16.清水太右衛門殉職碑

JR大阪駅構内にある石碑を知る人はほとんどいません。
その由来を知る人・HPを見たことがありません。(通り一遍の紹介文程度です。)


Google Mapで上空から見ました。 緑線はかつての連絡線位置を示しています。
斜めに走る屋根はかつての11番ホームの上屋で、その下には軌道ではなく今は駅ビルと駐車場間連絡道路が走ります。

斜めの金属壁の裏側を確認しました。 そこで思わぬ発見が。

後ろからみると確かに壁が斜めになっています。
その先の植え込みに何かあります。

石碑と祠がありました。「清水太右衛門殉職碑」です。GoogleMapの写真をもう一度よく見ると、石碑はちゃんと見えます。
石碑の頭が欠けているのは米軍の爆撃によるものです。
石碑は事故のあった明治40年10月に事故現場付近に建立されたが、1945年の空襲により破壊、1956年(昭和31)国鉄総裁十河の揮毫で再建されたと。
碑文を紹介しましょう。
表面 清水太右衛門殉職碑
         日本国有鉄道総裁 十河信二

裏面       故清水太右衛門殉職碑陰記
   清水太右衛門は、岐阜縣羽島郡小熊村に生まれ、
   明治三十一年大阪駅三等駅夫として就職し、誠実勤勉、上下の信望ことのほか厚かった
   明治四十年五月三十一日、西第一踏切番として勤務中、午後六時ごろ
   ばく進し来る列車に向って突如遮断機をくぐり線路上に走り出た一幼女に
   気付いた太右衛門は、愕然、大声を發し、とっさに身を躍らせて一瞬これ
   を救ったが、自らは列車に触れ重傷を負い、気息奄々の中にもなお、幼女
   の危急を叫びつつ遂に職に殉じた  ときに齢五十四才であった
   このでき事に感動した人々は、碑を建立して後世に伝えたが  昭和二十
   年五月被爆により破損した
   たまたま故人の五十年忌に際してその修復を企ててここに永く故人の遺
   烈を伝えようとするものである
         昭和三十一年五月三十一日
         大阪商工会議所 会頭 杉道助
十河が国鉄総裁でいた期間は1955年(昭和30)から1963年(昭和38)までだったので、この記念碑は建立当時のものではなく再建されたものです。
では最初の記念碑は? 帝国鉄道庁総裁平井晴二郎の揮毫により明治40年10月に建立されたとまではわかりましたが、写真は不明です。
      平井は明治40年4月1日発足の帝国鉄道庁の初代総裁になり
         10月には私鉄17社を国有化し
         明治41年12月5日発足の鉄道院の副総裁となる。(総裁は後藤新平)
さて、事故の起きた西第一踏切はどこにあったのでしょうか? それは次の地図の踏切番所です。

当時の大阪駅付近の線路はまだすべて地上にありました。
現在の環状線はまだ大阪駅ではつながっておらず、大阪駅から西は西成鉄道、東は関西鉄道でした。
さて、事故のあったのは国鉄なのか西成鉄道なのか? 踏切番は国鉄が置いていたはず。

朝日新聞社の2008年4月のニュースに写真と地図がありました。

「JR大阪駅の西側、阪神高速池田線梅田出入り口の脇に移設された清水太右衛門殉職碑=大阪市北区梅田3丁目」
「新北ビルの建築現場に差し掛かることから昨年3月、西側に移設された。」
この文面は理解しがたいのです。
   この写真は移設前のものか移設後のものか誤解を与える。
   さらには次に示す別の写真と場所が異なる。(撮影時期の後先は不明)

まちかど逍遥 梅田入堀跡を覗くに2006年8月の工事中写真がありました。
梅田ランプができて付近の整備工事のように見えます。(推測)

かつての掘割跡を整備しているようです。


この祠が清水の石碑と関係があるのかないのか不明ですが、石碑はこの写真の左欄外にあります。


昔、環状線(当時は省線と呼んでいた)の窓からこの緑が見えました。このあたりだけは高架ではなく土盛だったのです。
この写真の右下に伸びる影が殉職碑の影だと思うのですが。

同じ2006年8月の別の方のブログに石碑の写真がありました。

撮影が斜め方向のため石碑頭部の欠けかたが現在と違うように見えますが同じです。
国土地理院の2007年7月の航空写真には石碑は見当たりません(すくなくともこの場所にはない)


1997年の航空写真には石碑らしいものが写っています。


2007年のその場所には見当たりません。朝日新聞の写真位置なら赤丸の場所ですが判別できません。


2013年のGoogleMapに上記2ヵ所と現在地(黄色)をマークしてみました。
ここからは推測ですが
   明治末期には事故踏み切り付近にあった(碑文より)
   空襲で破損したままだったが1956年(昭和31)に水色の場所に再建
   駐車場ビル建設にともない2007年ごろ一旦赤色の場所に移設
   駅北ビルの完成で2013年に現在地(黄色)に移設

最初の石碑は一体どうなったのでしょうか?

