大阪をホジクル
第3回 六反池バラバラ殺人事件
ネットで地域の歴史を検索していて見つけた某HPの作者と出会い、雑談の中で「六反池」の場所がわからないと。
別のHPに示される場所には池など昔から無いとのことでした。さて、本当はどこなのでしょうか。
もちろん最初はネット検索です。「六反池」で探すと
の2つが真っ先に目に入ります。
2番目を開くと、落語に出てくる地名を紹介したもので、その真ん中に六反池が出てきます。
HPの主はこのページの地図がアヤシイと言うのです。
鯉鮒という噺で、「このあたり低湿地で六反池もその中にあった.大正の地図にも池が2つ描かれている.
"六反池のおりえ殺し"というバラバラ事件が噺に出てくる.
どうしても見つからなかった首が投網にかかったのではという「鯉舟」の一場面.
六反池については,小佐田定雄『噺の肴』,弘文出版(1996)に詳しい
と簡単に紹介されているのですが、その地図の場所には池などありません。
さらに調査すると、どうも大正時代にその池でバラバラ殺人事件があったらしい、とわかりました。
でも一体いつどこで起こった事件なのかよくわからないのです。
大正時代に大阪郊外にあった池に胴体だけの死体があがり、当時としては大ニュースだったでしょう。
ところが、100年近く前の話題で、しかも良い話でもないので記憶から忘れ去られ、六反池自体もなくなり
いまや、その池がどこにあったかすら不明です。
また、被害者の名前も「リエ」から「オリエ」に変わっていたり、事件の名称もいろいろです。
その殺人事件のことはいろいろな本に記載されていました。
@大阪府警察史第2巻 大阪府警察本部 1972年出版
A朝日新聞復刻版 大正9年12月
B月刊警察 東京法令出版 1986年出版
C血みどろの世界 立正屋書房 大正14年出版
D都市伝説と犯罪 現代書館 2009年発行
このうち@Aは大阪市中央図書館で見ることができました。Dは購入しました。
@は犯罪記録なので当然として、Aにも被害者・加害者の氏名・住所・本籍まで記載されており
特にAにはいまわしい後続事件も記載されていて、そのまま紹介することはできません。
苗字は省略して名前だけで紹介し、不必要な情報はできるかぎり伏せることにします。
要は六反池がどこにあったか、それが現在はどこにあたるのか、それを中心に紹介します。
警察史での事件記録
事件名:六反池殺人事件
六反池バラバラ殺人事件とか六反池美女殺人事件あるいは大阪の首無女事件と書く新聞もありました。(首がないのに美人?)
概要 :六反池からゴザに包まれた腐乱した女の胴体が見つかった。
手足は後日同じ池から見つかったが首は結局不明のまま。
被害者は近くに住む行方不明者リエと推定され、調査の結果
リエの愛人4人のうちの一人忠助が浮かび上がった。
福島県の実家に隠れていた忠助が逮捕され、自供をした。
発生日時:大正9年11月17日
発生場所:大阪府東成郡・・・
被害者と加害者の写真
事件のあった六反池
次に調べたのは事件の起こった大正9年ごろの詳しい地図です。
昔の地図を調べるには、国立公文書館や国際日本文化研究センター(日文研)が役に立ちます。
あるいは、国土地理院も意外に豊富な地図を公開しているのです。
今回は国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスで目当ての地図を見つけました。
ここにある池から事件記録に記載ある文面と照合してどれか探すのです。
「死体発見者は午前9時ころ、宇治川電力の変電所東北300m、通称六反池に異様なゴザ包を発見・・・」
変電所から池までがわかります。
「死体が浮上した六反池は、面積が約6反歩あって土地の人が六反池と
呼んでいたが事件当時すでに埋め立てなどで1反そこそこになり付近の居住者以外はその所在
さえあまり知られていなかった。」
1反は約1000m2で、30m四方程度になる。
「午前5時すぎに、まず胴を肩に乗せて約300m離れた六反池まで運び
次に手足の2包みを両手にさげて持っていき、最後に首、れんがと4回に分けて運んだと自供した。」
遺棄の方法は小舟で六反池の中心まで出て、・・・省略」
自宅から300mも早朝5時に担いて持っていったとある。自宅は人家の外れにあったらしい。
この3つの条件を満たす池は1つだけです。
地図の中央下にある細長い池ではなく、そのすぐ北側にある変形の池です。
ではこの地図の場所が航空写真で確認できないかチェックしました。
大阪の最も古い航空写真は昭和3年のものが知られていますが、それはネット上にはありません。
市文化財に指定されているのに、なぜか大阪市役所都市計画局が管理しており一般公開していません。
研究に必要なら申請すればよいとのことでしたが。
その航空写真を印刷パネル化して公開しているのが、大阪歴史博物館です。市役所と反対に撮影自由とのことでした。
ここまでくれば、あとは現在の衛星写真と比べれば今の場所がわかります。
現在は住宅やビルが建っているごく普通の場所です。
これで場所はわかりましたが、これだけで終わるなんて思ってませんよね?
