大阪をホジクル
第4回 道路をさえぎる木

先日調べ物のため大阪城前の「なにわ歴史博物館」に始めて行ってきました。右側の大きなビル(NHK)の向こう側。
道路にハミ出して楠の巨木があります。

歩道は突然に遮られ迂回させられます。 大阪舎密局跡の石碑がこの中にあります。
明治元年に理化学校として設けられ大阪舎密局から理学校・大阪開成所と次々と改称され
結局明治5年には廃止されます。(Wikiの受け売り)
この楠の根元に舎密局跡の記念碑が昭和54年に建てられています。
「この樟樹は舎密局の生徒が憩う緑陰として当時からあったという」そうですが
実は舎密局はこの場所ではなくもっと北側の大阪府庁付近にありました。
なので、なぜここに石碑が?という疑問はわきますが
今回は舎密局の話ではありません。

道路を通せんぼする大木。 これから「大塩平八郎の槐エンジュ」を思い出す人はマギレモナイ老人です。
今から30年以上も前、私は真面目なサラリーマンとして毎日市営バスで通勤していました。
 (現在も通っていますが、それほど真面目ではなくなりました)
バスの窓から造幣局の前に大木(舎密局跡の木ほどじゃないっす)が見えました。
父から、あの木は大塩平八郎が撃った大砲が当たり裂けた、と謂れを聞いたことがあります。
こちらは楠ではなく、槐です。
実は、枯れる前の写真を探しているのですが、どうしても見つかりません・・・

今回は何をホジクルのか?
   @あの槐は枯れて切り倒されたのですが、それはどうなった?
   A大砲は本当に大塩勢が撃ったのか?
   B槐はどこに生えていたのか? 大塩が撃ったのなら大塩邸ではない
   C大塩の屋敷はどこにあったのか?
   D大塩の乱の処刑者
   E大塩の公平な評価は?
とまあ、壮大な大風呂敷を広げてみましょう。
平八郎の時代、天保8年(1837)あと30年で明治となる幕末、武家の一覧が地図にして売られていました。武鑑といいます。

   (下側の赤丸が大塩平八郎の屋敷です)
読みづらいので書き直してみました(それでも読めない字が多いです)。

大塩の屋敷は与力町にあった東照宮の北側にあり、周囲の与力宅でも広い方だとわかります。
   隣家は西田青太夫あおたいふ
        平八郎には実子がなかったので青太夫の息子を養子にしたのが格之助です。
   真向かいは朝岡助之丞
        乱の日には東町奉行・西町奉行がそろって市内巡視の休憩で朝岡邸に入るのを襲う予定で
        大砲を大塩邸から撃ち込んで2人を殺害して一気に乱を拡大する予定だった。
   裏側は  瀬田藤四郎
        大塩と懇意にしており大砲の手配をする仲だった。


造幣局前の石碑には
   大塩の乱 槐(えんじゅ)跡
   ここに天保8年(1837)2月 大塩平八郎の乱の砲弾で
   裂けた樹令200年の槐があったが枯死した。 よって
   新たに若木を植え歴史の証人の生命を伝える。
      昭和59年3月30日 
      建設省大阪国道工事事務所
槐がどこの屋敷にあったものか、大砲はどちらが撃ったものか、いつ枯死したのか
若木は元の槐から挿し木されたのか、いつそれが枯死したのか
今となっては30年前の石碑が建つだけです。

ネットにはこうあります
   ここ「大塩の乱」ゆかりの地で東組与力
   朝岡助之丞の役宅庭跡で、事件当日、
   先ず、最初に大砲が打ち込まれたところである。
別のページにはこうあります
   大塩平八郎の乱にゆかりのある槐(えんじゅ)の新木が26日、当時に生えていた大阪市北区の
   造幣局近くの国道一号沿いに植樹された。槐の木は大塩の住まいの向かい側の与力屋敷の裏庭にあり
   決起の際に大塩側が大砲から撃ち込んだ砲弾が当たったとされる。
   その後、与力屋敷跡には国道が通るようになり、槐の木は自動車の排ガスなどで枯れてきたため
   1984年に伐採されていた。植樹された新木は高さ約6メートル。
   周辺の国道整備工事が終了したことから、国土交通省大阪国道事務所が提供した。
   (毎日新聞 2010年1月27日 地方版より一部抜粋)。


