大阪をホジクル
天満宮の社家

またまた脱線します。
南濱墓地で見つけた大阪天満宮の神主一族の墓をきっかけに、墓地には多数の天満宮関係者の墓があることがわかりました。
                                         最後に墓石地図で示します。
いつごろから、天満宮社中の墓が集まったのか不明ですが、墓石の古いものは江戸初期正保元年(1644)です。
次第に無縁墓を整理・統合して現在のような並びになったのではないでしょうか。
ネットや図書館で調べた限りでは、南濱墓地にこれだけ集中していることは全く知られていません。
管理者である大阪市も知らないでしょう。知らないままに墓地の整理・撤去を進めているため
天満宮の歴史と結びついた南濱墓地が消えてしまうのでしょう。
大阪市にとって天満宮は単なる集客施設、南濱墓地は邪魔者でしかないようです。
    だからといって戦前の明治政府が神社を文化遺産だと考えていたわけではなく、政治の下に組み込むことで
    日本中の神社を利用した面は大いにあります。
    さらに遡れば、江戸幕府だって寺院神社を体制に組み入れて管理していたのですから。
    ただ、大阪天満宮はいつの頃からか管理されることを嫌っていたようで、あちこちの文献に出てきます。
まずは墓地の現状を記録することから始めましたが、ここでは文献調査の結果と考察をば。
最初に、大阪天満宮の紹介と神主とは何かを 一席 エヘン


が天満宮、が南濱墓地、が寒山寺、が宝珠院
大阪天満宮は江戸時代初期までは市内からハズレていました。
菅原道真が失脚して九州大宰府に左遷され、わずか2年で亡くなる気が小さいなあのですが京都からの旅の途中で大阪に寄った
というのが大阪天満宮の由来だそうです。ずいぶん端折りました
京都北野の天満宮や大宰府天満宮も同様に道真の祟りを畏れた朝廷が造ったものです。思い当たる仕打ちをしたのでしょうね
      大阪天満宮  延喜元年(901)     およそ1100年前になります。
      大宰府天満宮 延喜19年(919)
      北野天満宮  天暦元年(947)
大阪には他に多数の天満宮がありますが、「天満の天神さん」が代表格です。
参拝した人はご存知ですが、意外と狭いです。江戸初期の地図でもほとんど同じなのです。

   「摂津名所図会」寛政10年の元版を大正8年に復刻したもの。(国会図書館)
   あとで紹介する神社内地図と似ています。

聞きなれない言葉「社家」をまず説明してみましょう。面倒なのでWikiからコピペ。
   社家(しゃけ)とは、日本の身分のひとつ。代々特定神社の神職を世襲してきた家(氏族)のことである。
   明治維新以前より現代まで世襲している神職家のことをいう。

ナゼ、この言葉から始めるか?
南濱霊園の墓石調査で、結構な数の一族墓があることがわかりました。
   大塩一族
   謎の禅寺基昌庵の歴代庵主
   書家冨嶋瑞峰を含む冨嶋一族
   天満宮神主だった滋岡一族
   滋岡のあと神主を引き継いだ寺井一族
   その他よくわからない渡邉・大道・大町・澤田・小谷などの一族
   まだまだ他にも
このよくわからない一族を調べていて、ふと思いついたのです。 天満宮と関係ある?
単純なネット検索ではこれらの一族のことはまったくわかりません。
何かの資料の本文内や参考文献に含まれているが、画像データ(pdf)のため検索に引っ掛からないのです。

天満宮と関係づけて検索 「天満宮 滋岡」 とすると
   @なにわ・大阪文化遺産学叢書14  大阪天満宮  天神祭と流鏑馬式史料
   A研究論文  大阪天満宮御文庫のこと
   B八十以後国文学談義  講演という名の芸能
などが見つかります。

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@はpdfではありますが、文書内検索ができて助かりました。見つかった結果はやはり想像通りで
    滋岡巧長・従長 神主
    寺井種清 社家
    渡邉吉儀・助信・迪吉 社家
    大道元貞 社家
    大町安敬 社家
    沢田 社家
が見つかりました。このpdfには幕末から明治中期にかけての天満宮文書の一部(それでも膨大)があります。
その中からごく一部を紹介します。

慶應元年(1865)3月六日の項
   今日郷中會所安土町堺吉ニ面會し、当年乙丑降誕御神事之事先例御開帳も有之候処
      郷とは当時大坂は天満・北・南の三郷に別れていた。もちろん天満宮は天満郷の氏宮
      天満郷会所の堺某が天満宮の社家渡邉吉儀に面会し、幕末の騒然とした中での神事開催の相談をする。

   当時節柄故其義者相止、六月廿五日者降誕日故廿三四五日と御神事相勤申度候間
      降誕神事とは道真生誕の神事のようですが、ともかく神事は行うが開帳は中止すると。
   先例も御神事賑々敷いたしくれられ候様頼候事、其他六月御神事入費之事、又屋根かへ
   之事等差含ミ、世話丁へ頼候事、右書取者別ニ記、右ニ付大人御出向ニ相成、社家中
      神事の費用だけでなく、神社の屋根葺き替えの費用もあり、ついては世話してもらっている丁(町)
      へも協力をお願いしたい。このため大人(滋岡神主)が出向くことになり

