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15.北向地蔵 その3(北堀江で実地調査)
           2014/12 大量追加

寺町・中津、第3回は大阪市西区北堀江です。北堀江と言っても場所が思い描けない人のためにオサライ。

北堀江は心斎橋の西方ですが、これといった目玉のない地域です。


同じ地域の1928年(昭和3)の地図に今回の調査範囲を緑で示しました。
北は西長堀川、南は堀江川、東は宇和島橋(なにわ筋は戦後にできた)、西は阿弥陀池筋と呼ぶ範囲です。
西区は米軍の爆撃で更地になるまで焼失しました。従って、寺も含めて今ある建物はすべて戦後にできたものです。


赤が歩き回った道路です。
結論から言うと、北掘江には地蔵はありません、阿弥陀池さんの境内を除いては。
露地ロージのまったくないツマラナイ町です。
戦災で建物がすべて焼失し、その後には事務所や工場・商社が立ち並び、現在はその隙間にマンションがあり
個人住宅は数えるほどしか残っていません。
地蔵信仰は町会などの組織によるものではなく、隣組や有志によって祀られるのが大半です。
従って、隣近所のつきあいの希薄な地域では地蔵は寺内でしか見当たらないのです。
商店街が残っている地域であれば、そこで祀られることも多いのですが、ここ北堀江には寺(阿弥陀池)しかありません。
今回の調査の目的は「地域の地蔵、中でも北向地蔵を数える」ということなのですが
寺の境内にあるものは除外します。地域の人々が祀るものという私の思い入れです。
     北堀江の地蔵の数 0ゼロ
     阿弥陀池の地蔵をまとめて 1 とすると280mx520m=0.146km2に1ヶ所 大阪市内223km2なら1500ヶ所
     阿弥陀池の地蔵を      6 とすると0.024km2に1ヶ所         大阪市内223km2なら9300ヶ所
                        北向地蔵の割合は 1/6でした。

それでは話が終ってしまい、読む人にはナンノコッチャなので、阿弥陀池に行った結果を紹介します。
行ってみて驚いたのが、何とたくさんの地蔵が祀られていることか。
裏門(西側)は開いています。平日の昼間だったのでお参りの姿は一切みませんでした。
航空写真でわかるように、境内には墓が多数あります。南側はギッシリですが、北側は意外に空いています。
長年放置されていたものを整理したのです。今ならチャ〜ンスかも♪でもちゃんとお参りしないと整理されちゃいますヨ

     @日限地蔵
     Aあごなし地蔵
     B地蔵2体
     C水子地蔵
     D地蔵
     E和光地蔵
以下は地蔵ではありませんがオモシロイ発見だったので・・・
     F菩薩
     G橋の欄干
     H不動明王
     I幸橋淡熊
     J無縁墓

@「日限地蔵」
   日限地蔵はここ阿弥陀池だけでなく全国にあります。
   「ひぎり」と読みます、「にちげん」ではあ〜りません。

   境内の一角に立派な堂があります。ここなら地蔵盆も充分できる広さです。
   中には地蔵が13体も並んでいます。
   軒に「北向地蔵尊」とありますが、誰もが日限地蔵と呼びます。
   堂内の「淡熊」が気になり調べてみました。
   淡熊は明治時代のヤクザの大親分で、代紋は分銅だったので、ピッタリです。→I参照
   写真を眺めていて、淡熊の後ろ、地蔵の台座の前面に何かを撤去した痕跡を見つけました。

   緑灰色に見えるのは2つの台石で、表面にセメントが付着しているようです。つまり、別の石を貼り付けていたわけです。
   もう一度写真を見直すと、淡熊の石と日限地蔵尊の石が違います。互いに形が違うというだけでなく、石材が台座と違うのです。
   これは淡熊の石と日限地蔵尊の石の寄進した時期が違うことを示すものです。(どちらが先かは不明)
   もう1点面白いことを見つけました。淡熊の後ろの地蔵が片足を下ろしているのです。法隆寺の弥勒菩薩とおなじ座り方。
   これって本当に地蔵菩薩?

