7.梅田南ヤード

2014年5月たまたま梅田北ヤードで撮影をして、ふと梅田墓のことを思い出して探すと、もう跡形もありません。
まあ以前の状態も、梅田墓から出てきた墓石を集めて供養した、というだけに過ぎなかったのですから。
かすかに残る跡といえば、私有地に祀られている地蔵堂だけです。
梅田墓の話はあまりに大きな話題なので、後日にまわすとして(タネは残しておく)
今回は大阪駅の南ヤード(正確には梅田駅の南ヤード)です。
場所はくだんの梅田墓のすぐ南側。西梅田地区と呼ばれているところです。

図の水色部分が南ヤードのあった場所です。 赤丸が梅田墓です(でした)。
GoogleMapには、幸運にも北ヤードの線路がまだ記載されています。(既に撤去されているが)

南ヤードがあった頃の航空写真を国土地理院で見ることができます。

1985年(昭和60)西梅田再開発が始まった頃です。
広い空き地に黒いテントがあります。CATSの名前が読めますか?
そのすぐ側を阪神高速のランプがあり、さらに下には阪神電鉄の軌道が地下にもぐるところです。
   (ランプは駅北側に移設され、阪神電鉄は地下区間が延びルートも変わりました)
この空き地をよ〜く眺めると
   空き地の右上を中心に放射状の道路らしきものがある
   その一番南側には細長い屋根が見える
   敷地の左端には北ヤードから2本の線路跡らしきものが


1975年(昭和50)大阪駅の下をくぐって北ヤードと南ヤードがつながっています。


拡大写真です。北ヤード西端から3本の線路が延びて、1本は福島方向へ(この線は現在も使われています)
もう2本は南ヤードへまっすぐ。その痕跡が今もあるのであとで紹介しましょう。
また、大阪駅中央をくぐって貨物線は南ヤードへ伸びていました。この痕跡も残っています。
南ヤードのCATSのテントそばに見えた放射状のものはこの線路・ホーム上家だったのです。


1966年(昭和41)には北ヤード・南ヤードを結ぶ川が見えます。実はこれは埋め立てが進む掘割です。
南ヤードの南側には阪神高速のランプがあります。(現在は駅の北側に移設)
右上に北ヤードからの線路が道路を渡って駅下をくぐります。


1964年(昭和39)では南北ヤードの堀割が見えてきますが、南の掘割と堂島川を結ぶ運河が出入り橋まで埋め立てられています。
阪神高速は影がありませんが、中ノ島から出入橋にかけて工事中なのがわかります。
阪神高速道路の歴史をWikiで見ると1962年5月に公団が発足しているので、ほぼ設計は終わっていたのでしょう。


1961年(昭和36)の掘割には舟は1隻もありません。すでに使用停止していたのでしょう。
阪神電鉄の橋梁の北側に道路でも橋でもないものが写っています。掘割を締め切る閘門と推測します。
阪神電鉄の南側には市電の走る国道1号線があり、さらに南側の橋が出入橋(現存)です。


1954年(昭和29)の掘割です。
右下より国道1号線、平行して阪神電鉄の本線(複線)、国鉄職員用の小橋、工事中の大きな基礎。
この基礎が一体何なのかよくわからないのです。阪神高速のものなのかどうか?


1948年(昭和23)北ヤードと南ヤードを結んで掘割があります。小船が多数うかんでいます。
まだ戦災の空き地があちこちに見えます。
北ヤード西端から南ヤードへ伸びる2本は掘割の西側へ。 駅中央から伸びる線は掘割を挟むように。


部分拡大してみました。
駅の南北に伸びる掘割がはっきりわかります。
北ヤード南端と駅に挟まれた四角いビル(日本通運)は今も現役で使われています。


1928年(昭和3)戦前の航空写真です。
大阪駅は貨物線が北側に分岐していますが、北ヤードの線路はまだ南ヤードとは繋がっていません。
南ヤードの掘割には多数の小船が見えますが、北ヤードの掘割には1艘もいません。まだ南ヤードの掘割とは繋がっていないのです。
まだ大阪駅と線路は地上なのでその下に掘割を通すことはできないのです。それができるのは大阪駅が高架になるまで待たねばなりません。
阪神電鉄は左下端(出入り橋)から右上に伸びて駅前に地上駅が終点です。
阪急電鉄は国鉄を高架で越えて角田町交差点まで伸びています。
右上欄外には大阪鉄道管理局(当時は別の呼び名)がすでにできていました。
大阪駅南側の阪急百貨店から北新地へS字形に伸びる道が不思議ではありませんか?調べてみてくださいな。