   ニハ分種・吉儀・元貞等也、入夜御帰
      社家も寺井分種(種清)・渡邉吉儀・大道元貞なども同行し夜になって戻ってきた。

慶應元年(1865)閏5月晦日の項
   今日堂島より米三十表十石献上ニ相成、右者今般
      (多分米会所から)米が献上され、本来なら地車(だんじり)を出すものだが、時勢のため米献上だけとなった。
   地車可出之処、時勢ニ付不出、依而米斗献上也、
   右者乙丑御神誕故と申ニてもなけれと、先其
      米献上は道真生誕の故というわけではないが、心持はよいものであると。
   心持之よし也、又表門灯籠修覆成就ニ付、
   浄祓之義頼ニ付、大道元貞堂島濱へ行向、
      神社正門灯篭の修理が終ったので堂島へ大道元貞が行って御祓いをしてきた。つまり元貞は神職
   浄祓いたし帰、近日奉納之事、右願主之内ニ此
   節米買〆疑かかり、五人斗被捕候よしニ付、右
      米の買占めの疑いで5人が捕まったが灯篭修繕の願主はその1人であり
   災厄免れ候様祈祷修しくれ候様と同人へ頼ニ付、午後
   社中恩神前ニて祈祷之事
      災難は逃れた(他の4人はどうか不明)ので感謝と祈願を本人から頼まれ、天満宮で祈祷をした。
        阪大滋岡家文書 No161
この燈篭を正門まで探しにいったのですが、そこにあったのは相撲取りが世話人の燈篭でした。

慶應1年(1865)(6月)十六日の項
   天満宮と新撰組のかかわりを示す文書で、下記「おまけ3」にまとめました。


慶應二年(1866)六月の項
   口上覚
   来ル二十五日當社祭禮ニ付、例年神輿難波橋北詰波止場ヨリ乗舩ニ付、戎嶋御
      天神祭の船渡御は毎年の行程で難波橋から戎島の御旅所までとなっていますが
   旅所江川面渡御御座候処、昨年より右神輿併神器神具類修覆仕罷在候
      昨年から神輿や神器の修理をしておりまだできていません。
   処、未取繕難調候ニ付、當年之所も舩陸共渡御相休ミ居祭ニ仕度、此段奉願候、以上
      今年も船渡御・陸渡御ともに中止したく、この段、願い奉り候
     慶應二年    天満神主
     寅六月       滋岡常陸介 印
             同 社家惣代
               渡邉阿波介
   御---
      奉行所あて
   A-21 公庁諸願届写  第十一番
   滋岡常陸介とは滋岡巧長のことです。
   幕末の騒動の中では何が起きるか不安なため、修理中とのいいわけで何とか祭を中止したいのが本音です。
   この頃の状況は
      この年、将軍家茂はまだ20歳、皇女和宮と結婚して4年。孝明天皇は義兄にあたる。
      元治元年(1864)8月2日 第1次長州征伐
      慶応2年(1866)5月22日 第2次長州征伐のため上洛・以後大阪城に滞在
      6月 7日        病気
      7月20日        家茂没
      9月 2日        幕府側の敗北で停戦
      12月5日        慶喜が将軍に
   事態を収拾するため将軍が京都までやってくるのも異例なら、大阪城に留まるのは異常事態。
   慶喜ひきいる幕府軍が長州藩に負けてしまい(勝った長州は停戦後も小倉藩を攻め領地を奪う)
   幕府には何の力もないことが判ってしまった。
   家康以来の将軍滞在中の大阪で例年通りの天神祭を開催できるはずもなく
   表向きは神輿修繕中ということにするのは奉行所も納得していたはず。
   祭りの中止という問題は、天満宮だけで決められるわけもなく、氏子・奉行所さらには朝廷までの根回し了解
   がなければなりません。それができるのは公家飛鳥井家からの養子である神主巧長だったのです。

慶應二年(1866)九月十一日の項
   口上覚
   一。例年當社来ル二十五日流鏑馬神事
     相勤候処、當年者御穏便中ニ御座候間、
     右相止申候、此段御届奉申上候、以上
      天神祭に引き続いて流鏑馬神事も中止されます。
     慶應二年    天満宮神主
     寅九月十一日    滋岡常陸介 印
             同 社家惣代
               寺井出雲介
   御---

明治二年(1869)六月十四日の項
   口上覚
   一。来ル二十五日當社祭礼ニ付御旅所へ神輿渡御御座候処、
     右神輿と神器神具類修覆仕罷在、未取繕難調
     且内外無余儀差支之廉御座候ニ付、当年之処も船
      実はこの年まで天神祭は中止されています。面倒なのであからさまに同じ理由にしています。
     陸共渡御相休居祭ニ仕度、此段奉願候、以上
     明治二年    天満宮神主
     巳六月十四日    滋岡常陸介
               病気ニ付代
               社家
               寺井出雲介
             同社家惣代
               大町衛守
   大阪府
     御裁判所