   田野登さんの「大阪のお地蔵さん」には日限地蔵の他に「水掛地蔵」も戦前まであったとあります。
      仏像は戦災により消失しているが、水鉢に水牛を彫り刻んである。戦前、水難避けを祈願して
      「淡熊」という親分が御池通となにわ筋とが交差する地点に祀っていたものである。
      水難避けに水牛の手水鉢の水掛地蔵さんとは、まるで謎かけの世界である。
   今はその手水鉢も見当たりませんが、ここにある淡熊の石はそこから移したのでしょうか?

Aあごなし地蔵

   そこにある、と知る人だけが見つけることができます。ボーッとしてると前を通り過ぎます。
   由来は     調べてください。珍しい木像ですがただそれだけ

B大きな地蔵が2体

   本堂わきの目立つ場所に座った地蔵と立った地蔵が並んでいます。
   手前左右に石灯篭があり、名前「唐金」とあります。
     調べると、泉州泉佐野の廻船問屋「唐金屋」のことと思われます。
     3700石積みの船を持つ豪商で、阿弥陀池に寄進していても不思議ではありません。
     江戸中期では佐野の商人は鴻池や三井と並ぶほど大きかったそうです。
     それがなぜ没落したか? 人が良かった、というしかないのでしょう。だって他の豪商は生き残っています。
     佐野商人は紀州だけでなく全国の大名に貸付ていたが、明治維新で借金をとりはぐれたのです。
     状況は鴻池も三井も同じだったのに、なぜ?
     どこかの誰かが本や論文を書いているハズ。

   地蔵の由来は書いてありませんが、座り地蔵の台座正面には「三界萬霊」とあります。
     この言葉は地蔵菩薩の存在理由そのものなのです。
     56億7千万年あとに弥勒菩薩が現れるまで地蔵菩薩は六道を輪廻する衆上アナタもワタシもを救うのですが
     三界はこの六道とほぼ同じ意味で、三界を輪廻するすべての衆上を救うという意味です。
     さらに台座には寄進者の名前が多数刻まれています。
        右側面 世話人 塚口屋 徳兵衛
                   阿波屋 弥助
                   和泉屋 三左衛門
                   河内屋 幸助
                   和泉屋 ?きん  (字体が違うので後日追加?)
     上述の唐金屋を調べると「食野めしの」も出てきます。同じ一族なのですが
     この食野の屋号が「和泉屋」なのです。食野三左衛門という人は実在します。
     この台座の三左衛門が食野だったかどうかは不明です。残念

左側面
    
   当然、文字の大きさは寄進額に比例したでしょう。店名なのか業種なのか判然としないものもあります。
   2段目にはさらに小さな文字で名前が刻まれていますが、中には「光林信士」「釈明貫」のように戒名もあります。
   つまり店の宣伝や亡くなった家族への祈りもゴッタ煮の台座であるわけです。

2014/12/4 追記
   長崎大学図書館の幕末・明治古写真データベースに明治中頃の阿弥陀池の写真がありました。
     
     似てはいますが別物、あるいは改修前の様子かも知れません。戦争中の金属供出でしょう。
     地蔵の向きも変わっていますが、台座は変わらないように見えます。

C水子地蔵

   池のはたに小さな堂があり近くに寄るまで地蔵堂とはわかりません。
   寺町でみつけた地蔵堂にも白龍大明神の提灯がありました。 水子だから龍?という連想なのでしょうか?
   写真で気が付いたのは、右側の手水鉢が不釣合いに大きいことです・・・

D地蔵

   ずいぶん奥まった場所にお不動さんと妙見さん稲荷だったか?が並び、稲荷のさらに奥に地蔵堂があります。
   鳥居の近くに石榴が色づいていました。境内にはほかにも数本あります。
         ザクロは秋の味覚。古いTVドラマで「颱風とざくろ」を思い出しました。 確か主題歌は森山良子だったはず・・・


   地蔵堂に施餓鬼の札がありました。この地蔵は赤ん坊を抱いています。

E和光地蔵

   昭和20年3月13日の爆撃により付近で亡くなった方のうち無縁仏となった150名を葬ったのがこの地蔵の由来です。
   阿弥陀池は正式名を和光寺といいます。(和光寺はどこ?と聞いてもきっと誰も知りません)



ここまでが地蔵の紹介で、次にオモシロイ発見でも人によってはツマランを紹介しましょう。
F菩薩か如来か?