元の資料A朝日新聞の記事を図書館で読みました。
大正時代なので、言葉つかいは文語調で、中には候文もあります。
なかなか読み下すのは骨が折れます。
ただし、今でも刺激的な事件であり、大正時代当時では日本中が騒ぐ衝撃的かつ扇情的な事件だったのです。
なぜかというと
美人をオッサンが殺し、バラバラにして捨てた
被害者はバツ1だったが情夫がゾロゾロ出てきた
その中には有名会社の元当主がいた
新聞は面白おかしく書きたてたのは間違いありません。
住所氏名はもとより、本籍・親族などがそのまま掲載されてしまいました。
ここでは不必要な個人情報として●で伏せます。
12月7日 首無女の死体 四肢悉くことごとく切断 大阪の怪犯罪
6日午前9時頃、大阪府東成郡の田圃中にある灌漑用の古池中に頭部は勿論四肢を
悉く切断した女の胴が茣蓙ゴザに包んで投込んであったので、今福署員は勿論
検察本部からも出張して検死した所、死後すでに5日ないし10日を経過したものと推定
年齢は18歳から25歳の間だという。何分近来稀有の怪犯罪なので、係官一同大活動を開始
した。(大阪電話)
東京の朝日新聞なので、地方記者から電話で記事を送るのが普通でした。
--- 11日までの記事を見つけることができませんでした ---
12月11日 胴だけ女の犯人 嫌疑者逮捕
福島県伊達郡●●村の忠助(44)は女の胴事件の嫌疑者として大阪府警察本部よりの
電照電話照会?により梁川警察署に於いて8日逮捕し留置きて大阪より引き取刑事の来たるを待ち
つつあるが忠助は大阪にて仲買商その他種々の業務に携わり34日前に帰泊せしものの由にて
実家は同人の娘●●(23)に養子●●(25)を迎えて農業を営みかなりの家計を営み居り
忠助は妻子と三人にて暫くしばらく以前より大阪に居住し居れるが10日夕か11日朝に大阪より
刑事来着して同人を引き取り帰るはずなり(福島電話)
共犯か
六反池怪死体事件の被害者が●●りえに相違ないことは動かすべからざるものの如く推測され
れるが尚りえの情夫なる東京芝区の●●玄蕃(52)を本部に召喚、有力なる嫌疑者として
取調中なり(大阪電話)
警察記録には容疑者として元内縁の夫以外に情夫として
京都市旅館内の●●玄蕃(51)
大阪市の●●鋼(34)
大阪市の●●豊治(40)
大阪市の●●忠助(45) の4名が記載されています。
12月12日 ●●●醤油の当主が嫌疑者 大阪の首無女事件で捕わる
大阪の首無女事件の被害者りえの情夫で有力な嫌疑者と目され目下大阪の警察部で取り調べ
を受けて居る芝区の●●玄蕃(52)は有名な●●●醤油本家の当主であったが
投機事業に手を出して失敗し忽ちたちまち数十万円を失ったので父●●の怒りに触れ一昨年
禁治産者となり同時に東京の●●家から貰った妻も離縁となりて同人は当時十数万円の金を
持って芝区に一戸を構えたが悪友にそそのかされて使い果たし本年3月来、両親親戚
等に無断で京都に転居し爾来消息不明であったと。
右に就き元同家に務めて居た醤油店●●の家人は語る「当主の消息が判らないので
ご隠居も心配しておられました。今度の事を聞きましたら驚いて失心され
るでせう」尚●●家は隠居●●が健やかに醤油会社の株を持っている外今は殆ど財産がない有様であると。
忠助護送
大阪府首無女事件の犯人である福島県伊達郡●●の忠助(44)逮捕の為大阪府警察部刑事●●及び
大阪今福警察署刑事●●は11日朝東北本線伊達駅に着し梁川町に至り直にただちに同町の警察分署楼上に
於いて犯人の取調べに着手したるが、犯人は先月25日大阪を出発して諸所彷徨し本月5日帰宅し
9日午前10時寝込み中を押えられたるものなり。
忠助は幼名を●●と云いその後●●と改め、父の死亡後忠助を名乗れるものにて
県立蚕業学校別科を卒業して蚕種の製造を業とし 大正6年大阪に移住せるものなりと
尚同人は母の法事の為来りたるも尚忠助は柳川分署に留置し12日午前6時柳川発同7時52分伊達駅発
午後4時30分上野駅着にて護送する筈(福島電話)
12月14日 大阪の首無犯人忠助遂に自白す 遺書まで認めて親の法要に福島へ
大阪市京阪電車野江六反池から浮上がった胴ばかりの女の死体事件に関しその筋が犯人として
郷里福島県に帰省していた大阪区東成郡土地ブロカア煉瓦業忠助(45)を
13日大阪に連帰り警察本部にて厳重なる取調べをなしたる結果、遂に凶行の事実並びに