明治三年(1870)六月十四日の項
   口上覚
   一。来ル二十五日當社祭礼之儀去ル丑年已来
     旅所へ神輿渡御無之候ニ付、当年之処是非
     共執行仕度段氏地夫々へ申談候処、衆議之上
     別紙之通申答へ候ニ付、明未年にハ神輿と
     神器類修復相調、其外船具も全備
     いたし、精々賑々敷執行仕度心得ニ罷在候間
     何卒当年之処者船陸共渡御相休、居祭ニ
      来年は開催するから今年もカンベンという意味
     仕度此段奉願候御聞済被成下候ハバ難有奉存候、以上
     明治三午六月廿四日    天---
                  滋岡---
                  同社---
                  渡邉信
     大坂府
     御裁判所     掛り 寺西幾四郎
      裁判所に届けるというのはヘンな話ですが、当時の裁判所の機能は現在と違っていたのでしょう。

明治四年(1871)六月の項
     早朝挨拶 安敬 従長見習出勤
     御渡御無滞相済、供奉 巧長・従長・種清・助信・安敬
     神主滋岡巧長と孫の従長の名前があるのですが子の長養の名はありません。


明治五年(1873)申十一月廿二日の項
     明治五年申十一月廿二日
     拝命        天満社祠官
               滋岡功長    ここから滋岡功長は神主ではなく祠官と呼ばれる
     同日
     拝命        同 祠掌
               渡邉迪吉
     明治六年酉四月十七日
     拝命        天満社祠官
     教導職十三級試補  滋岡功長
     明治六年酉一月十三日
     拝命        東成郡第三区中野村
               皇太御神社祠官
               寺井種清

その後、祠官と祠掌の順序が逆転し、祠掌が先に並ぶようになります。
ついには、明治20年7月20日の文書を最後に滋岡功長祠官は出てこなくなります。
残念ながら祠官交代については文書が見つかりません。
祠官は功長の孫の従長が跡を継ぎ、従長が大正4年(1915)に亡くなって、寺井種臣が継ぐことになります。

つまり、滋岡家は明治末まで天満宮の神主で、寺井・渡邉・大道・大町は社家惣代だったわけです。
    ただし滋岡家よりも寺井家のほうが実は古くから続いているのですが。
ここで最初の説明を繰り返すと
    社家とは、日本の身分のひとつ。代々特定神社の神職を世襲してきた家(氏族)のことである。
職業ではなく身分であるのがポイントです。
実は、明治4年の布告で「神社の儀は国家の宗儀にて一人一家の私有にすべきに非ざるは勿論のことに候」
という国家神道の考えの下、全ての神社は体制化され、「大小の神官社家に至るまで精選補任いたすべく」
神官・社家の叙爵の廃止、戸籍の編成が行われることになった。つまり一般人にされてしまったわけです。
このあたりの研究は明治初年の神社改正問題に詳しいです。
体制化・一般人化されることが、神主・社家の衰退に繋がったと私は見ます。


明治十八年(1885)六月三十日の項
   出水被害者救助御願
   今般攝河両国水害遭難者へ左之金額          明治18年の淀川大水害のことです
   寄贈致シ度候条、此段御聞届相成度候也
    一、金 拾貳圓  北區天満神社有志中
    右内訳
    一、貳圓    北區此花町弐丁目五十八番地  滋岡巧長
    一、壱圓廿銭  仝區仝町四十四番地      寺井種清
    一、壱圓廿銭  仝區仝町四十一番地      大町安敬
    一、壱圓廿銭  仝區仝町五十八番地      滋岡従長  従長と同じ住所
    一、壱圓廿銭  仝區仝町三十三番地      渡邉助信
    一、 七拾銭  仝區仝町四十七番地      大道久之
    一、 七拾銭  仝區仝町四十五番地      渡邉清太郎 助信とは住所が違う
    一、 五拾銭  仝區仝町五十一番地      福田かじ  この人物が何者か不明です
    一、 三拾銭  仝區仝町仝番地        寺井種清
                             妻ツル
    一、 弐拾銭  仝断             仝人男
                             泰次郎
       ・・・中略・・・
    右之通御座候也
                  右総代
                  天満神社祠掌
    明治十八年六月三十日    寺井種清
      前書出願ニ付奥印候也
                戸長 坪井善兵衛
    大阪府北區長鹿嶋弥兵衛殿
社家が固まって住んでいたことがこの文書からわかります。
大水害の真っ只中なのになぜ救援できたのか? それは「おまけ7」にて。


--------------------------------------------- A ---------------------------------------------------------
では2番目の資料にはどう書かれているでしょうか。
ここでようやく寺井家の人物がすこし判ってきました。
天満宮社家には寺井のほかに 渡辺・東渡辺・大町・大道・東大道・小谷・沢田 があったことも。
この名前が南濱墓地の墓石に出てくるのです。
これらの社家の系図は「おまけ8」で。

