大阪をホジクル
佐々木志頭磨とは何者?

大阪市北区にある南濱墓地を紹介する(余計なオセワ)中で江戸中期の書家佐々木志頭磨を結構詳しく調べました。
志頭磨には同姓同名の書家がいたとする説が多く、その根拠がよくわからなかったのです。
2015年9月のシルバーウィーク(らしいです)にそれまでの調査を裏付けるべく、京都にまで遠征しました。
実地調査と文献調査の結果をあわせて紹介しますが、漢文や古い文語が並ぶので読み進めるのも面倒です。
読まずにパスすることを薦めます。


①佐々木専林の墓(大阪市北区/南濱墓地)

    正面


   裏面   大義院孤峯宗峻居士
         谷壽院観月自響大姉
   正面の碑文と字体が違うだけでなく、素人のような下手な文字です。

刻文(近畿墓跡考より)
   佐々木志頭麿専林先生塔碑銘并叙
   先生姓佐々木。名。字専林。別稱志頭磨。蓋松竹堂者其号也。以貞享三年柔兆摂提格之歳。降霊京師。享齢五十
        貞享三年(1686)生まれ、寛保元年(1741)没、56歳
   有六。卒干攝之天満。實寛保元年重光作噩仲秋十四日也。及葬同州濱墓。蓋聞先生者先以換鵞之術。所鳴干世
   之佐々木専念先生之嫡子也。十歳喪父。及長。依家姉照元。以傳父之業。名声籍甚。相継大鳴干世者。有年干茲焉。
        専林は専念の嫡子、父が死んだ後姉に育てられたと
   後遷居於浪華大江邉。到処人皆重之。問道学術之士。撞々盈門。然先生稟質素有淵明逸少之風。不敢楽識韓刑
   州。居常沽酒設席。布紙走筆。粛然自楽焉。於戯俾先生獲保永壽。則有張皇家業。而光干世者。其如命何。於是鶴不
   堪働哭。率其家嗣正林。曁係干先生之門下者若干人。相共戮力。抽資堅石。勒銘干其不。以記歳月云。銘曰。
         没後を正林が継ぐ。普通だったら若干人とは書かないので相当少数だったはず。
      聞世名士。傑出萬人。孕英華洛。清標絶塵。能繼父業。精妙入神。僅下椽筆。為世所珍。済々多士。
      如鳳如麟。人欲天稟。奈薬無君。属纊時至。遽爾帰真。不堪哀慟。勤銘蒼珉。千古萬古。鴻業不泯。
   寛保三年(1743)龍集癸亥仲秋十四日
                     門人 梅渓川鶴九皐謹撰
         川鶴梅渓とは何者か不明
   裏面の2人の戒名は後年に追記したもので、梅渓ではなく息子正林が彫ったのでは?

②佐々木専念の墓(京都市不京区/浄福寺)今回調査

     正面


   右側面  宝暦5年(1755)に追記されている。


   裏面   元禄8年(1695)正月19日に亡くなり2月19日に墓を建てた

   碑文:
      難読なので京都名家墳墓録の碑文と合わせる。
     (左面)
         先生姓佐佐木志頭磨松竹堂人晩年自稱専念子、雒陽人
                        雒陽=洛陽(唐の都)つまり京都を指す
         也幼好筆法弱冠顕名壮年之後游客於江戸以書法大鳴仍遭
                        壮年になってから江戸に行って有名になる
         囘禄及帰干洛集徒樹風中年應聘出仕伽州大守来往乎京師
                        伽州=加賀藩5代目前田綱紀に召抱えられたことを指す
         数教南北漸老致仕帰休乎雒弟子益衆官家傚其楷則叢林慕
                        金沢から京都に戻ったことを指す
         其體勢其教人書也水書玉盤而習大字勢紊請規範而導諸衆
         體隋性砭病舎旧圖新故字體不改書病自除是以遊先生門
         者咸虚往実帰而貴族大家潤筆求書無不実玩焉古来倭俗書
     (裏面)
         太字者卒因皆鑿功及先生出雖延●一丈一筆而成不知書法
         傳於何人孟子曰豪傑之士雖無文王猶與先生於書可謂豪傑
         矣其為人卓●不●不以事物経心静観萬物盡寓諸書故其書
         風釆気韻冠映一世而猶未以自足日就月将暮齢所悟不知其
         極矣惜哉天不愁遺先老元禄乙亥孟春十九日病卒干家寿七
                 元禄乙亥は8年(1695) 孟春は正月のこと
         十七歳墓洛西浄福寺題其墓曰嶺照院光與専念居士於是永
         倉一平安尚中野清太夫信安松井太郎右衛門正家伊庭又十
         郎正虎為先生寄資於玉林院毎当正忌修追福云
                  大徳寺塔頭のことか、正忌=祥月命日
                                     伊藤素安状
                                     沙門傳長敬書
         元禄乙亥歳二月十九日
                右原稿吾先師長諾公之所笥蔵也諾公伊藤素安君之
                  弟子が墓を建てたと読めるが
                  長男晦山・長女照元のことについては全く触れていない。
                  弟子達と2人が折り合い悪かったのか。

