大阪をホジクル
第5回 十三の饅頭屋
十三駅前の通称ションベン横丁が焼失し、ようやく再建の動きが出てきたと新聞ニュースにありました。
申し訳ないけれど、ションベン横丁再建には興味はありません。あそこで飲んで騒ぐ恩師はいますが
私自身はそこで飲んだことがないのです。
付近の思い出は数少なく
@ボタン屋
駅に沿った通りの奥のほうに小さなボタン屋が戦後すぐからあって
洋裁を生業にしていた叔母についていったことが何度もあります。
ボタンの入った小さな引き出しが店の両側の壁一杯に天井まで並び
普段みなれた商店街や市場とまったく違う雰囲気がおもしろかったのです。
焼けるもっと以前から店はなくなっていたようです。
A眼医者
ションベン横丁を通り抜けてさらに国道176号線の高架下をくぐれば法貴眼科
実家近くには眼科がなくわざわざ電車で来ていました。
その法貴さんもはるか西宮に移転して20年くらいでしょうか。
B十三焼き
駅改札の前、2mに店があります。今里屋久兵衛
改札の中から「十三焼き10個!」と頼めば渡してくれました。
もうずいぶん昔のことですが
C喜八洲
十三といえばここの酒饅頭が有名ですが、現在はたくさん出店があり
わざわざこの本店まで行くことも減りました。
なにしろ駅構内で買えるのですから。阪急電鉄にとっては切符売上げが減り
構内販売手数料との差し引きでOK、ということでしょうか。
なぜわざわざ本店で買うかというと、店員さんの包装が唖然とするほど速いのです。
饅頭の数によって紙箱の大きさが変わり、包装紙も変わります。
赤い紙に銀文字で印刷された包装紙が箱を包んで、折りたたまれ
紐で十字にクルクルッと結わえられ、最後に紐をスパッと切る。
あれを見たさに店頭に並ぶのです。
なので、駅構内売店のお嬢さんのモタモタは見るに耐えません。
というような話題と近いような遠いような話題を。
淀川は今も昔も漁業ができる、ということを知らない方が大半です。下流の海老江には今も漁師がいます。
淀川大橋の上から釣糸を垂らすのを目にしなくなって20年くらい経ちます。
子供のころ(1960年代)近所の悪ガキ5人くらいで、ハゼ釣りに来たのです。
大橋手前の坂をヒーヒーいいながら登り、坂途中の饅頭屋にはわき目もふらず(買うほど小遣いがない)
堤防小屋の横に自転車を置いて、橋の上から釣るか、川岸から釣るか談義したのです。
川岸の砂を掘れば結構大きなシジミが取れたのですが、狙いはハゼ1本でした。
今もハゼ・シジミがいるのですが誰も取りません。
喜八洲の店は当時も同じ場所にあったのですが、悪ガキの通り道ではなかったのです。
さて現在
坂道の途中にあった饅頭屋、「十三焼きの今里屋久兵衛」(現在は移転しています)
北野高校そばに本店はあります。
十三焼きがどんなものか? 一度食べてみてくださいな。
十三の移り変わりを地図と航空写真で眺めてみました。
それも新しいものから古いものへ遡っていくと、思わぬ発見が
1985年(昭和60)淀川に懸かる橋は右側(上流)から 阪急電鉄の鉄道橋3本・国道176号線の十三橋・NTTの電話線橋・176号線バイパス。
阪急電鉄は画面上端に見える十三駅で神戸線・宝塚線・京都線の3方向に分かれます。
その駅南端を東西にアーケードが続き、駅そばに今里屋久兵衛も喜八洲も。
右上から左下へ伸びるのが府道16号線、道路沿い右上のロの字形が淀川区役所。
左端の緑が十三公園で、その南側の学校は北野高校です。
現在よりはビルは少ないですが、大規模工事中のものも見えます。
河川敷には野球場や道路も整備されています。
1975年(昭和50)上の写真では工事中だった場所には小さな住宅・工場がありますが
