9.国鉄・阪急の切替工事

僕は戦後ベビーブーム世代で、阪急梅田駅が百貨店ビルの1階にあったのを覚えています。百貨店ビル1階の大アーチが駅のコンコースでした。
そのもっと昔(大正時代)には国鉄(省線)が地上を走り、阪急がその上を跨いでいたことを知るのは祖父の世代です。
この上下関係を逆転させたのが1934年(昭和9)のことで、どのような工事だったのか、本にはサラリと記述されているだけです。
上下を入れ替えるに当たって阪急電鉄と国鉄(鉄道省)とで費用負担をどうするかで大モメにモメたとか
鉄道省側がマスコミを抱き込んで世論を味方につけたとか、いろいろ興味深い話題はありますが
僕はエンジニアの立場で、切り替え工事がどのように行われたかを知りたいのです。
ザックリした切り替え概要は十三のいま昔を歩こうにありますので、ぜひ一読ください。
今回の調査にはこのサイトとカイラス書房が公表されている写真を中心にしました。


昭和9年の切り替え当時の全体を示す写真はこれです。(十三のいま昔を歩こう)

周囲の町並みはギッシリですが建物は意外と整然と並んでおり、戦後の駅前バラックとは全く違います。
  @当時は国鉄(鉄道省の管理だったので省線)は地上を走っており、北側(写真の右側)から順に建替え工事中です。
  A阪急は高架線ホームから出発して国鉄を跨いで淀川まで高架が続きます。
     ただし阪急高架線の文字があるあたりは盛土区間です。
  B阪急と平行して道路が見えますが、その阪急寄りには阪急北野線(市電)も走っていました。
  C切り替え後の阪急地上線の工事も進んでおり、阪急百貨店に囲まれるように新ホーム(地上)もかなりできています。
  D国鉄側もかなり工事が進んでおり、阪急交差部と駅南半分を残しています。
  Eさらに、地下鉄御堂筋線の梅田駅も建設中です。(大阪市が国鉄に委託)
  F写真左下には新東海道線に高架で接続する単線桁が見えます。これは環状線の仮線です。
当時の大阪は東海道線・環状線・阪急・地下鉄・京阪・城東線など鉄道工事だらけで、その中心がここ大阪駅だったのです。
切り替え工事は確かに難工事ではありますが、それは国鉄にとってのことだったように思います。
それにしても、普通だったらこの写真と説明を読んでそれっきりだったでしょうが
次の写真をカイラス書房のHPで見付けて目がさめました。
それくらい驚きの写真なのです。
解像度が高く鮮明で、しかも撮影時期が素晴らしいのです。
この写真から切り替え工事だけでなく、付近のいろいろな情報を読取ることができます。