1926年(昭和元)内務省陸地測量部の地図です。
北ヤードはまだなく、貨物線は東海道線の分岐として多数あります。
南ヤードには貨物線と掘割があり
      掘割は真っ直ぐ南へ伸びて堂島川に繋がっています。
      貨物線は掘割を挟んでV字形になっており、環状線の前身である西成鉄道に接続しています。(西成鉄道は貨物線として発足)
梅田墓の場所には成恩寺の名前と墓地が見えます。(平野区に移転して現存)


1923年(大正12)北ヤードは予定地として一部確保されています。
成恩寺はちゃんと描かれていますが、墓地は見えません。成恩寺は明治時代に山崎からこの地に移転したとあるので、明治末だったのでしょう。
南ヤードの線路・掘割は変わっていません。
環状線は大阪駅で接続していません。
阪急電車は国鉄を高架で超えて再び地上に降りて地上駅です。
阪神電車は出入り橋から伸びたのですが、まだ地上駅です。
左上に少し見えている線路は阪神電車の北大阪線で、阪急と平面交差しています。


1906年(明治39)大阪駅から北側はずいぶん寂しくなりました。
なぜか大阪市より北側の西成区はタンボばかりで、市内は白抜きで表示されています。
これは意図的に白抜にしただけで、実は建物がありました。昭和元年の地図を見てください。
掘割はもうすでにあり、出入り橋はこの南北の掘割と東西の蜆しじみ川が交差しています。
あなたが飲み歩くキタ新地はこの川の上。
大阪駅の前に静観楼という名前があります。料亭だったのですが残念ながら写真は見つけることができませんでした。
   2022/3/29 追記
    静観楼の記事はなかなかネットで見つけることができなかったのですが
    こんな史料がありました。 同志社 歴史散歩 大阪(2)
   明治36年(19??)に中之島で第5回内国博覧会が開催された際に
   外国人などを迎える高級料亭・高級ホテルが数少ないことから
   その代表的な料亭旅館の名前がこの史料にでてきます。
      自由亭  中央公会堂の北側
      銀水楼      同上
      静観楼  かつての産経会館のあった地
      西洋亭  常安橋か
      灘萬    北浜
   新島譲が同志社設立発起人会を設立し、外資獲得のため外遊する際の
   送別会が明治17年4月5日に静観楼で開かれた。
   結局、大学設立のための募金はうまくいかなったようである。
   静観楼の入り口写真のみ見つけることができました。

阪神電車は出入橋が終点でした。
中央に火葬場がありますが、のちの大仁墓地でしょう。梅田墓ではありません。
つまり、このころまでは梅田墓に火葬場があったのではないでしょうか。


1886年(明治19)タンボは曽根崎新地まで広がります。丸印は梅田墓です。
中央の白抜き部分が大阪駅(当時は梅田停留場)
浄祐寺から梅田墓への道は梅田道と呼ぶのですが、大阪駅を建設したときに直線的にしたものでしょう。それ以前の道は不明です。
南ヤードの掘割への線路は東海道線からの分岐線になります。(西成鉄道はまだない)


1882年(明治15)ついに地図なのか略図なのか、テキトーな表現になりました。
この地図では「梅田ステーション」とあります。
堂島川からの掘割は明治11年に開削されたのがわかります。
     あるHPでは「新堀と呼んでいた」とありますが、そんなこたぁありませんぜダンナ。
出入橋はこのとき掘割を渡るため掛けたものです。
   おまけ情報 「出入り橋のきんつば屋」は創業1930年(昭和5)なので
         出入り橋ができてからずいぶん後に創業したことになります。
         堂島の北を流れていたシジミ川はその頃には埋め立てられていましたが出入り橋は今もあります。
五代氏というのは五代友厚のことで、興味あれば調べて見てください。



