大阪をホジクル
12.梅田墓
2014年5月たまたま梅田北ヤードで撮影をしていて、ふと梅田墓のことを思い出しました。
それを知る人はごく稀です。(要するにモノズキ?)
大阪の町から次第に古いものが消えてゆき
梅田かいわいを歩いても痕跡は「そこにあると知る人」が見て初めてわかる程度です。
なぜ梅田と呼ばれるのかその由来はあちこちのHPに記載されているので割愛。
「梅田墓」と言えば「大坂七墓」を紹介しなければなりませんが、これも割愛。
なぜ梅田墓が知られていないか、それは大阪駅と関係があるのです。
大阪駅の下に埋まってる、というアナタ! 真相は近いです。
調べるほどに、歴史マニア・鉄道マニアには面白い話題が出てきます。脱線する悪いクセのせいでもありますが
@阪急梅田駅の1階にある地蔵 地蔵横丁の北向地蔵とは
A済生会病院と北野高校なぜそこに病院が、なぜ北野
B北ヤードの地下道なぜそこに
C梅田ランプの踏み切り踏み切りの脇にあるのは
D大阪駅高架下高架下に謎の
E国鉄と阪急と阪神と地下鉄といつからそこにあった
F南ヤードの貨物線南ヤードとは
G貨物駅の掘割<掘割があった?
H移転した寺いったいどの寺
I今もある寺・神社いったいどこに
J阪急梅田駅のゴタゴタ小林一三が怒った
K3つの梅田駅(国有鉄道・西成鉄道・大阪鉄道)そんな鉄道どこに
さて、今回はそのうち梅田墓に関するあれこれを。
では、始まり 始まりぃ〜 チョーン
まずは、梅田北ヤードがどんな場所か地図で示します。
グレーの三角地が梅田北ヤードと呼ばれています。
拡大してみました。Google Mapではまだ北ヤードに貨物線路が並んでいます。(2014年には3線を残して撤去済)
梅田墓は北ヤードの南西端、「梅田ランプ西」と表示されている場所にあります(ありました)。
それを衛星写真に。
3本残されたうち一番左端の線路1本だけが使われています。
京都から新大阪・梅田貨物・福島・天王寺を経由して関西空港まで。特急はるかが走っています。
「梅田墓」で検索すると
58万件がヒットし、上位はこのようになります。
「大阪七墓」という耳慣れない言葉に気がつきました?
江戸時代の習俗で、当時の郊外にあった七つの墓地「梅田、南濱、葭原、蒲生、小橋、千日、鳶田」を
お盆に巡って先祖の墓・無縁の墓を祀るということがありました。
7つのうち南濱と蒲生は現存しています。
実は七墓には別説もありますが、まぁそこはソレ・・・ゴニョゴニョ
この検索結果のトップに出てくるページには梅田墓の場所がどこだったか、特定されています。だったら僕がワザワザ書くこともないか・・・
4番目の「梅田駅にお地蔵さん」の話題は日経新聞の調査不足です。バッサリ
わざわざ明治の地図で梅田墓を示しておきながら、地蔵さんの位置がはるか遠いことに気が付いているのかいないのか。バッサリ
地蔵尊奉賛会の方は「地蔵尊はこの付近の畑から1891年に掘り出されたものです」と言っているが、墓から掘り出されたとは言ってない。バッサリ
北向き地蔵は全国でも珍しい、と言うが近所の源光寺にも北向き地蔵はあるし、結構よく見かけます。バッサリ
最後に出たきた大深町は、昔は北野大深町さらに前は北野村字大フケ。
墓の場所は曽根崎村字北条のほうがよいのですがねぇ。
2014年2月現在でのストリートビューはこんな風になっています。(近いうちに削除されるでしょう)
はるかかなたにグランフロント大阪と大阪駅が見えています。
踏み切り小屋の奥に無惨な大木が覗いていました。
ほんの少し位置を変えると1年前の写真が表示されました(何とも不思議)。小さな森のようです。
道路の反対側を見ると茶色の箱のような、機械のようなモノがあります。
近寄ってよ〜く見ると、何と単なるコンクリート塀でした。交差点の角ならわかりますが、なぜここに?なぜ茶色?