     (右面)
         令子玉林傳長師之法嗣也且受書法於長師而私淑於
                  玉林傳長=伊藤素安の子
         専念居士此稿實係干師父之手裁是以諾公在日嘗有
         志不石以施不朽有故不果及其臨圓寂附属予以此稿
         蓋使継志也爾来荏再既歴教歳矣予近切懼孤負願命
         因急謀勤石但原稿字體濶大難不干碑故敢忘僭越代
         揮禿筆併記其顛末如斯
         宝暦乙亥歳正月五日    永田忠根謹識
           宝暦5年(1755)のこと、専念没後60年。
           没後60年も経ってなぜ追記したのか、永田=伊藤素安の弟子。
           顛末かくのごとし、という割りには内容がない。


疑問① 専念の生没年は?
       生年は記載なし
       没年は元禄8年正月19日
       77歳 ゆえ、生年は元和4年(1618)あるいは元和5年となる
       京都の人、壮年になってから江戸・金沢に行っている。

疑問② 専念の名は何か?
     姓:佐々木
     名:志頭磨
     号:松竹堂
     字:不明(碑文に記載ない)

疑問③ 専念の師は誰か?
     不鴨神社社家の藤木敦直だという近代の文献ばかりで、その元となる江戸期の文献がない。
     藤木敦直の墓は浄福寺近くの不品蓮台寺にあるはずだが行方不明だそうである。
     現在の不賀茂神社権禰宜は藤木保誠さんです。

調査の経緯
明治頃まであった大阪七墓の一つである南濱墓地の墓石調査をして、膨大な数の大坂天満宮社家の
墓石を見つけるとともに、江戸時代の書家・儒者などの墓も興味をひきます。
儒家  大塩平八郎
  龍田善達
  斉藤鑾江
書家  山本文龍
  佐々木専林
  富島瑞峯
関取  猪名川政右衛門
大塩平八郎については多数の研究書がありいまさらの感があるのでその他の人物について調べました。
その中の佐々木専林についての文献は曖昧なものが多く、同名人がいるとも。
文献調査もさることながら、遺物(墓石)調査をするべく、父親の佐々木専念の墓を探すことから。
単純な名前だけでのネット検索では見つからず、文献画像を国会図書館の公開画像から探すことに。
京都名物名寄、墳墓之部明治26年(1893)西村兼文
浪華名家墓所明治44年(1911)宮竹外骨
浪華人物誌大正8年(1919)岡本撫山
京都名家墳墓録大正11年(1922)寺田貞次
近畿墓跡考 大阪之部大正11年(1922)鎌田春雄
三州遺事昭和6年(1931)黒木椊

このうち京都名物名寄に専念の墓が京都一条の浄福寺にあるとの記載を見つけました。
他の文献にはその情報はありません。
ということで実際に寺を訪問して住職に案内して頂いたのが最初の写真です。
秋の彼岸の忙しい中、わざわざ書類を捜し、墓まで案内していただき恐縮して、聞きたいことも忘れてしまいました。
その折に見せていただいた墓石表には
    嶺照院光與専念居士
    佐々木●馬
とあり、少し違って伝えられています。残念ながら無縁で祀る人もいないそうです。
住職のお話では浄福寺には昔の貴族・学者の墓が多いとのこと。
佐々木専念の墓石は学者に多い形(頂部が円弧状)をしているそうです。