   山門(扉は開いているが出入りはできない)の脇(Iの向かい側)に大きな菩薩像があります。
   かなり新しくて「納骨」と書かれています。無縁仏となったものをここに納めるのでしょう。
   その墓石は・・・   処分(廃棄)されるのです。
   ソテツの陰にある石碑はI銅傳佐兵衛 の正面です。

G橋の欄干

   阿弥陀池の中にあるお堂への石橋には御影石でできた欄干が寄進されています。
   手前からお堂に向かって橋は少し登りになっており、欄干もその傾きにあわせています。
   いろいろな講が寄進したものばかりですが、柱に思わぬ名前がありました。
      右側  
石柱信州善光寺
大阪六字講
六字とは真言による厄除け
石板如来講
伊丹かん
徳 カネ
矢田妙純
中村ゆき
河本ラン
鐡川吉兵衛
吉田利兵衛
遠藤定兵衛
谷崎新五郎
野崎定助


意外に女性が多い
石柱堀江廓寺そばにあった遊郭
石板善光講
●●●● 中村榮祐
立売堀北●一丁目 勝原兼太郎
中之島七丁目 神村シヲ
●●●通四丁目 殿井らく
●●●一丁目 奥田多倖
●ノ●二丁目 古結喜太郎
●●●二丁目 大西たけ
高砂町二丁目 吉田安兵衛
高砂町二丁目 三宅小梶
茨住吉鳥居前 泉原松之助
・・・
 
石柱ふりへ
丹羽幸次郎
「ふりへ」は「ほりえ」か?
石板善光講の続き 
石柱ふりへ
宮川悦
 
石板稱名講
・・・
 
石柱  

   左側
石柱信州善光寺
大阪六字講
 
石板・・・ 
石柱松嶋東二丁目
鐵商 紀野吉三郎
明治期の鉄商
石板・・・この石板だけ紋あり
石柱●●四丁目
庄野嘉久造
 
石板御寶講
・・・
この石板だけ紋あり
石柱●●
今井勢兵衛
五十八銀行の取締役
石板  
石柱  

   池中の堂はもちろん戦災で消失し、再建されたものですが、欄干は元からあったものです。
   いつできたものか記載ありません。欄干の名前から推測すると明治の中頃ではないでしょうか。

H不動明王

   ここ和光寺は浄土宗の寺で、浄土宗では不動明王を信仰するのはごく普通です。
   不動明王の石像は別に珍しくはないのですが、斜め横から見ると不動さんの後ろに奇妙な石が立っています。

   裏側にまわると確かに祀ってあることがわかります。
   バチ当たりな僕にはどう見ても「陽根」巨大なチンポコであります。
   信心深い人にはこれが地蔵に見えるのでしょうか?
   不動明王と陽根崇拝は何か関係があるのでしょうか? 聞いたことがありません。

   さらに手前の手水鉢を拡大すると、こんな名前が読めました。
       堀江   平梅
       同    金?
       同    天?
       同    山?
       同    山?
       のせや店 田?
       阿波座口 伊?
       同    小?
       新町商三 山?
       世話人  西?
   かつての店の名前か芸子の名前か? 残念ながらほとんどの名前は隠れていました。
   なぜ?

I幸橋淡熊

   山門の脇、地蔵と向かい合わせに雑草とソテツに隠れて大きな石碑があります。
   写真で見えているのは石碑の裏面で
       幸橋淡熊事
       明治41年9月 銅傳佐兵衛
   正面には「指西の松」とあるそうです。下半分は読めませんでした
   幸橋(道頓堀)淡熊の本名は銅傳佐兵衛で、博徒淡熊一家の初代親分です。
   親分の死後、明治41年に建てたのがこの顕彰碑です。
   淡熊一家はとっくに解散し、石碑を世話する子分もいなくなったのでしょう。


J無縁墓

   和光地蔵の隣に無縁墓が小山になっています。北面には1体の大きな地蔵がありますが他の面よりも地味です。
   下段手前に新しい墓、昭和37年ですから50年前のもの、に注目して下さい。
   無縁墓となるには新しすぎるのです。しかも花立もあります。
   こんな風に推測しました。
      墓の守りをしてくれる子供がいなくて、寺と相談して墓石を前もって無縁墓に並べた。
      いつかは無縁墓になるなら、その手間を今から省いて心配事をなくしておこうと。
   多分間違ってはいないでしょう。私もそうします。