あなたは何を読み取りました? 私のはあとで紹介しましょう。


「大阪駅の歴史」(大阪ターミナルビル兜メ集2003)に切り替え工事の概要図があります。

○印9箇所のうち8箇所をたった1晩で一斉に切り替え工事をしたのです。同時ではなかった場所がどれかは書いてありません。
    7箇所と書くHPもありますが、「大阪駅の歴史」では8箇所とあります。残念ながら原資料にはたどり着けませんでした。
最も難しかったのが5番の阪急との上下切り替えでした。(9箇所の中で比較的難しいというだけで、技術的には既に確立した技術です)
   「三線桁架設 線路敷設」とあります。
      東海道線上下線と環状線1本の合計3本の鋼桁を設置して、その上にレール・枕木を敷設します。
      緩やかな曲線区間で縦断勾配もカント(断面傾斜)も分岐もありません。
   @旧東海道線と平行して建設された新高架線の切り替え工事と
    以前は貨物線との連絡線があったのを撤去するのですが、そうすると貨物線から環状線への行き来ができなくなるので、西成貨物線が必要となります。
   A旧東海道線の上を阪神北大阪線が跨いでいたのを逆にします。
    高架のさらに上を通すことはないので、新東海道線(高架)を優先して、阪神は迂回線(地上を平面交差)を仮に設け
    阪神高架橋を撤去した後に新東海道線(高架)を渡したのでしょう。従って、この部分は当日ではなかったハズ。
   B環状線天満駅構内で下り1線切り替えとありますが、渡り線の追加でしょう。
    天満駅では複線のまま使い、ここで上下線を1本にまとめたのです。
   C環状線は天王寺から天満駅まで高架化が終っており、BCでは下りが高架、上りは地上のままでした。
    旧環状線の北側に平行して建設中の新高架線(複線)とあわせてどう切り替えたのかよくわかりません。
   D今回のテーマ部分です。
   E貨物東線を南ヤードに通すため旧東海道線の一部を撤去。
     つまり連絡線はこのときできたのです。
   F同様に貨物西線を1線敷設。もう1線はもっと後にできたのでしょう。
   G現在の残る貨物線と環状線の連絡線のため、旧東海道線の一部撤去。
    この連絡線は当時は西成貨物線と呼ばれており、それは環状線の前身である西成鉄道に由来します。
   H大阪駅より3km点で東海道線の新旧切り替え。淀川の手前にあたります。
今回テーマとはズレますが、EFでようやく梅田貨物駅は北ヤード・南ヤードが一体となったのです。もっとも当日に工事する必要はなかったハズ。
ですが、環状線は切り替え工事後も環状に繋がってはいません。環状運行できるのは意外に遅く、1964年(昭和39)まで待たねばなりません。




5番の拡大図に軌道を分類着色してみました。説明文が腑に落ちません。
   「仮桁阪急第二跨線橋 径間20.55m」 仮桁ならいずれ本桁にするハズ
                           第一跨線橋はどこに?
   「茶屋町架道橋仮桁  径間20.75m」 これも仮桁
   「橋台築造第1回立上り」        じゃあ第2回は?
重箱の隅をホジクル作業ですが、気になるんです・・・
阪急第二跨線橋というからには「第一」があるハズ。これはすでに架設済みの桁なので切り替え工事図には表記されなかったのです。
茶屋町架道橋、道路を跨ぐ鉄道橋梁は「架道橋」と呼び、鉄道を跨ぐ時は「跨線橋」と呼びます。
従って茶屋町架道橋は北野線(道路併用)にかかる桁のことです。
疑問は
   仮桁というからには、後日に本設桁と交換したハズ。
             現在の茶屋町架道橋の径間は18.5mで約2m短くなっています。
               (阪急第2跨線橋の銘板は見ることができませんでした)
             なぜそんな面倒で無駄なことをするか? それも本工事のキーポイントです。
             一度で本設桁にできない理由があったハズ。
             ただ、この本設化工事は昼間にゆっくり行えるし、地上から仮支持することもできるので楽な工事のはず。
   橋台築造第1回立上りで一体何を工事したのか?
             多分2つの仮桁を支える橋台を阪急本線と北野線の間に設置したのでしょう。
             第2回はきっと環状線などの残工事を指すのでしょう。

阪急北野線の説明を先にしておきます。
          北野線は大阪駅の東側の阪急百貨店を始発駅に中津まで伸びる線路でした。
          まずは、ザックリと例のようにWikiにどう書いてあるか
             1910年(明治43年)3月10日 箕面有馬電気軌道により、現在の宝塚本線として梅田 - 北野 - 宝塚間開業
             1926年(大正15年)7月5日 宝塚本線・神戸本線を複々線化による分離と同時に高架化
                   同線には中津駅が設けられたため北野駅を廃止し、残った地上線の梅田 - 北野間を北野線として営業開始
             1949年(昭和24年)1月1日 運転休止
             1959年(昭和34年)2月18日 北野線の線路用地を使用して宝塚本線を複々線化し、京都本線用の線路とする。
                      じつは京都線は十三から梅田間は書類上は宝塚線に乗り入れているんだそうです。
          