--------------------------------------------- B ---------------------------------------------------------
ここでは社家の話はなく、連歌師としての滋岡長松という名前がでてきただけです。
長松が文化7年・文政元年に詠んだ記録があるので、少なくとも年代は限定できそうです。
南濱には「滋岡兼松」の墓があり、何か関係があるかもネ

「天満宮 社家」 で検索すると
   C研究論文  近世大坂天満宮の境内商人と西側茶屋仲間
--------------------------------------------- C ---------------------------------------------------------
社家として、小谷・澤田・大町・渡辺(西)・渡辺(東)・大道 の名前があり
Aにあった東大道は見えません。
さらにこんな図がありました。
弘化3年(1846)の境内並社地惣絵図を清書したものです。
右上に社家丁(町)とあり、寺井・小谷・澤田・大町
                西渡・東渡・大道 と並んでいます。
東渡辺は東側にあったから、という単純な理由からではないでしょうか。
神主屋敷はこことは別に右下にあります。公邸・私邸の違いかもしれません。
地図の池は現存します。天満繁盛亭の北側にある星合池で、側には茶店があります。




おまけ1
天満宮に行ってみました。お参りには来るのですが、調査は初めて。
いろいろな方がHPで書いているので、私は神主・社家にかかわるモノを・・・
まずは、現在の地図に弘化3年地図での天満宮の範囲を示しました。

   @ 滋岡長祇の名前のある燈籠
        享保十三年戊申九月廿五日(1728)
        願主 ???????
            ???????
        執次 神主●●太夫滋岡中務少輔菅原長祇
           この「執次」は願主を神様に取り次ぐという意味でしょう。
   A 大町・小谷の名前ある燈籠
        弘化二年乙巳三月(1845)再建
        執次             神主でなくても取次できたのです(当然の役得も)
          大町薩摩介        大町16代目義之と思われます
          小谷能登介        小谷10代目守典と思われます
             佐々原宣●敬書
   B 大町ビル(大町家と関係があるのでしょうか?)
   C 滋岡中務少輔の名前がある燈籠
        享保十八年癸丑年正月吉日(1733)
        防列   宮竹三郎左衛門
              三原屋新兵衛
              磯部忠右衛門
        取次神主 滋岡中務少輔    @と同じ長祇です
   D小説家川端康成の生地を示す碑が天満宮の前の料亭玄関にあります。
   地図には示しませんが、天満宮裏には現在も寺井・小谷の表札の家が見えます。


おまけ2 天満宮社中の墓 これが本題だったのですが

太枠内の墓が天満宮社中(神主・社家)のものです。墓地全体の500基のうち4割約210基が社中の墓ではないでしょうか。
とんでもない割合です。
数年前まで墓地北側にあった無縁塚には多分500基以上あったので、全体1000基の2割程度だったのです。
江戸時代から明治になって神主・社家が天満宮から離れ、南濱墓地の膨大な墓が無縁となっても
墓守は延々と天満宮の墓を守ってきたのです。それだけ大切にしてきた訳です。
大正時代になって墓地は大阪市へ移管されます。受難の始まりです。

「大阪天満宮史の研究」に神主・社家の家系が細かく記されています。
    本名・戒名・生没年・叙階・その他
    その他の情報として養子先・養子元・初出仕・引退などがあります。
各家ごとに一まとめすると(祝部・市夫など聞いたことのない名称もありますが)
    滋岡家 (菅原氏) 神主
    寺井家 (菅原氏) 祝部(大正から宮司)
    渡辺家 (菅原氏) 祝部
    東渡辺家(菅原氏) 禰宜(分家)
    大町家 (源氏)  禰宜
    大道家 (大中臣氏) 禰宜(寛政12年に断絶)
    東大道家(大中臣氏) 禰宜(分家)
    小谷家 (中原氏) 巫女・市夫
    澤田家 (中原氏) 市夫

お気づきでしょうが、神主・社家の墓がこれだけ多数あるのに、なぜ無縁となっているのか?
文献では、南濱以外に、寺町の寒山寺・宝珠院や長柄墓地にも埋葬されていますが、圧倒的に南濱が多いのです。
                  (寒山寺は昭和44年に道路建設のため大阪北部の箕面市に移転しました。)
                  (長柄墓地も半分は整理・撤去されています。)
南濱以外の墓も同様に無縁となっているのかどうか、確認していません。
代々の神主滋岡・明治以降現在までの神主寺井・社家だった渡邉・大道・大町・澤田などがすべて絶えたわけではありません。
まさか、先祖の墓がどこにあったか知らない、などということはないでしょう。
無縁にするにはそれだけの積極的理由があるハズ。
その理由は、墓が幕末までに限られていることに関係がありそうです。
後継問題・経済問題などではありません。社中すべてが一斉にそうなるとは考えられないからです。
   @明治になって士農工商の身分と一緒に神官の身分もなくなった
          代々の神官として墓地が確保されていたが、そうでなくなったか?
   A大正になって南濱墓地の管理が手にあまり豊崎町から大阪市の管理に移された
          墓地整理のため大阪市から移転を迫られたか?
   B南濱は確かに手狭で他の墓地を確保するのは当然ですが、南濱を無縁にする理由にはなりません。
神主・社家の墓の移転を求められたのではないでしょうか。
ですが、それが南濱の墓を無縁する理由とは思えないのです。
神主・社家などの神職家にとって墓とは何なのか、公共墓地に埋める場合と寺に埋める場合とで何が違うのか?
一般的に、埋葬儀式には神職は立ち会わないそうです。穢れだというのです。
私たち町衆とは違う感覚を持っているのかも。


