大阪をホジクル
11.阪神北大阪線 北野駅
タイトルの「阪神北大阪線」を知る人は爺いか鉄チャンです。間違いありません。
廃線になってもう40年。いずれその人もいなくなります。
阪神電車(当時は阪神電気鉄道)の本線にある野田駅から天神橋筋6丁目までを走る市電でした。
梅田からの阪急電車に乗ると中津の手前で貨物線を跨ぐのですが、そこで併走する阪神電車を見たものです。
その阪神電車の駅(中津駅)はもちろん阪急中津駅の南西角、高架上にありました。
その証拠がこれです。
これを地図で確認すると
が見つかりました。確かに中津駅が出てくるのですが、駅の数が少ない!
Wikiでは
野田 - 海老江 - 上海老江 - 西大淀* - 大淀* - 東大淀* - 中津 - 北野 - 南浜 - 本庄中通 - 天神橋筋六丁目
*印駅は改名後の名前だと。
しかたないので、恒例の日文研の地図から探しました。
昭和30年(1955)ではこうなっています。
左下の野田から右上の天六(大阪人は天神橋筋六丁目をこう呼ぶ)まで弓なりに線路があり
野田 - 海老江 - 上海老江 - 浦江北五 - 北浦江 - 大仁本町 - 中津 - 北野 - 南浜 - 本庄中通 - 天神橋筋六丁目
この地図を眺めていて、中津のあたりだけが意図的に曲がっているのに気が付きました。わざわざ高架にして阪急中津駅と並べて再び地上に戻すなんてヘンです。
さらに、中津から東へ伸びる線路はなぜか道路の南側に描かれています。意味があるのです。
大正7年(1918)の地図では、真っ直ぐで、駅名・駅数も少し違います。
野田 - 海老江 - 南浦江 - 浦江 - 北浦江 - 大仁 - 大仁新道 - 下三番 - 中学前 - 北野 - 南濱 - 本庄 - 浮田町 - 天神橋筋六丁目
この地図の北大阪線をよ〜く見て下さい。他線との交差がずいぶん違うのです。
阪急線との交差は平面交差
東海道線との交差では北大阪線が高架
当時は阪急線も東海道線も地上を走っていたからで、国鉄は私鉄との平面交差など認めるはずもなかったのです。
昭和3年の航空写真でそれを確認しました。
阪急は大正14年に梅田から淀川までを高架軌道にしており、北大阪線は中津でその下をくぐっていました。
国鉄貨物線は建設中で、阪急の下をくぐる計画でした。
つまり大正中頃には阪急は国鉄貨物線の計画を知っていたわけで、だからこのあたりを高架にしたわけです。
わかり易く色をつけてみると
黄色 北ヤードと貨物線 どちらも工事中
緑色 それを高架でまたぐのが阪急神戸線と宝塚線
赤色 東西に地上を走り阪急をくぐるのが阪神北大阪線
青色 阪急に並行するのが阪急北野線
ピンク 北大阪線と阪急に挟まって駅のように広い土地が見えるのですが、これは何か?
色なし ピンクの下にある学校は北野中学校(今は十三に移転した北野高校)
北野中学はその後昭和6年に現在地に移転。
跡地には昭和10年に中崎町から済生会病院が移転してくる。
地上を走っていた阪神は、後からできる貨物線を避けるためピンクのように迂回して高架で貨物線を跨ぎ、再び地上に降りて阪急をくぐるのです。
北大阪線は軌道と道路が併用のため、道路建設も阪神が進めたことは間違いありません。
この点についてWikiでは
当時、沿線のほとんどは未開発地であったため、工事に当ってはまず道路を建設し、その上で軌道を敷設するという手法がとられた。
この道路建設にも阪神が関わっていたことから、阪神は北大阪線が走る道路の所有権を長く主張していた。
大半が併用軌道だったが、中津 - 北野間の国鉄の貨物線をオーバークロスする箇所のみ専用軌道で
併走する阪急神戸線との電車の出会いが沿線の名物であった。
この文面からすると、阪神は道路も所有権を主張していたが、国あるいは市に負けたと解釈できそうです。
所有権については当の阪神電鉄からも何の資料も見つからず、この件はどうにも進みません。降参
中津のあたりがその後どうなったのか調べてみました。
昭和36年(1961)では北野跨道橋には阪急京都線だけに大きなトラスが見えます。
この時点では宝塚線・神戸線の跨道橋はトラスではなくH鋼桁でした。
それが昭和39年(1964)では京都線が外側に膨らんでいます。
神戸線にはまだトラスができていないようにも。
工事記録が見つからないのでこの写真から推測すると
仮の京都線を設け
トラス桁には宝塚線を通し
その間に古い宝塚線桁を撤去・新トラス桁に架け替え
そこに神戸線を通し
古い神戸線桁を撤去・新トラス桁に架け替え
再び、神戸線・宝塚線・京都線の順に軌道を元に戻し
仮の京都線を撤去
以上をおまけで図示します。
昭和46年(1971)では
北野の跨道橋は現在と同じく3線並びました。平行する高架道路もできています。