1872年(明治5)まだ鉄道は敷かれていませんが、堂島に鉄道寮(鉄道省)がすでにあります。
当初はこの位置に大阪駅を設置する案もありましたが、最終的に地価の安い現在地になったようです。
堂島川からの掘割はありません。鉄道と船を結ぶため掘られるのです。
梅田橋を渡ったところに浄祐寺が見え、同じ場所に現存しています。

興味深い資料を紹介します。

1930年(昭和5)の大阪駅構内線路配置です。懐かしい駅の風景〜線路配線図とともに から借用しました。
この頃は南北ヤードは運河で繋がるだけでした。環状線に繋がる西成貨物線はまだありません。
南ヤードに見える「鮮満」は朝鮮満州の意味で、「東支」は東支那の意味です。

これに関連して、図書館でこんな資料を見つけました。「昭和5年度梅田駅要覧」
         
設備一覧表(抜粋)
所属場所別上家有効面積野天面積積卸場延長
南扱所貸切陸上家73m2 8.5x10.3
同上33m2 10.6x3.0
同上1312m2 15.5x96.5
同上陸野天 66m213.0x13.0
9.4x5.5
同上発送兼用 102m26.1x48.5
同上河取上家1041m2 16.5x76.5
同上河取野天 208m215.5x15.2
 以上到着用   
本駅小口第八上家2678m2 9.1x368.8
 以上発送用   
本駅小口第七上家2670m2 9.1x365.8
同上貨物保管庫3972 9.1x43.6
 以上到着用   
南扱所鮮満朝鮮発送661m2 28.5x24.8
同上311m2 24.8x13.8
同上東倉中上家783m2 11.5x80.9
同上開品場31m2  
 
南扱所鮮満岸壁  3m2  2.7x2.1
南扱所鮮満岸壁  179m2 3.9 x 60.3
以上発送用
南扱所小口河取上家 450m2 15.5 x 60.3
船渠及運河新船渠 13935m2
水深 満潮3m  干潮1.8m
旧船渠 13884m2
水深 満潮1.8m  干潮0.76m
新運河 幅23.3m 延長238.3m
旧運河 幅11.4m 延長258.3m
コンベヤー2台
長53m 幅1.1m 3馬力 3基  2馬力 1基
長19.7m 幅0.8m 5馬力 1基  3馬力 1基
電気キャプスタン2台
7.5馬力 1基  15馬力 1基
貨車転車台直径5.2m 3台
計重台本駅    42ton 2台
10ton 1台
南扱所 15ton 1台
權衡台51台
船舶7艘
内5艘は14馬力発動機船 積載6ton その他は7ton
埠頭固定起重機3ton 1台
ガントリークレーン5ton 1台
モノレールテルファー2ton 9基
オーバーヘッドクレーン3ton 1台
電話機局内 58個  公衆 12個
電気時計26個
浴場3ヶ所
牛馬用水呑場3ヶ所
塵芥焼却場4ヶ所
散水用水揚装置1ヶ所
散水自動車1台
  
  
北ヤードは「本駅」 南ヤードは「南扱所」と国鉄内部で呼ばれていたことがわかります。
この「本駅」は「梅田(貨物)駅」を指します。
構内配置図には大阪駅の駅舎が下のほうに描かれ、梅田駅駅舎は中央にあります。
この時昭和5年には南北の掘割は繋がっていたことがわかります。
表の船渠及運河を見ると、新船渠は面積が同じで深さが2倍以上(干潮時でも旧の満潮深さある)と能力が飛躍的に大きくなりました。
本駅(北ヤード)の上家は3棟(第8・第7・貨物倉庫)ますが、第1〜6は記載ありません(この年にはまだ完成していなかったか)

「大阪駅の歴史」という本に南ヤードの図面が掲載されています。

2代目大阪駅の頃とあるだけで時期が記載されていないので、考えてみましょう。
線路配置から1923〜1926年と考えてよさそうです。
本線の貨物上家の西側に踏切番所があります。「西一番踏切」です。覚えておいて下さい。(次回請御期待 またか)