2016/1/11 追記
関西大学 大阪都市遺産研究センターが「牧村史陽氏旧蔵写真データベース」を公開していることを知りました。
牧村史陽(1898/10/1-1979/4/25)は大阪の郷土史家で、多数の著書だけでなく膨大な写真を残しています。
その中に再建される前の清水太右衛門殉職碑があります。(説明は一切ありません)


   これが当初の石碑写真です。
      「清水太右衛門殉職碑」
          ●●●●●●●●●●
   台座には3文字「者志有」とあります。
   左上には銘板らしきものがあります。明治40年建立なので漢文です。
       清水太右衛門殉職碑●記
       ●●●●士●手●●●清水太右衛門●一●●●●●●●●●
       ●●太右衛門●●●●●●●●人●●●●●●●●●●●●
       ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
       ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●一少女●
       ●●●太右衛門
       ●●●●●●●●●●●●●●太右衛門●●●●●●●●●
       ●●●●●●●●●●●●四十年●月三十一日九時●●●●
       ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
       ●●●●●●●●●●
       明治四十年十月   ●●●●● ●中●●
   背景がないので場所はわかりません。建立当時の線路は平地にあったので写ってないのかも。


   余りに痛みがひどく石碑の形状・台座の形状から正面を撮影したと考えられます。
   これも撮影場所・時期は不明ですが、推測することはできます。
   ・石碑が激しく痛んでいることから、爆撃のあとの戦後の撮影です。
    再建されたのが1956年(昭和31)なので撮影時期はかなり限定できます。
   ・石碑周囲の柵に注意して下さい。石柱をつなぐ鉄棒の太さが元と違います。
    また、石柱が台座より高くなっています。
    少なくとも柵は当初材ではありません。
   ・台座石も当初材と違い、ずいぶん低くなっています。
    もともとあった場所から移設するときに台座を変えたのでは?
       ではいつ頃移設したか? 建設時は線路は平地にあったがその後に高架になった。
       その工事の邪魔にならない場所に移動したと考えるのが素直です。
       東海道線が高架化されるのは1934年(昭和9)のことで
       環状線大阪福島間が高架になるのは1964年(昭和39)のことです。
       従って、昭和9年頃に写真の場所に移動したと妄想します。
   ・撮影場所はバックの高架から推測できます。
       壁に開口がない
       梁の両端が丸い
       左右の柱頭の形状が違う(右側だけが丸い)
       右側柱が雨ダレ・錆びの汚れが目立つ
    以上の条件を満たす場所を現状写真から推定できます。


   石碑の裏面です。
   左後ろには枕木が積んであり、さらに後方奥には建物が見えます。
   背景から、石碑は東海道線の北側にあったと判断できます。
        環状線の南側なら南ヤードが見えるはず。
   銘文はかなり欠損していますが、最初の写真の文章とは明らかに違います。
          1行または2行欠損
       ●●□□□□太右衛門岐阜●●●●小●□□□□●
       ●三等●夫老●●●十年●●□●西第一●□□●●
       ●●往来之●有●開閉以●□□太右衛門●●●●●
       □□□□□□□□□□□一少女●●●而走太右衛門
       □□□□□□□□□□□女免而太右衛門●●●●負
       □□□□□□□□□□●●而●時明治四十年五月二
       □□□□□□□□□□●●●●大阪人●●●●●●
       □□□□□□□□●●●●●●名其●●●可傳之
       □□□□□十月   西部●●撰  田中●書

さて、東海道線北側で旧踏切近くとはどこだったのでしょうか。

   Google Mapで見ると阪神高速の下になっています。


   ストリートビューでは東海道線北側の壁が見えます。
   最も可能性の高いのは3番の壁です。
   3と4の間の柱には鉄骨の柱が乗っており、その錆で汚れていたものでしょう。
   これで石碑の場所は少なくとも戦争中には東海道線北側にあったものと言えます。
   ただし、明治40年の建立時の場所は不明です。別の場所だったのか、ずっと同じ場所だったのか。
推測では
    当初建設場所は西第1踏切番所脇(現在の環状線直下)であり
    東海道線・環状線の高架化の時点で東海道線北側に移設され(1935年頃)
    この時点で台座と柵は改造されていた。
           東海道線が高架になるのは1934年(昭和9)
           環状線が高架になるのはもうすこし先
    戦災で激しく痛んだので同じ場所に再建したのではないか?
    その後、阪神高速ランプの建設や大阪駅改造で場所を転々と移し、現在に至っている。