          1923年(大正12)のパノラマ地図には阪急(当時は箕面有馬電気軌道)が国鉄を高架で跨いでいます。

          ですが複線のままではターミナル駅としての発展ができず単なる市電駅で終ってしまうので、阪急電鉄は駅舎の高架化・複複線化を決めました。
          
          1925年(大正14)の阪急梅田駅高架化工事の写真の右側に見える軌道は箕有鉄道本線で、北野線になる直前です。
          工事中の駅舎の向こうには国鉄をまたぐ巨大な鉄骨トラスは宝塚線のもので、神戸線のトラスはまだ架けられていません。
          宝塚線トラスの右側(駅舎のかげ)に少し低い高架トラスも見えます。これが箕有鉄道本線の高架橋(道路併用)です。
          画面中央上方へ延びる軌道が東海道線(まだ地上線)です。環状線(地上)はここには写っていません。

          
          1927年(昭和2)もう少し工事が進み、軌道が駅舎下へ移されています。(撮影年代は間違いで、大正14年末頃と思います)
             http://homepage2.nifty.com/saeki3/tetudou.html
          上の2枚とも阪急百貨店ビル(最初のもので後日建替えられる)から撮影されたものです。

          
          1934年(昭和9)阪急の南側からの航空写真です。
          北野線は阪急に沿って軌道が見えますが、整理のためハギ取ったように見えます。
          梅田の開発を進めるため、市電の梅田車庫を撤去し、北野線も阪急百貨店の東までとします。


では、工事順序(推測)にそって古い写真に説明を加えていきましょう。


<@カイラス書房>
大屋根は阪急の駅舎(2階建)で、左下にはゴミのように見えますが新ホーム(地上駅)の鉄骨が見えます。
この鉄骨はむき出しで屋根がまだ張られていないことから、最初の航空写真より少し前の撮影だとわかります。(切り替え時より1ヶ月くらい前か)
阪急の軌道4線は2組の巨大な鉄骨トラスで国鉄をまたいでいます。(撤去されるのですが、1本は後日に移設されます)
それと平行して小さなトラスで国鉄を跨ぐのは旧軌道の北野線で道路と併用でした。
右上の白い高架線(複線)は新環状線で、平行する旧線のうち下り線は高架に接続し、上り線は地上のままさらに伸びていきます。
この上り線は右上で道路(都島通)と平面交差します。下り線も地上だった数年前までは都島通りの市電だけが高架で環状線を跨いでいました。
左上で大きくカーブするのは工事中の高架東海道線で、将来の複複線化を考慮した幅になっています。
平行して地上を走る旧線はまだ電化されていません。(東海道線が全線電化されるのは戦後になってからのことです)
環状線外回り線だけは東海道線に仮接続されています。(後日に撤去される)
環状線ホームと上家が見えます。このホームは大阪鉄道時代からのものです。
東海道線の北側の工場屋根にヤンマー山岡発動機工作の名前が見えます。現在もヤンマーはあります。
大屋根の向こう側の古めかしい建物は北野劇場、その左側新しい建物が梅田コマ劇場。
この写真は阪急百貨店ビルから撮影されたものです。
曽祖父が住んでいた家が写真中央にあるハズなのですが、判別不能です。


<Aカイラス書房>
切り替え工事前の航空写真で、新東海道線上には工事用の桁やクレーン車両がいます。その位置が大阪駅寄りなので工事初期と思えます。
阪急百貨店の屋上にはビアガーデンがあるかのように見えますが、違います。日本で最初の屋上ビアガーデンは1953年(昭和28)。
それにしても、屋上に整列している人影は一体何をしているのでしょうか?
見物人もおらず、ステージもテーブルもなく、駅舎移転祝いのブラスバンドの練習なのか???


