関西大学 牧村史陽氏旧蔵写真データベースより

膨大な写真の中に南濱に関する写真を見つけました。
撮影時期・場所など一切ありませんので、私の独断的解釈を付け加えます。

   この六地蔵は南濱墓地の北側にある飛び地内に現存します。
   撮影場所を推測しようとしたのですが、決定的なヒントを見つけることができません。
      地蔵の後ろにある小屋は現在の地蔵堂のようにも見えるのですが
      左隣の建物が次の写真にあるものと向きが違うので、現在の地蔵堂とは違うようです。
      左端にある電柱の解釈ができません。電柱と地蔵の間には道路があった?
      地蔵の並びの左端には道標らしき石柱があり、道路だったのは間違いなさそう。
      道標の多くは辻に立ちます。ではここはどこ?
      背景に見える店の看板はペンキ屋のものです。どこにあったのでしょうか?




   地蔵堂は現在とほとんど変わっていません。
   違うのはまわりで
      右側  木造2階建の建物は建替えられています
      右奥  モルタル壁の木造建物(現在の駐車場のあたり)はもうありません
      左側  木造板貼の建物はこれも建替えられています
      通路  現在は通行を邪魔するほど大きな木があります
      墓地内 墓石を積んだ植え込みはそのままです


   墓地のAブロックで、背後には地蔵堂ではない建物があります(大きさからわかる)
   墓石の並びは現在と少し違う
      龍田善達の墓は逆向きになります。
   現在は風化が進み、下部の文字は欠落しています。


   墓石のヒビ割れは同じだが風化はまだ少しましで文字が読める
   背後の「祠官 大道長門・・」の墓はすでに墓地内にはない
       大道一族で長門介を拝受しているのは東大道元貞しか記録にないのだが
       没年は明治15年9月19日なので、写真の五月廿八日とはずいぶん違う。
       また半分しか見えない右側には元禄四の年号が読める。
       ひょっとすると断絶した大道本家の人物か?


   竹矢来には高札があり、撤去予告ではないかと推測
   背後には無縁塚が2つ見える


   この並びはまったく変わっていない


   背後の建物のうち左側は現在の駐車場にあったものでしょう
   右側の板張りの建物は道路沿いにあったもので、拡幅でなくなりました
   墓石の風化はまだ少なく、下端まで読めます
   手前の地蔵はまだ頭が乗っていますが、モルタルで繋いだようにみえます
   地蔵の隣の墓石は現在は風化が酷く、まったく読むことができません。
   笠をかぶった斉藤先生の右隣は現在は割れ落ちています。




   左側「本山源光寺道」はいいのですが、右側が何とも・・・
      「七はか道」と読む人もいるけれど、私には「七●か乃」としか読めないのです。
      右から続けると「七●かの本山源光寺道」となって意味は通じるのですが。
   この道標は源光寺本堂右前に現存しますが、写真とは場所が違います
   背後にある石板で囲まれた墓も同様に本堂左側にあります
   でも源光寺への道標を本堂前に建てるのはオカシイでしょ。
   別の場所から移した、と考えるのが素直です。
   ではどこから?
   可能性の高いのは、南濱墓地の角。墓地から源光寺までの短い道を源光寺道としたのでしょうか。
   ひょっとすると道標の後ろの区画ごと移設されたかも。
      昭和63年に源光寺の墓石を移設したという記録(中山石渠)はこのことか?