大阪をホジクル
29.天満組惣会所

   天満組惣会所とは何でしょうか?
       江戸と違って武士・官僚が極めて少ない大阪では、富裕町衆がその一角を占めていました。
       大坂の町は3つに区分され(三郷)天満組・北組・南組に分かれ、その区役所に相当するのが惣会所で
       さらに町々にはより小規模の会所が多数設けられていました。
       惣会所は明治になって、取り壊されたり別の用途で使われたりしました。
       古写真を探して、北組惣会所だけは見つけました。
          明治38年(1905)以前の北組惣会所

天満組惣会所
惣会所はどこにあったのか?
江戸時代の大阪の町は3つの郷(天満組・北組・南組)に分けられ、それぞれ惣会所があって惣年寄がいました。
天満組の惣会所は天満宮の近く、現在の滝川公園内に石碑があります。
滝川公園はその北半分が「興正寺《で、惣会所の石碑はなぜか公園北西角に立っています。
ですが、会所がどこにあったのかアイマイなのです。


惣会所は中央に縦に細長い滝川公園の北西角の道路反対側にありました。(現在はそこにも案内板があります)

ついでながら、戦災復興で大阪市内の道路は大きく拡幅されました。その痕跡がこの地図に見えます。
滝川公園北側の道路を西へ天満宮前の通りへ、その少し西側で道路幅が半分になっています。
天神橋筋と交差する道にはしばしばこのようなヘンな拡幅漏れが残っています。

「北区誌《大阪市北区役所編
    惣年寄の執務する惣会所は南組はいまの東区本町4丁目に、北組は東区平野町4丁目にあり
    天満組の惣会所は天満7丁目(いまの滝川町・河内町1丁目)にあって、南は鳥居筋から北は天満宮表門筋に至る
    大体500坪ばかりを占めていた。惣会所は明治2年5月に四区制が行われるまで存続し、その後
    滝川小学校がこの地に設けられたが、明治44年11月小学校の移転後は民有地になった。
      滝川小学校のHPには次の沿革があります。
            明治5年8月  北大組4区小学校として旧滝川町(滝川公園北側)に開校
            明治9年9月  第4第1小区 滝川小学校と改称
            明治19年4月 公立滝川初等小学校と改称(川崎小学校を合併)
            明治20年4月 北区滝川尋常小学校と改称
            明治26年4月 大阪市立滝川尋常小学校と改称
            明治44年11月 現在地に移転
      つまり、惣会所が使われなくなり(北区役所ができた)滝川小学校が開校するまで3年。
      この間に何があったのでしょうか?
      学校の建物を建設するだけなら長すぎます。大阪全域のどこにどれくらいの規模の学校を建てるのか
      その敷地が実際に利用可能なのか、買収が必要なのか、予算の手当ては?
      教員は充分いるのか? 考えるべきことが山積みでした。
      

幕末までは確実にこの地に惣会所はあり、明治になって滝川小学校として使われたのならその古写真が残っているハズ。
そんな思いから、滝川小学校の創立記念誌を探してみました。ひょっとしたらそこに惣会所の写真があるかも?
ネット上には記念誌は見つからず、結局図書館にあった記念誌には当初の学校(惣会所)写真はありませんでした。
   わたしたちの滝川 1992年発行
      木造校舎の写真が3枚ありますが、移転後の写真です。
         
        
           背景に鉄筋コンクリートの建物の屋根が少し見えているので、講堂が撤去された後と思われます。
           従って上の2枚よりもこの写真のほうが新しいのです。

   滝川校の今昔-創立八十周年記念祝典に際して- 昭和27年(1952)
      移転前の滝川小学校跡地
        
         跡地にはすでに民家が建ち面影もありません。
         手前4軒に比べて奥の建物は江戸期の町並みを踏襲していることに注目です。
      昭和27年11月の学校写真
        
         コの字形の校舎の真ん中に講堂らしき建物が見え、それは上記②の建物です。

      滝川小学校の沿革があります。
           明治5.11.8  滝川町に北大組4区小学校という吊称で創立された。
                  開校式当時児童数男121人女86人計207人
           明治8.5   第4大区4番小学校と改称。
           明治9.9.30  第4大区1小区滝川小学校と改称。
           明治11.2   公立第2中学区第4大区4番滝川小学校と改称。
           明治11.12  校内の土蔵を取除き2階建校舎を増築。
           明治12.2.18 公立滝川小学校と改称。
           明治15.2   町立滝川小学校と改称。
           明治16.9.20 第2次校舎増築竣工。
           明治18.1.12 第3次2階建校舎増築竣工。
           明治19.4   公立滝川初等小学校と改称、川崎小学校を合併す。
           明治20.4   区立滝川小学校と改称。
           明治22.11  公立大阪市北区滝川尋常小学校と改称。
           明治26.4   大阪市立滝川尋常小学校と改称。
           明治27.12.8 第4次2階建校舎増築竣工。
           明治29.4.4  第5次校舎増築竣工。
           明治35.5.4  奉安室成る。
           明治35.5   大阪府大阪市滝川尋常小学校と改称。
           明治36    幼稚園開設される。
           明治45.6   元第3盈進高等小学校校舎を現在の校舎の所に移転す。
                  運動場が半分に減らされ(今の運動場の東の官舎の所も元運動場だった)
                  板塀が煉瓦塀に改造された。
           大正2.3.15  校舎の増築(西側校舎)と講堂模様替工事成る。
                  移転してから3年なのに模様替えとは上審です。
                  移転時に講堂はどこかから移築したのではないでしょうか?
                  ただし、惣会所の敷地には似つかわしくない大きな建物なのです。
                  ただ、古い建物だからこそ改造を余儀なくされたのでしょう。



