大阪をホジクル
23.辰巳屋騒動

北堀江の阿弥陀池にある地蔵前にある灯篭をきっかけに、話題はどんどんズレてゆき
灯篭に彫られた「唐金」の文字を調べて、寄進した泉州泉佐野の廻船問屋唐金屋を紹介しました。
その唐金屋を調べているうちに、辰巳屋という名前が出てきたのです。
元文5年(1740)に起こった「辰巳屋騒動」という幕府をゆるがす疑獄事件なのですが、1冊の実録小説「銀の笄かんざし」が当時出版されたり
大岡越前の公務日記に詳しく出てきたり、疑獄事件としては唯一の詳細記録がある事件です。
                           (有名な事件では淀屋騒動もありますが、詳細不明)
   明治維新で幕府はそれまでの行財政・司法などの膨大な書類を明治政府に引き渡します。
   ところが、江戸(東京)に残された資料の多くは関東大震災と第2次大戦の爆撃により失われました。
   その中で偶然にも江戸町奉行所の書類が残され、現在は国会図書館に「旧幕府引継書」として管理されています。
   一部はデジタル化されてネットから見ることができます。
さらに2003年に小説「辰巳屋疑獄」が筑摩書房から出版されています。
なぜ、この騒動が唐金屋と繋がるのか、そこが意外に面白いのですマッタク興味ない人のほうが多いでしょう
辰巳屋騒動を研究した早稲田大学論文「辰巳屋一件の虚像と実像」(内山美樹子)に比較考証があります。
関係元資料は次の6つ
    「町人考見録 追加
    「翁草
    「大坂町奉行所触書」  大阪市史に抜粋あり
    「大岡越前守忠相日記」 この名前が出てくるとオモシロそうでしょ?
    「大阪市中風聞録」
    「銀の笄かんざし

理解の手助けに
   当時、大坂の奉行所は東西に分かれていました。(のちの大塩平八郎は東町奉行所与力)
   一方、江戸の奉行所は南北に別れていました。(忠相は当時は南町奉行→寺社奉行に出世していた)
   ちなみに、京都も東西奉行所に分かれています。

「大阪市史」第1巻(大正2)には事件の概要があります。
   南組吉野家町に富商辰巳屋久左衛門なる者あり、家産二百万両手代
    当時の大坂は三郷(天満・北・南)に区分され、南の吉野屋町は四ツ橋の南西角にあたる
   四百六十人を有す。先代久左衛門の弟木津屋吉兵衛辰巳屋の財産を
    辰巳屋も木津屋も炭屋、両替まで行う大店
   横領せんと欲し強ひて養子当代久左衛門の後見となれり。
   久左衛門及手代新六等之に服せず起って抗訴を試みしに吉兵衛豫めあらかじめ
   東町奉行稲垣種信の用人馬場源四郎を通じて、厚く種信に賄ふ所ありしかば
   彼等の訴状は一議に及ばず却下せられ、剰へあまつさへ新六は
   牢獄に投ぜられたり。是に於て同志の手代江戸に之きてゆきて評定所門前の
   訴状箱に願書を投じ、関係者一同の江戸召喚となり、数回の吟味を経て種信・源四郎・吉兵衛の
   罪状悉くことごとく露顕し、元文5年3月19日、幕府種信の職を奪ひ
   持高を半減し、且つ閉門を命じ、源四郎を死罪に、吉兵衛を遠島(9月減刑して江戸十里四方及五畿内構となる)
   に処し、其他江戸大阪の士人連座して罪を被る者多く、松浦信正(河内守)新に東町奉行に任じ
   又西町奉行佐々成意(美濃守元文3年2月松平●●に代わる)は吉兵衛与党の言を容れて
   手代新六等の訴状を却下したるにより、一時逼塞ひっそくを命ぜられたり。
   数行にまとめると
      豪商辰巳屋の乗っ取りをはかった弟を店の手代が大坂町奉行所に訴えたが
      賄賂をもらっていたので奉行所は握りつぶし、逆に手代を投獄した。
      手代たちはついに江戸に行き評定所に訴え、事態が明るみに出て
      弟たちは江戸に召喚され、よせばいいのに手代が賄賂工作を大々的に行い
      評定所(忠相もその一員)は当初は単なる民事訴訟+αと考えていたのが
      江戸も含んだ一大疑獄事件に発展した。


