大阪をホジクル
10.大阪駅

北ヤードと梅田墓を中心に探ってきました。そうするうちに大阪駅についていろいろ疑問がわいてきたのです。
大阪駅の駅舎だけでも明治の初期から何度も建替え・拡張をしてきました。
明治7年開業時の初代駅舎からかぞえてもう4代目になります。僕が目にしたのは3代目からです。
ですが、いろいろなところに過去の面影・痕跡が残っているもので、それを探ってみました。
大阪の鉄道基礎用語なんちゃって
    環状線  大阪市内をめぐるループですが最初はまったく環状でなかった
         詳しくはこちらをどうぞ
    大阪鉄道 明治時代にあった私鉄
    関西鉄道    同上
    西成鉄道 明治時代にあった私鉄貨物線
    阪急電鉄 私鉄・京阪神急行電鉄
    阪神電鉄 私鉄・阪神電気鉄道

大阪駅にかかわる大まかな歴史
  1874年(明治7)東海道線 神戸-大阪間が開通
                             初代大阪駅
  1877年(明治10)     大阪-京都間も開通
  1895年(明治28)大阪鉄道 天王寺-梅田が開通
  1898年(明治31)西成鉄道 福島-安治川口が単線貨物として開業
  1899年(明治32)西成鉄道が福島から大阪まで延伸
  1900年(明治33)西成鉄道大阪駅と大阪鉄道梅田駅は統合されたが線路は繋がっていない
   同年     大阪鉄道は関西鉄道に吸収合併
                            2代目大阪駅
  1906年(明治38)西成鉄道は国有化
  1907年(明治39)関西鉄道は国有化
  1912年(明治45)西成線は福島-安治川口間を複線化
  1913年(大正2 )城東線天満-大阪間が複線化
  1932年(昭和7 )城東線大阪-京橋間が高架完了
                            3代目大阪駅
  1964年(昭和39)福島-大阪間がようやく複線・高架完了
  2013年(平成25)                  4代目大阪駅




北ヤードと大阪駅は2013年はこのようでした。(2014年には北ヤードはほぼ更地)



1948年(昭和23)の航空写真では駅の南北に伸びる掘割がはっきりわかります。
北ヤード南端と駅に挟まれた四角いビル(日本通運)は今も現役で使われています。


1928年(昭和3)戦前の航空写真です。
水色は堀割です。赤線は貨物線、ピンクは下が阪神電鉄・右上が阪急電鉄です。
大阪駅は貨物線が分岐しており下記1933年地図の通りです。
西端の線路がさらに伸びていたかどうかは判別できません。
大阪駅の下をくぐって南ヤードへの線はありません。
現在の地下道は黄色の分岐点よりもう少し左側から始まるのでグランフロント工事で切り詰められたのでしょう。



1926年(昭和元)内務省陸地測量部の地図です。
北ヤードはまだなく、貨物線は東海道線の分岐として多数あります。
不思議なのは、環状線東側が西側と接続していないことです。とっくの昔に接続されていたハズ。
大阪駅北側の掘割はなく、南側掘割には途中(出入り橋)で枝分かれして左へ伸びる堀が見えます。
阪神電車は東梅田町まで地上を走っていて四ツ橋筋が終点の梅田駅でした。



1923年(大正12)大大阪パノラマ地図から大阪駅付近を拡大しました。
北ヤードは予定地として一部確保されています。
大阪駅は2代目駅舎で、軌道はすべて地上を走っています。
環状線は西成鉄道と大阪鉄道がまだ繋がっていません。
阪神電車梅田駅はまだ地上駅です。
阪急電車梅田駅は地上で、国鉄を高架で跨いでいます。その先はまた地上に戻り、阪神北大阪線とは平面交差しています。
金蘭女学校の場所が福島になっています。北ヤードの整備予定のため移転したのです。


1911年(明治44)大阪駅が(梅田駅)と併記されています。そうです、この頃から大阪駅と呼ぶようになったのです。
その理由は、北方から下がってくる阪急線と西方からやってくる阪神線のどちらも梅田駅と称したので
何と梅田駅が3つもあったからです。
タンボの記号は大仁から淀川にかけて見え、大阪駅周辺はもう市街化が進んでいます。


2代目大阪駅 1900(明治33)〜●???(明治32)