北大阪線の軌道もかすかに見えます。
廃線になるのは5年後(1975)です。
というわけでなんじゃあ?現在の調査をしてきました。
右は阪急の北野跨道橋、この下を北大阪線の市電が走ってました。(この跨道橋は古くないです)
北野跨道橋の北側(ちょうど電車の真下)にはタクシー会社が入っているのですが、実に不思議な空間でした
ちゃんと解決してからでなければ説明のしようもありません。ので、請うご期待ああ、またか
木の植わっている場所は当時も空き地で、北大阪線はそのすぐ横の2車線分にあたります。
かなたに貨物線を跨ぐトラス橋が小さく見えています。
阪急中津駅への入口から梅田方向を見ています。
この入口とその先の跨線橋との間に北大阪線の中津駅がありました。
阪神電鉄が公表している年譜にはこうあります。
1906年(明治39)12月210日 出入橋〜梅田間の仮線(単線)の営業開始
梅田の地上駅
1910年(明治43)10月1日 北大阪電気軌道株式会社を設立
1911年(明治43)1月10日 北大阪電気軌道株式会社を合併
1914年(大正3) 6月12日 本線出入橋以東の変更線(複線)の営業開始
1914年(大正3) 8月19日 北大阪線(野田〜天神橋筋六丁目間)の営業開始
阪急と北野で平面交差
1939年(昭和14)3月21日 本線大阪駅前地下延長線(梅田〜曽根崎間)の営業開始(梅田停留場を移設)
1975年(昭和50) 5月6日 国道線、甲子園線及び北大阪線の併用軌道全線の営業廃止
1914年の北大阪線が阪急と平面交差していたことから、次のように順序を推理しました。
元々阪急は梅田からずっと地上を走っていた ので平面交差になる。
ところが、国鉄大阪駅が地上だったので阪急は高架でまたいで、再び地上に戻した。
国鉄貨物線の計画・工事が進み、阪急はしかたなく貨物線と北大阪線を跨ぐため梅田から淀川までを高架にした。
北大阪線も貨物線を跨ぐため、阪急の高架と並べて迂回路をつくることにした。 ←これが写真の状態
ですが、それなら迂回路の幅が変に広いです。さては同時に平行する道路も?
ここまで来れば、あとは鉄チャンたちの独壇場です。いろいろな方が北大阪線の写真を公開しています。
懐かしの蒸気機関車写真館 別館より
1975年(昭和50)左の写真は阪急と併走する阪神電車(行き先が天六-野田)。右の写真は阪神中津駅です。
阪神の高架橋の隣には国道43号線・さらにその向こうには梅田バイパスの高架橋があります。
この光景は記憶にあります(乗ったことはありませんが)
都電の写真より
1971年(昭和46)奥が中津駅、右に阪急の高架をくぐって天神橋方面へ。
この跨道橋は2代目です。建設当時の桁はトラスではありませんでした。そこから先は建設当時のままです。
おまけ
北野架道橋の建替えをたった1枚の航空写真から大胆に推測してみました。
3線(京都・宝塚・神戸)の営業を中断することなく高架橋の更新をするには唯一の方法です。
@工事前は京都線のトラス桁だけが長き、他の2線の桁は短かった。
A仮の京都線を設けて移します。
B京都線トラス桁には宝塚線を移し(神戸線はそのまま)
使わなくなった古い宝塚線桁を撤去・新トラス桁に架け替えるのですが
既設のコンクリート橋脚の撤去・改築も必要です。
宝塚線の工事が最もやっかいだったでしょう。営業中の線路にはさまれている上に
高架桁の下には道路と阪神電車が走っているのですから。
土建工事屋としては泣きたくなる現場でしょう。
3つのトラス桁のうち宝塚線の桁だけが曲線でなく平行弦トラスなのは
きっと桁鉄骨を既設線をくぐって架設するためと思います。
C宝塚線の工事が終ると神戸線をそこに移動します。
古い神戸線を撤去・新トラス桁に架け替えるのですが、神戸線桁だけは中津側(北側)に少し長いのです。
これはどうも阪神北大阪線の軌道を緩やかに曲げるためでしょう。
そのため阪神の軌道が中津側に食い込み、仕方なく桁を長くしたのです。
D今度は逆に神戸線を元の位置に戻します。
さらに宝塚線・京都線の順に軌道を元に戻し、仮の京都線を撤去すれば完了です。
以上の推測を裏付ける痕跡はあるでしょうか?
A)京都線仮軌道
元スケート場側はきれいに整備補修され、痕跡は見えません。
あるとしたら、北側ですが、未調査です。
B)架道橋北側の軌道下
工事途中では本来の位置と違う経路で電車が走っていました。
従って、軌道コンクリートに何らかの補強がなされていたハズです。
現場を外からサラッと見て不思議な感じがしたのはこれです。
未調査ですがきっとおもしろいものが見つかるでしょう。
C)阪神北大阪線の昔の軌道位置がわかる写真
痕跡はどこにもないので、せめて写真でもないかと探しています。