おまけ3 新撰組
幕末慶應元年の天満宮文書に新撰組とのかかわりを示すものがありました。
新撰組は京都だけかと思っていたのですが、大阪に出かけることもあったのです。
   慶應1年(1865)(6月)十六晴時々陰、入夜急雨
   堂島・福島為参                              堂島・福島の誰かが参詣にきたと
   詣ニ付挨拶申候、今朝新撰組旅宿下寺町大徳寺へ向       (大徳寺は現在では宗慶寺と名が変わっている)
   吉儀向候ニ付、先座摩為聞合大人も御出之処            吉儀とは社家の渡邉吉儀
                                           座摩とは座摩神社のこと
                                           大人とは神主の滋岡巧長
                                           大徳寺に行く前に座摩神社に先に行って会談内容を問いただした。

   座摩者昨日即刻向候処、今度御神事渡御
   無之者如何之事候哉、大樹公御着城中諸藩入込候ニ付      大樹公とは徳川将軍のことですが
                                           この時に将軍は家茂(慶喜の前)
                                           (家茂は慶応2年に大阪城で死ぬ)

   と申義ニ候者々、乍不及當方ども警固も可致哉之由也、     将軍・諸藩が大阪に乗り込むので
                                           及ばず乍ら当方新撰組も祭り警護をと申出てきたが
   座摩返答ニ付、最早執奏ども思召在之可見合と申義        座摩神社は、京の執奏も祭りを見合すべしと思っている上
   ニ付、相見合候事又日限も無之義故、當年者渡御之処ハ      期限も限られているので今年の祭りは見合わせたい、と新撰組に返答したと。
   可見合由答候処、其義なら者御尤之義ニ付、可相見合様
   と申事之由、其心得ニ而吉儀も行向候処、新撰組         そのことを理解した上で吉儀は新撰組に向かった。
   三木と申仁面会ニ而、當年御祭礼渡御                新撰組9番隊長三木三郎のことか
   無之者如何と申事ニ付吉儀答候者、過日奉行所へ届候      今年は祭礼渡御なしと奉行所に届け出済み
   届書之写持参ニ而、夫を出し、ケ様之義ニ而神輿及神      その写しを三木に見せて
   器等修補祭日迄ニ出来不申候ニ付、當年之処者渡御       祭りの準備はもう間に合わないと
   者相見合、居祭ニ仕候義ニ御座候、尤京都執奏家
   又當御奉行所へも御届申上、最早御聞届ニも相成候義ニ
   付、只今ども渡御例年之通ニ仕候と申義ニも難致、日限も
   無之義ニ而候間、當年者相見合申候よし答候処、三木云
   左様之義ニ候者尤之御儀ニ付、御見合可然候、我等存      それは尤もなことで仕方ない
   候ニ者、大樹公御在城諸藩入込等ニ而混雑故御見合ニ      大阪が混雑すれば警護に差し支える
   相成義ニ候者々乍不及御守衛申候間、例年どもも一入賑敷
   御修行有之候方可然と存候間、一應御談し合申候よし申
   ニ付、吉儀云、御深切之段者深辱奉存候へとも、前件之次
   第故當年者渡御之處ハ相見合申候儀、猶又社頭義とも乍
   此上よろしく相頼よし伸謝かへる、惣而之應接より送迎
   等甚丁亭ニ而存外之事之よし帰告、猶委細者吉儀記中ニ      三木との面談内容は吉儀報告の通り
   あり、名札者天満宮一社惣代渡辺阿波介ニ而差出候よし、     惣代に提出したと
   近日(ママ)禁闕御守衛として一同上京可有之由也、右新撰組   新撰組は近日禁裏の守衛に行く
   者俗ニ壬府(生)浪士と云組歟、當時官武とも表(カ)立候外種々之
   事簡係して周旋なり、然し委しき事者不知、
   猶可尋之事、入夜集會、伶人家へ附楽之事引合打切、諸
   雑費込金千五百匹ニ應對いたし候積ニ談議決ス、右者乙      この金は祭りの費用で、新撰組へのものではない
   丑御神(誕カ)故、廿五日一寸附楽之事世話方どもも勤候故也
        [阪大滋岡家文書No161]