1906年(明治39)2代目で駅舎は現在と同じ位置になりました。(機関車庫との位置関係に注意)
駅裏の機関車庫・石炭庫・転車台などはそのままですが、南側に貨物線が増えたのと
左側からの西成鉄道線・右側からの関西鉄道線が目立ちます。この2つはまだ繋がっておらず
本当の環状線になるのはずっと後になります。駅舎を壊さないかぎり無理ですから。


2代目大阪駅舎。初代と同じく木造石貼です。
人力車よりも自動車のほうが目立っています。
駅前広場の手前にはすでに市電が走っていましたが、歩く人は着物が多いようです。


駅のかなたに貨物列車とホーム上家が見えますが、平行する他の線路が見えません。
貨物駅が建設される初期の写真だと思います。北掘割の開削はまだのようですが、判然としません。
撮影時期は昭和元〜5年と推測します。
駅前広場のわだちを見るとまだ舗装されていません。
右手前の2階建ては郵便局ではないでしょうか。(屋根看板の文字が読めません)
大阪駅の建替えにはこの郵便局の場所に仮駅舎ができます。
この写真は阪急百貨店ビルから撮影したものと考えてよいでしょう。


駅舎部分の拡大で、目立っている列車は西成鉄道のものです。


1914年(大正3)の2代目駅舎と大阪駅を東側から見たものです。
駅敷地の北側には住宅が立ち並んでいます。
一番左側の線(駅舎の手前)が関西鉄道の城東線でしょう。


大阪駅の北側で、まだタンボが残っているので上の写真より少し古いです。


この写真はここから拝借したもので、多くの情報が写っているのです。
   大阪駅は2代目駅舎で、ホームはまだ地上にあります。
   阪急百貨店は国鉄側に増築工事中です。
   阪急梅田駅はその向こう側で高架になっており、国鉄を跨いでいます。
問題は大阪駅より左側に写っている内容です。
   左手前は大阪駅の高架化工事で、左側(北側)から順に工事しているのが見て取れます。
   工事区間を挟んで阪急とほぼ同じ高さで高架化が進んでおり
   阪急の向こう側には東海道線の旧線路(地上)と新線路(高架)が並んでいます。
   さらに東海道線の向こうには白い高架線(環状線)とその右に旧環状線(地上)が見えます。


この写真も同じサイトから借用しました。
阪急梅田駅は右の地上線の続きにあります。 
新駅舎は2階建として工事中で、国鉄をまたぐ高架橋がその奥に見えています。


1934年(昭和9)大阪駅が地上駅として営業していた最後の日だそうです。


大阪駅構内線路配置の変遷
鉄道マニアには「乗り鉄」「撮り鉄」「録り鉄」さらには「廃線マニア」などがいることを知っていましたが
軌道マニアがいるとは・・・(当然といえば当然か)


1921年(大正10)の大阪駅構内線路配置です。(南北が逆)
大正当時なら「ドック」とは呼ばないので後年に作成された配置図です。
さらに大正10年なら環状線はまだ大阪駅で繋がっていなかったハズ。細かい点でこの地図はアヤシイです。


1930年(昭和5)の大阪駅構内線路配置です。懐かしい駅の風景〜線路配線図とともに から借用しました。

これに関連して、図書館でこんな資料を見つけました。「昭和5年度梅田駅要覧」
         
設備一覧表(抜粋)
所属場所別上家有効面積野天面積積卸場延長
南扱所貸切陸上家73m2 8.5x10.3
同上33m2 10.6x3.0
同上1312m2 15.5x96.5
同上陸野天 66m213.0x13.0
9.4x5.5
同上発送兼用 102m26.1x48.5
同上河取上家1041m2 16.5x76.5
同上河取野天 208m215.5x15.2
 以上到着用   
本駅小口第八上家2678m2 9.1x368.8
 以上発送用   
本駅小口第七上家2670m2 9.1x365.8
同上貨物保管庫3972 9.1x43.6
 以上到着用   
南扱所鮮満朝鮮発送661m2 28.5x24.8
同上311m2 24.8x13.8
同上東倉中上家783m2 11.5x80.9
同上開品場31m2  
 