見つけ出した文献
まずは墓の場所を記してある③京都名物名寄を紹介します。
明治26年(1893) 西村兼文著  印刷ではなく写本です。

一条 浄福寺の項
   一 慶長二八十一   慶長二年八月十一日
     柳原准大臣淳光  公家の序列では下位にある名家の1つ
   一 文禄五十廿四
     同 右少弁資淳  淳光の子
   一 慶長七六五
     同 右少弁資俊  資淳の子
              資俊-茂光-資行-資廉-秀光-資基-資堯-光綱-紀光-均光-隆光-光愛-愛子
              明治天皇の権典侍だった柳原愛子の第3皇子が大正天皇となる。

   一 享保二五五
     古礀和尚     報恩寺第15代住職
   一 応永十九五廿五
     増意和尚     不明>
   一 永禄十一十一十二      廣橋贈内大臣国光 広橋家も名家の1つ
   一 元和八十二十八
     同  内大臣兼勝 国光の子
   一 天正八九十
     高辻大納言長維  高辻は名家の次の序列半家
           高辻家は菅家嫡流として書・神社に大きな影響力を持っていたが長維の代で一旦断絶する。
           寛永11年(1634)に後水尾天皇の命で五条家から養子をもらい再興する。
           長維-遂長-長純-豊長(豊長は東坊城長維の三男)
                      東坊城至長(豊長の実弟)は大坂天満宮神主となり滋岡至長
                      至長の墓は大坂南濱墓地にある。
                         豊長の子孫政長の墓は浄福寺にある。

   一 安永六十十六
     菅 鳴覊隆珀  不明
   一 元禄八十九   正月十九日の誤り
     佐々木志頭磨

④三州遺事   黒木椊 昭和6年刊
佐々木志津磨の項
佐々木志津磨(一に摩に作る)通稱は七兵衛、金沢の人也(一説に能登の人といふ)
              墓石には京都の人とある
京師に出て、加茂祠官藤木甲斐守敦直に書を学ひ、後研究してみつから一家をなし
              明治の法律で神主は祠官という名称になった
世に志津磨流と稱せらる、或説に大字の法を明人の陳元賛にならひしといへり
              陳元賛は儒家・書家・官吏・武術家などいろいろな面のある不思議な人
大字には尤妙をえたる人にて、後松雲公にめされて金沢に来り、稟米二十人扶持賜はる
              5代目前田綱紀1643―1724のこと
公かつて御前に於いて一丈余の大字をかけと仰せられしかは、かしこまりましたと申して
一大筆をにぎり、縦横自在にかきはなちけれは、公快と仰せられて、大字はこの男の
              松雲公御夜話にこの逸話はみあたらず
絶技なりと仰せられけるとそ、後致仕して再京師に寓し、晩年剃髪して専念居士と稱し
堂号を松竹堂という、その風を慕て筆を乞ふもの堵をなし、至る処、紙価を貴からしめ
たりといふ、その書は墨重く肉厚く、字々欣舞、一見して快と稱せさるものなし
今世に傳ふるものは、千字文、敬斎籤、佳墨集、万安橋記等の法帖也、その他神前の扁額
町屋の看板なとに、その筆跡を留むる多し、尾張町福久屋の黒くすり、鳥犀圓、
目細小路のめほそのはり、宝船路町の仏海山の額、林屋茶舗の看板なと、皆志
      これらの地名はすべて金沢のもの
頭磨のかきしものなり、かなも太き筆にて細くかける妙なり、吾古今集序かけるを蔵せり、一種
のものなり、志津磨は元禄8年正月19日没す、年77(一に3に作る)男を晦山といひ、女を照元という
      ここで初めて専念の子供の名前が出てきました
いつれも書法を父に受けて筆力猶健也
因みに云、志津磨の後志津磨流と稱するもの3人あり、一名は春、字は専林、
寛保中、浪華に終わる、これも恵念翁と号す、二は命常、文龍と号し、十蔵と稱す
三は澤井穿石、晩年志津磨と稱し、浪華に住せり、松竹堂と号す、皆志津磨流と云
      専林の墓碑には佐々木志頭磨とあり、専念の子とあるが嘘(勝手に名乗っていた)
      文龍の墓も専林と同じ南濱墓地にあるが、山本大定の名前で弟子が墓を建てている。
          志頭磨のことはまったく触れていない。
      澤井穿石は大坂の人。関山恭庵にまなぶ。のち佐々木志頭磨(しずま)を称した。
          安永8年1月20日死去。名は居敬。字(あざな)は史頭。
          通称は十蔵。別号に松竹堂。
          墓は中寺町法雲寺にあるが未見