どうも、こういうことかと推測します。
   幕末、将軍家茂いえもちの威光ははるか京都・大阪では薄れ、復権をはかる孝明天皇と蠢く公家衆
   主導権を求めて京に集まる地方武士たち。
   ついに家茂は京都・大阪にまで来るハメになります。それだけ権威は失墜していたわけです。
   新撰組は何を血迷ったか、将軍の言うことも聞かず独自の動きをし、大阪城の家茂の警護をしてたかと思えば
   禁裏守護と称して人質確保に乗り出し、京都町衆の反発を買います。
   家茂は翌慶応2年7月に大阪城で亡くなり、慶喜よしのぶが15代将軍につきます。あとはご存知のとおり。
   朝廷も幕府も西国大名もオタオタして京都を中心に蠢いていたこの頃、大阪商人だけでなく神官までもが
   上下左右の顔色をうかがっていたことがわかります。
   読み間違えば、佐野商人のように消えてなくなるのです。
               とはいえ
               結局、神社は明治政府の下に序列化されて組み込まれ
               代々続いてきた神主・社家もその流れに逆らえず
               身分から職業になったことでサラリーマン化するのです。

おまけ4 大塩の乱
幕末の大阪を調べると必ずといっていいほど大塩の名前が出てきます。
大塩の研究家相蘇一弘の論文「大塩の乱と大阪天満宮」を読んでみては?
大火で天満宮がほぼ焼失し、神主や社家が奔走する様子を当時の日記から読み取っています。


おまけ5 天満宮と坐磨神社
ネット調査をしている中で「大阪天満宮史の研究」思文閣出版1991 という古本を見付け、さっそくポチッとしました。
その中に上記坐磨神社との争いが紹介されていました。

   江戸後期の大阪市内神社の氏地区分図です。
   天満宮は上部の@、坐磨神社は中央のB

   それを現在のGoogleMAPに貼り付けてみました。

寺は檀家からの寄進、神社は氏子からの寄進、が経済収入の基盤です。
その氏子全部を自分のものだと誰かが言い出せばどうなるか、騒動が始まります。
坐磨神社は中世までは現在の八軒家付近にあり
   元来西成郡之惣社にして、南渡辺へ替地太閤様より被仰付、社領二千八百石余有之候処
   元和之乱大阪城に神主渡辺氏入城いたし候に付、神君様より社料等御取上げ
   社地斗御免被成、御堂西之方渡辺町椹木町両丁に社地被下候事
と領地を取り上げられ2度にわたって移転させられました。家康から命じられた現在の場所は当時はまだ埋立造成途中の地であり
領地もなければ氏子もいない大変な事態になっていたわけです。
その後大坂市内が発展すると、他の神社例えば御霊宮は新町(廓)や靭(海産物)で潤うわけです。
そこで坐磨神社は起死回生の手を打ちます。「全部取」
   摂州大坂坐磨宮廿五年已前大火之節、境内不残焼失、本社再建候へとも、神輿三社之内二社出来
   相残一社祭器神具内陣社人之住居弥今不致出来、此上自力ニ難叶候ニ付、摂州西成郡ハ坐磨宮同郡産地之儀故
   他所とは違、志之輩も可有之候間、右建立為助力、西成郡当五月より来ル巳正月迄十ケ月之間
   相対勧化之儀於江戸願上、御免被成候ニ付、西成郡御料私領寺社在町へ為勧化、坐磨宮社務渡辺右近可相廻候間
   志之輩は寄進可致候、右之段寺社奉行まで申来候間、可令承知者也
という触書を江戸幕府から勝ち取るのです。延享5年5月2日(1748)江戸中期
このときの天満宮神主は滋岡辰長、社家惣代は寺井種氏
文面の表面だけなら、大火で焼失した社殿などの復興が大分進んだがまだ資金不足なので、10ヶ月だけ西成郡での氏子勧誘を認める、と。
しかし全部取りの意図が明らかで、天満宮は大坂町奉行所に反論の口上書を提出する。
   当社天満宮は数百年来御鎮座在之、則所之名も天満と号し、此土地之氏神ニテ御座候、しかるに今度
   坐磨神社勧化ニ付、西成郡は坐磨之産地也との儀勧化帳に相見申候、同郡之事故、後々ニ至ケ様之品は
   万一氏子之輩心得違も可有御座哉と難斗奉存候ニ付、天満郷其外在町当社氏地之分、御役所迄申上置度奉存候
   別紙ニ略図目録を相認奉差上之候、此段兼て被為聞召置被下候様仕度奉存、乍恐書付を以申上候、已上
     延享五戊辰年六月二日          天満宮神主 滋岡右京大夫
   御奉行所
ところが、奉行所からは色よい返事はなく、辰長は宗家高辻あるいは実家桜井に訴えるべく京大坂を行き来している。
種氏は神主不在の間に社家一同と協議し、神主が江戸へ行って寺社奉行(大坂町奉行よりエライ)に届ける準備をし
たが、その後の一件の記録はなく、沙汰止みとなったようです。
町奉行所からの新たな申し渡しもないので、辰長の根回しが効果的だったのでしょう。
 (そのこと以外に、神主と社家の関係が意外に同格に近いことを感じました。明治になってからの寺井の活動を予見させます)