   東面には2体の大きな仏がありますが
   「なぜ阿弥陀池に大和が?」と思ったアナタ、 間違ってます。
   左側の地蔵は額に皺があり、台座には靴と水差しが刻まれています。
   左手に数珠・右手に三鈷杵を持っているので弘法大師像です。地蔵ではありません。
   右側はもっと不思議な仏様で、顔つきはだれか具体的なモデルがいたようです。
   石の上には笠石が乗っていた痕跡があり、背面は真平らに削られ、両側面には新しく文字が彫られています。
   ここに置くために加工したのでしょう。
   枠の上には「真言」、右側には縦に「光明 阿光照心禅定門」、左側には縦に「供養 先祖代々・・」
   左側面には「大和上尊前開眼」、右側面には「享保・・・」
       つまり、阿光照心という偉い僧が入滅する前の姿を彫ったわけです。
       ですが、なぜその墓石が無縁墓となってしまったのか
          「禅定門」は浄土宗ではなく禅宗での戒名に使われます。つまり
          ここ和光寺ではない別の寺の坊主だったわけです。このあたりが無縁墓となった謂れでしょうか。


   無縁墓の南面です。
   一番上には大きな地蔵のほかに足元まで多数の地蔵が並びますが、中央の光背をもつ仏は地蔵ではありません。
   3体の地蔵の右側に真四角の墓石が見え、「為溺死・・・」とあります。洪水なのか津波なのか。
   でもそのような墓石を無縁墓にするとは・・・


   無縁墓の西面です。
   この面が一番紹介したかったのです。

   西面上段には地蔵ではなく弥勒菩薩でしょうか、衆上の言葉を聞いているように見えます。
   痛みの激しい墓石の主の声に耳を傾けているようにも。


   下段には小さくて素朴な地蔵が並びます。
   目立つ地蔵は最初に紹介した日限地蔵と同じく左足を下ろしています。
   中央にある「市村ゆき墓」の左の墓石に目が留まりました。
   まったく飾りがなく、墓石かどうかも判然としないのですが、無縁墓に並ぶからには墓石なのでしょう。
か美屋
   掟鶴
   粋な名前と店名から、すぐ近く新町にあった「新町廓」の遊女ではないかと思いつきますが
   思い直しました。「堀江遊郭」の芸姑なのかも。
   戦前あるいは昭和末まで大阪には4つの花街6つという説もまりますがありました。
      北新地、新町、堀江、南地
   堀江遊郭は「堀江6人斬り」という1905年(明治38)に起きた遊郭主の大スキャンダルで有名当時はです。
   明治末は遊郭がもっとも繁盛していた時代です。
   「堀江戦前住宅地図」には「か美屋」はみあたりません。昭和初期にはすでに廃業していたのでしょう。

   墓石の主に戻って、妄想をたくましくしてみました。
           (一切資料が見つからなかったので、ホントに妄想です)
      「か美屋」の芸姑「掟鶴」が病気で亡くなり、よほど気に入って店に引き止めていた主は
      申し訳なさから、店の近くにあった阿弥陀池に墓を建てた。
         なぜ戒名でも本名でもないのか
                     当然本名を知っていたのに芸名だけにしたのは
                     売られて来て今更実家に戻せない、か、よほど芸が達者だったか
                     主にとって大事な大事な名前になっていたのでしょう。
      なぜ「之墓」や「之霊」としなかったのか
      なぜ草書なのか
      なぜ装飾が一切ないのか
                     この3つの答えはすべて「粋」にたどり着きます。
                     粋だけれども派手でない落ち着いた女性のイメージがわきます。
      阿弥陀池と堀江新地の間に堀江小学校ができるのは明治17年。それだけ人口が増えてにぎわったのです。
      日清・日露戦争ごろまでは景気がよかったハズ。ですが、第2次大戦戦には「か美屋」が見当たらないので
      大正あるいは昭和初期には「か美屋」は無くなっていたのでしょう。
      主も転居したあげく、関係者はちりじりになって、墓に参る人もなくなり
      結局無縁墓となって並んでいるのです。
      1948年(昭和23)の航空写真にはすでに無縁墓の山が写っているのですが、いつ掟鶴の墓がここに移されたのかわかりません。
      そもそも掟鶴がいつ亡くなったのかわからないのですから。