佐々木照元の項 P318
照元は堂号を静思堂と号す、志津磨の女也、父と共に京に居て、後高倉の粟津信濃之介
という人に嫁し、20余年むつまじくすごしけるに、ふと夫やみにて今は限りと覚えし時・・・
       長文なので以下省略
       だが、晦山については全く触れることなし。
著者が何を根拠にこの文章を書いたのか不明。昭和初め頃までは元文献があったのでしょうか。


⑤志頭磨の千字文

志津磨の息子佐々木晦山が出版した志頭磨の書体本
享保十一年丙午(1726)不元日刊 志頭磨の没後30年
晦山の名前の下にある壷には松竹堂の名が見えます。ということは晦山は父の松竹堂を継いだのです。
右側の文章は
   この本の千字文は父親志頭磨の晩年の真筆であると晦山が保証したもので
   要するに出版社のCMに手を貸したものです。
   不元日は小正月1月15日のこと。
   逆に出版社からすると、晦山が志頭磨の子であることが出版の前提だったはず。
   従って晦山は本物と思えます(両者が結託して嘘をついた可能性もありますが)

⑥浪華人物誌
大正8年 岡本撫山著
澤井穿石
   名は居敬字は主一書を関山恭庵に学ふ恭庵は大庭某に学ふ某は佐々木専念の門人なり
   穿石書名あり嘗て専念の遺物唐山製惟法不乱四字の磁印を専念の女照元か外孫吉見三河より
                   照元に子供があったかどうかは定かでない。
   得て佐々木の傳法を継き松竹堂志頭磨と称す晩年右手麻痺し左手を以て書す安永八年己亥
   正月二十日没墓は高津中寺町法雲寺にあり碑文片山北海撰藤常充書
     岡本は碑文を見たはずなのに。
山本文龍
   名は命当字は大定通称十蔵文龍と号す摂州兎原郡五百崎の人幼より書を好み諸玩皆廃し
   夜を日に継く後年異邦人魯孟虔の法を羽州の人より傳へ受け筆術大に進み受業者門に満つ
   貴賤少長となく諄々之を導きて倦ます名声籍甚其人となり淡白不群赤貧自ら安んす
   元文二年丁巳八月廿一日没年五十二濱村三昧に葬る碑文は不月専庵撰也
     碑文には志頭磨に師事したとも志頭磨流を名乗ったともありません。
     岡本は淡々と示すだけで、三州遺事が何を根拠に志頭磨流を名乗ったと云うのか疑問です。
     ただ、文龍の墓の碑文は太字でのびやかです。

佐々木専林
   名は春字は専林志頭磨と称す号は松竹堂専念の嫡子也十歳父を失ひ姉照元に依り父の業を
   傳へ書を以て名あり京師より大坂に遷る寛保元年八月十四日没す年五十六墓は濱村墓地にあり
   碑文は門人梅渓鶴九阜也
著者は同じ墓地を濱村三昧・濱村墓地と違う表現をしており、元文献を写しただけではないか?
どうも岡本は現物を見ずに本を書いたのでないかと疑うのです。


⑦浪華名家墓所
明治44年2月 宮竹外骨著
佐々木志頭磨   寛保元年8月14日没  年56
名は春、字専林、専念翁子と号す、浪花に住す松竹堂と号す、京都の志頭磨とは別なり