<Bカイラス書房>
阪急梅田駅(高架)で、奥のビルは阪急百貨店。駅舎に入る線路は写っている3本+左欄外1本。
この駅舎と並んで右側に屋根が見えます。これが新ホーム上家(地上駅)です。
これはスゴイ写真です。一体どこから撮影したの?
それが可能な場所は、国鉄の上を跨ぐ鉄骨の上しかありません。営業中の線路でそんなことができた時代です。
今なら、無人カメラを固定するのもスッタモンダするでしょう。
撮影時期はこれも影の方向から推測すると、午後でしょう。ただし数日前でしょう。新ホーム屋根がまだ工事中です。
数日前なので見物人がホーム端にいないのでしょう。


<Cカイラス書房>
阪急ビルから切り替え工事部を写したもので、阪急本線の軌道は全て高架になっており、北野線だけが地上に下がっていきます。
(ただし右下から宝塚線電車のいるあたりまで数十mは盛土です)
阪急本線上に2編成の車両が見え、手前のが宝塚線、奥のが神戸線の電車です。
画面右下隅にホンの少しだけ梅田跨線橋の鉄骨が見え、そこから盛土まで4スパンの鋼桁が続きます。
阪急の軌道はヤンマーの前までは土盛です。(右下には石積が見え、電車の近くには矢板がみえます)
   普通ならこんな鋼桁部を設けることはせずに全て高架橋にしたはず。
   何か目的があってこんな設計にした、と考えると元々仮工事だったのでは?とカングります。
新神戸線の軌道は敷設されていますが、新宝塚線の軌道はまだのようです。
国鉄・阪急の切り替え工事と同時に阪急もここで新旧切り替えをしなければならないのです。
国鉄の新東海道線上には3本の軌道桁と2台のクレーン車がいます。桁の上には枕木もレールもありません。
さらに手前には新軌道桁も見えますが、この接続はもう少しあとになります。
専門的になりますが、この工事中の桁(小屋の右側)は「非合成I形鋼桁」(桁の上にコンクリート床ができる)
一方、小屋の左側の桁は「I形鋼製下路橋」(コンクリート床はなく、桁が軌道の上に飛び出す)
つまり、この下路橋は現在も電車から見えるハズ!
次の写真に見えるテント小屋がありません。この写真が切り替えの数日前だからでしょう。
右下にはヤンマーの屋根が見え、その上には梅田東小学校があります。


<Dカイラス書房>
上の写真に赤線で阪急第2跨線橋を、緑で茶屋町架道橋を示しました。右端に2本並ぶ電柱の向こう側を桁が通ります。(写真Hで一目瞭然)
阪急の旧線軌道、特に鋼桁部分と干渉しているように見えますが、レールと枕木を撤去して回避できたと思います。(ギリギリですが)


<E十三>
   新東海道線の上に3本の桁がクレーン車と一緒に写っています。桁は軌道上に置いてあるだけでまだ吊ってはいません。
   左下の新東海道線と仮環状線(単線)は北野線手前まで完成しています。
   阪急の新駅(地上)はほぼ完成しています。
   阪急の新駅の前にある旧環状線上家はすでに撤去してありますがホームは残してあります。
   阪急本線と並ぶ北野線の架道橋の床の一部が剥がされているので@より後。


<Fカイラス書房>
手前を左右に走るのが東海道線、その上に見えるのが新東海道線高架工事中
右側の高架のずっと奥を走るのが阪急神戸線の電車、左下から奥へ登るのが阪急の新宝塚線、新神戸線はここには写っていません。
新宝塚線の架線はすでに駅舎まで設置されています。切り替えを1晩でやるので、周囲の工事はできる限り事前に完了させておく必要があるのです。
大勢いる阪急作業員が角材を持っているのは、レール位置を修正するためです。測量係が見当たらないのが不思議です。
国鉄の高架上には3台のクレーンが桁を吊って待機しています。
写真右端には阪急の高架橋がホンの少し見えています。そしてガッシリした橋台も。
その橋台と国鉄の橋脚との間に階段が見えます。階段というより斜面(法面)と呼ぶべきものです。
その階段の上でハシゴを電柱にかけています。このハシゴが次の写真にも出てきます。
この斜面の位置が重大な意味を持ってくるのですが、後で説明しましょう。