辰巳屋とは?
   辰巳屋は四ツ橋の南西、吉野家町にありました。明治になって南堀江に移転したそうです。(薬商木津屋のHPより
   後で示す1830年の地図ではすでに南堀江に移っています。

木津屋とは?
   同名の店がいくつかありますが、騒動の発端となった木津屋は
       長堀鰻谷にあった銅吹所泉屋(住友の前身)の東隣で薬・炭を扱う店でした。
   南堀江にある現在の薬商木津屋はこの木津屋の分家だそうです。


   時代は違いますが明治5年の地図で辰巳屋(緑)と木津屋(赤)の場所を示します。(詳しい場所は不明)
   中央に四ツ橋があり、そこを東西に流れるのが長堀川、南北に流れるのは西横堀川。
   長堀と道頓堀の間が掘江で、唐金屋は堀江一帯に多数の倉を持っていました。


おまけ 翁草 おまけと言いながら実はこれが本文
   翁草巻六十三  国会図書館デジタルコレクションから
   大阪貸殖家辰巳屋久左衛門噪動の事
   摂大阪西横堀に辰巳屋と云ふ近世の豪家有り、元来は僅の炭問屋なりしが、先久左衛門
   同商売木津屋吉兵衛四男先年辰巳屋へ養子に来、家相続して後、剃髪して休貞と号す、享保十六年亥六月
   二日死す、此の休貞天性質朴にて、家を能く治め、運に乗じて渡世無怠慢、日を追て富有の名
   を得、倅久左衛門代、享保十七壬子年関西虫入飢饉の節も、公儀より飢人へ御救米を賜ひ、弁
   に其所々々の富有の者へ一分の救を仰付られ、大阪にては大和屋三郎左衛門、平野屋五兵
   衛、泉屋吉衛門、辰巳屋久左衛門抔へ御下知有之に仍て、相應に銘々救を差出し、且又諸
   大名衆へ公儀より拝借米を仰付られ、尤米渡返納等之支配、此の四人相勤候故、諸国に名を
   発し、時めける処に、久左衛門重病を受て、元文四未年正月八日死す、没期に大和屋三郎左
   衛門を招て、跡の儀萬端頼置候由なれ共、聢と遺旨無りければ、古き手代共歎之、久左衛門養
   子未だ若年の事なれば、久左衛門弟木津屋吉兵衛親休貞の実家へ休貞二男を養子に遺木津屋を相続す辰巳屋の遺
   跡後見致させたき者ながら、吉兵衛事、日頃の行跡不宜、木津屋の身上も薄く成り、家も家質
   に差入程の体にて、自分が少々文才に慢じ、別屋敷に学校を建て、公儀へ達して志の書生な
   どを集め扶助し、上を不憚異体多き故に、加様の族を久左衛門死後に入込せ、 萬ず我慢に挙
   動せなば、亡家の基なりと潜かに計って、辰巳屋跡式吉兵衛取締申間敷の為遺書を調ける
   を手代に吉兵衛内応の者有ける故、吉兵衛大に怒て、辰巳屋重手代共を悉く追出し、自ら辰
   巳屋吉兵衛と名乗、中陰を勤め、忌明後華麗を儘して、芝居遊里抔に入込て、目覚敷所行をな
   して、公辺へも家相続の御礼を勤め、諸事大和屋三郎左衛門を頼み、表向相続ける所に、其後
   當久左衛門に、右古き手代共付添、吉兵衛を相手取、訴出に仍り、御穿議に成り、謀書の事尤も
   六ヶ敷、先久左衛門実女いわ名代として罷出候、當久左衛門実家唐金家より附来候手代新
   六と申者、牢舎被仰付、猶大和屋三郎左衛門へ公儀より下知有之、吉兵衛儀は隠居の格に相
   成り、當久左衛門致相続候様、内分の取計にて、先は表向相済と雖、中々万事辰巳屋方の取計
   には相成不申、兎角吉兵衛心儘に栄華を極め、驕の余り其身は洛に登りて堂上方の家人と
   成り、図書と改名し、カンセイの図子に大屋敷を求め、堂上方を招請し、帯刀打物を持せ、大阪
   往来致候処に、大阪御番所へ何の御届も不致、右の所行故、大和屋より路地へ人を差出し、内
   分にて是を差留、俄に元の町人と成て、大阪へ立戻候由、加様の類不可勝計、因茲京大阪の事
   を好む物師共、時を得て取入無用の金銀を費させ、将に辰巳屋浮沈の時節と見えければ、無
   斬や久左衛門娘いわは、若年ながら伯父の行跡を悲しみ、家の破滅と痛く歎て、是が為に煩
   ひ付て果ぬ、依之久左衛門妾腹に今一人女子有を、吉兵衛倅綱次郎に嬰んと披露し、久左衛
   門方貸付諸証文名前も綱次郎に改候所々多有之由、偖暇を出されたる手代共は、件の趣を
   悉く書調べて、東府へ下り、評定所の御箱に入る、是故に評定の上、台聞に達し、元久五年庚申
   正月五日、同二月上旬、両度に大阪表へ命令に依て、右懸り合の者共、悉く東武へ被召呼、就中
   町奉行稲垣淡路守用人馬場源四郎は、綱懸乗物にて与力両人同心四人付添、二月三日大阪
   発出、東武へ参着す、段々御穿儀の上、同四月左の通御仕置被仰渡、
        申 渡
      申正月九日入牢   大阪橘町二丁目 木津屋吉兵衛 三十八歳
      右吉兵衛儀、兄辰巳屋久左衛門死後、辰巳屋へ入込居候て、久左衛門同様に、可存旨、手代共へ
      申渡致後見の由届出候節、稲垣淡路守並に家来共へ過分の音者致候、其上淡路守家来馬場
      源四郎に便りて、公辺の事可承合為に、まいなゐ品々付物いたし、辰巳屋身上向を我儘に取
      計ひ、手代の内六人無体に暇を出し、當久左衛門儀は、自分の了簡を以て出訴致候日より、座
      敷牢へ入れ置、先久左衛門娘いわ義、実姪の事に候処、重病に懸居候を見捨、其身は為遊興上
      京致し、いわ死後辰巳屋を綱次郎に相続致させ可申為に、いわ妹ぢうと綱次郎、盃事被致、先
      久左衛門より所々貸付置候銀子百貫目以上の分は、當久左衛門と吉兵衛連名に証文仕替、
      或は貸増いたし、吉兵衛又は綱次郎名前に改させ、且亦手代平兵衛に辰巳屋の銀子を以て、
      家屋敷調くれ、其外夥多金銀自分の放埓に遣ひ捨て、諸道具買込み木津屋の商仕入家質
      借銀内払等に引取り、時節を見合せ、當久左衛門に非難を付け、実父方へ相返し、辰巳屋の家
      督可致押領と相巧候旨申し、重々不届至極に付遠島申付候、