おまけ 以上の資料を探す中で次のような記述を見つけました。
   大阪駅の駅員の清水太右衛門が同駅西第一踏切で踏切番として勤務中、遮断機をくぐり線路に入った幼
   女を発見、その時西成線の上下列車が同時に迫って来た。太右衛門も踏切内に飛び込み間一髪で幼女を
   救ったが、太右衛門は列車と接触し重傷を負い、幼女を気遣いながらも22時間後に入院先で死亡した。死
   亡前には事故の目撃者の1人から10円もの寄付があり、大阪駅長が発起人となって義捐金を集め太右衛
   門に贈ろうとしていた[1]。
   この踏切は昭和初期に廃止された。
   太右衛門の功績をたたえるため、同年10月に現場付近(現在の北区梅田三丁目)に「清水太右衛門殉職
   碑」が建立された。1945年の大阪大空襲で破壊されたため、1956年に国鉄総裁十河信二の揮毫で再建された。
「西成線の上下列車が同時に迫ってきた」とあります。
当時はまだ環状線は完成しておらず、大阪駅から西へは地上を西成鉄道が走っていました。
夕方6時頃に貨物主体の西成鉄道が上下線同時に同じ場所を走るか?
当時の朝日新聞記事を探したのですが記事がありません。
地方新聞でなければダメなようです。


追記 2017/5/28
   先日、ある方から再建後の石碑の写真をメールでいただきました。多謝。
   
   1980年(昭和55)6月頃に撮影されたそうです。背景は東海道線北面です。
   高架部分から石碑場所を推定できます。
     高架の上に立つ架線柱には信号灯が5基見えます。台数は減っていますが架線柱は健在です。
   
   他の場所の架線柱とどう違う?という疑いも涌きますよね。その答えは、架線柱の右側の鋼製手摺です。
   このあたりで鋼製手摺になっているのは現在も1箇所だけです。かつての南ヤードへの連絡軌道があった場所です。
   これも現在の写真との比較ができます。

   戦災直後の写真と比べると次のことが読み取れます。
      ・再建場所は同じ
      ・石碑と周囲の手摺は作り直したが、台座石は元のまま
      ・大阪駅上に移設した現状ではこの台座も作り直した
   写真の手摺に刻まれた会社名前のうち2つは現存する会社です。
       大阪合同通運KK  →合通
       扇興運輸KK    →センコー

残る疑問は 「最初の建碑場所はどこだったのか?昭和55年まで同じ場所だったのか?」
古い写真が埋もれているはずなのですが・・・



2020/8/25 追記
梅田北ヤードで膨大な埋葬人骨が見つかったとニュースになりました。(梅田墓のことですね)
そんなの見つかって当然。これまで発掘調査してこなかっただけ。
数年たてば詳細な発掘調査報告書が刊行されます。
このニュースを見て、ネットを徘徊してしまいました。だって暑いんだモン。

@清水太右衛門殉職碑の移設
   殉職碑を検索すると真っ先に見つけた写真

   大阪駅11番ホーム跡にあった殉職碑が粉々に・・・
   さらに検索すると、石碑は大阪駅南側に2019年12月に移設されたと。

   薬局の隣の塀に囲まれた場所に移設されていました。
   案内板も何もなし。
   今回が5度目の移設。JR西のフラツキ具合が見えます。
   まあ、建立から110年も石碑を維持してきた努力は買いますが、どれだけ職員に徹底しているか・・・
   外から見えない塀の中なので、再度どこかに移す気がします。

A殉職碑の場所を再確認
   昭和55年に撮影された写真の左に塀と屋根が見えます。ウッカリ調査を忘れていました。
   [ 火気 ]とあるので危険物、多分油や塗料の倉庫でしょう。
   その頃の航空写真を探しました。

   1975年(昭和50)の写真には塀で囲まれた2棟の建物があり
   さらにその左下には何かあります。
   まさに殉職碑のあった場所です。


B最初の碑文にでてくる田中●●とは一体誰なのか?