   掟鶴の墓石の右方に別の墓石があります。

阿ふきや
   俗名 きくの
   「堀江戦前住宅地図」には「扇屋」がありますが、さてこれがそうなのか??
   この墓石は掟鶴よりさらに装飾がなく、単に名前を彫っただけです。
   なぜ店が墓石を建てたのか、なぜ俗名なのか
   こんどはあなたが物語を妄想してみてください。

   「きくの」の左側に大きい墓石が並びます。4人の名前があります。
       釈還性   (1774年) 安永2年4月15日
       貞信尼   (1788年) 天明8年12月8日
       釈浄妙   (1785年) 天明5年
       釈祐正   (1788年) 天明8年5月
   4人の名前は貞信尼の亡くなった天明8年12月8日以降にまとめて彫られたのです。
   墓石の側面には2人の名前が見えます。
   なぜ4人がまとめて彫られたのか、それも没年順でなく。
   じつは、ここ和光寺は昔から浄土宗の尼寺です。現在も。従って寺には尼僧がずっといたわけで
   ここの無縁墓には尼僧のものが結構たくさんあるのです。
   出家して俗世間から離れたので、たとえ死んでも実家の墓に戻ることはありません。
   なので尼僧の墓は寺にあるのですが、いつか無縁墓になってしまうとは・・・


おまけ

1948年(昭和23)の航空写真です。爆撃によりほとんどが焼失しています。
阿弥陀池が見えますが寺の建物はありません。
上には長堀、下には道頓堀、真ん中には堀江川があるのですが埋め立てが始まっています。
        大阪市HPでは昭和35年埋め立てとありますが、戦後すぐに埋め立ては始まったようです。
        ただし、それが大阪市の事業だったかどうかは不明。戦災瓦礫を勝手に埋めたかも。


おまけ2
大阪の近世から近代における異界と都市発展に関する研究
新町新地は1890年(明治22)に消滅、堀江新地は売春防止法の施行により1957年(昭和32)に消滅とあります。
焼け跡から再び堀江新地が再建されたとして、約9年間の命だったわけです。


おまけ3
新町遊郭の仕組み


おまけ4
昭和恐慌の不景気を吹き飛ばすべく、堀江新地のPRのため作られたのが「堀江盆唄」
これに対抗して隣の新町ではなんと西条八十に作詞を頼んで同様の唄をつくったとか。
堀江盆唄
   ソレエーソレエー エーノヤットヤ(ヨーイヨイヨイ)
   かんてき割った すり鉢割ったエーノー叱られた(おかしゅてたまらん)
   ソレ西瓜ソレまっかエーノー焼けなすび(食いたい食いたい)
   ソレ堀江 ソレ廊 大江の里げしき(真心真心)

   竹にサーエー ヤッチキドシタイナーオサ 
   竹に雀はしなよくとまる(ヨーイヨイヨイ)
   とめてサーエー ヤッチキドシタイナーオサ 
   止めて止まらぬコイツァマタ色の道(ヨーイヨーイ)
   色でナーエー ヤッチキドシタイナーオサ 
   色で迷わす浅漬けなすび(ヨーイヨイ)

   春 影うつす春の水 堀江は都鳥(この花この花)
   夏 涼しさの四ツ橋の川柳糸柳(夕風夕風)
   秋 阿弥陀池澄み渡る真如の月の顔(和光寺和光寺)
   冬 梁棟木松檜咲く雪の花(朝市朝市)

   花にサーエー ヤッチキドシタイナオサ
   花に柳で飾る廓(ヨーイヨーイ)
   染めてサーエーヤッチキドシタイナオサ
   染めて染めましょこいつぁまた濃く浅く(ヨーイヨーイ)
   月にサーエー ヤッチキドシタイナオサ
   月を鏡にこいつぁまた夕化粧(ヨーイヨーイ)

堀江小学校の盆踊り大会で歌われるそうな。
イマドキの子供やお母さんには意味不明でしょう。


おまけ5
地蔵を探してウロウロしているとこんな建物に遭遇しました。

昭和の香りタップリの木造2階建。堀江タクシーの事務所です。
注目するのは建物ではなくその左奥に見える鉄塔です。これは一体何なのでしょうか?
火の見やぐらのように見えます。ただし、ここに消防署があった記録は見つかりません。
そこでようやく気が付きました。
タクシー無線のアンテナ塔です。現在も使っているのでしょうか?