その並び方がまわりの区画とは違っています。並び方に注意して写真をよく見ると、あちこちに同じ向き(南北に向く)の建物が。
1961年(昭和36)ずいぶん建物が小さくなりました。まだ戦後の空き地が残っています。
左上にはL形に排水路が黒くみえています。
三角の土地が国道176号線ぞいに見えます。悪ガキはこの前を通って淀川堤防を越えたのです。
と思ったのですが、それなら堤防上に見えたはずの小屋がありません。小屋は国道と阪急との間に写っているのです。
う〜む、今里屋と反対側を来ていたのかなあ? 半世紀前の記憶は疑るベシ・・・
1948年(昭和23)の十三駅から南側にはまだ戦災の空き地が広がっています。
これがタンボでないことは1934年の航空写真で明らかです。
淀川を渡る阪急電鉄は複々線で、京都線はまだ十三まででした。
道路はずいぶん少なく、府道16号線はまだ工事中です。
右上から左下に流れる川(排水路)とそれに沿うクネクネした旧道がありました。
三角の土地はあいかわらず見えますが、国道の建設で残ったものですね。
1943年(昭和18)戦争中の地図なので記載されていないものもあると考えなければいけません。
十三駅と淀川の間にあった川は記載されていませんし、府道16号線はまだ計画中のものです。
1941年(昭和16)上の地図とほとんど違いはありません。
十三公園の緑が目立ちますが、1934年の航空写真にもそれらしいものが見えます。
1934年(昭和9)最も古い広域航空写真では、ちょうど撮影されていないエリアでした。
それでもいくつかの情報は読み取れます。
十三駅から神戸線・宝塚線・京都線にわかれていますが、鉄橋は京都線の分がありません。
十三橋は狭く、国道にはなっていません。北へは道路はまだ延びていないのです。
縦横に排水路が張り巡らされています。
鏡池があったのかどうか、ちょうど写真が途切れていてわかりません。
1933年(昭和8)十三から西北への道路がありません。北へ伸びる道路は実はまだ計画線です。
鏡池という名称が始めて見えました。現在の十三公園にあたるという記述が北野高校OBのHPにありますが
この地図から判断すると間違いです。(公園は北野中学の北側)
十三橋の北詰に十三橋署が見えます。ナルホド、最初はここにあって、後に十三駅北側に移転したのに、名前はそのまま使ってる。
十三は1930年に一部区画整理され、今里は東成区今里と区別するため元今里と改称されたそう。
元祖今里というわけですな。 もっとも東成では大今里なんて、うちのほうがデッカイゾー♪
1925年(大正15)ついに阪急電鉄沿いの国道も計画中の赤線にかわりました。
排水路と曲がりくねった旧道があります。
阪急京都線は十三が始点です。これで鉄橋が増えたことが納得です。
ところが淀川の南側に新淀川という駅名がみえます。中津駅は1925年11月に開業しており新淀川駅は1926年7月に廃止される。
修徳館という学校は北野高校の前身です。
鏡池は記載ありません。どうも一時的な池だったのでは?
見慣れない地名が出てきます。「小島」「東成小路」「堀」
元今里ではなく「今里」になっています。
これらの地名の由来が気になります(あ〜いつものビョウキです)。
1914年(大正3)阪急電鉄は宝塚線だけになりました。
淀川をはさんで北側に「じうそ」、南側には「よどがは」の駅ができています。
十三駅は現在地に移ってきたのでしょうか?
駅名として十三はあるのですが、地名では十三は見当たりません。
地名には、「木川」いまでもあります。
「東成小路」は見えません。
「小島」「堀」「成小路」は現在はありません。
「今里」はなぜ「元今里」に変えられたのでしょうか?