実は、確かに昔は角だったのです。40年もムカシには。
このベージュ色の建物の向きがヘンなことに気が付きませんか?隣の建物とも道路ともズレた角度に。
そうです、昔はこの斜め壁ギリギリに線路があったのです。茶色のコンクリートは電柱の保護だったのです。
衛星写真を拡大すると踏み切りや茂みがわかります。
これは2014/7/25に撮影したもので、線路が3線残されています。
(ところがこのずっと先の阪急電鉄との交差部では単線になっていたので、いずれすべて単線になるのでしょう)
枝を切り落とされて夏草の中にありました。このまま残されるのでは?(撤去するなら最初にしているはず)
線路の反対側の建物裏の片隅に今も地蔵堂があります。この建物の所有者が祀っているのでしょう。
私有地なので見ることができません。
ここも「北向地蔵」です。
さて、昔はどうだったでしょう?
航空写真や地図を新しいものから古いものへと遡っていきます。
2007年(平成19)右上で大阪駅ターミナルビルが工事中です。
梅田墓の北側に非常に細長い建物があります。(撤去済み)
1997年(平成9) 北ヤード内の線路の数が増えています。(むかしは多かったということネ)
大阪駅南側(画面下端)に高層ビルの工事が始まっています。
1985年(昭和60)その同じ場所にテント小屋が見えます。(ミュージカルCATSだったか)
北ヤード西南隅には細長い建物があり、木も植えられています。(まだあまり育っていない)
実はこの建物工事で墓石が出てきたので、まとめて祀ったのが「梅田墓の跡」だったのです。
貨物駅をつくるときに古くからあった梅田墓を整理撤去したのですが、墓石がまだ埋っていたわけです。
1975年(昭和50)梅田墓の植木とその北側の建物はありません。
大阪駅の下をくぐって北ヤードと南ヤードがつながっています。
北ヤードの東端には5角形の建物(大阪鉄道管理局)
北ヤード西の梅田スカイビルはまだ建っていません。
大阪駅の東側、阪急梅田駅は線路の北側にあります。
同じ年の別の拡大写真です。北ヤード西端から2本の線路が延びて、1本は福島方向へ(この線は現在も使われています)
もう1本は南ヤードへまっすぐ。その痕跡があるのであとで紹介しましょう。
また、大阪駅をくぐって貨物線は南ヤードへ伸びていました。この痕跡は残念ながら見つけられませんでした。
さらに、画面中央の線路を斜め左下へくぐるわずかな痕跡を見つけることができます。
これこそ、北ヤードと南ヤードからさらに堂島川まで繋がっていた掘割の跡です。(その証拠は次の地図)
1954年(昭和29)掘割が北ヤードまで延びています。
南ヤードの線路は消えていますが、実はまだあります。
大阪駅の北側、現在のヨドバシカメラの場所に大阪陸運局とありますが、大鉄局(大阪鉄道管理局)と呼んでいました。
阪急電鉄(当時は京阪神急行電鉄)はJR(当時は国鉄)をくぐって南側に駅がありました。
地図左上隅に北浦江駅と線路が見えます。これは阪神電鉄の北大阪線(野田から中津を通って天神橋6丁目まで)
北大阪線は意外に古く、1914年(大正3)に開業し、阪神国道線と同じく1975年(昭和50)に廃線。
1948年(昭和23)掘割には船がいます。まだ戦災の空き地があちこちに見えます。
北ヤードから線路をくぐって南に延びる貨物線も見えます。
阪急梅田駅は線路の南側、阪急デパートに囲まれた1階にあります。
大阪駅の線路の数が少ないのに気がつく人は年寄りです。環状線0番ホームはまだありません。
部分拡大してみました。
駅の南北に伸びる掘割がはっきりわかります。
北ヤード南端と駅に挟まれた四角いビル(日本通運)は今も現役で使われています。