     専林の碑文の通りで、宮竹は実際に見たのでしょう。

⑧京都名家墳墓録
大正11年(1922) 寺田貞次著
      北部墓域中東より第4墓列の中央墓道より北へ二十歩、五輪塔の北に位し西面す。
                    確かにこの配置です
      無縁となり、碑石は門の傍に放棄しありしを近時此処に安置す。表面に嶺照院光與専念居士
             寺に残る墓石表はこの頃に整備されたものか
      裏面に左の誌文を刻す。
      墳墓録では読点を打って読みやすくしている。
         先生姓佐佐木、諱志頭磨、号松竹堂人、晩年自稱専念子、雒陽人
         也、幼好筆法、弱冠顕名、壮年之後游客於江戸、以書法大鳴、仍遭
         囘禄及帰干洛、集徒樹風、中年應聘出仕伽州大守、来往乎京師
         数教南北漸老致仕帰休乎雒、弟子益衆、官家傚其楷則叢林慕
         其體勢、其教人書也、水書玉盤、而習大字勢紊請規範、而導諸衆
         體隋性砭病舎旧圖新、故字體不改書病自除、是以遊先生門
         者咸虚往実帰、而貴族大家潤筆求書無不実玩焉、古来倭俗書
         太字者卒因皆鑿功、及先生出雖延●一丈一筆而成、不知書法
         傳於何人、孟子曰豪傑之士雖無文王猶與、先生於書可謂豪傑
         矣、其為人卓●不●、不以事物経心、静観萬物盡寓諸書故其書
         風釆気韻冠映一世、而猶未以自足、日就月将暮齢所悟不知其
         極矣、惜哉、天不愁遺先老、元禄乙亥孟春十九日病卒干家、寿七
         十七歳、墓洛西浄福寺、題其墓曰、嶺照院光與専念居士、於是永
         倉一平安尚、中野清太夫信安、松井太郎右衛門正家、伊庭又十
         郎正虎、為先生寄資於玉林院、毎当忌修追福云
                         多分誤記でしょう
                                     伊藤素安状
                                     沙門傳長敬書
         元禄乙亥歳二月十九日
            右原稿吾先師長諾公之所笥蔵也、諾公伊藤素安君之
         令子、玉林傳長師之法嗣也、且受書法於長師、而私淑於
         専念居士、此稿實係干師父之手裁、是以諾公在日嘗有
         志不石、以施不朽、有故不果、及其臨圓寂、附属予以此稿、
         蓋使継志也、爾来荏再既歴教歳矣、予近切懼孤負願命
         因急謀勤石、但原稿字體濶大難不干碑故敢忘僭越代
         揮禿筆、併記其顛末如斯。
         宝暦乙亥歳正月五日    永田忠根謹識
      墳墓録が出版されたのは1922年、実際に踏査したのは10年程度かかったはず。
      それから約100年経過しており、墓碑の風化が進み欠落した文字もあります。写真参照


⑨龍谷大学論文集 今枝直方年譜稿
平成19年(2007) 日下幸男著
江戸前期の加賀藩家老今枝直方について
洛北蓮華寺は元は七条塩小路にあり、応仁の乱で廃れたが加賀藩家老今枝近義が大原に近い不高野に再興したもので
その事情が養子直方の文書に記されている。
寛文6年(1666)5月 綱利賀府に帰る。近義奉ず。
      加賀藩前田家5代綱紀のこと(犬千代-綱利-綱紀と改名)近義は江戸から藩主と共に戻ったということ。
  同月  住心院実俊の指南を以て僧秀海を蓮華寺の住持となす。
      実俊は延暦寺の僧で、後に蓮華寺開基となる。
   9月  暇を乞い洛に至る。先ず摂州大坂に至る。
      金沢から大坂を経て京都に至るならはるばる海路をとったことになる。家老であれば藩船に乗ることもできたはず
      日置忠治は池田光政嗣綱政を奉じ、大坂に着船し、寓舎にて邂逅す。
      忠治は直方の実父で岡山藩家老、忠治の妻は池田光政の娘、綱政は岡山藩主。
      家老日置は藩主とともに船で大坂についた。近義が会える時期を調整したのでしょう。

  この冬より翌年に至り、蓮華寺の堂を立つ。帰命山の額は曼殊院良尚親王に請う。
      曼殊院が現在の一乗寺に移ったのは良尚親王のとき。
      父は八条宮で後水之尾天皇の猶子となってから門跡を継いだ。
      そのような立場の人に山号額を求めることができたのは、政治力・資金力。