<Gカイラス書房>
左右に走る国鉄線路がまだあり、周囲が明るいことから阪急が行っている準備作業だとわかります。夜間作業のための電燈が鈴なりです。
Dの作業員は阪急の制服ですが、ここでは違います。ここでは砂利敷だけなので土木作業員にまかせているのです。
後ろの高架の壁に「清水」とあるのは、清水建設のことです。(阪急は竹中工務店と大林組)


<Hカイラス書房>
阪急北野線(下に枕木だけが見えている)から大阪駅方向を写したもの。手前道路はすでに通行止めになっています。
一番近い電柱の手前に見えるレール・枕木は撤去して仮置きしているものです。阪急本線はこの電柱の向こう側に見えます。
クレーンで吊られた桁は環状線のためのもので(車輪を支持する角材が見えている)東海道線の2本は右欄外です。
桁上には枕木がすでに取り付けられています。(レールは見えません)
阪急の架線はまだあります。(右上のハシゴがなぜそこにあるのか気になりますが)
この写真は大変重要な情報を示しています。
      阪急線と新東海道線のレベル差は約2m


<I十三>
横切る電車は阪急宝塚線下りです。パンタグラフを下ろしていますが、架線はまだあります。
手前に並ぶ軌道桁は、右2本が東海道線、左1本は環状線。北野線と道路を跨いで据付けられています。
桁上の枕木は固定され、レールは置いてあるだけです。
さきほどの電柱にかけたハシゴと工事桁の位置関係から、次のことがわかります。
    手前3本の桁先端は盛土部分に置かれている(もちろん橋台は必要)
影の方向・長さから切り替え工事の直前の昼頃の撮影です。
この桁は道路をトレーラ輸送したものと思われます。(事前に軌道上に置いていないから)

ここまでは昼間の工事で、次から夜間工事の写真です。


<Jカイラス書房>
この写真の判別は難しいです。国鉄なのか阪急なのか
右端奥に電車の表示板が見え、梅田-十三とあることから阪急宝塚線の下り電車です。
さらに電車の前に作業員が1人立っていることから、梅田発十三行きの終電だとわかります。(梅田駅に電車を残してはならない)
もう明朝まで電車は走らないどころか、彼の立つ線路は1時間以内に撤去されるのです。
終電が通過したとたんに切り替え作業員が立ち入って軌道撤去を始める瞬間の写真でした。
写真は北野線側から写したもので、場所は梅田跨線橋から数十mの位置と大胆に推測しました。
白い上着の作業員の立つ柱の両側で軌道桁がまったく違います。左側の桁長が大変小さいことを示すものです。
そのような設計になるのは跨線橋の脇あるいは盛土から高架への切替部しか考えられないのです。
桁側面に真田十文銭のように白丸が見えます。これはリベットを外した跡でしょう。
宝塚線の上りは終電前にもう使わなくなっているので、少しでも早く撤去工事を早めたのでしょう。
テーマと関係ないのですが
   左下で作業する2人と右側奥で背中を向ける1人は同じ会社のようです。
   頭にかぶるのが別々なのです。手拭・麦藁帽・ベレー帽(笑)
   上着の背中にあるマークは ┐に土 あるいは ┐にキ
   さて、一体何という会社なのでしょうか?


<Kカイラス書房>
まるで夜店のようですが、切り替え工事の直前の夜景です。
左右に走るレールは旧東海道線、大勢がいるホームは旧環状線(大阪鉄道)、その向こうの駅舎は阪急新梅田駅です。
ホームの左右両側に見える電柱は阪急の新線のためのもので、架線を支持するためのものです。(環状線ホーム上家はすでに撤去済み)
座り込む黒い制服は地下足袋をはいていることから作業員です。その奥に見える阪急の作業員は灰色の制服です。
国鉄がレールや砕石・架線などを撤去してからでないと阪急は入ることができません。
立っている着物姿はヒマ人とモノズキ達ですが、どうやって入り込めたのか????
見物がてらに環状線(地上)の最終電車を待っているのではないか?それならツジツマが合います。