1937年(昭和12)西側(福島)から大阪駅南側に1本の線路が延びています。
最初はこれを西成鉄道の線路かと考えたのですが、時代が違います。これは南ヤードの貨物線です。
不可解なのは、阪急で高架鉄道と平行して路面電車線があるのです。これが市電なら気にしないのですが。
確かに阪急は最初は路面鉄道として出発しています。高架線ができた後も路面線を残していたのでしょうか。
1935年(昭和10)1937年と差がありません。
1934年(昭和9)戦前の航空写真です。
水色は堀割です。赤線は貨物線、ピンクは下が阪神電鉄・右上が阪急電鉄です。
大阪駅は貨物線が分岐しており下記1933年地図の通りです。
西端の線路がさらに伸びていたかどうかは確認できません。
大阪駅の下をくぐって南ヤードへの線はありません。
黄色は貨物駅を横断する道路を示し、上の線にそって地下道が作られます(すでにあったかも)
もともとあった道路が北ヤードで途切れたため、地元住民が子供の通学のため国鉄に求めたとあります。
1933年(昭和8)国鉄線路がずいぶん違います。貨物線は本線と繋がっていません。(これはウソ)
大阪駅構内の線路が複雑に表されています。
北ヤードを横切る地下道が破線で示されています。地下道は1928年(昭和3)にできました。
地下道の東端に建設時の銘板があります。
古来至誠にして動かざるはなし
是ある哉かな
我等区民の誠意は遂に鉄道省に容きられ
梅北の廃道茲ここに復活して
延長壱千六百五拾八尺(503m)に亘わたる大地下道の
竣工を見る時方に昭和三年四月 今や市民蘇生の悦よろこびに堪えず
只管聖代の恩澤を謳歌(原文はロ編)す
依って茲に之を刻み以て竣工の記念とす
梅北道路復活期成同盟会
建設時は延長503mですが、現在は200mしかありません。この違いは簡単なのであえてここには記しません。
北ヤードの掘割はまだありますが1928年の地図にはありません。この間で開削されたのです。
阪急は梅田と中津(北野)の間は2線が平行していますが、多分短い方のは以前の地上線を書いてしまったのでは?
阪神北大阪線は中津で貨物線を高架で超え、阪急の下をくぐっています。
1928年(昭和3)貨物ヤードが消え、大阪駅の線路が数少なくなりますがそれはウソです。(次の地図を見てください)
中津からの貨物線は何と本線に繋がっていますが工事中なのか計画線だったのか。
阪神北大阪線はすべて地上を走っています。貨物線ができて阪神は高架にせざるをえなかったのです。
下の地図と比べると明らかですが、北ヤード敷地予定地から3つの学校の名前が消えています。
堂島川からの堀は線路で途切れています。
1926年(昭和元)内務省陸地測量部の地図です。
北ヤードはまだなく、貨物線は東海道線の分岐として多数あります。
不思議なのは、環状線東側が西側と接続していないことです。とっくの昔に接続されていたハズ。
大阪駅の北側から中津にかけて学校が集まっています。
北野中学校・工業学校・高等女学校
梅田墓の土地には「成恩寺」が見えます。
大阪駅北側の掘割はなく、南側掘割には途中(出入り橋)で枝分かれして左へ伸びる堀が見えます。
阪神電車は東梅田町まで地上を走っていました。
1925年(大正14)ついに北ヤードはタンボになりました。
中津には梅花女学校(元は土佐堀にあった)現在の梅花女子大
さらに中津駅の南側には北野中学校(元は堂島中学校)現在の北野高校
牛丸町には工業学校(後に都島工業学校から大阪大学
北梅田町には高等女学校(現在の大手前高校)
金蘭女学校(現在の金蘭会高校)
福島には関西商工学校(現在の関西大倉学園)
大阪商業(現在の大商学園)