         申二月十五日揚り屋入  大阪町奉行 稲垣淡路守用人 馬場源四郎
      右源四郎儀、木津屋吉兵衛と致心易同道茶屋等へ罷越、吉兵衛振舞にて遊興したし、吉兵衛
      辰巳屋へ引越致後見候儀、淡路守へ申達呉候様相願候処、久左衛門弟の事に候得者、尤の由
      及挨拶、彼是取持候て無滞相済候上、淡路守方へ差出候祝物品々、併家老用人共へ相贈候品、
      何も過分に候分に候間、樽一品は留置、其余は差返候様、淡路守申付候故、外役人共は肴代等指返候
      処、源四郎儀は、淡路守申付を不相用、其品々を不残留置、其上淡路守へ申聞、取成いたし、不目
      立様、品々贈物致させ、且又倅吉三郎へ金拵の小脇差一腰、吉兵衛より遣し候を致受納、其外
      自分湯治致候路金五拾両、吉兵衛へ無心を申、貰候儀共、奉行所に相勤ながら重々不届至極
      に付、松平左近将監殿御指図により死罪申付候、

         申三月十九日  大阪平右衛門町 具足屋次兵衛 五人組 近江屋十兵衛
                     同所山本町年寄              荒物屋七郎兵衛
      右の者儀五人組支配の内、具足屋次兵衛、奈良屋源右衛門儀、辰巳屋先久し左衛門方より、家質
      にて銀子借請居候処、久左衛門死後、借増いたし、吉兵衛並に綱次郎宛名前に証文を書替候
      儀、得と不遂吟味巧成証文に役判致候段不埒に付、過料五貫文宛申付候、
     江戸中期では 1両=4000文=4貫文=ソバ200杯

