東区淡路町の予章館に移転
明治20年4月に北区河内町の興正寺別院に移転
明治36年(1903)12月に西区江戸堀に校舎新築
明治38年1月に専門学校認可を受け関西大学と改称
天満興正寺の歴史
(大阪府全誌からの引用)
天満郷中の古刹にして、往時は天台宗に属し、年所を経て頻廃に傾きしを
興正寺三世源海上人に依りて同寺別院となれりと伝ふれども、其の間の寺歴は詳ならず。
寺伝に依れば、天福元年(1233)真宗興正寺の三世源海上人当国行化の折、錫を此に留められしに
道俗男女帰依しければ、堂宇再建せられて興正寺の別院となり、十五世蓮秀の時天文元年(1532)
本山兵火に罹りて焼失せしかば、同年八月当別院を本山と為して蓮秀移住し、十七世顕尊の時に至り
永禄十二年(1569)八月朝廷より門跡の号を賜り、天正十八年(1590)二月五日豊臣秀吉は寺領五百石を寄せしが
翌十九年(1591)本山を京都に移すに及び、堂宇を京都に移転せんとしけるに、上人は之を嘆じて曰く
若し然らば即ち此の地は郊野とならん。請ふ移転すること勿れ、自今堂宇の修築は天満郷の自他宗を
論ぜず同心協力して之に当たるべしと。
依て堂宇移転の議は止み、再び別院となりて天満別院と称し、爾来年を追ふて土地は次第に繁栄し
前約に依りて堂宇の修繕は勿論、例年の開山忌にも自他宗を問はず、近世まで総勧進を為せりといふ。
然るに天保八年二月十九日堂宇焼失しければ、安政三年に之を再建せらる。現在の建物即ち之れなり。
寺務は本山より役僧を輪番せしめて執行せらる。(下略)
(論文)
文明14年(1482)に本願寺8世蓮如のころ東山仏光寺の経豪が本願寺に帰参し
山科にあった本願寺内に土地を与えられて一寺をおこし「興正寺」と号したのが興正寺の始まりである。
従って、上記のようにそれより200年も前に別院開創したというのは荒唐無稽にすぎる。
天満興正寺は安永6年(1777)十二月十九日の大火、天保八年(1837)二月十九日の大塩焼けの2度焼失し
そのつど再建されている。
仏光寺は仏光寺派として元の東山で現在に至るが、興正寺は明治9年(1877)に興正派として独立を果たすが
独立前は末寺二千数百もあったのに、独立後に興正寺についてきたのは1/10にも満たなかった。
これは、興正寺が本願寺と末寺を取り持つ中次ぎ寺であったのが、本山からも末寺からも見放されつつあった
経済事情を興正寺が見逃していたという点に原因がある。
昭和20年(1945)6月1日の空襲で全焼。
まもなく東隣の岩井町1丁目に再建。 ←これを地図や航空写真では確認できませんでした
城東区赤川町に移転「大阪興正寺」と称する
2度の再建ができたのに、第2次大戦の焼失では再建できなかったのには、独立による派閥の盛衰から理解できる。
興正寺(本山は京都)の歴史は真宗との離合の説明が大変面白いのですが、余りに長くなるので割愛。
本願寺から独立すると、二千数百もあった末寺のほとんどが離反し、興正寺は衰退しました。
もともと興正寺は中継寺として本山と末寺との間に位置しており、どちらから見ても無駄・ジャマだったのです。
「流通経路の簡素化」
これが衰亡の原因だったと思えるのです。
本山・末寺にとってのメリットを提案できなかったのです。
「関西法律学校と天満興正寺」には2つの絵図があります。
@安永6年(1777)以前の興正寺
寺の主な建物は御堂(本堂)・対面所・庫裏の3つあり、よく見る寺とは違います。
対面所には上段間があり、これだけで高位の僧がいたことがわかります。
A安政2年(1855)再建時を復元推測した絵図
天保8年(1837)の大塩の乱で興正寺は焼失し、本願寺と抗争していた興正寺はなかなか再建することができず
安政2年にようやく再建なった。
この絵図は寺の一部を借りていた関西法律学校の学生から境内の様子を聞いて復元したもので
建物群がかなり減ってはいるのですが、本堂・対面所はなお大きなものでした。
この姿を最もよく示す航空写真があります。
昭和3年(1928)の写真上部中央に本堂の大屋根が見えます。
関西法律学校(関西大学)が天満興正寺を借りるのは明治20年(1887)4月27日のことで
再建してから32年しか経っていません。
なのになぜ興正寺は寺を貸すことになったのでしょうか?