おまけ6
唐金屋について調べてみました。
まずは、wikiから
   唐金家(からかねけ)とは、江戸時代中期から幕末にかけて和泉国佐野村(現在の大阪府泉佐野市)
   を拠点として栄えた豪商の一族。北前船や朱印船による廻船業や商業を行うほか、大名貸や御用金
   などの金融業や両替商も行い、巨財を築いた。 屋号は橘屋。同じく同地で栄えた食野家(めしのけ)
   とともに、江戸時代の全国長者番付「諸国家業じまん」でも上位に記されている。
   唐金家の家屋倉庫等が多数あった現在の大阪市西区堀江の家具屋が立ち並ぶ通りでは、唐金家の屋号「橘屋」
   にちなんで「立花通り」、これが転じて現在は「オレンジストリート」と名づけられている。
   また同地の汐見橋は唐金家が架けたといわれており、「唐金橋(とうがねばし)」の別名がある。
ついでに「食野家」については
   食野家(めしのけ)とは、江戸時代中期から幕末にかけて和泉国佐野村(現在の大阪府泉佐野市)
   を拠点として栄えた豪商の一族。北前船による廻船業や商業を行うほか、大名貸や御用金
   などの金融業も行い、巨財を築いた。 屋号は和泉屋。同じく同地で栄えた唐金家(からかねけ)とともに
   江戸時代の全国長者番付「諸国家業じまん」でも上位に記されている。
   1761年には鴻池家、三井家、加島屋など名だたる富豪と並んで同額の御用金を受け
   1806年には三井家とともに本家が3万石、分家が1万石の買米を命じられた。
   大名貸しでは岸和田藩はもちろん尾張徳川家・紀州徳川家など全国の約30藩に400万両ともいわれる多額の資金を用立てた。
   その後、幕末には廻船業が停滞したことや、廃藩置県で大名への莫大な貸金がほとんど返金されなかったこと
   家人の放蕩などにより一気に没落に至り、同家は同地に現存していない。
   屋敷跡は1845年に佐野村が買収し、現在の泉佐野市立第一小学校となっており
   松の木と井戸枠、石碑が残されている。またいろは四十八蔵も海岸筋に8棟が現存している。

食野については 食野長者のことで詳しく紹介されています。

また、戦前の「国民新聞」にも大楠公二十四代の子孫食野家が貸金取立て
というニュースがあります。
これを読むとwikiと食い違う点がいろいろあります。

国文学研究資料館のデータベースに「和泉国日根郡佐野村食野家文書目録 1522-1909があります。

泉佐野の町屋を紹介しているブログ大阪の古建築です。
これも 長者伝説から観光デザインを考えるさの町場

食野は堀江に多数の蔵を持っていたのですが
このように南北堀江はほとんど食野のものでした。
唐金も持っていたのか、上図に含まれたいるのか、記録は見つけることができませんでした。