場所等を自白した、凶行は11月17日にして被害者●●りゑが忠助を同家に訪ねて
来た同夜の12時頃痴話喧嘩の末絞殺し其犯行を晦ます為日本刀を以て手足及頸を切断し
警察記録では刃渡り30cmの小刀
胴と手足は同夜直に荷造りし自宅の前にある煉瓦を錘として翌18日午前3時過ぎ六反池に
投げ込み首は大阪控訴院前の堂島川に投棄し何知らぬ顔で27日まで自宅にあり
警察記録では、胴・手足・首・レンガの4回に分けて午前5時ころまでに池に運んだが、首だけは浮き上がったので
家に持ち帰り午後8時ころに天満橋・天神橋と遺棄する場所を探して、結局栴檀木橋から土佐堀に捨てた。
それより郷里へ法要の為帰ると称し出発途中京都・東京等を彷徨し本月5日郷里に帰りしものにて
同人は此10日が親の3周忌に当たるをもって其法要を済ましたる上帰宅する積もりなりしと(大阪電話)
妻発狂す
●●へ遺書
福島県伊達郡●●村忠助方の家宅捜査を11日行いし際畳の下より妻●●に宛たる遺書を初め
5通の手紙を発見し尚女のシャツ都腰巻をも発見し有力なる証拠品として
押収したり而して忠助は現金は所持し居らざりしものの如く又親の3年法要を形計りに行い
仙台に赴くと家人に話し居たる所を逮捕されたるものなりと尚同人妻は13日遂に発狂せり(福島電話)
妻のニュースがなぜ福島からの報告なのか理由不明
12月15日 忠助妻の実父自殺 井戸に飛び込む
胴ばかりの女の死体犯人忠助の妻●●(30)の実父●●(56)は愈愈忠助が凶行の
事実全部を13日自白したと聞くと共に喪神の体なりしが14日午前6時頃平常通り弁当を
携えて我家を出て西成郡に赴き同9時頃排水機械の運転加減を見ると云って
突然深さ18尺の井戸内に墜落、脳底頭を破って無惨の死を遂げた(大阪電話)
というような無惨な死を招くことになります。以後、新聞には記事は出てきません。
12月15日 緊急広告
東京市内各新聞に●●●醤油店主●●玄蕃氏云々の記事有之候得共
当社は大正7年9月
取締役社長 ●●
専務取締役 ●●
・・・
の諸氏を中心として経営仕り候●●玄蕃氏は弊社の株主にも無之従て
該記事にも絶対関連なく候間爰にここに以紙上急告仕候也。
●●●印醤油醸造元 ●●醤油株式会社
という声明が掲載されます。
醤油の有名ブランドとその元当主の名前が大々的に報道され、危機感を持った会社が出したものです。
大正9年でもまだ候文が生きていたとは驚きです。
さて、一番最初に戻って、検索結果の@をこれまで残してきました。
これは、実際に事件を見聞きした方の娘さんがその思い出(聞き書き)を記録したものです。
六反池
その近くの野江には六反池という池がありまして、其の六反池にある日、女の人の胴体が浮き上がったのです。
それで警察から警察官 や消防署の人達が来まして、池の水を汲み上げ空にする事になり、その作業が始まりました。
空にするのに三日を要しました。其の状景を見物に大勢の人達が押 しかけ、六反池の周囲には、それこそ
大変な人出になり、出店も出る始末です。夜も電燈が明々と灯り、大いに賑わったのでした。
其の時、人々の口からこの様な歌が唄われました。
大阪の北と東の 京阪電車
聞くも恐し 六反の 池に浮かびし
首も無い、手も無い、足も無い
胴ばっかりよ、いよい、
其の唄は何時とは無しに、日本中流行したと聞いて居ります。
今も昔も変わらすヤジ馬が詰め掛けたのです。
ですが、大騒ぎになればなるほど家族・親族は追い詰められ
悲惨な結果を招くことになります。
池の名前が広さから六反池と呼ばれたって本当?
以前の別の探索で現場の近くに「七反」という地名が明治の地図に載っていたように記憶しています。
七反があれば六反もあって不思議ではなく、六反という場所にあったから六反池?
その地図を見つけました。「明治20年 内務省地理局 1/5000地図」
字七反田・字●反田・字西七反田北・字西七反田南
の4ヶ所が七反田ですが、肝心の六反は欄外にあるのかないのか・・・
内務省地図の続きがどうしてもみつからないのです。
●●玄蕃は本名か?
新聞には●●玄蕃と出るのですが、警察記録には●△元蕃とあります。
当時の記事は電話で記者が本社へ連絡するのでそのときの間違いか、と思ったのですが
それなら後日に誰かが気がつき、コソッと直して知らぬ振りするでしょうね。
私は「●●玄蕃」は通称だったと疑います。が、これ以上脱線しても・・・
以上 オシマイ