<K大阪駅の歴史>
数少ない夜間工事写真で、国鉄の3本の高架桁が並び、そのうち最も南側の1本が引き出されています。
ですが、まだ計画位置までは出ていません。それは桁の下に積まれている角材の位置でわかります。
この写真から、3本は南側から順に架設されたことが読みとれます。(順序が気になるのは職業病です)
このように3本が近接している場合は決して同時には工事しません。(もし事故が起これば・・・)
大胆に架設時間を推測すれば、1本あたり0.5〜1時間として3本で2〜3時間ではないでしょうか。
画面下部に見えるレール・枕木は阪急のもので、工事部分から撤去されたものも並んでいます。
見物人はなぜか全員が洋服+靴(夜なのに帽子)


<L出所不明>
桁の吊り下ろし作業です(夜間工事)。クレーン車のハミ出た車輪は角材を積み上げて支持。
この角材は上の写真にも写っています。
桁の上には枕木が置いてあるだけで固定されておらず、レールもありません。

          
          工事の解説図を作ってみました。
          桁を吊ったままクレーン車が前進し、桁先端が届いたらワイヤを緩めて先端を橋脚に預けます。
          次に桁根元を吊り上げて台車から浮かせ、クレーン車を少し後退させます。(上の写真はこのとき)
          ワイヤを緩めて足元の橋脚まで下ろして終了です。

ここからは切り替え後の写真です。


<M十三>
切り替え後の写真です。影の長さ・方向から撮影は昼ごろだとわかります。一番電車ではありません。
中央に見える電車は左側が環状線、右側が東海道線下りです。
よく見ると、桁が折れ曲がっています。つまり中間で切れているのです。
そのためには阪急本線と北野線の間に桁を支持する橋台が必要です。
北野線の上の3本の桁には北側にだけ影があることから桁は北野線道路よりも高い位置にあることがわかります。
北野線と道路はこのため通行できなくなっています。
北野線の高架橋部分の床はすでに剥がされて鉄骨が露出しています。
阪急本線の撤去がされたのかどうかはこの写真では判別できません。
地上部では阪急梅田駅と新東海道線高架桁との間の撤去は必要最小限にとどめたことがわかります。
旧環状線ホームの撤去範囲を見れば明らかです。


<Nカイラス書房>
阪急梅田駅(地上)の開業前の写真と思われます。電車がいるので切り替え後です。
大アーチの下に3線、その両側に1線づつ、合計5線が入ります。


<O十三>
6月1日の開業日の新梅田駅ホームだそうですが、私は時期を疑っています。
その根拠は、天井からブラ下がった番号です。 切り替え直後は5線のはずなのにどうして6・7なのか?


<Oa 十三>
こちらも昭和9年頃とあるのですが、線路端の上にある線路番号が違うのです。
さらに、5番の向こう側には別棟と2編成の列車も見えます。
少なくともEaは梅田駅京都線ホームが拡張された昭和34年以降のものでしょう。
そこで、梅田駅の歴史を調べてみると
    1959年(昭和34年)2月18日 - 梅田駅 - 十三駅間に京都本線用の線路が増設される(正式には宝塚本線の線増)
    これ以前は、2 - 4号線が宝塚本線ホーム、5号線が京都本線ホーム、6 - 9号線が神戸本線ホームであった(1号線にはホームなし、9号線はラッシュ時のみ使用)
    この時点では、1 - 2号線を京都本線ホーム、3 - 5号線を宝塚本線ホーム、6 - 8号線を神戸本線ホームとした(9号線の使用状況は不明)
ではEは一体いつの写真なのか? あとは鉄ッチャンよろしくね。


<Pカイラス書房>
切り替え工事後の阪急地上駅です。軌道には多数の分岐があり、阪急の工事で最も手間のかかった部分です。
左端には旧東海道線の軌道が少し見えていますが阪急線内はすべて撤去したことがわかります。(旧環状線ホームは残っているハズ)
左下の電車は阪急神戸線、奥に電車は東海道線の下り線です。