  同月碑石を立つ。銘は木下順庵撰す。篆額は石川丈山筆。
  同月十日尊敬親王蓮華寺に行啓す。住心院ほか供奉衆四十余人。
      尊敬親王は後水之尾天皇の第6皇子で比叡山・東叡山・日光山の三山の長。この年後水之尾院に会うため不洛中
  儀式厳重にして京師の桔梗屋、笹屋に一切を頼む。
      新興の蓮華寺では饗応の手に余ったのでしょう
  同月秀海は所司代牧野親成に謁す。
  12月5日 近義の寿像のために達磨の木偶を蓮華寺に納む。
  近義自ら額を書し、その像の側に掛く。筆者佐々木志頭磨
      近義自ら額を書したのなら志頭磨は何を書したのか?
  同7年2月26日 京師を発し金沢に帰る。
      約5ヶ月の滞在になる。家老がそれだけ長期間金沢を離れるのは異例。
       中略
 同11年(1671)8月 蓮華寺に井堂を建つ。井名漱玉の額は佐々木志頭磨書す。
                  寛文11年は志頭磨53歳にあたる。井戸は現存します。
       中略
 延宝3年(1675)3月25日 近義の隠居を許され、近義に隠居領三千石、直方に一万千石を賜る。
      28日 剃髪して信斎と号す。
 同6年(1678)11月13日 信斎発病し
    12月29日 卒す。66歳。
       後略
前田綱紀の家老が京都に寺を建て、そこにいくつかの書を志頭磨に命じたことがわかる。
このとき、志頭磨は京都に住んでいたことが推測できる。
綱紀が志頭磨を召抱えていたとの話があるが、それを示す文献を見つけていません。


⑩松雲公御夜話
加賀藩主前田綱紀に仕えた中村典膳の述記で、享保10年(1725)成立
ここに志頭磨のことが記載されているかもしれない。
  読解放棄笑

⑪近畿墓跡考
大正11年 鎌田春雄著
実際に墓石を見て記述しており、浪華人物誌よりも信頼できる。
佐々木志頭磨専林については南濱墓地の墓碑の通りの説明であり、割愛。
澤井穿石
   傳云。師厳而教尊。師道之重。豈唯道徳仁義之謂乎。雖小道末抜。逢蒙殺羿其師也。
   而孟軻氏謂。羿亦有罪。蓋罪師道不厳也。庚公斯之於孺子。謂不忍以師之道。反害其師。
   而孺子亦知庚公之不害己者。師弟之義宜如此也。本邦近俗凡傳法者。併其遺類。猶子之情。
   不為不厚。使之裁就義。則庶乎不差矣。澤井主一君浪華人。諱居敬。少学書関山恭庵。
   恭庵学大定氏。大定氏学佐々木志頭磨。君事師就養朊勤。修行□攻。師賜号穿石。以励其志也。
         穿石は志頭磨の曽孫弟子にあたる。よほど志頭磨の名を出したかったよう。
         しかし、山本大定が志頭磨の弟子であったと記す文献は見当たらない。

   君日夜刻苦。終尽其道。及師卒。門人皆推君師事之。蓋遺命也。於是名声籍甚一時。
   初志頭磨獲華製磁印。刻曰惟法不乱。珍蔵以為家学傳法之記。卒而無嗣。女照元蔵之。
         それほど大事な印をなぜ息子でなく娘が持っていたのか?
         息子晦山のことはなかったことにしているのも不審。

   欲擇其人付與之為嗣。亦不果而卒。有女嫁吉見某。其印因蔵在吉見氏。今稱三河者。
   照元外孫。●母齢九十。居恒憂祖印無所寄託。猵求其人。及聞祖在君手。就付属之。因辞再三。
         穿石が求めたのではなく押し付けられたのだと。ホント?
         照元が外孫(志頭磨の娘の子)という記述はここにしかない。
         90歳の母とは一体誰の母なのか?

   不得命。於是志頭磨姓名復起干世。実安永甲午十一月二十七日云。丙申冬。君風疾。右手麻痺。
                    甲午なら安永3年(1774) 丙申なら安永5年
   自時其後所写。皆出於左手。其熟練之妙。可概知已。麻痺後四年。歳在己亥正月二十日卒。
                    安永8年(1779)没
   妻野村氏。生二男二女。長女早天。三子尚幼。門人某等。助男三吾。葬城南法雲寺内。銘曰。
       骨格先立。 気脈後傳。 祖孫冥合。 熟弁後先。
       安永己亥夏五月
                 越後  片猷拝撰
                 門人  藤常充謹書
                     哀子三吾建
   師関山恭庵から穿石という号をもらったのは、才の人ではなく努力の人だったということ。
   穿石の年齢は不明だが、遺された子供が幼いけれども中風病みであることから若くはないらしい。
   妻と子供の将来を心配して志頭磨の名前を利用したのではないかと妄想する。
   穿石が亡くなったのは安永8年(1779)で、志頭磨専念が亡くなって84年も経っており
   それなのに志頭磨の名前を利用しようとするのは、まだまだ志頭磨は有名だったことを示しています。