おまけ7

「なつかしの昭和 堀江戦前住宅地図」特定非営利活動法人 なにわ堀江1500を入手しました。

これだけの広大な地域の地図を記憶から書きおこすのは、トンデモない作業でしょう。脱帽。


おまけ8 2014/12/4 追加

無縁墓の「か美や」を調べていて、古書店の案内に「第1回木花踊」という大正3年発行の冊子が堀江遊郭技芸練習場から発行されているのを見つけました。
中には芸妓の写真多数とか貸座敷一覧という説明があるのですが、何と22000円。手が出ません。
そこで、奥の手。
国会図書館のデジタルアーカイブにあるかも。  ありました。そのものズバリ。
その中から
   堀江遊郭の沿革
   堀江遊郭の開発は寛文ごろのことなり、この頃の堀江は蓮池山和光寺の伽藍の空漠たるところに
   巍然として聳ゆるのみ、町というほどのものも無ければまたこれと云う賑わいもあらざりき、され
   どさすがに阿弥陀池の畔には二三の茶所もあり精進料理の店もありて春秋の季節には和光寺参詣
   を兼ねて遊山に出かくるもの多く、時には新町の太夫芸妓が派手姿にて客に伴われてこの茶店に
   出かくることもありて、端なく講中の人々と一座するが如き破目となる事あるに、かくては互いに
   面白かるまじとの心配より、境外の眺望佳きところを択みて数奇屋風の家を建てこれ等粋なお客
   を目的に「茶屋」を始めたるもの五軒出来たり、この五軒の面々いかにや相談したりけん、鳩屋
   燕屋、鷲屋、烏屋、小鳥屋など名づけたり、後に鷺屋、雀屋、鴎屋など同じく鳥を屋号に名乗る
   もの九軒ばかりも出来、やがて茶屋町と呼ぶに至りたるが、多くの人は鳥茶屋と総称したりしと
   云えり、今の茶屋小路と呼ぶところその名残なり。
   鳥茶屋の評判頗る佳く、後には境内の茶所をし、繁盛ここに止めを刺したれば、茶ばかりにて
   も妙ならずと、仲居様の女を雇い、酒肴の注文も聞けば、三味小唄も行らせると云うことにした
   り、土地は閑静なり、眺望は佳し、この上に割安に遊べると云う、それがまた評判の上の評判と
   なり、遂には茶立女、飯盛女などを置き、ここに花街を形づくりぬ、この茶立女は今の芸妓の前
   身にて飯盛女は娼妓の前身なり、これがまた一入の人気となりて新町を荒らし、島之内で遊び草
   臥れたる粋人、さては安治川口へ出入の船頭等がめづらしい事とし、続々遊びに来りければ茶屋
   の数は日に日に多くなり、和光寺の東門東三町ばかりが間に物も見事な茶屋町を築き出し、元禄
   宝永の頃には更に和光寺の北門に及び、やがてこの種の茶屋数百軒となり、人気はいやが上に加わ
   りて、何時の程にか純然たる遊郭地となりぬ、奉行所にてはその発達の盛んなるに風俗上宜しか
   らじとの儀出で遂に延享年中一時営業の停止を命じたり、茶屋のものども驚き云わん方もなく、
   かくてはならじと様々に運動し、漸く和光寺の茶所と云う名義の下に三十軒だけの免許を請い
   許されて相も変らぬ色茶屋をつづけたるが、その他のものの営業を許されざるより、またまた巧
   みにその筋に運動を遂げ、堀江川隆平橋の北詰西へ入りたる地に角力定場所を設けたしと願い出
   で、即ち免許を蒙りその付近に角力茶屋を開くこととし、角力茶屋の名の下に実は色茶屋を営み
   たり。
   かくて明和年中の堀江は茶屋の繁盛とともに能の常舞台もでき、角力の繁盛また一入となり、芝
   居は南、米市は北、相撲と能の常舞台、堀江々と国々に鳴り響くには至りぬ、その後安政年間
   に至り故ありて角力場の幸町に移されければ角力茶屋もまたこれに従い移転を命ぜられ、ここに
   数百軒の茶屋は幸橋の付近に移り同町一丁目二丁目を色町として退けたるが、再び角力定場所を
   堀江に逆戻りさせたれば、茶屋もまたこれにつれて逆戻りをなし、和光寺前一筋を茶屋御免地に申
   し受け、繁盛昔日に幾倍し名妓また輩出せしが、さる程に明治維新とはなりたり、ここに廓内の
   人々大飛躍を試み、やがて現今の遊郭地を形づくるに至り、いよいよ区域の拡大に力め今回新築
   の妓芸練習場の地の如きも猶遊郭免許区域内なる有様なり、かくて油屋、丸三、東店、紀の佐、
   柴、米屋、梅の屋、巴、京屋、魁など十軒の席も出来芸妓娼妓の数も多くなり、廓には発展会
   因盃会など云う団体ありて、ますますその発達を図り居れり、由来この廓には義太夫の名人輩出
   し、廓の芸妓にこれを教えたるより、浄瑠璃はこの廓の名物となり名妓また乏しからざるは普く
   人の知る処なるが、文化文政の頃には追分節の上手多く、この廓の追分を聞こうとて遊びに来る
   客も多かりしと云う、これこの廓の小沿革なり。

さらに、堀江遊郭貸座敷及扱席一覧には177軒の記載ありました。
おまけ7の地図には花街関連で120軒とあるので戦前には100軒程度の貸座敷があったのでしょう。
扱席というのは、調べて初めて知ったのですが、大阪に特有のことで貸座敷と検番を兼ねていたものです。
一覧表はこんな風です・・・数字は免許番号でしょう。