関西大学(京町堀から千里山に移転したハズなんですが・・・)
と文教地区になっていました。
阪急電鉄(当時は箕面有馬電気鉄道)は路面を走っていたのです。
大阪駅構内の線路は再び簡単な表示ですが、実はそうではありません。
1918年(大正7)1925年と差がありません。
1911年(明治44)堂島から北側には排水路が多数あったことがわかります。
出入り橋は堀が交差しています。(蜆川と呼び、堂島は確かに島だったのです)
成恩寺の場所には卍ではなく墓地の印があるので成恩寺は山崎からまだ移転してきていないとわかります。
また福島の北、大仁には大仁墓地が示されています。高等女学校や金蘭女学校の建設のため梅田墓地は手狭に
なって大仁墓地を開いたと考えたいのですが、どうもそうではないようです。
大仁墓地が現れるのはこの地図だけで、ネット検索しても一切みつからないのです。
環状線が単線で示されています。
1906年(明治39)
大阪駅より北側の地名がガラッと変わりました。
大仁の北に火葬場がありますが、これは梅田墓ではありません。この頃にはここに移転したのです。
移転の理由は、梅田の北側を学校地区にすることです。空白の部分がそれです。
大阪駅-福島駅間はまだ単線だったはずです。
阪神電鉄(当時は阪神電気鉄道)本線は神戸-出入橋までだったが1906年12月に梅田駅まで延伸し出入橋駅は廃止される。
通運会社とあるのは現在の日本通運で、今もあたりは日本通運の施設が無数にある。
桜橋と大阪駅の間に「静観楼」が見えます。料亭なのですが一説には元のサンケイホールの場所にあったとか。
1909年(明治42)の大火で半焼したそうで、この地図はその前に作成されたものです。
静観楼の写真はみつかりませんでした。
2022/6/22 追記 写真は入り口を示したものがありました。
次の絵図の左側にある表門では?
全体を示す絵図を見つけました。
出典:明治14年出版「難波の魁」の北区の章より
会席料理業 北新地裏町北側
塀に沿って堀がありますが、はて地図にはそのような川はないし。
「温泉」があったり「利休店」があったり、宣伝が先行していたようです。
1900年(明治33)梅田かいわいには複雑な排水路が残っています。
西梅田町から大仁への途中(ちょうど成恩寺の場所)に墓地の印があります。
鉄道線路の書き方には大いに疑問がわきます。
1874年(明治7)東海道線 神戸-大阪間が開通
1877年(明治10) 大阪-京都間も開通
1895年(明治28)大阪鉄道 天王寺-梅田が開通
1898年(明治31)西成鉄道 福島-安治川口が単線貨物として開業
1899年(明治32)西成鉄道が福島から大阪まで延伸
1900年(明治33)西成鉄道大阪駅と大阪鉄道梅田駅は統合されたが線路は繋がっていない ←上の地図はこの時期のハズ
同年 大阪鉄道は関西鉄道に吸収合併
1906年(明治38)西成鉄道は国有化
1907年(明治39)関西鉄道は国有化
1912年(明治45)西成線は福島-安治川口間を複線化
1913年(大正2 )城東線天満-大阪間が複線化
1932年(昭和7 )城東線大阪-京橋間が高架完了
1964年(昭和39)福島-大阪間がようやく複線・高架完了
1898年(明治31)大阪駅の北側だけでなく南側(曽根崎村・上福島村)にもタンボがあります。
堂島川からの掘割はかわらずあります。
成恩寺になる場所には墓地が広く示されています。
ついに環状線はなくなりました。(でも実際には環状線はできていましたが)
大阪駅(当時は大坂停車場)の敷地が破線で示されています。梅田墓はギリギリ外れています。