      覚
遠島入牢大阪橘町二丁目木津屋吉兵衛
死罪揚屋稲垣淡路守用人馬場源四郎
 入牢辰巳屋久左衛門手代與兵衛
平兵衛
  牢死庄右衛門
五十日戸〆預け重病に付不召出中之島大和屋惣左衛門
  同 三郎右衛門
急度叱 手代 作兵衛
  室守 喜兵衛
無講 手代 仁兵衛
  喜兵衛
忠兵衛
九右衛門
庄助
無講銀子は久左衛門方へ追々可相返候同所南新町大和如軒
於大阪五貫文宛過料 同所平右衛門町十兵衛
  山本町七郎兵衛
急度叱同所吉野家町年寄  喜右衛門
  月行事 市郎兵衛
太郎兵衛
 曽根崎村高渡壽八郎
無講 庄屋年寄
 辰巳屋親類大阪内両替町布屋卯之松
 同先久左衛門舅大阪内平野町森田藤衛門
 同親類同一丁目河内屋太郎右衛門
  同 同道修町一丁目紙屋吉右衛門
 當久左衛門実父泉州佐野唐金屋與茂作
  大阪吉野屋町辰巳屋久左衛門
久左衛門事構無く、家督の儀、彌相続致、元手代共呼戻し、家質名前等の儀、勝手次第改可申候、
 入牢木津屋吉兵衛手代惣助
  同亀井町橘屋久兵衛
此度の儀に付以後我儘不仕様可申付候辰巳屋久左衛門手代半兵衛
萬兵衛
喜兵衛
源兵衛
新六
惣兵衛
    町人・農民は入牢させられ、武士は扱いが少し良い揚屋に入れられる。(未決)
    死罪は牢屋内で首を切り、胴は刀の試し切り、財産は没収。
       獄門は死罪に同じだが、晒し首にされる。
       町中を引廻してから殺すこともある。
    遠島は財産没収も同時に課される。
    追放は居住を禁止されるだけで、旅行などで通過することは認められる。
    預けは入牢せずに公事宿(訴訟や公務のための宿)に預けることを指す。
       木津屋吉兵衛は入牢を避けるため画策し、かえって罪が重くなった。
    戸〆は扉を釘付けし出入禁止処分で、武士への閉門よりは緩い。
    急度叱きっとしかりは叱より重く、連帯保証人がいないと牢から出れない。
    過料 五貫文は罰金刑で軽いほう。


          申 渡     3月19日の判決申し渡し
大阪橘町二丁目木津屋吉兵衛手代 惣助
                       元助
                       左助
      其方共主人吉兵衛罪軽成候様に、深川八幡町知岩 神田永井町宇治川正順へ相頼候処、取持
      可遣由相為候を誠と存、此度吉兵衛致持参候辰巳屋所持の金子を以て、公辺の役人まいな
      ゐとして、金子反物差遣、芝神明前、或新吉原町にて遊女野良抔を呼、振舞いたし候由、主人吉
      兵衛牢舎致居候折柄に候得者、萬相慎可罷在候処、右振舞に事寄せ自分の遊興等を催し主
      家の金銀猥に遣捨不法の事共不届の至に付重き追放申付候、
深川永代寺門前八幡町 久右衛門店 禅僧 知岩
      其方儀木津屋吉兵衛料軽く成候様取持可遣旨相為、吉兵衛の手代共より過分の金銀を出
      させ、重き役人の家来、或は此度吟味掛の役人の名を指、まいなゐに遣候由相為、金銀反物数
      多かたり取、重々不届至極に付、町中引廻獄門に申付候、
大傳馬町二丁目家主 箔屋勘右衛門
      其方儀木津屋吉兵衛手代共を知岩方へ同道致し引合、其上知岩頼に任せ吉兵衛方より辰
      巳屋の金三拾両、近江屋喜兵衛と申宛名にて借遣候儀ども不埒に付、江戸払申付候、
神田永井町茂兵衛店  宇治川正順
      其方儀木津屋吉兵衛手代宿預の儀相談申候に付、掛り役人の内に知人有之候間、承合可
      遣由申聞、金弐百疋貰候故、与力共の名を書付見せ候て、掛りの役人振舞候由、手代共へ相為
      聖天町喜八を以水野備前守組与力福島佐太夫へ申込、両度迄新吉原町にて振舞せ、佐太夫
      を吉兵衛手代共へ引合、宿預の儀相頼遣、右両度共其方儀も遊興所へ出合、遊女を呼事相調、
      吉兵衛宿預にも成候者、礼金過分取可申相巧候段、不届至極に付、死罪申付候、
浅草聖天町家主   喜八
      其方儀宇治川正順申合、福島佐太夫方へ罷越、木津屋吉兵衛宿預の儀申聞、手代共致面談候
      様に相頼、新吉原町にて振舞為致、其節間違候に付、翌日正順申合せ、吉兵衛手代共を佐太夫
      方へ召連参、宿預の儀猶又相頼、又又新吉原にて振舞為致、右両度共●方儀も、其場に罷越願
      之通に済候は礼金過分に取可申相巧候段、重々不届に付、重追放申付候、
本石町三丁目太右衛門店 喜兵衛
      其方儀木津屋吉兵衛宿預の儀功者成者へ頼度由、吉兵衛手代共申に付、宇治川正順へ引合
      新吉原町にて致振舞候節も致案内罷越、其上正順方より吟味に掛候与力其の名を書付、手
      代共へ見せ候節も使致不届至極に付、江戸払申付候、
本石町三丁目家主 木津屋吉兵衛江戸宿 清兵衛
      其方儀宇治川正順取持にて、役人を振舞候間参呉候様、吉兵衛の手代共申に付、同道にて遊
      興所へ参り、手代惣助より請取候金子を以、右雑用為相払、彼是取持いたし、其上吉兵衛入牢
      巳後、金子参百両手代共より預候節、早速可余出処、吟味の上、右の段及白状不届に付、江戸払
      申付候、
水野備前守組与力  福島佐太夫 二十八歳
      其方儀今吟味之処、町人喜八申旨に任せ、木津屋吉兵衛手代共へ新吉原町出合、右遊興所
      の入用金一両一分、自身方へ請取入用に遣候由、総て御穿儀に相懸り候者は談事可相慎儀
      勿論に候処、神文を背き右の條不届至極に付死罪申付候、