大塩一党が集結した川崎東照宮の跡に立つ滝川小学校のHPには槐の写真がありました。

う〜ん、こんなのだったかなあ? うろ覚えです。

さらに次の写真とともに「平成22年1月 3代目となる若木が植樹されました」と説明が。

さて、本当にこの街路樹は槐なのでしょうか?道路の向こう側の街路樹と同じようにも見えます。

2010年1月27日 産経新聞の記事には
   江戸時代、飢饉に苦しむ民衆のために乱を起こした大塩平八郎が住んでいた大阪市
   北区天満の屋敷跡近くで26日、ゆかりの木、槐が植樹された。乱の際に大塩らが放った
   砲弾が命中したとされる木で、植樹作業には大塩の同僚だった大坂町奉行所の与力の
   子孫らも参加。「木には大阪の未来を見守ってほしい」と思いを語った。大塩は天保8(1837)
   2月19日、大飢饉のさなか、民衆の苦しみをよそに米価をつりあげる商人への怒りと
   腐敗した幕府への抗議のために門弟らとともに乱を起した。槐は中国原産のマメ科の
   落葉高木で、大塩の屋敷の向かいにあった同僚の朝岡助之丞の屋敷に植えてあったが
   乱の際に大塩側が放った砲弾の一発が命中したとされる。槐の木は乱のあとも約150年
   にわたって生き続けたが、昭和59年、車の排ガスなどで内部が腐ってきたことから
   安全のため伐採された。その後、植樹された木も再び枯れたため、記念碑だけが残されていた。
   今回は大阪国道事務所による街路維持作業の一環として3代目となる木を植樹。
   朝岡助之丞の子孫にあたる朝岡三治さん(78)らが国道1号線沿いに続くケヤキの街路樹の
   間に高さ約4メートルの若木1本を植え付けた。・・・
次の写真はラジオ大阪の放送からその植樹風景がありました。
   

それにしても、朝岡家は乱では大砲を撃ち込まれ(槐に1発当たっただけのハズがない)大迷惑にもかかわらず
子孫がその植樹に協力するなんてイイ人ですね〜


で、槐はどこにあったんだ?
古い地図を探してみました。 まずは、大正15年

     まだ国道1号線はなく、造幣局の北側の泉布観北に淀川橋があります。
     与力町・同心町・川崎町など古い地名が残っています。
     空心町や新川崎町など新しい町名も見えます。
     槐は地図には記載されていませんが、新川崎の川の字の右側あたりでしょうか。

もう少し古い 明治31年の地図がありました。

     淀川橋はまだなく、備前島へ渡る川崎橋があります。
     造幣局の建物群もあまり違いはありません。

さらに古い 明治5年の地図ではこうなっています。赤四角が大塩邸、緑●が槐の木。

     造幣局の名前が造幣寮とあり、川崎橋はなく渡し場です。
     造幣寮の下側の町名が右から順に、川崎町・臼屋町・今井町とあります。
     造幣寮の西方に仏照寺があります。現在は本願寺天満別院です。
     天満別院は元は造幣寮の下側の川崎町に秀吉が造らせたものです。

同じ明治5年の別地図

     造幣寮の中央に建国寺が見えます。元の川崎東照宮です。

幕末の天保8年の地図、まさに大塩の乱の年です。

     東照宮や仏照寺などの名前が見えます。
     明治5年の地図と比べると、東照宮から東側が造幣寮になったことがわかります。

江戸中期 元禄5年の地図(この図では北は左になります)

     藤堂和泉・藤堂伊予・小田切など奉行屋敷が見えます。幕末には見えません。
     東照宮の名は権現堂とあります。敷地は幕末の半分くらいでしょうか。

江戸初期の明暦3年(1657)の地図がありました。(この図も北は左になります)