資料の検討
文献の内容が正しいとは限らず、墓石碑文も同様で、弟子が師匠から聞いた内容でしかないかも知れない。
死者を敬うため話を誇張している可能性もある。
また、古さが正しさを意味しないのも当然で、疑い出せばキリがありません。(ア~疲れた)

上記にあげた資料を年代順に並べかえると
⑨今枝直方年譜
      志頭磨と前田家家老が親しかったと推測できる。前田綱紀が召抱えたというのもありうる。
      志頭磨の生前の記録になり、寛文6年(1666)12月には京都に住んでいたことがわかる。
②佐々木専念の碑文
      諱志頭磨と号松竹堂はあるが、字は記載されていない。
      墓石を弟子が建てたとか命日の法要を行ったとあるが、なぜか師匠を敬う気持ちが伝わってこない。
      その理由は、弟子4名の名前を並べて金を出しあって祥月命日の供養をしたという文面です。
      自分達の名前を墓石に残したい、と勘ぐってしまいます。
      不審な点は、 志頭磨の師藤木敦直について言及がないこと
               2人の子供について言及がないこと
               没後60年に碑文が追記されていること
      没年が元禄8年(1695)正月19日で77歳だとある。
⑩松雲公御夜話
      金沢で志頭磨を召抱えたはずの藩主の記録だが、まだ該当文を見つけていない。
      享保10年(1725)成立
⑤志頭磨の千字文
      嫡子佐々木晦山が父の真筆として出版したもので、出版年は没年と矛盾しない。
      享保11年(1726)1月15日刊
①佐々木専林の碑文
      専林が専念の子と云うのは、宣伝文句であって嘘。
      姉照元に育てられたというのも嘘。
      碑文内容よりも、碑文の字体がおかしい。なぜ志頭磨流の太字でないのか?
      専林を慕う弟子の思いはよく伝わる。
      寛保元年(1741)没、56歳
③京都名物名寄
      志頭磨の名前・没年・菩提寺が合致しており、著者は実際に墓を見たと思われる。
      明治26年(1893)刊
⑦浪華名家墓所
      宮竹外骨も専念のことは調べていないようだが、複数の志頭磨がいることには気づいている。
      明治44年(1911)2月刊
⑥浪華人物誌
      他の文献をコピーしただけで余り評価できない。
      大正8年(1919)刊
⑧京都名家墳墓録
      専念の墓碑について最も詳しい。著者は実際に読み取ったらしい。
      無縁で放置されていたのを現在の場所に移したということ以上は記されていない。
      大正11年(1922)刊
⑪近畿墓跡考
      南濱墓地の専林の碑文については①を参照。
      志頭磨の名前を継いだと称する澤井穿石の碑文を紹介してあるが、自称というよりない。
      大正11年(1922)刊
④三州遺事
      志頭磨流と称する3人(専林・文龍・穿石)がいる、とだけ述べておりそれ以上の判断はしていない。
      しかし、佐々木志頭磨は専念のことだと。
      また、専念の子2人についても名を示している。
      没年は浄福寺の墓の文面と合致する。
      昭和6年(1931)刊

○Wikipediaの記述(信頼性の面では最も低いが)
  佐々木 志津磨(ささき しづま、1619年(元和5年)? - 1695年3月3日(元禄8年1月19日)
  は、江戸時代の志津磨流の書家。志頭磨とも。
  通称、七兵衛、七右衛門。号は松竹堂、静庵、専念翁など。加賀国出身(京都出身説あり)。

結論
佐々木志頭磨は浄福寺に葬られた佐々木専念がその人である。
佐々木専林など志頭磨の名前をかたる者がいるということは、没後80年経っても志頭磨が大家であった証拠。
また、志頭磨の偽者にも騙るだけの事情が透けて見えます。
とはいえ、明治末には無縁墓となるほど忘れられた存在ではあります。
没後30年で息子晦山が出版社の宣伝に乗るほど経済的に困窮していたのではないか。
才能のない息子が亡父の名前にすがる・・・

------------------------ おまけ 専念の墓碑に出てくる人物 -----------------------
永倉一平安尚
   仙台史伝 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778275/5
   永倉一平忌み名は義敬、心荷斎と号す、伊達氏の世臣なり
         中略
伊藤素安
   伊藤仁斎と同時期の儒学者