地図左上にある「博愛社」は児童養護施設で、名前からわかる通りキリスト教系です。
修徳館(北野高校の前身)はすでに建っています。
1900年(明治33)斜めに走る赤線は新淀川の計画位置です。
淀川開削のおかげで河の底になった村が多数あります。ここでは「字城」「大字小島新田」「大字成小路」
阪急電鉄はまだできていません。
小島・堀の南側では堤防が二重にあり、北側には多数の排水路が見えます。
「大字小島新田」は中津村ではなく、北岸の
1898年(明治31)十三橋を渡って北西に伸びるのが中国街道です。
1900年の地図と比べてたった2年なのに川道(当時は中津川)が違っています。小島村・堀村・今里村に沿って堤防が見えます。
成小路村は中津川の南側だったことがわかります。つまり、新淀川開削で土地をなくした村のため北岸に村を作ったのです。
1872年(明治5)十三橋はなく、十三渡しになっています。
渡しの手前に「成小路村のうち十三」という集落があります。
現在の十三はこの古い十三の名残なのです。
十三の地名が先にあったのか、渡しが先にあったのか、名前の由来を知りたいものです。
ここから約200年ほどジャンプします(まともな地図が見当たらない)
1691年(元禄4)中国街道の一里塚はこのときすでに成小路村にあり
十三の渡しは「ぢうそう渡」とはっきり記載されています。
ここで小さな疑問が。 「じ」なのか「ぢ」なのか?
調べた結果を後述♪
私の子供の頃は昭和30数年、淀川に渡しがまだあったのかなかったのか、残念ながら記憶していません。
ですが、淀川の北側を流れる神崎川には渡し場跡がまだ残っていました。
なぜか、どこかのボート部が神崎川で練習し、そのボート庫のわきに渡し場があったのです。
もちろん、渡し舟などありませんでしたが。
「じうそう」か「ぢうそう」か
手抜きでWikiからコピペです。(論文じゃないからかまわないのよ)
漢字の読みにはその漢語の由来によって違いがあり 呉音と漢音があります。
十・什・拾・習・集・楫 などは呉音で 「じふ」と読み
虫・仲・冲・沖・住・柱・重 などは漢音で 「ぢゅう」と読みます
ところが問題はそれほど簡単ではなく、言葉には時代によって変化するということがあります。
「じ・ぢ・ず・づ」は書き言葉では違いますが、読みはどれも同じということがしばしば起こります。
それは時代によって・地域によって変化してきています。
次の図は現代の読み方の地域分布図です。
この色分けから京都を中心にした同心円の仮名づかいの伝播変化を想定してしまいます。
ですが、Wikiでは京都から遠い地域が先に音韻変化したとあります。 さてどうかな?
なぜ疑うのか、その理由は「全国アホバカ分布考」新潮文庫 にあります。
大阪は2つ仮名の地域になります(あくまでも現代では)
この場合は「じうそう」も「ぢうそう」も同じく「じゅうそう」と読みます。
では明治以前はどうだったのでしょうか?
文字が違えば読み(音)が違うというのは素直な考え方で、
鎌倉時代の京都では4音は区別されていた。 ジズは摩擦音・ぢづは破裂音
室町中期の京都では区別されるも、ぢづが破擦音化しジズと似てきた
関東・越後では区別が失われ2音化していた
江戸時代の京都ではぢづが摩擦音に変わり、2音化した
知識人は4音書き分けてはいたが読みは2音であった
明治時代は歴史的仮名つかいとして4音書き分ける教育がされた
現代仮名つかいでは原則として2音ジズだけとなり、例外としてぢづが用いられる
読みは読み分布図のとおり
以上をまとめて、十三は 「じゅうそう」と読み書くのが現代仮名です。
昔なら 「じうそう」と書いて「じゅうそう」と読むでしょう。
ここまで書いて、ちょいと脱線します。
僕のジーサンは1893年(明治26)生まれ、「関西」を「くゎんさい」と発音してました。
1922年(大正11)生まれの父からその発音を聞いたことがありません。
歴史的仮名づかいとその発音は昭和時代にはもうなくなっていたと思われます。
昭和生まれの僕は ミシェル・クヮン
Michelle Wing Kwan
関穎珊 Kwan Wingshan これはカンではなくてクヮンでしょう♪