実は、興正寺派として本願寺から独立したのが明治9年(1877)のことで、本願寺とは対立し
興正寺派末寺は本願寺につき、経済的に非常に苦しい状態だったのです。
明治21年(1878)には債権主からの訴訟で本山建物10数棟・寺宝数千点を公売する事態になります。
天満興正寺も文化3年(1806)には末寺112箇所であったのに、明治9年には13,4箇寺に激減します。
そのような苦しい経済事情から、明治10年には4ヶ月間でしたが師範学校に貸しており
関西法律学校は明治20年から明治36年まで16年間にわたって興正寺を借りています。
学校の門は寺の北門を使用しており、次の写真が残っています。
この石段は失われています。
興正寺の遺構である滝川公園の東側に古そうな石段がありますが、実はこの石段は絵図や航空写真にはありません。
定専坊
Google地図を拡大してみてようやく気が付いた変わった名前の寺。
境内には大阪市の保存樹である銀杏の大木がありますが、門も塀も傾き残念な状態です。
浄土真宗には同じ「定専坊」が2つあります。
定専坊 大阪市東淀川区豊里
定専坊 大阪市北区天満
なぜ2つあるのか疑問に思いませんか?
で、調べてみましたヒマだなあ
Wikipediaでは
所在地 大阪府大阪市東淀川区豊里6-14-25
宗派 浄土真宗西本願寺派
歴史 もと行基の開創と伝える真言宗の西光寺で、永徳2年(1382年)、河内国赤坂城没落で楠木正成の孫正勝が隠遁して当寺に居住していた。
祖父正成が本願寺の覚如に帰依していたが、正勝の孫・掃部助が出家して存如より浄願の法名を頂く。
文明年間(1469年〜1486年)檀家と協力して諸堂を造営。
明応8年(1499年)2月18日、死期を悟った蓮如が当寺で実如を呼び遺言をいい渡したという。
定専坊は「一意専心」の意で蓮如が寺名をつけている。
相撲の若貴で話題となった熟語ですね
天正年間(1580年頃)、織田信長との石山合戦では『石山戦記』に定専坊と、3世了顕が多くの軍勢を率いて戦ったと記されている。
正保4年(1647年)定専坊と改める。
その後6世信詮の時、大坂河内町(現・北区天満)に一宇を創立してこれを兼務する。
これが今とりあげている寺です
明治33年(1900年)もと字宅地にあったが、淀川改良工事で川敷となったため、現在地に移転する。
・鐘楼 梵鐘はもと石山本願寺にあったもの。
・五輪塔 楠正勝・楠正盛・楠盛信の墳と伝える。
ボンヤリしかわからないので、定専坊のHPを開いてみました。
上人ご自身は初めから大阪を墳墓の地ときだめ、ここに骨を埋めるお考えであったようですが、
実如上人や、お弟子たちは、どうしても山科本願寺に帰っていただくよう懇請し、京都からわざわざ船を仕立てて
淀川をくだり、迎えに出られたのです。淀川というのは、むかしは水路が唯一の交通の便に利用されていたからです。
そこで上人もやむなく、この懇請に応じ、迎えの船に乗って帰られました。それは明応八年二月十八日のことでした。
このことは「蓮如上人御一代聞書」の第三〇三条に、つぎのごとく記載されてあります。
蓮如上人御病中、大阪殿より御上洛の時、明応八、二月十八日、さんばの浄賢処にて、
前住(実如)上人へ対し御申しなされ候。御一流の肝要をば、御文に委くあそばし、とどめられ候間、
今は申しまぎらかす者もあるまじく候。此分をよくよく御心得あり、御門徒中へも仰せつけられ候へと、