坐磨神社との揉め事は50年後の寛政八年(1796)にも起こりますが、長くなるので省略。

市街地にあり領地のない神社にとっては氏子は大事な収入源。モメて当然です。
たまたま天満宮の古文書だけが戦災を生き残ったのですが、他の神社はすべて焼失しました。

中世から持っていた寺領・社領が秀吉・家康によって取り上げられたのが全ての原因であったのでしょう。
逆に言うと、大坂の寺・神社は町人と密接な関係を持たなければ、生き残っていけなかったのです。



おまけ6 天満宮と吉田神社
京都御所と東山の間に小さな神社、吉田神社があります。
観光コースではないのでヒッソリしていますが、オモシロイ神社ではあります。
Wikiでの説明は
   貞観元年(859年)、藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したのに始まる。
   後に、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。『延喜式神名帳』への記載はない
  (式外社)が、永延元年(987年)より朝廷の公祭に預かるようになり、正暦2年(991年)には二十二社の
   前身である十九社奉幣に加列された。
   鎌倉時代以降は、卜部氏(後の吉田家)が神職を相伝するようになった。室町時代末期の文明年間(1469-1487)には
   吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創始し、その拠点として文明16年(1484年)、境内に末社・斎場所大元宮を建立した。
   近世初めには吉田兼見が、かつて律令制時代の神祇官に祀られていた八神殿(現在はない)を境内の斎場に移し
   これを神祇官代とした。寛永5年(1665年)、江戸幕府が発布した諸社禰宜神主法度により、吉田家は全国の
   神社の神職の任免権(神道裁許状)などを与えられ、明治になるまで神道界に大きな権威を持っていた。
「吉田神道の四百年 神と葵の近世史」講談社という本があります。書評にはこうあります
   まさに吉田神道を主軸に据えた神道各派の「仁義なき戦い」である。
   きっかけは、応仁の乱にともなう社会の混乱を利して、日本中の神を統率する「神使いの覇者」を目指した吉田兼倶
   の野望にあった。この人、社会と人心の荒廃に嫌気のさした伊勢のご神体が「神宮を抜け出して吉田神社の
   斎場所に飛び移ってきた」と称し、伊勢の権威を奪い取ってしまう。また神道界のトップ神祇伯・白川家と同等の
   肩書を創設し、神位・神職の位階を授与する権限を掌握する。
   仕上げに、吉田神道は死んだ家康を神に格上げする寸前まで行くのだが、当時ローカルな神道だった「山王一実神道」
   での祭祀を推す天海僧正に阻まれる。
   正一位の位階を分霊とセットで供与する伏見稲荷神社の新ビジネスとの対立や、白川家との覇権争いといった、
   吉田神道をめぐる俗っぽい争いの中で徳川の威光が地に落ち、「天皇」が再浮上するという経緯を解明する試みも斬新だ。
その吉田神社が天満宮と関わってくるのです。
   江戸初期、政治・経済の復興とともに、法律の整備も進みました。
   寛文五年七月十一日(1665)諸社禰宜神主法度と諸宗寺院法度の2つが発布されました。
   これは神社と寺を幕府の体制に組み込むものですが、その制定には吉田神社が関わっています。
   神社法度の原文は見つけていないので、現代文で
       1.社家は神祇道を学び神体を崇敬し、神事祭礼を勤めること
       2.社家が位階を朝廷から受ける場合、執奏の公家がすでに決まっている場合はこれまでどおりとする
       3.無位の社人は白張を着る事。吉田家の許状があれば白張以外の装束を着けることができる
       4.神領の売買・質入れは行ってはならない
       5.神社は小破のときに修理を加えて維持する
   これには全国の神社が怒り狂うのは当然で、さらに執奏としての取次ぎ収入があった公家も同様
   寛文九年(1666)には従一位鷹司房輔が吉田家とモメます。結局吉田家の勝利。
   他にもモメたようで、京都所司代が2条をゆるめる覚書を出します。
       社家位階のことは前々から特定の取次ぎ公家がいる場合はもちろん、
       そのような公家がいない場合でも、必ずしも吉田家を通さなくてよい。
   延宝6年4月22日(1678)滋岡至長が亡くなり、子の長祇が神主を継ぎ、位階は高辻家の伝奏により
   従五位下をもらった。 このことを天満宮は吉田家に報告している。
   さらに貞享3年(1686)には長祇は従五位上をもらい、他の社家4人も位階を高辻に伝奏してもらっている。
   ただし、吉田家への事前承諾も事後報告もなかった。
   吉田家はついに大坂町奉行に訴えを起します。
       元禄七年三月二十一日(1694) 吉田家家職鈴鹿石見守が天満宮神主榊原長祇(滋岡)あて文書で
       大坂天満宮の神職は「代々吉田家支配」であったのに、長祇の代から先規に背いた。
       それで大坂町奉行へ訴えたのです。
   この訴えは全くの捏造かというとそうでもなく、滋岡家の先代の神原家のころから吉田家の指導を仰いでいたのです。
   ただ位階の執奏は吉田家に頼んではいなかった点がミソ。
   長祇は同年五月十一日に口上書を奉行所に出します。
       寛文五年七月十一日従御公儀之御条目之通、社家位階昇進伝奏有之方は、弥可為其通之旨御座候ニ付
       天満宮は菅家之奏達従古来之例ニ御座候、猶当社も尤其通ニ御座候
   法度の2条をタテに、全国の天満宮は宗家高辻家(高辻は菅原氏の嫡家)を通じて朝廷から位階を貰っていると。
   長祇の父至長は東坊城家の二男で、高辻豊長の猶子となり神主として万治元年(法度の発布7年前)に下向した。
   こうなると、大坂町奉行は間に挟まってどうすることもできず、吉田家は反論してきます。
   八月五日、徳大寺右大将と庭田大納言あてに口上書を出し
       先年於関東被仰付候趣、伝奏無之社は吉田家より執奏申候様ニ被仰出、於高辻家伝奏之沙汰も不承候、
       ケ様ニ由緒ニ任セ取次之様ニ成行申候ハバ、第一御条目之趣相違申候
   由緒にまかせて執奏すれば法度の趣旨と違ってしまうと、無茶苦茶な横槍を入れます。
   徳大寺従一位尹重,庭田大納言重条は高辻豊長より位階は上(豊長は正二位権大納言)
   神祇伯の白川家と吉田家は争う仲なので、筋を通せず権威に頼ったのでしょうか?
   途中経過は明らかにされていませんが、結局、十二月七日に町奉行あて口上書が出されています。
       去酉ノ八月廿九日御断申上候通、吉田殿より相論之儀、去ル廿八日両伝奏を以被仰出、
       先規弥高辻家より当社之儀、可有執奏旨ニ御座候ニ付、為御礼上京仕候、為御断致伺公候、已上
   いろいろモメたあげくに、享保3年11月(1718) 武家伝奏(吉田家より上)から
       吉田家が示す各種の証文には、天下諸社家の執奏権を認めるとだけあって
       必ずしも 吉田家のみにこの権利を認めるとは書かれていない。
       法度にもそのような文言はない。
       従って、延宝2年の所司代覚書の趣旨にまかせ、天満宮神主家の執奏権を高辻家に認める。