では、南ヤードの痕跡を探しましょう。


高架下通路にしか見えませんが、青いトラックの横の壁が斜めに続いているのがわかります。
通路の先の街路樹は現役貨物線軌道のものです。
この通路はかつての南ヤードへの線路の1つなのです。


通路の裏側は赤線で示しました。確かに斜めなのがわかります。
すぐ隣がもう1つの通路開口だったのではと思うのですが未確認です。


すぐ上の天井は手前と奥で形が違っています。茶色から向こうがかつての東海道線部分、手前が新しい環状線軌道です。
コンクリートなのに真っ黒なのは、当然、蒸気機関車のススです。


一番奥も天井・壁が手前と違っています。多分3代目大阪駅で建設された部分ではないでしょうか。
なぜ新しいとわかるか? 手前のように梁があるとコンクリートや鉄筋などの資材の節約になるのですが
形が複雑だと手間がかかり工事期間が長くなります。
工事を急いでいた3代目では梁なしのフラットな軌道にしたのでしょう。


連絡通路から東、大阪駅のほうへ行くと、こんな高架が現れます。まるで城の石垣をコンクリートにしたみたい。
この部分は環状線0番ホームの拡張時に建設されたもので、左側の鉄橋はかつての運河の痕跡です。(パッと見ただけでは気が付かない)


門の隙間から中を覗くと、道路が斜めに走り、その奥のコンクリート橋脚も同じ向きです。
福島方向から来た道路は手前の道路と合流して橋脚の間を右奥に延びています。(北駐車場ビルに入ります)
この道こそ南北ヤードを結ぶ掘割の跡なのです。
一番手前に下面が見える橋桁は環状線内回り(最も新しい)、次に見えるのが外回り線(元は東海道線下り)。
この間がポッカリと開いているのは、ここにかつての環状線(内外線とも)が走っていたのです。
植木の右側には今もその旧環状線は残され、待避線として使われています。(環状線ホーム端からも見えます)
奥にある明るい隙間は以前から隙間だったのか、軌道を一部撤去したのかは不明です。


橋桁にはこんな表示がありました。(建設時の銘板は見つかりません)


南ヤードへの連絡通路3つのうち1つは見つけましたが、残り2本はストリートビューで見つけました。(よく写ってたものです)



左端のガードをくぐって少し行くと北ヤードです。 このあたりの高架下にはそれらしい痕跡はありません。


最初に見つけた連絡通路が口をあけています。


その先には通路が見当たりませんが、高架の壁の上に8、手前の木の陰に9 の数字が書いてあります。
意味なく数字など書くわけがないのですが、素人には何の目的の数字かわからないかも。


隣の壁をよ〜く見ると、こちらは 2です。(真ん中の木の陰に1、その右側がさきほどの9)


元に戻って連絡通路開口の左側を見ると、再び1と2です(左に7まで続いていました)
この数字は高架下の通路と通路で区切られたブロックごとに番号を順につけているようですが
元通路があった部分は数字の連続性が破綻しています。どうもここがアヤシイのですがそれ以上は探れません。(要現場確認)
南側はここまで。


北ヤードから駅をくぐって中央郵便局側の出口は現在は「梅三小路」で改装されて現場を見てもわかりませんでした。
北ヤード側の通路開口は痕跡をストリートビューで見ることができます。

大阪駅の北側は昔と変わらずいかにも裏側という光景です。駅舎の窓が見えるのが旧ホーム外壁です。


ホームのはずれに痕跡がありました。他と違って斜めに壁が見えています。
ホームの金属製壁も斜めに広がっています。


壁だけでなく内部も斜めになっていることが蛍光灯でわかります。


Google Mapde上空から見ました。 緑線はかつての連絡線位置を示しています。
斜めに走る屋根はかつての11番ホームの上屋で、その下には軌道ではなく連絡道路が走ります。
北ヤード側の痕跡はすでに消えています。
実は、この写真に「西一番踏切」に関係したものが写っているのです。(請ご期待)