大阪をホジクル
大辞泉[穿る] 1 穴を掘るようにつつく。また、つつき回して中の物を出す。ほじる。「耳を―・る」「重箱の隅を―・る」
2 隠されているわずかなものを、ことさらに追及する。ほじる。「欠点を―・る」 [可能]ほじくれる
というわけで、ここでは2の意味で使っています。
第1回 靱飛行場
大阪市のど真ん中、西区には広くて細長い靱公園があります。(靱はウツボと読みます)
大阪をホジクルの第1回はこの公園にあった飛行場の話です。
父が「昔、ウツボに飛行場があって・・・」と言っていたのを思い出しました。
では、なぜそれを話題に?
戦中の台湾にあった飛行場を調べていて(本HPの台湾の項)靱飛行場がたまたま検索に引っ掛ったのです。
少し調べると、その飛行場は戦後に米軍が作った派が多数で、戦争末期に陸軍がつくった派が少数ありました。
どっちがホント?
大阪の広域地図で場所を見てみましょう。
靱公園のある西区を拡大してみます。
衛星画像にすると公園であることがハッキリわかります。
中央の道路で分断され、西園はネットで囲まれたテニスコート。これでは公園の名が泣きます。
戦後に米軍が作った派の例
大阪市のHPではこんな説明してます。
この説明文は不適切で、靱公園が戦前からあったかと誤解してしまう。この後に出てくる説明で昭和27年から公園建設が始まると書いてあるのですが。
戦争末期に陸軍がつくった派の例
練習機赤トンボが飛んでいたとあります。確かに焼野原を飛行場にというのは一面の説得力があります。
ですが、パンチのある証拠がほしいところですね。
そこで、探しました。
日本軍が飛行場を作ったという証拠を
1)国立公文書館のデータを探したのですが、見つけられません。
アジア歴史資料センターには膨大な日本軍文書が公開されているのですが。
いくら陸軍の権力が強くても、多数の土地権利者から接収して飛行場を建設するには
命令書(地方の司令部ではなく東京の指示でなければなりません)が必須なのです。
2)国会図書館でもそうでした。
3)大阪市公文書館には戦後に米軍が接収した経緯書類が残されていることがわかりました。
資料のネット検索はできますが、閲覧手続きは古色蒼然としていてまだ行ってません。
4)米軍が爆撃前に行った偵察写真があることがわかりました。
その撮影ルートや日時までわかるのですが、写真そのものは有償です。高そうなので・・・
5)国土地理院には古い地図だけでなく戦後の航空写真も多数公開されています。
ですが、終戦以前の航空写真はありません。
6)国際日本文化研究センター、ここには地理院にない古絵図から明治・大正・昭和の地図も公開されています。
ただし、戦争中の軍施設が地図に記載されているわけはありません。
戦争前はどうだったかを知るには良いです。
7)大阪市立中央図書館
ネットにない資料が図書館にはあるものです。
「靱を生きる -古老座談会-」2011年1月14日
発行:靱公園自然研究会・靱連合振興町会
8)ピースおおさかが出版している「写真で見る大阪空襲」写真集が書店で手に入りました。
実は、これが決定的な証拠となります。(どちらの派が勝ったかは アトで)
9)毎日新聞フォトバンク
10)朝日新聞フォトアーカイブ
国土地理院では戦後の航空写真を公開しており、その中に昭和23年12月30日(1948)米軍撮影のものがあります。
大阪市の写真中央に見えるビルもハッキリ写っていますが滑走路の「OSAKA」はまだありません。
滑走路脇の6機分のスペースに小型機が2機見えます。そのそばにある大きな建物は靱小学校です。(鉄筋コンクリート3階建)
終戦後すでに3年経つのにまだ復興は進んではいません。ポツポツと新築らしい建物があります。
滑走路の向こうにあるのがその靱小学校。(大阪市HPより)
靱公園が完成した写真です(大阪市HPより)。中央の建物はスポーツ会館として使われます。
この写真は空襲直後の大阪市内で、中央を右上に走るのが御堂筋、長堀を西(左)へ行った四ツ橋には
電気科学館のビルが残っています。
そのかなた(写真の上辺近く)にかすかに見える道路は本町通りでしょう。
靱はさらにその向こうなので、この写真では判然としません。
大きなサイズの写真でみると、靱小学校が見え、あたりは焼失しています。
靱を南北に走る道路も数本あり、この時点ではまだ飛行場はみえません。
残念なのはこの撮影日時が不明なことです。なのでこれは証拠にはなりません。