   こうして以後も高辻家が天満宮の執奏をすることで決着したのです。
             なぜ高辻家が執奏にこだわったか?
             もちろん、 なのです。
             メンツもさることながら、貧乏公家には大事な収入ですから。

   とはいえ、これで吉田家に鷹司・白川・高辻が取って代わったわけではありません。
   明治時代には神祇庁が「ゼンブ取り」するのですから。


おまけ7 明治18年 淀川大水害
明治18年6月から7月にかけての大水害について洪水の範囲を示す地図があります。

   摂河両国大洪水細見図 岐阜県図書館より
   水色部分が洪水範囲で、大阪市内・河内のほぼ全域ですが
   大阪市内では、上町台地・船場・島之内は免れており、よく見ると天満宮付近もそうです。
   だから天満宮は洪水のさなかでも救援を始めることができたのです。

国土交通省淀川河川事務所に詳しい説明があります。
   洪水による被害
   さきの低気圧による洪水では、茨田郡全部(北河内郡)と讃良郡7カ村、東成郡27カ村(城東区・旭区・都島区)
   に濁水が溢れ、計113カ町村、戸数約9,900、反別約4,452.6haが水中に没しました。
   さらに再び襲った暴風雨により被害は拡大、大阪市街の浸水町数は東区28、南区46、西区174、北区92の各町で
   計340町におよび、大阪城〜天王寺間の一部高台地域を除くほとんどの低地部が水害を受け
   被災人口は276,049人にも達しました。また、808橋といわれた大阪の橋は30余橋が次々に落ち、橋によって
   通行の要衝を連絡していた市内の交通は完全にマヒ、市民生活は困難を極めました。

   この河川事務所HPには水害の写真があるのですが・・・
   指示通りクリックすると、何と
   sampleってどういうことヨ????
      「これは見本なので本当に見たいなら金を払え」 なのか?
      「誰かから譲ってもらい、表示の制約を課された」なのか?
      「写真の権利関係を明らかにする手間を省いた」 なのか?
もちろん、SAMPLEのない写真を見つけました。ココ
天満橋
   この頃はまだ木橋だったのです。後方の煙突は造幣局です。

安治川橋
   安治川橋は写真中央から左上へ伸びる欄干が見えています。当時から既に鉄橋だったので流されず
   上流から流されてきたいろいろな物(橋も)がそこに引っ掛かり危険なので、安治川橋は爆破撤去されたそうです。


おまけ8 天満宮社家の系図
「大阪天満宮史の研究」の巻末に戦前までの神主・社家の家系が示されています。
嫡子系図だけではなく、生没年月日・幼名・戒名・位階・養子・嫁先・墓地など詳細を極めており
今回の墓石調査では最後の仕上げに使いました。
ここではその中の系図だけを紹介します。