南扱所鮮満岸壁  3m2  2.7x2.1
南扱所鮮満岸壁  179m2 3.9 x 60.3
以上発送用
南扱所小口河取上家 450m2 15.5 x 60.3
船渠及運河新船渠 13935m2
水深 満潮3m  干潮1.8m
旧船渠 13884m2
水深 満潮1.8m  干潮0.76m
新運河 幅23.3m 延長238.3m
旧運河 幅11.4m 延長258.3m
コンベヤー2台
長53m 幅1.1m 3馬力 3基  2馬力 1基
長19.7m 幅0.8m 5馬力 1基  3馬力 1基
電気キャプスタン2台
7.5馬力 1基  15馬力 1基
貨車転車台直径5.2m 3台
計重台本駅    42ton 2台
10ton 1台
南扱所 15ton 1台
權衡台51台
船舶7艘
内5艘は14馬力発動機船 積載6ton その他は7ton
埠頭固定起重機3ton 1台
ガントリークレーン5ton 1台
モノレールテルファー2ton 9基
オーバーヘッドクレーン3ton 1台
電話機局内 58個  公衆 12個
電気時計26個
浴場3ヶ所
牛馬用水呑場3ヶ所
塵芥焼却場4ヶ所
散水用水揚装置1ヶ所
散水自動車1台
  
  
北ヤードは「本駅」 南ヤードは「南扱所」と国鉄内部で呼ばれていたことがわかります。
この「本駅」は「梅田(貨物)駅」を指します。
構内配置図には大阪駅の駅舎が下のほうに描かれ、梅田駅駅舎は中央にあります。




1950年(昭和25)の大阪駅構内線路配置です。(南北が逆)懐かしい駅の風景〜線路配線図とともに から借用しました。



1973年(昭和48)の大阪駅構内線路配置です。(南北が逆)懐かしい駅の風景〜線路配線図とともに から借用しました。
タイトルの「梅田駅構内略(異体字)図」には違和感があります。だって昭和48年に異体字を使う?



1886年(明治19)中央の白抜き部分が大阪駅(当時は梅田停留場)


初代大阪駅 1874(明治7)〜1899(明治32)
初代の駅舎は現在の位置から西側で、中央郵便局のあたりだと、掘割位置から読み取れます。

大阪駅正面 客待ちの人力車が多数いますが、駅前は舗装されていません。

          
          正面にはガス灯がありました。


駅舎の裏側  なんとこの時代に陸橋がありました。


大変小さい写真ですが、左に3両分の機関車庫が見えます。上の写真はどうもこの写真の一部のようです。


駅舎裏側ですが東側より。間隔のあいた複線でその間に待避線があります。
駅舎のかなたに列車が見えます。ひょっとすると2編成。貨物取り扱いの場所です。


前の写真よりほんの少し後の時代です。線路をまたぐ跨線橋が2つ見えます。
(大阪駅ターミナルビル鰍フ http://aspect-design.info/TEST/MF/OTB/gallery/history_06.html より)



駅の南西(現在の西梅田あたりか)から。右手前の小屋からするとまだタンボだったよう。
人力車がさらに多数並んでいます。


ほぼ同じアングルの別写真。 手前の草地はもうなくなっている。


1877年(明治10)頃の梅田停車場の図面です。転車台(機関車の向きを変える)があるとは。
現在なら駅構内にいろいろな店がありますが、この頃は駅の外に茶店が用意されていました。
2代目駅舎の写真では機関庫の右下に駅舎が建て直されます。



1872年(明治5)まだ鉄道は敷かれていませんが、堂島に鉄道寮(鉄道省)がすでにあります。
堂島川からの掘割はありません。鉄道輸送のため掘られると考えてよいでしょう。
実は、この鉄道寮の場所が大阪駅(梅田駅)の最初の候補地だったのです。
京都からの線路と神戸からの線路の末端駅(ターミナル)を考えていたわけです。
一説には汽車(当時は火車と呼ぶ)が通ると火事になりやすいと、地元は反対したとか。
タンボだった曽根崎は時価が大変安いのでそっちにしたとか。
理由はともあれ、ターミナルではなく通過式の駅にしたことは大正解でした。
しかもさらに北側に広大な拡張余地があるのですから。
1882年(明治15)の地図では鉄道寮はなくなり、五代友厚の藍製造工場になります。




2代目大阪駅


2代目駅舎の上棟式です。見てわかるとおり木造です。


駅舎の右側に大きな2階建の建物ができています。

大阪駅駅舎には変わりがみえませんが、右手前建物は大規模な拡張がされています。
右下は多分阪急電鉄(当時は北大阪急行電鉄)の駅舎でしょうか。


2代目駅舎の解体撤去直前です。駅舎の向こう側に見えるビルは阪急百貨店。さらにその奥に阪急梅田駅が見えます。
この写真には写っていませんが、左側には高架の駅が工事中でした。