戦前の地図では次のようになっています。日文研の昭和16年のものです。
北側の京町堀と南側の阿波堀のあいだにL字形の堀(海部堀)がありました。
その東端に学校の記号「文」があります。靱小学校です。
米軍の航空写真では海部堀は埋め立てられており、その痕跡がわかります。
「靱を生きる」に進駐軍時代の飛行場の写真があります。
他の写真との違いは
実際に飛行機が飛んでおり、見物人が手前に並ぶ。
滑走路脇には中央に1機・左側に6機。さらに左端には靱小学校
右端には屋根を市松に塗った格納庫があり大きな扉も見える。
(「靱を生きる」にはこの建物が進駐軍の指令所で、飛行場返還後に移設して靱会館になったと)
次の写真は財団法人大阪国際平和センター(ピースおおさか)から出版されている
「写真で見る大阪空襲」にありました。
昭和20年(1945)10月13日に毎日新聞記者が米軍機に同乗して撮影したそうです。
毎日新聞では他にいろいろな写真が有償公開されているのですが、なぜかこの写真はありません。
緑が中之島、赤が靱です。
靱あたりを拡大したのが次の写真です。
これに川を着色して示すと
左から 紫=土佐堀、水色=江戸堀、緑=京町堀、黄=海部堀、赤=阿波堀
下から黒太線=木津川、細線=百間堀、間に挟まるのが江之子島
赤丸が靱小学校で、青丸は佐々木のビルです。
海部堀の埋め立ても飛行場建設も戦後に始まったとわかります。
戦後派の勝ち というわけです。
以下は「靱に生きる」にある内容を抜粋・検討したものです。
いろいろな文書名が出てくるのですが、私自身がそれを見たわけではありません。(サボッています)
氏名等を明らかにして発行しているので、匿名の投稿と比べるまでもないと判断しました。
米軍が接収したのはいつ?
@靱の常源寺と大阪特別調達局と交わした土地賃貸借契約書 昭和21年8月26日
A大阪市公文書館「進駐軍接収不動産賃貸料処理簿」 昭和21年8月26日
とあるので戦後1年たってから接収されたことになる。
米軍が飛行場を建設したのはいつ?
B「甦るわが街 戦災復興土地区画整理事業」では昭和21年11月時点で飛行場整備工事中とある。
アスファルト舗装なので資材があればあっという間に完成できたはず。
接収が解除されて返却されたのはいつ?
大阪市は米軍飛行場部分を公園として整備する都市計画を策定し、昭和22年1月に認可される。
サンフランシスコ講和条約が調印されるのは昭和26年9月のことで、27年4月28日に発効します。
この時点で変換されたのではなく、条約では連合軍の駐留継続を認めていたのです。
大阪市は発行する前の4月4日に外務大臣吉田茂に返還申請を出しています。
「占領軍接収市有不動産の返還申請について」
西区江戸堀方面第1号公園予定地 21.8.26接収 2万2千坪 大阪市管理
昭和27年6月25日、土地の返還をうけ同年7月1日公園化工事を着工
昭和30年10月21日に竣工、開園式が行われました。
実は、大阪市西区史」など10冊程度の地方史が並んでいたのですが
ことウツボに関しては戦争末期から進駐軍占領時代のことはまったくと言ってよいほど記載ありません。
すぐ隣の京町・堀江は空襲で焼ける前の住宅地図を復元しているのに。
というような次第で、ようやく見つけたのが「靱を生きる」たった8ページの議事録です。
さて、滑走路横に立つ5階建のビルは何だったのでしょうか?
この写真は1975/03/14(昭50)の撮影で、赤丸がそのビル。
青丸はその隣にあった格納庫を移設して靱会館として使われていたそうです(すでに建替え済)
2003/06/03(平15)の航空写真にはまだありますが2007年の写真にはもうありません。
ビルが何だったかは次回への宿題です。(あ〜疲れちゃった)
今回の調査で、あらためてネット情報の危さと便利さを考えさせられました。
また、結局非デジタルな本や写真がモノをいうことにも。
50年100年後にあなたのデータは大丈夫ですかあ?
HPやブログなど残っているとは思えません
2018/5/29 追記
大阪ローカルのTV番組「兵頭さんぽ」で意外な人物を紹介していました。
八尾昭三氏提供の写真、その撮影した本人です。 御歳90才。
靱公園の南側に靱会館があり、そのすぐ近くに八尾印刷をしておられます。
撮影場所は当時の自宅の上からで、画面下の瓦屋根が自宅です。
八尾さんは、戦後に進駐軍が飛行場を作ったと。伊丹から飛んでくるためだとも。