177軒の中で探すピタリの店は見当たりませんでした。かろうじて似ている「多美家」があるだけ。
きっと「か美屋」はもっと昔に廃業したのでしょう。(残念ながら大正3年以前の資料は見つかりません)
   例えば、Wikiの「堀江六人斬り」は堀江の遊郭で明治38年(1905)に起きた殺人事件で
   山海楼・山形楼・紀の佐・中川楼の名前が出てきますが、大正3年の一覧には紀の佐しか見えません。
   ほんの10年で移り変わりが激しい業界なのでしょう。

一覧表の中に珍しい名前があり、それが南濱墓地に並ぶ無縁墓の1つの施主として名前を見つけたものでした。
まだ存命の子孫がおられるかも知れないので名前は伏せておきます。
墓石の正面には 「先祖代々」の文字のほかに7名の戒名があり、両側面には9名(その内4名は尼)
裏面には「大正七年八月一日 建之」とあります。第1回木花踊から4年後になります。
墓の台座には「本庄村 ●●●」この3文字は草書体で読めません。
なぜ北堀江の貸座敷の主人が南濱に墓を建てたのか、もともとは堀江の人でもなく本庄の人でもなかったのでは?
一族16人の名を刻んだ墓を女主人が建てる、というのが腑に落ちないのです。
墓地の他の墓を見ると、大正時代であれば戒名だけでなく死亡日・俗名も刻んでいてもおかしくありません。
また、尼がやけに多い気がするのです。ひょっとして店の男衆・芸妓たちなのでは?
この時代、女性が主人であったとは思えず、真のスポンサーが裏にいたのは当然です。
一族の墓は別にあって、店の関係者の墓として建立した、そう見ると納得がいきます。

偶然に「木の花踊 第4回」が手に入りました。4年後の大正7年に発行されています。
一覧表を整理すると、業界の動静がほんの少し伺えます。
赤字は名義や登録番号が変わったことを示し、新規店は左欄に、なくなった店は空白にしました。

    上通2丁目は  19増 8減=11純増


    上通3丁目は   9増13減= 4純減



    御池通2丁目は 10増15減= 5純減



    御池通3丁目は 11増 8減= 3純増
    合計では    49増44減= 5純増 となりました。
全体としては店数はほんの少し増え、上通2丁目(新町廓に近い)が繁盛しつつある、ということです。
堀江遊郭の「木の花踊」は第21回 昭和9年までの分を見つけました。(高いので入手断念)
年代を追って調べればオモシロイだろうなあ・・・


おまけ9 2014/12/11 追加
木の花踊第4回(大正7)の冊子が手に入ったので、その中からデパート(当時は百貨店)の宣伝が目に付いたので紹介しましょう。

  
    飯田呉服店(高島屋)                    三越呉服店

  
    白木屋呉服店(現在の東急)                 大丸呉服店

高級呉服店にとって、堀江の踊りは金持ちが集まる1大イベントだったはず。
芸妓だけでなく、そこに集まる人々もまたよい顧客に違いありません。
なにしろ、演舞場には広い待合があり、特等待合には茶席までついているのですから。
冊子は1冊40銭で、表紙には金泥もあしらい、芸妓の顔写真も並ぶ豪華なものです。


おまけ10 2014/12/4 追加

「堀江六人斬り」 概要はWikipediaで見てください。
当時の新聞を調べてみました。大阪毎日新聞明治38年6月22日 その続き
   遊郭楼主の六人斬
    現場は堀江の貸座敷ちゃや山梅楼
    五名即死一名重症、被害者中五名は婦人中芸妓二人
   ・・・昨日の暁わが浪花の西角、堀江遊郭に大惨劇大椿事こそ起こりたれ
   事は同区北堀江上通一丁目177●邸即ち富田屋橋南詰より一丁南の辻角に
   三階建の棟高く一●大貸座敷と知らるる山梅楼の当主中川萬次郎(52)といふが
   魔神の操るまま新身の一刀を揮って家人5名を殺し、1名に重傷を負はせ次で
   己れ一度自殺せんとして成らず急に思い直し悠々服装を正して西署に自首せる
   にあり、左にその詳細の顛末を記さん
      ・・・