1895年(明治28)大阪駅は梅田停車場と表示されています。
付近は一面のタンボのようです。
東海道線は明治7年に神戸-大阪間が開通し、明治10年には大阪-京都間が開通します。
堂島川から大阪駅まで掘割が引かれました。貨物はまだ船で輸送することが多かったのです。
右上に「凌雲閣」があります。東京浅草の凌雲閣より1年早く完成した9階建高さ39mの展望塔で
北野茶屋町にあった遊園地「有楽園」のものでした。
昭和9年の航空写真には見えないのですでに取り壊されたのでしょう。
1886年(明治19)中央の白抜き部分が大阪駅(当時は梅田停留場)で梅田墓に黒丸をつけました。
「梅田墓が広がっていた」とは思えません。元からこの程度の広さだったのでしょう。
火葬が主流だった時代、公共墓地はそれほど広い必要がなかったのです。
浄祐寺の名前が梅田道の横に見えます。
1882年(明治15)この地図では「梅田ステーション」とあります。
堂島川からの掘割は明治11年に開削されたのがわかります。
出入橋はこのとき掘割を渡るため掛けたものです。
おまけ情報 「出入り橋のきんつば屋」は創業1930年(昭和5)なので
出入り橋ができてからずいぶん後に創業したことになります。
堂島の北を流れていたシジミ川はその頃には埋め立てられていましたが出入り橋は健在でした。
梅田橋は出入橋より下流にあり、近くにある「材超寺」は検索で見つかりません。
1872年(明治5)まだ鉄道は敷かれていませんが、堂島に鉄道寮(鉄道省)がすでにあります。
堂島川からの掘割はありません。鉄道と船を結ぶため掘られるのです。
材超寺の名前はここでも見えます。
梅田三昧さんまいというのが墓地です。
三昧という言葉は三昧聖さんまいひじりと密接な関係があります。
高野聖こうやひじりという言葉はご存知でしょう。
あるいは穢多えた・隠坊おんぼうという言葉は?
三昧は仏教用語で禅定(苦行により到達できる精神の深まった状態をさらに超えて
精神のあらゆる動きがなくなった究極の状態)であるが
中華三昧はおいしいですが、言葉としては正しくありませんデス
それが悟りによる死・あるいは死ぬこと自体を指し、さらには墓を指すようにもなった。
三昧を守る人・墓地を守り運営する人・埋葬を行う人 という意味が三昧聖であろう。
なぜ、それが穢多非人と関係があるか、非常に興味深いがここでは割愛。
「三昧聖の研究」細川涼一編 11,550円 発行:碩文社
1837年(天保8)大塩の乱の年
梅田三昧ではなく梅田墓と示されています。
梅田墓への1本道がはっきり示されています。大阪駅ができる前からです。
浄祐寺と材超寺の両方が示されています。この2つは異なる寺だったわけです。
1789年(寛政元)ここでも梅田墓となっています。
梅田墓への道の右側が曽根崎村、左側が上福島村浄祐寺、西には大仁村・浦江村・海老江村と続きます。
堂島から梅田墓へ行く橋にムメダ(梅田)とあります。
ここでも梅田墓への1本道があります。
1691年(元禄4)ついに曽根崎村から北は何もなくなりました。多分タンボ。
堂島の北側を流れる蜆川は曽根崎川と呼ばれています。
梅田橋があるのに梅田墓がみえません。なかったのか単に書いてないだけなのか
梅田墓・梅田道・梅田橋はセットで考えるべきものと思います。
江戸時代以前の梅田の地図は残念ながらみつかりませんでした。
いろいろなHPで梅田墓を含む大阪七墓は
1615年(元和元)に大坂市街地整備の1つとして設置された
とありますが、納得できないのです。その原資料が何だったのか不明です。
その年は大坂夏の陣で5月に大阪城は落城し豊臣は滅亡します。
その直後の年内に墓地をつくることができたでしょうか?