      四月六日   江戸幕府関係者への追加判決の申し渡し
      右の外
石河土佐守組与力  藤田清兵衛
              平塚伊右衛門
      右両人福島佐太夫一件に付永御暇
御本丸御厖従    小出相模守
      右御役柄不相応の儀有之青山大膳亮へ御預
小出右近
      右父相模守行跡不宜に付改易
御医師      丹羽正伯
      右小普請入
永暇            加納遠江守用人   富樫弥助
無講            同目付       永井兵右衛門
      右両人も辰巳屋掛合にて遠慮致居候上右の通相済
與兵衛 四十五歳
      右與兵衛儀、傍輩仁兵衛並辰巳屋久左衛門親類共、吉兵衛を可致久離旨共々申合置、
      拠儀共、吉兵衛へ偽り申聞候に付、吉兵衛此儀を忠節と存、家屋敷併商仕入銀等迄呉可申旨
      致約束候処、其後吉兵衛気に違候故、又又裏返り、吉兵衛不埒の儀共を、佐々美濃守番所へ密
      に訴出、又候此度吉兵衛呼下し候跡より慕い参道中にて侘言致し、非分の吉兵衛に荷抱致
      吟味之節も不埒成書付差出、表裏至極、重々不届に付重追放申付候、
辰巳屋久左衛門手代 平兵衛重追放
   ここでは武家に対する行政罰が下されています。
   御暇・改易になると武士でなくなるので、家を失い、収入もなくなります。
   浪人は武士ではないのです。

「辰巳屋一件の虚像と実像」に大岡忠相日記からの引用があります。(原文にはたどり着けず)
   日記の5月12日に
   左近将監殿我等備前守対馬守江被仰聞候者、此書付ハ大目付に通達可有之候是者
   三奉行心得ニ而、奥向之面々奉行役人江訴訟人願人等之義頼ケ間敷事無之様ニとの段者
   前々に心得有之事ニ候得共、若左様之義有之●、且又老中若年寄其外御役人家来等に
   願人等之事ニ付頼ケ間敷義候ハ、老中又者支配迄無遠慮可被申聞候、右之趣可相達之
   申御沙汰茂有之付而申達候、此段可被申通との御書付也

   日記の9月11日に
   吉兵衛の減刑(遠島から江戸十里四方及五畿内構へ)
   とあるが、その沙汰原文を私は探し出せていない。
   なぜ、9月になってから減刑されたのか、理由があるはずだが?
       すでに処分されていたので(島送り)呼び戻されたはず。
       減刑されたのが吉兵衛だけだったのかどうかも不明です。