御遺言の由に候。然れば前住(実如)上人の御安心も、御文のごとく、又諸国の御門徒も御文の
ごとく、 信をえられよとの支証のために、御判をなされ候事と云云
これに依って、大阪から御帰洛になった年月日は明らかですが、かくて上人は一ヶ月余り後、すなわち、三月二十五日に、
山科本願寺でご住生されたのであります。
なお、右の記事の中に「さんばの浄賢処にて」とあるのは、さんばの浄賢のところで……という意味で、
さんばは現在の三番町であり、浄賢のところは蓮如上人のお弟子、浄賢が住した坊、すなわち、定専坊をいうのであります。
「現在の三番町」は間違いで、「昔の上三番村」が正しく、「現在は淀川の底」です。
上記に出てくる「蓮如上人御一代聞書」のくだりの原文を探しました。
岩波書店から昭和17年に活字化出版されており、国会図書館近代デジタルライブラリで見ることができます。
402 蓮如上人 御病中 大坂殿より 御上洛の 時、明応八(1499) 二月十八日、
さんば三番のことの 浄賢蓮如の弟子 所にて、実如上人蓮如の子へ 対し 御申し候、
御一流の 肝要をば 御文に くはしく あそばし とどめられ 候間、今は 申しまぎらかす
者も あるまじく 候。 この分を よくよく 御こころへ ありて、御門徒中へも
仰せつけられ 候へ、と 御遺言の 由に 候。然れば、実如上人の 御安心も 御文の
ごとく、また 諸国の 御門徒も 御文の ごとく 信を えられよ、との 支証の ために
御判をなされ候事、と云云。
蓮如は山科本願寺へ帰ってから1月で亡くなります。なので「御遺言」なのです。
蓮如は大坂だけでなく全国に真宗を広げます。石山御坊も和歌山の鷺森別院も定専坊もその成果の一部です。
三番定専坊は本願寺と同じくらいに古く500年くらい前からあったわけです。
一方、天満興正寺は天正13年(1585)なので約100年ほど新しいことになります。
享保8年(1723)の摂州榎並河州八個両荘之図で、淀川の北、西成郡に上三番村があります。
下三番は梅田の近くにありました
上三番は今市から平田への渡しのそばです。
当時、大坂から西成郡・高槻へは、この渡しかもう少し下流にあった長柄の渡しを使います。
上部にある赤線は淀川付け替え計画位置です。
中央に「大字下三番」があり付け替え場所から外れています。
淀川付け替え工事は明治27年に計画され、29年に着工、完成したのは明治43年(1910)です。
明治末の淀川改良工事では川筋の大規模な付け替えを行ったので、無くなったり移転した村が多数でました。
下三番村はかろうじて免れたのですが、上三番村は北側に村ごと移転しました。
定専坊付近には古い町並みが残っています。
下の絵図は天満定専坊の楠覚証が発行した「石山法器彙集」より。
この図は明治24年に出版された絵図ですので移転前の情景を示しています。
絵図右側に「楠正勝墓」とあるのは楠正成の孫のことで、三番定専坊は正勝の子孫掃部助かもんのすけが
(調べましたが見つけられません)
本願寺七代存如に帰依して真言宗西光寺を真宗の寺として蓮如から定専坊の寺号をもらったとあります。
Wikiによると
楠正成 永仁2年(1294)〜建武3年(1336) 鎌倉時代末の人です。
楠正勝 正成の子正儀の子。 生没年不明。
天満に現在ある定専坊と豊里の三番定専坊は無関係ですが、天満には楠姓の住職がおられます。