梅田墓の東方に七墓の1つ、濱墓と源光寺があります。
その縁起によると古く行基まで遡ります。(寺も神社も古さが売りもの)
古くからあった墓が江戸期に整備されたと考えるのが素直です。
とはいえ、濱墓もかつてあった無縁墓はすべて撤去されてしまい、行基にまで遡る証拠は残っていません。
梅田墓はもう跡形もありません。
============ 以下 おまけ =========================
鮨萬
中央区高麗橋に鮨萬という雀鮨で有名な店があります。もちろん行ったことありません。自慢するなよ
鮨萬の歴史には
承応2年(1653)頃、河内屋長兵衛が福島村にて雀鮨をつくり、売り始めたのを最初とし
その頃浪速七郎左衛門町の魚の棚でも魚屋業を営み、その副業として雀鮨を売っていました。
魚の棚は横堀2丁目なので船場です
天明元年(1781)初代萬助の時、小鯛雀鮨専門店を創業。当時京都仙洞御所のご用命で小鯛雀鮨を献上し
以来禁裏御用御鮨師を世襲しています。
明治42年(1909) 店鋪を高麗橋5丁目に移転し、6代目萬助が家業を継ぎました。
とあり、説明文には
すし萬の先祖である初代河内屋長兵衛が、承応2年(1653)福島は梅田橋北詰において始めたと伝わっています。
そして、「福島村に製す江鮒の小さきを背割りとなし、潮に浸し、これをかわかし飯をいれてつくる魚の、はらの脹れて形すずめに似たるをもって名付く」
と江戸時代の書物「摂陽群談」「嬉遊笑覧」「改正増補日本鹿子」「摂津名所図絵」などに、名物として紹介されています。
雀鮨専門店の看板を上げたのが1781年ですから江戸中期です。
享和元年(1801)改正の「難波丸綱目」には「上ふくしますゞめ鮨、ふくしまや長兵衛」とあるそうです。
原文では「上ふくしますゞめ」までは読めましたが残念ながら以降は読みとれません、残念
大坂市内のすし屋としてはここ1軒だけが記載されています。
宝暦9年(1759)の「増補難波丸綱目」には
2軒の鮨屋があり、 ●●つるべすし ●●●う●●う町
ふくし●や●●● 上ふくし●すずめ鮨
おや、つるべ鮨の名前がこんなところに。
ところで、福島で小鯛が獲れるのか? 「江鮒」はやっぱり鮒ではないのか?
摂陽群談の享保本には「福島雀鮨」(小鯛雀鮨とは書いてない)が出てきますが、オリジナルの元禄本には福島雀鮨はありません。
かろうじて近くの佃で江鮒がとれて鮨にしたという記述があります。
元禄本(元禄14年・1701年)から享和本(享保20年・1735年)の間に有名になったのでしょう。
曽根崎心中
1703年(元禄16)4月7日堂島新地の女郎「はつ」と内本町醤油屋の手代「徳兵衛」の心中した事件を題材に
近松が書いて1ヶ月後の5月7日に道頓堀竹本座で初演された世話物浄瑠璃。
曽根崎にある「露天神(現存)」裏の森で心中するのですが、その道行の場面にこうあります。
いつはさもあれ この夜半は
せめてしばしは 長からで
心もなつの 夜の習ひ
命を追はゆる 鶏の声
明けなばうしや 天神の
森で死なんと 手を引きて
梅田堤の 小夜烏
明日は我が身を 餌食ぞや
露天神で死んで、明日は梅田墓でカラスの餌になる と言っています。
1691年の地図の曽根崎村にある神社がこの露天神です。
元禄時代にはすでに梅田墓は誰もが知る場所だったのでしょう。
成恩寺じょうおんじ
梅田墓の場所にあった寺ですが、調べると生野区に移転して現存しています。
1278年(弘安2)に京都山崎に創建され、明治時代に梅田に移転したが
なぜ?という疑問がわきます
大阪駅の拡張(貨物駅)のため現在の生野区林寺に再度移転しました。
浄祐寺じょうゆうじ
梅田墓への途中にあった寺ですが、調べるとすぐ近く、出入り橋に現存しています。
ここの墓には「矢頭長助・右衛門七」と「五大力之碑」があり、検索すれば見つかります。
摂陽群談
梅田墓を調べていてこの江戸中期に刊行された地誌を知りました。
梅田墓を含む大坂七墓を調べてもしばしば引用されるのを目にします。
原本は1701年(元禄14)に 大坂の岡田渓志が編纂して和泉屋伊右衛門(大坂)・池内次兵衛(京都)・升屋五郎衛門(江戸)が出版
1735年(享保20)に河内屋八三郎(大坂)が再刊したものを
1916年(大正5)に日本歴史地理学会が活字復刻したものがあり
国立国会図書館の近代デジタルライブラリで読むことができます。
元禄本も同じく国会図書館にあります。ここ
この大正復刻本巻第九より梅田墓の部分を紹介すると
梅田墓所 同郡(東生ひがしなり郡)浦江村の東にあり。此墓、始は曽根崎村の田圃にあり。
大坂市店に近く、火葬の餘煙、其穢そのけがれを忌で、享保年中、地を此處ここに引きしむ。
元禄本では移設は「貞享年中」1684〜1687年とあります。
享保では出版後になってしまうので、貞享が正しいのでしょう。
曽根崎村にあったのを火葬臭いから浦江村の東に移したと。
享保本より後の地図(寛政元年)にある墓の位置が移転後のものです。
曽根崎村にあったという墓の元位置はどこだったのでしょうか?
