大阪をホジクル
13.北向地蔵
阪急梅田駅1階の紀伊国屋書店によく行くのですが、その隣に地蔵堂があります。
大家である阪急電鉄と店子の商店会が地蔵を管理しているそうです。
そこの説明文には
「日本全国にお地蔵さんは星の数ほど祀られていますが、ちゃんと北向きに建てられているのは、全国でも400体ほどしかありません。」
なのだそうですが、僕の実感としては北向地蔵はもっと一般的で珍しくはありません。少なくとも大阪では。
もっとタクサンあるでしょ?もっとヨーサンあるやろ? というひねくれ者になって調査してみました。
文献調査
とはいえ、1冊読んだだけですが・・・
「大阪のお地蔵さん」田野登 北辰堂
大阪には1000〜1500の地蔵があるそうです。よく数えたものです。そのうち北向きがどれくらいなのかは書いてありません。
ネット検索
あるHPには京都市内で地蔵は8000〜10000もあるそうです(ホントかいな?)
全国では数万もありそうです。仮に50000とすると、北向き400なら1%未満です。
この割合を大阪の地蔵1500に当てはめると北向き8体となります。これは明らかにおかしい推計です。
こんな調査報告書があります。「大阪梅田地域の地蔵祭祀」
これはリストアップしたものではなく、地蔵の祀りかたの変遷を調べたものです。
@阪急三番街の北向地蔵
A曽根崎警察裏の梅田地蔵
B北向地蔵の西100mにある延命地蔵
地蔵さんがいったい何体いるのか、まともな調査データはありません。
ごく狭い町内に限ってもデータはないのです。
最近はすこし売れだした大阪市北区中崎町に限っても、実はわからないのです。
特定の地蔵さんがここにあるという情報はあるのですが、地域を網羅したものがないのです。
で、調べてみました。これホント
寺町筋で実地調査
江戸時代から寺がたくさん並ぶ町なら、たくさんあるハズ。そんな安易な気持ちから始めましたが、
古くからの寺は数多いのに地蔵堂は1つも見つかりません。
門を閉ざした寺が多くて、いちいち話を伺うためにインターホンを押すのも面倒です。
閉ざされた寺の中の地蔵さんに何の意味があるでしょう? 門を閉ざした寺の存在意義は一体どこに?
シャクなので古い地図に記載のある寺が今も現存するかチェックしてみました。
元禄4年(1691年)の地図です。(南北が逆)豊臣が滅び徳川になってすでに90年。それでも、寺町あたりは畑が多くみえます。
18寺のうち12寺が現存しています。秀吉の頃から400年経ってあまり変わっていないわけです。
跡形もない寺、ビルにかろうじて寺の名前を残すものもありました。
享和元年(1801年)改正の難波丸綱目に記載の地図です。(南北が逆) 元禄から100年以上経ちますが大して変わりません。
歩いてみて門が開いていたのは成正寺(大塩の菩提寺)だけでした。
エリアを広げて一筋北側・一筋南側まで探したのですが、結局地蔵さんは2ヵ所だけみつかったのです。
2つとも天神橋筋にありました。(緑の丸印)
[日本一長い天神橋筋商店街]が本来の天神橋筋で、その西側に平行する道路(天神橋筋)は新しくできた道です。(昔の地図にはない)
歩いた距離約6km、調査面積0.21km2に地蔵堂が2ヵ所なので、3km/ヶ所・0.1km2/ヶ所になります。
これを大阪市内223km2 に適用すると 2100ヶ所 となり、前述の田野さんの推定値1000-1500ヶ所に近いです。
実際に歩いた印象は「寺町そのものには地蔵は少なく、商店街には多い」です。
寺町とこの新しい天神橋筋の交差点のビルの一角に地蔵堂がありました。名を「信昌地蔵」というそうです。
このビルには智源寺が入っており、新しい天神橋筋ができたときに寺町から移転したのです。
このビルができたときに地蔵堂もできたように見えます。これが北向きなのです。(正確には北北西)
地蔵さんの名前がどうも個人名のような気がします。地蔵さんの向く方向の交通事故で亡くなった方では?と妄想しました。
お話を伺おうと思ったのですが、ここも門は閉じており、インターホンを押さねばなりません。
もう1つの地蔵堂がこれです。地蔵さんの名前はありませんが、白龍大神を祀り商店街有志が守りをしています。
イタズラ防止のためお堂は金網で囲まれています。何か被害があったのでしょう。
この地蔵は南を向いています。
2022/9/7 追記
この地蔵堂は2026年頃に撤去され駐車場になりました。
地域でたった2つしかない地蔵さんの1つが北向地蔵でした。 打率5割!
おまけ情報
歩きつかれて、天神橋筋商店街の地蔵はネットで調べただけです。
夫婦橋地蔵 3丁目と4丁目の間
文殊地蔵 3丁目
錦地蔵 4丁目
地蔵 5丁目
沖向地蔵 6丁目東
ここには私が見つけた地蔵さんは入っていません。実際にはもっと多数あるのでしょう。
2014/10/2 追記
おまけ2
ある人から「寺町って四天王寺の近くの?」と聞かれました。
大阪人でも住んでいる(働いている)場所によっては、別の寺町を思い描くのでした。
今回紹介したのは天満寺町、かの人の知っているのは下寺町です。
どちらも豊臣秀吉があちこちにあった寺を移転させて作った町ですから、まだ400年しか経っていません。
(難波宮は1360年、四天王寺は1420年、住吉大社は1810年)
天満寺町には20軒弱、下寺町を中心とした並びには200軒弱、京都よりも多いのですが
そのことは全く宣伝されていません。
なぜ、秀吉は寺をまとめたのか? 大阪城の防備のため、という説がありますがさてどうでしょう?
間抜けな配置ですよね?
当時の大坂市街から見ると町外れにあたります。下寺町の高台には商人の別荘があったくらいです。
町屋がギッシリだった市内を少しでも整理(当然墓地も)して町の発展の余地を作ろうとしたのでしょう。