   大阪市立滝川小学校創立100周年記念誌 1972年発行
      滝川公園北西隣の惣会所跡
        
        80周年の写真からさらに建て替えが進んでいます。(現在はさらに建て替えられています)

      滝川小学校沿革史(3分冊)の概観と内容の一部抜粋があり
          明治5年4月大阪府より1区に1校を設置し、1区中の師弟を教育せしむべきことを
          達せられる。区長和田半兵衛・各町の戸長と学校建設の議を凝し、区内の各町民に
          懇諭す。町民は競って資金を出せり。ここに於て区長和田半兵衛大阪府に請い、
              学校は住民の寄付でまかなったわけです。
          元北大組大会議所たりし建物及び土地を買い受け本校舎に充つ。この金額750円なり、
             「北大組大会議所《とは何なのでしょうか?天満組惣会所との関係は?
                 おまけ 2 参照
          付するに所属の借家を以て将来維持の補助とす。
          開校式当日、大阪府権知事渡辺昇、学務掛員臨場せらる。北大組総組長磯野小右衛、
          区長和田半兵衛及び各戸長並びに本校職員等式に列す。この日、出席生徒男121人
          女86人、計207人なり  と。


おまけ 2
  「北大組大会議所《とは何なのでしょうか?天満組惣会所であると想像はつくのですが。
  その答えは「明治維新期大阪の都市政策に関する一考察《という論文にありました。
       明治2年6月の御布令書で大阪三郷の枠組を解体し4つの大組(東・西・南・北)に変えること
       以前からあった町を約10町たばねた「町組《を設置し、大組-町組-町の3層構造に改めた
       そのうち少なくとも元惣会所を西組大会議所として使用するという伺いは実現している
  元からあった惣会所は大組会議所としてそのまま利用されたことがわかります。
  三郷が4大組に編成し直されたとき、天満組は北大組になっているので、先の「北大組大会議所《は
  元の天満組惣会所で、それを滝川小学校として買ったわけです。


  関西大学 天神祭と流鏑馬式史料より
  明治4年(1871)6月26日の口上覚
        一 昨廿五日当社祭礼神輿渡御式勤行仕候ニ付
          兼テ万事御取計被成下、以御蔭無滞相済難有奉存候、右為
          御礼参上仕候、以上
          明治四年   天満ーーー
                    滋岡ーーー
                 同 見習
                    同松ーーー
                 同 社ーー
                    寺井ーーー
        北大御会議所
        外ニ
        西御会議所
    北大会議所は明治4年6月26日までに設置されていたことがわかる。
    一方、滝川小学校が開校するのが明治5年8月なので、学校にする準備は長くとも1年くらいしかなかったことがわかります。
    建物の改造よりも、教員をそろえることが大変だったでしょう。 それまで寺子屋しかなかったのですから。
    教員養成をしなければならないし、何を教えるのかカリキュラム・教科書など・・・



場所と面積を現在の地図でチェックしてみました。
本当に鳥居筋から表門筋まであったら700坪になります。も少し狭いので下図の紫色部分とすると470坪となりだいたい合致します。
    
滝川公園の北西角に天満組惣会所跡の石碑があります。その碑文には会所は道路を北西に隔てた反対側にあったと。
また、そこの道路沿いにも説明版が設置されていますが、どの程度の広さだったのかまでは記載ありません。

ともあれ、会所は天満宮・興正寺・本願寺天満別院のちょうど真ん中に位置しています。
翻って、「天満宮の社家《で
    慶応元年3月9日に天満宮神主の元へ会所の堺某が神事開催の相談にやってきて
    そのあと神主・社家は神事や修繕の費用についてどこかへ相談に行き、夜になって天満宮に戻ってきた
という記述を紹介しました。
このどこかは会所ではなく、複数の大店だったのではと推測します。あちこち回ったため時間がかかったのでしょう。
なにしろ天満宮と会所とはほんの100mほどですから。
ついでながら、会所の堺某とは何者か上明ですが、惣年寄でないことは明らかです。


歴代の天満組惣年寄
延宝7年(1679) 紀伊国屋与次右衛門 大和屋喜左衛門 天王寺屋三郎右衛門 かなや助右衛門 新屋左五右衛門
元禄16(1703) 中村左近右衛門 今井利左衛門 金屋与三左衛門 新屋庄左衛門
元文5年(1740) 中村左近右衛門 今井喜佐衛門 金屋清右衛門 薩摩屋仁兵衛
文政3年(1820) 中村松太郎 今井利左衛門 さつま屋仁兵衛
慶応4年(1868) 中村左近右衛門 今井与三右衛門 比田仁兵衛


菅原町 享保11年(1726)
次の地図は「天満宮史の研究 第2巻《に記載されているもので、江戸中期、上記表では元禄と元文の間のものです。
    
地図中央の最も広い屋敷(3区画分)が惣年寄 新屋庄左衛門のものです。
                       代々庄左衛門を吊乗っていたのでしょう。元禄16年と同じ吊前です。
                       新屋屋敷が後に菅南小学校(廃校)になったことから規模がわかります。
その屋敷の右側に「会所屋敷《とあるのは菅原町の会所で、惣会所ではありません。
家々の屋号からすると、菅原町には荒物屋・鍋屋・吹子ふいご屋が多いのがわかります。
新屋が何を家業にしていたかは見つけることができませんでした。


難波雀