<Qカイラス書房>
切り替え後の見物人です。着物に下駄ですが羽織はしていないので近所のヒマ人なのでしょう。
国鉄の新高架桁のため、阪急のレール・枕木・砕石を一部撤去したことがわかります。
(もう少し国鉄側が高ければ何もしなくてよかったのでしょうが)
客車と機関車の隙間から北野劇場の屋根がみえています。


<R十三>
1936年(昭和11)2月10日、大阪市が国鉄に工事委託していた地下鉄梅田駅の掘削用土留壁が崩れる大事故がありました。
左側で傾くのは木造の大阪駅仮駅舎。その向こう側には環状線ホームが見えます。
旧東海道線・旧環状線はすべて撤去されています。
新阪急線を跨ぐ桁が本設になったかどうかはわかりませんが、少なくとも環状線はまだタ単線接続していました。


<S出所不明>
撮影年代が不明ですが、京都線はまだできていません。
北野線の軌道はまだありますが、架線は撤去されています。つまり北野線廃止後の写真なのです。
                             1949年(昭和24)に運転中止となっています。


<21 http://osaka-salon2.seesaa.net/article/188611696.htmlより>
1955年(昭和30)頃の写真だそうです。
阪急京都線はまだできていませんが、国鉄の高架はそれを考慮した上で本設に変わっています。
宝塚線の軌道配置が開業直後Pと違うことがわかります。一番右端で北へ伸びるのは留置線で京都線ではありません。
宝塚線を跨ぐ環状線の桁は現在(2014)でも道路から見ることができます。
右下に木造建物ができています。


<22 十三>
1959年(昭和34)年の写真です。
阪急京都線の軌道ができています。
右端の小学校とヤンマーは変わっていません。
いろいろな看板が増えています
阪急の左側の町並みは戦災に会わず昔のままです。(その後、阪急梅田駅の移転でなくなりますが)


おまけ
阪急本線・北野線をまたぐ国鉄橋梁をネットで探していて、「萩の寺」が出てきました。
明治43年に阪急電鉄(当時は箕面有馬電気軌道)が開業し、沿線は次第に開発が進みます。
箕面有馬電車唱歌に
    東風こち吹く春に魁けてさきがけて開く梅田の東口
   往来うゆうかう汽車を下に見て
   北野に渡る跨線橋
   業平塚や萩の寺 新淀川の春の風
   十三堤の野遊びに
   摘むやたんぽぽ五形花げんげばな
萩の寺は北野にあったのですが、阪急の小林一三の肝煎りで、別院があった豊中・曽根に移転します。大正元年のこと。
北野の寺が邪魔になったというわけではなく、阪急沿線の開発・発展(ひいては阪急の発展も)を期待してのことでしょう。
      http://www.haginotera.or.jp/outline/history_ep05.php
同じHP内の寺の由緒に 川崎東照宮 の言葉が目に付きました。
      http://www.haginotera.or.jp/outline/history_ep03.php
川崎東照宮は大塩の乱で出てきます。(紹介済み)徳川家康の死後、大阪にも権現を祭る東照宮が建てられたのですが
明治6年(1873)、明治維新後の反徳川、豊臣再興の風潮で廃社となり、その後どうなったかは大阪の歴史において空白となっていました。
ところが、昭和57年当山経蔵から発見された文書や絵図により、川崎東照宮が廃社直前に当山に遷座されていたことが判明しました。
現地蔵堂が東照宮本地堂「瑠璃殿」であり、その際文書類と一緒に発見された薬師如来が御本地仏であることがわかったのです。
長くなりましたが、思わぬところに繋がりが出てきました。
曽根の萩の寺はウン十年前、高校に通う阪急電車の窓から良く見えました。(今も)


おまけ2
阪急の梅田駅から十三駅までの工事概要が土木学会の論文にありました。
論文「阪神急行電気鉄道高架線建設紀要」は1926年(昭和2)6月に発行されたもので、工事は大正15年7月に竣工したとあるので、切り替え工事前のことです。
      http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00034/13-03/13-3-11657.pdf
この中で橋梁一覧にはこうあります。
橋名形式径間(尺)重量ton 現状
梅田跨線橋複線鋼構桁150297.4x2連1連は神戸市に移設
鉄道省貨物跨線橋複線鋼構桁150297.4x2連後に京都線も増設
北野跨線橋ハーフスルー形
砂利床複線箱桁
80191.1後に架け替え
ははあ、阪急さんは同じ橋梁を4連つくって設計と製作の手間を省いたのね?
つまり、国鉄・阪急の上下切り替え前にあった阪急の橋梁と同じ形のものが、今も中津にある、ということです。