     藤堂大学・曽我丹波・松平隼人の名前があります。
     権現堂はごんげんと平かな表示されています。
     仏照寺ではなく仏心院とありますが、由来は不明です。
     仏照寺北側には尾張藩邸が見えません。
     もちろんこの時代にはかの槐はまだありませんが。

で、一体どこなんだ???
大正15年の地図に書き込んでみました。

ピンクは国道1号線、赤い四角が大塩邸、緑●が朝岡邸裏の槐です。青四角は大塩家の墓のある成正寺です。
大塩邸はもちろん取壊され跡形もない上に、現在は造幣局敷地内のため立ち入ることもできません。
いつも不思議に思っていた「なぜ国道1号線は造幣局で曲がっているのか?」は一目瞭然
造幣局本館を避けて通したからです。北側にあった敷地は三菱に売却されたようです。


冒頭で「なにわ歴史博物館」の話をしました。博物館1Fにミヤゲ物売店があったので物色すると、こんなものを見つけました。
    大阪市立博物館 研究紀要第26冊(1994)
その中にこんな論文があったので買ったのです。
    大塩の乱の関係者一覧とその考察  相蘇一弘
    乱関係者879名の氏名と沙汰が一覧表で記載されているのです。
        5年前に私の祖先の調査で奈良県立図書館でたまたま見つけたのが
        逃げている関係者を見つけて捕まえよ、という文書でした。
    それを思い出して冊子を買いました。
    大坂だけでなく日本全国を震撼させた事件だったのです。
    単なる農民一揆や打ち壊しではなく、幕府の中級警察官僚であった与力が反乱する
    クーデターだったわけで、沙汰はこのように大変厳しいものになりました。
はりつけ20名
獄門17
死罪3
死骸取拾6
永牢1
遠島22
追放16
逼塞ひっそく1
押込11
手鎖86
急度叱きっとしかり42
しかり23
たたき99
過料446
宥免5
判決なし8
無構73
江戸時代の刑罰は細かく分かれていて大変難しいです。→ここ

関係者一覧から沙汰を抜粋すると
大塩平八郎・格之助は大坂で自殺するのですが、「塩詰死骸引廻上磔」
瀬田済之助は逃亡先の河内で自殺し、「塩詰死骸引廻上磔」
小泉淵次郎は奉行所内で斬殺された上、「塩詰死骸引廻上磔」
西村利三郎は逃亡先但馬で召捕、江戸で吟味前に病死したが、墳墓取壊し(本来は死骸引廻しの上磔)
大塩弓太郎は格之助の息子で2歳、「永牢」だが「幼稚之儀に付格段之御宥恕以」
大塩ゆうは曽根崎新地大黒屋和市の娘で平八郎の妾40歳、「存命なら遠島」(吟味中に牢死)
大西与五郎は平八郎の母方の叔父50歳、「遠島」
宮脇辰三郎は平八郎の従兄弟の子供1歳、「遠島」(15歳まで親類預)
と、ここまで書いて気がつきました。
    平八郎には妾はいたが、妻はいない、のです。(結婚したことがない)
    ゆうは一旦橋本忠平衛の義妹となっているのに、なぜか結婚はしていないのです。
    本当にそうなのか、大黒屋が裏から手をまわして妾だったことにしたのか?
    本妻がいないのに妾を持つ、という点に違和感があります。
    武士が町人の娘を嫁にするには、一旦他の武家の養子になってからというのをよく聞きます。
    大黒屋和市は処分されていません。(妻の実家なら連座させられる)
    真っ先に思い浮かべるのが「政略結婚」「実家の金が目的」ですが
    事件のあと大黒屋が奉行所に手をまわしたと邪推します。
実は養子格之助は橋本忠平衛の娘みねを妻にしています。
忠平衛も牢で病死した後、「塩詰死骸引廻上磔」されており、「みね」は忠平衛・弓太郎と共に京都で捕まり
奉行所内で死亡しているため沙汰はありません。



格之助の息子弓太郎(2歳)は15歳に放免になり、佐渡へ渡ったとも得度して坊主になったとも言いますが
行方はわかりません。