町に近かったのですからひょっとすると大阪駅の真下?
開基行基菩薩は聖武帝勅して、南都東大寺毘慮舎那大仏開眼供養の
時所造之、墓所守の僧聖今の俗号を隠坊と曰う数箇所より集あつめて役仕と成なさしむ。
行基が大仏開眼にあわせてこの墓所を開き、各所の隠坊を集め墓守としたと。
この部分を「数箇所の墓をまとめた」と誤解しているHPもあります。
因慈近歳大仏再建の沙門龍生院公慶上人、開眼供養の時も各集会する事古例の如し。
大仏再建は公慶が貞享元年に幕府の許可をもらって勧進をはじめ元禄5年に大仏を再建し
宝永2年に公慶は亡くなるが宝永6年に大仏殿は完成する。
大仏再建時の開眼供養で昔と同様に集会したとあるが、隠坊を梅田墓に集めて開眼供養したのか?
七月念仏道頓堀に同じ
何が同じなのか意味不明。 盆供養を指すのか千日墓所の供養を指すのか。
この文章を根拠に勝手な推測をしました。
中世(遅くとも桃山時代まで)にはすでに梅田墓も含むいくつかの郊外墓地があった。
(ただし現在のような巨大な墓地形式ではなく、同じ場所に繰り返し埋葬したと思われる)
大坂の市街が広がる江戸初期には邪魔になりさらに外側に移設した。これが梅田墓
明治末には大阪駅北側の開発が進み多数の学校が誘致されたが、梅田墓が狭くはなっていない。
昭和初期に貨物駅が建設され、そのときに梅田墓は撤去・移転された(移転したかどうか不明)
昭和58年に貨物駅西南端に倉庫が建設されたとき出土した墓石をまとめて構内に祀った。
これがあちこちのHPで梅田墓として紹介
平成22年ついに北ヤード再開発のため梅田墓は移転
地蔵尊 四天王寺に移転
供養等 川西市稱名寺に移転
墓石 同上
遺骨 一心寺に移転
池の鯉 堂島川に放流
江戸時代までは火葬が主流だったという説と土葬が主流だったという説があります。
Wiki[土葬] 明治政府は仏教での葬法としての火葬に反対した神道派の主張を受け入れ
1873年(明治6年)7月18日太政官布告による火葬禁止令を出したが、仏教徒の反発が強く
また衛生面からも火葬が好ましいとの意見もあり、さらに都市部での土葬スペース不足という現実には逆らえず
約2年後の1875年(明治8年)5月23日に火葬禁止令を解除した。
それでも昭和初期の頃まで土葬は、火葬場が現在のようにまだ整備されていなかったこともあり
一般的に行われていた埋葬形態だった。
梅田墓に火葬場があったことは上記の江戸中期発行の「摂陽群談」であきらかです。
私の叔父(90歳で亡くなった)は京都の山奥に住み村の共同墓地に葬りました。
墓地内の好きな場所を掘って使ってよいとのこと。あたりには木製の塔婆はありますが
墓石はありません。その塔婆も数少なく、多分七回忌あるいは十三回忌で処分するのではと想像します。
つまり先祖は墓地で守るのではなく、自宅で祀るものなのです。
一方、祖父は奈良の山奥の村にある一族の墓地に生前から自分の墓を建てました。
先祖代々ではなく、夫婦墓がズラリと並ぶ中央に。
ここでは個人あるいは夫婦を尊重していたのです。これも現在一般的な墓の形式とは違います。