おまけ3
阪急梅田跨線橋のうち宝塚線のものが切り替え工事後に解体保管されており
1938年(昭和13)の阪神大水害で被災した住吉川橋梁に代わって架け替えられました。
その橋梁は今も現役で使われています。
情報はここから頂きました。

ほぼ原型を留めています。

おまけ4
土木学会のアーカイブに歴史的鋼橋についての技術的紹介がありました。
そこの中に
      大阪駅の東海道線跨線線路橋(宝塚線用、神戸線用各1連)は大正15年開通、昭和9年東海道線高架化阪急地平化に伴って撤去。
      その後当住吉川橋梁と宝塚線国道176号架道橋に転用。斜角付のトラスである。
とあります。つまり、梅田の跨線橋は2連とも移設されたわけです。
   ただし、国道176号線のどこに移設されたかは書いてありません。
形状から判断して、庄内駅南の架道橋がそれです。

1967年(昭和42)撮影の写真で豊中市立図書館の北摂アーカイブにあります。
国道176号線(当時は産業道路大阪池田線)の建設に伴い地元の要望で昭和10年に完成した、とあります。
名称は牛立跨道橋となっています。
当時の線路は地上を走っており国道と平面交差してしまうからでしょう。阪急は梅田切り替えで余った高架橋をここでも利用したわけです。
ただ、梅田の宝塚線桁を移設したのかどうかは確認できません。

左が梅田方面、右が庄内方面です。
中学生の私はこのガード下を潜って手前背面にある接骨院に通ったことがあります。その接骨院は50年後の2014年も繁盛してます。

おまけ5
梅田跨線橋と同形の「鉄道省貨物跨線橋」を見に行きました。名前は「中津跨線橋」に変わっていました。

手前から神戸線・宝塚線・京都線の同じトラス桁が並んでいます。
銘板がないらしく、ペンキで書いてあります。1925年製作と。


梅田側の橋脚です。右側の雑草で覆われたフェンスは撤去工事中の貨物線のものです。
高架の上に見える左のビルは済生会中津病院、右のビルはグランフロントのマンションタワーです。
高架下にある「梅田運送」は明治には国鉄大阪駅の貨物運送をやっていたのでは?
右の雑草で覆われたフェンスは撤去中の貨物線のものです。


貨物線の撤去が進んでおり、こんな知らせが張り出されていました。
何度かここを潜ったことがありますが、能勢街道橋梁という名前とは知りませんでした。


おまけ6
図書館に並ぶ当時の新聞縮刷版を読んでみたのですが、どこにもニュースになっていませんでした。
  なぜ?
実は、工事は昭和9年5月31日の深夜から6月1日の早朝に行われたのですが、30日に東郷提督が亡くなっているのです。
もちろん、大ニュースで国葬の準備もあり、工事ニュースは吹き飛ばされたわけです。


おまけ7
土木学会論文 橋梁架設用操重車ソ1形の歴史
ここに詳しい説明(鉄チャンの中でもトップクラスの変態でなければ読まない)があります。


これがそのソ1形の図面です。次第に改良されてソ2〜6形があった、との説明なのですが、その資料はありません。
大阪駅工事で出てきた工事車両はこのソ2〜6形のどれかなのでしょう。
上記論文を眺めていて気が付きました。操重車ソ1形は自走できないのです。
たいていは小型の蒸気機関車で押されていました。がしか〜し、今回の切り替え工事ではそれらしき機関車が写っていないのです。
一体どうやって操重車ソ1形は走ったのか?

 
こちらは土木学会論文から                      こちらは宮路鉄工のHPから