おまけ2
さらに唐金屋を調べていると、早稲田大学の資料にこんなものが、辰巳屋一件の虚像と実像
江戸時代1779年(安永8)の実録小説「銀の笄」も早稲田大学図書館に、ここ
大阪の豪商辰巳屋のお家騒動が幕府を揺るがす疑獄事件に発展し、ついには大岡越前が出てきます。
いろいろな人物・家・商家が出てくるのですが、その中に「唐金屋」も出てくるのです。
江戸では老中松平左近将監が評定所での御用係り4名に調査を命じます。
   寺社奉行大岡越前守・大目付松前安芸守・北町奉行石河土佐守・目付安部主計頭

辰巳屋は南組吉野屋町にある。

事件は1740年(元文5)に沙汰が申し渡されています。
 
大坂東町奉行稲垣淡路守閉門
西町奉行佐々美濃守逼塞
南町奉行所与力福島佐太夫死罪
御番医師丹羽正伯小普請入
北町奉行所与力石河土佐守組の与力2名御暇
将軍吉宗の側近加納遠江守の家来1名御暇
江戸町奉行所小出相模守切腹
禅僧智岩引廻し獄門
医師宇田川正順死罪
辰巳屋後見吉兵衛遠島
訴え出た辰巳屋手代6名新六
??
??
??
??
??
浪人島田作太夫
医師鵜野長順
 
で終わります。


   炭商・両替商の辰巳屋は4代目が亡くなった時5代目久左衛門はまだ若く、叔父吉兵衛が後見につく。
   この久左衛門は唐金屋からの養子で、当時は乙之助と言った。
   乙之助は唐金屋の5代目右衛門左の実子であった。 老中松平左近将監乗邑の娘婿は泉州岸和田藩主岡部美濃守であり、唐金屋の地元である。
辰巳屋は唐金屋のつてから老中に訴えた可能性もあります。
忠相日記には忠相が当事者として積極的に動いたようすが見れないのです。
老中は大目付を動かし、評定所の他の3名は結果を聞いただけ?

事件で処分された小出相模守は将軍吉宗の小姓。
相模守の父小出半太夫は紀州藩の家臣。
吉宗は紀州藩主だったので、唐金屋とは知り合いだったはず。(大名貸)



1830年頃の地図には吉野屋町から南堀江に移転した辰巳屋が描かれています。
長堀の木津屋はここにはありませんが、銅吹所(泉屋)は大きく描かれています。
http://blog.goo.ne.jp/luckyhillson/e/db6de68d2549b250fd7649299a423cd2 から拝借。


「耳袋」 江戸南町奉行 根岸鎮衛もりかねの日記より
            鎮衛は時代劇には出てきませんが、忠相と同じく名奉行でした。
   仁君御慈愛の事
   有コ院樣徳川吉宗の没後諡名の御人コは、承るごとに恐れながら感涙催しける事のみ也。
   享保御治世の頃治世は貞享元(1684)〜寛延4(1751)、小出相模守といへる御小姓ありて、思召にも叶ひ
   樣子能く勤たりしが、京都辰巳や公事の取持いたし、不義の奢抔なし、
   不愼の事多く、御仕置被仰付ける事也。右御吟味の初に、相模守不埒
   の趣も御存有しが、聊御氣色に顯れず、御酒の御相手をも被仰付、
   相模守は少しも心付ず醉狂常の通り也しに、御次より御側衆罷出、
   相模守事御表御用有之よし申候故、則相模守は御次へ下りけると也。
   公は御盃を被差置、最早酒をとり候樣にとの上意にて、不殘御膳を
   下げ候故、御近所廻りも何か譯も有之事と、一同恐入ていと無興
   なりしに、公は御着座の上、御近侍廻りを御覧被遊、相模守事不便
   の由にて御落涙被遊けると也。積惡の者をもかく御憐の事、御仁惠
   の程難有事也と、去る人語ひ給ひけり。
鎮衛は元文2年(1737)生まれなので事件当時は3才、後年になって誰かから聞いた内容を記したもの。
伝聞なので、京都での事件のように書いている。


大阪町人(アテネ新書 81) 672/100/1959


延享5年(1748) 難波丸綱目  国会図書館(館内のみ)
宝暦7年(1759) 難波丸綱目  神戸大学住田文庫

   諸国炭問屋として17軒あり、そのうち辰巳屋という名前で5軒ある。
   最初に見えるのが辰巳屋久左衛門で、他は分家か暖簾分けかそれとも単なる同名か
享和元年(1801) 難波丸綱目  早稲田大学図書館
   ここでは炭問屋の中に辰巳屋は出てこないのです。ちょっと不思議。